ジャン・ジュネ(346夜)は、こっそり隠していたのに獄房で見つかってしまったワセリン・チューブのことを『泥棒日記』の冒頭ほどなくとりあげて、「これほどちっぽけで最低の代物が警察に立ち向かうことができる。これがそこにあるというだけで、世界中の警察を苛立たせることができる。こんなものが嘲けられ、憎まれ、真っ青になって口もきけないほどの怒りを招くのだ」と書いた。
ジュネは、「ちょっとした代物」が世間の常識に破壊的な意味をもたらすことに気がついたのである。ワセリン・チューブは刑務所の規律(コンプライアンス)を破ったのではなく、世間の常識に刃向かったのだ。だから「あの馬鹿げた代物を否認するくらいなら、人の血を流すほうがましだ」と、続けて書いた。
ジュネは何に気づいたのか。「社会がもっている受容と拒絶の関係の距離」に気がつき、「何をすれば反抗的にみえるのか」ということを知ったのだ。世の中は逸脱が大の苦手で、日々の「アノマリーの誇張」を嫌うということを見抜いたのだ。
ジュネの「最低の代物」はその後、安全ピン、革バンド、前髪の盛り上がり、チェーン・アクセサリー、先の尖った靴、派手なジャンパー、爆音をたてるオートバイというふうに継承されていった。50年代ロンドン・テッズを筆頭に、「最低の代物」が流行文化として唸りをあげていったのだ。
本書はここに「サブカルチャーの発動」があったとみなして、そこには「社会が容認しにくいスタイルの躍如」が始まったというふうに捉えた。ロラン・バルト(714夜)は「プチブルは他者を想像できない。他者はプチブルの存在を脅かすスキャンダルなのである」と説明した。
こうして1950年代半ばから60年代にかけて「二重の意味をもつ日用品でつくりあげたスタイル」の中にサブカルチャーが起爆し、ついには70年代半ばのセックス・ピストルズに向かうパンク・ファッションの連打の乱れ咲きに及んだのである。
フランスの小説家、詩人、エッセイスト、劇作家であり、政治活動家である。少年期から30代までは、犯罪や放浪を繰り返していた。
多少は時代の順を追ったほうがいいだろうからそうするが、最初に有名になったサブカルチャー・スタイルは1950年代初期、ロンドンのセヴィル・ストリートなどに屯(たむろ)した労働青年たちのあいだから生まれたテディボーイ(teddy boys)だった。本人たちは好んで「テッズ」(Teds)と自称した。
テディとは英国王エドワード7世の愛称で、テッズたちは国王が好んだエドワーディアン・ルック(細身のシルエットに丈の長いジャケット)に半ば憧れ、半ばは揶ってアレンジして遊んだのである。髪をリーゼントにし(英国ではクイッフという)、後ろはダックテイルにまとめ、長いドライブジャケットを羽織って、白いシャツにスリムジム・タイ(細いネクタイ)を締め、細身のパンツに分厚いラバーソウル(厚底靴)でダウンタウンを闊歩してみせた。
すぐさま不良少年たちがこれをまねて、ここから「サブカル的逸脱」が次々に出撃する。刺青をちらつかせ、チェーンをぶらさげ、ナイフを持ち、ビートの効いたツイストを踊りまくった。女の子たちもブリルクリーム(ヘアクリーム)をたっぷりつけたリーゼントヘアに、ベルト付きのワンピース(広がるフレアスカートやパラシュートスカート)で対抗した。
不良時代のビートルズはこのテッズが原点だった。のちにポール・マッカートニーが「テディボーイ」を、日本ではキャロルの矢沢永吉やジョニー大倉が「涙のテディボーイ」を歌ったことからも、テッズが60年代のロックンロール世代をまるごと席巻していたことが伝わってくる。
ちなみにごく最近のことだが、ディオールのマリア・グラツィア・キウリが2019-20の秋冬コレクションのコンセンプトに、なんと「テディ・ガール」を採り入れた。このニュースには驚いた。いささか上品すぎてはいたが、いまだテッズは永遠なのである。
テッズからモッズ(Mods)が派生した。モッズは“Modernism or sometimes modism”の略で、やはりロンドン周辺からあらわれたスタイルだ。髪を下ろしたモッズカット、ぴったりした3つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー(モッズコート)、やたらにミラーやライトを貼り付けたランブレッタやベスパのスクーターが好まれた。
モッズは深夜営業のクラブに集まり、際立ったファッションと当時勃興していたロッカーズ(ロックンロール派)に対抗した音楽を選んだ。レアな黒人音楽、R&B、ジャマイカ育ちのスカ(ska)、ソウルミュージックなどにお気にいりなのである。ザ・フー、スモール・フェイセス、キンクスが登場した。
ロッカーズのほうは革ジャンに白いペイントのロゴ、ニットのセーター、香港製ジーンズ、ポマードでなでつけた髪形を好み、スクーターではなく単気筒や2気筒エンジンのトライアンフやノートンのバイクで疾駆した。かれらの動向はクリフ・リチャードやシャドウズらのブリティッシュ・ロックンロール、ジーン・ビンセント、エディ・コクランのロカビリーを流行させた。
モッズはこうしたロッカーズとは切り込むように対立する。その対立の日々はアンソニー・バージェスの1962年の小説『時計じかけのオレンジ』に描かれ、スタンリー・キューブリックの映画(1971)になり、さらにフランク・ロッダムによって『さらば青春の光』として映画化された(1979)。この映画の原題は「四重人格」(Quadrophenia)というものなのだが、これはザ・フーのアルバム・タイトルだった。
いまや有名な話だが、ビートルズはデビューにあたってはテッズを隠してモッズ・ファッションを選択した。それが当たった。このスタイルがビートルズをしてロックンロールやロカビリーから一線を画させたのだ。モッズのほうは、60年代後期には少し変質して、ドクターマーチンのブーツ、ベン・シャーマンのシャツを着て、やたらにスキンヘッズを好むようになっていく。かれらはかれらで、ビートルズではへなちょこだったのだ。
作中で主人公が「モッズ最高!」とさけんでいる。BRIGHTON(ブライトン)の海岸で起こったモッズとロッカーズの大乱闘は有名となり、映画の元ネタになった。
問題はコノテーションとブリコラージュなのである。内示作用力と修繕ファッションだ。テッズもモッズもロッカーズもそこに賭けていた。
耳たぶに安全ピンをするか、先の尖った靴を履くか、低俗ミニスカートにスティレットヒールを合わせるか、プレスリーにするかスカを選ぶかジャズを鳴らしておくか、そこが命がけの問題なのである。
このきわどい選択はジュネの一本のワセリン・チューブに匹敵した。スーザン・ソンタグ(695夜)はそのきわどい選択眼を「反解釈」(against interpretation)とみなし、スタン・コーエンはそれを「潜在的脅威の露出」ならびに「路地裏の悪魔の出現」と捉え、ウンベルト・エーコ(241夜)はそれを「記号のゲリラ戦」と言った。知識人たちもサブカルを放置しておくわけにはいかなかったのだ。
察してもらえたかもしれないが、テッズ、モッズ、ロッカーズは、わが青春期とは数年のズレで同時進行していたサブカルチャーだった。
ぼくが自分の中のティーンエイジの沸々とした渦潮に戸惑っていたとき、海の向こうでは突如としてビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンスたちのロカビリー(rockabilly)が熱狂していた。これは1954年からの数年間の感染的熱狂だった。プレスリーの徴兵、エディ・コクランの事故死がロカビリーの幕を引いた。ウッドギターがエレキに取って代わっていった。
日本では少し遅れて日劇のウェスタン・カーニバルが大ブレイクして、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎が体を反っていた。母親は「なんであんなにくねくねして歌うんやろ」と笑っていた。ぼくはひそかに平尾の「星は何でも知っている」を口ずさんでいた。
九段高校に入って親友が3人できた。一人はヌーヴェル・バーグのオタクで、一人は北一輝(942夜)の心酔者で、一人はプレスリーのファンだった。
高校を出る間際、ビートルズがモッズルックで登場してきた。早稲田大学で素描座という劇団に入ると、数日後に「明日はスーツと革靴で来いよ」と言われ、そういう恰好をしていくと新宿の路上に連れていかれて、「よし、ここでやろう」と言うもまもなくポータブルプレイヤーの音に合わせて路上ツイストを踊らされた。翌日は下駄で日韓闘争のためにデモに出掛けた。この、ぼくを誘った先輩はのちに広告業界で大活躍した。
当時の早稲田にはありとあらゆるサブカルチャーが押し寄せてきていた。そこには電子音楽からフルクサスまで、暗黒舞踏からアンチテアトルまでごっちゃまぜに彩られていた。ぼくはスタイルとしては珈琲の好みのように(ブルマン、モカ、グァテマラというふうな)、ロックよりもジャズかブルースを、ヒッピーよりも革命的ロマン主義かアナーキズムを好んだ。
ただ、まわりにはなぜか実存主義者やフォークシンガーたちがふえ、ぼくを取り込もうとしていた。早稲田の学生たちはアメリカが仕掛けたベトナム戦争にうんざりしていたのだ。
そんなとき斎藤チヤ子に惚れたのだが、気がつくと彼女はロンドンに行ってしまっていた。そしてそのころからロンドンには何があるのか、気になった。それから父が死に、その借財を返すための日々が数年続くのだが、それがおわると、以上の青春グラフィティは1971年創刊の「遊」でさまざまなアレンジのもとに蘇ることになる。この雑誌はキング・クリムゾンの『宮殿』を聴きながら準備したものだった。3年後、ロバート・フリップと対談した。
オイルショックとドルショックに見舞われた1970年代はピンク・フロイドの『原子心母』で明けた。プログレ(プログレッシブ・ロック)が唸るような全盛期を迎えていた。そこへマーク・ボランのTレックスやデヴィッド・ボウイやニューヨーク・ドールズらのグラムロックが官能的旋風をおこし、ラモーンズ、イギー・ポップ、リチャード・ヘルが際立った。ボウイの「ジーン・ジニー」はジャン・ジュネをもじったタイトルだったのである。
70年代が半ばにさしかかるころ、ナルシズムとニヒリズムとミニマリズムが混濁していった。ニューヨークとロンドンにパンク・サブカルチャーが魔界からの身を翻すようにあらわれた。音楽、文学、イデオロギー、ファッション、アート、ダンス、映像、写真、ドラッグ、ゴシップをたちまち巻き込んで、一挙に時代のスタイルを席巻した。
パンク(punk)は青二才で役立たずの意味をもつ俗語だったが、あっというまにバズワードになった。
日本ではウィリアム・バロウズ(822夜)がさかんに読まれていた。ぼくが新宿のツバキハウスや六本木のストークビルに出入りしていた時期だ。ダンサーの田中泯、「ロック・マガジン」の阿木譲(1010夜)、前衛音楽の高橋悠治や小杉武久と親しくなった。
プログレッシブ・ロックの先駆者。サイケなサウンドと文学的な歌詞で独自の世界観をつくりだした。
大ヒット曲「ジーン・ジニー」はジャン・ジュネ(Jean Genet)をモチーフにした曲。
こうして1976年、セックス・ピストルズが悪夢のように爆発したのである。
マルコム・マクラーレンが、キングスロードで開いていたブティック「SEX」の常連たちとバンドを組んだ。スティーヴ・ジョーンズ、グレン・マトロック、ジョニー・ロットンが加わり、「アナーキー・イン・ザ・UK」「アイワナ・ビー・ミー」がパンクした。反体制、アナーキズム、啓示、ドラッグ、自由、絶望が安全ピンで束ねられて渾然一体となっていた。
そこに「SEX」をマクラーレンと組んでプロデュースしていたヴィヴィアン・ウェストウッドのパンク・ファッションが加わった。ヴィヴィアンは店名を「セディショナリーズ」に変え、ブティックを「ワールズ・エンド」(世界ノ終ワリ)に変えると“パンク・ファッションの女王”として君臨していった。最近刊行されたヴィヴィアンの『自伝』は実におもしろい。
ニューヨークではパティ・スミスがパンクした。パティはランボー(690夜)とバロウズの言葉をカットアップしたロック・ポエトリーにして、ロバート・メイプルソープ(318夜)のモノクロ写真とともに男シャツのままストリート・パンクの風をおこしていた。痺れた。
セックス・ピストルズおよびニューヨーク・ドールズの仕掛人として知られる。
セックス・ピストルズのギタリスト。高い作曲能力を持ち、「アナーキー・イン・ザ・U.K.」「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」「プリティ・ヴェイカント」などの代表曲を一人で作曲し、ピストルズのヒットナンバーに貢献した。
社交界の名士やニューヨークの前衛芸術家たちのポートレートで鮮烈デビュー。露骨な写真表現で社会的に物議を醸し出した。
1970年代後半にロンドンで勃興した、パンク/ニュー・ウェイヴ・ムーヴメントを代表する象徴的グループ。自国の王室・政府・大手企業などを攻撃した歌詞など、反体制派のスタイルが特徴。
ニューヨーク・パンクシーンで台頭し、1970年代は「パティ・スミス・グループ」名義で活動、「クイーン・オブ・パンク(パンクの女王)」とも称された。
本書は、このパンク・サブカルチャーを中心に社会評論された一冊だ。著者のディップ・ヘブディジは、1964年にバーミンガム大学で現代文化研究センター(CCCS)をジャマイカ出身のスチュアート・ホールと立ち上げた社会文化研究者で、いわゆる「カルチュラル・スタディーズ」(cultural studies)の提案者である。
ヘブディジやホールはレイモンド・ウィリアムズのマルクス主義的な社会文化論の衣鉢を継いでいるため、その議論のハコビはどこか片寄っていて、ぼくにはどうしてもイマイチな印象があるのだが、サブカルチャーやスタイルを正面からとりあげた功績はめざましく、とくに本書はテッズからパンクに及ぶスタイルの変動を追って、気を吐いた。
ダブ、レゲエ、スカなどの西インド諸島のステディ・パルスな音楽文化がどのようにパンク・サブカルチャーと交錯していったかということにも、かなり目を配っている。
けれども本書はサブカルチャーにこだわっているわりには、映画演出のスタイルと手法、さまざまな文芸的な実験スタイル、アートシーンにおけるスタイルとアレンジ、ビートニック・ムーブメントの変容、政治思想の切片化の事情などをほとんど扱っていない。またルー・リードのヴェルヴェット・アンダーグラウンドやプログレッシブ・ロックの動向、グラムロックやヘヴィメタルやドラッグ・カルチャーの影響にも言及していない。
べつだんそれでもいいのだが、たとえばパンク・ムーブメントの周辺にノーザン・ソウルのようなかなり秘密性の強いサブカルが出入りしていたこと、70年代末になるとパンクがツートーン、ニューウェイブ、ノーウェーブに分かれて裾野を広げていって、その後はふたたび勢いを盛り返し、ハードコアパンクやストリートパンクが再燃したことなど、今日のサブカルチャーにつながるブリッジを拾えないままになっているのは、やはりもったいない。
ジャマイカ生まれ、イギリスで高等教育を受けた文化研究者。カルチュラル・スタディーズという研究領域を確立し、メディア研究、人種、エスニシティといった分野で大きな影響力をもった。
サブカル・パンクは社会の潜在的欲望の発露である。それが当初は貧困すれすれ、差別ぎりぎり、堕落きわきわであることが、つねに奔放なファッションとスタイルを発動させた。それは世の中に対してはたいてい「場ちがい」「用途ちがい」という矛盾を突き付ける。
だからそれらはいつだって社会の「ノイズ」(雑音)として切り捨てられる宿命をもっているのだが、だからこそそのノイズはジュネのワセリン・チューブのような、ちっぽけではあるが、許しがたい主張力をもった開口部になりえたのである。
ぼくが「遊」を編集制作していたときは、たいていこうした開口部を求めた多くのカジュアルズが集まってきていた。何人もと付き合った。そこでついでながら、日本のパンク・ムーブメントにも、少しだけふれておきたいと思う。日本は当然のことながらテディ・ボーイ、モッズ、ロッカーズ、スキンヘッド、パンクというふうな順は追っていない。
ごくごくおおざっぱに紹介するが、70年前後にブルースロックをベースにして差別用語を連発していた村八分、過激なメッセージを盛っていたパンタ(中村治雄)らの頭脳警察、ミッキー・カーチスがプロデュースした外道などが先行していたところへ、セックス・ピストルズの影響で一気にジャパニーズパンク・バンドが登場していったのだろうと思う。
LIZARD、フリクション、ヒゴヒロシのミラーズ、東京ロッカーズを結成したミスター・カイトやS-KEN、銀ジャンで鳴らしたヒカゲをボーカルとしたTHE STAR CLUB、大阪の町田町蔵(町田康)率いるINU、めんたいロックと呼ばれた福岡のバンド群、シーナ&ロケッツらが目立った。
吉祥寺の「マイナー」で活躍していた灰野敬二、工藤冬里らのノイズ系、タコの山崎春美、じゃがたらは、思い切ったパフォーマンスを見せ、アナーキー、スターリンが「反文化」の真骨頂を発揮していた。春美はいつしか「遊」の編集部に出入りしていた。その「遊」は1981年に休刊(結局は終刊)するのだが、それに代わって「宝島」ががんばって、ここにインディーズが立ち現れていく。ラフィンノーズ、ウィラード、有頂天が御三家である。ここからパンク・ムーブメントはテクノポッブやニューウェーブとまじっていった。
80年代後半に入ると、甲本ヒロトや真島昌利のブルーハーツなどがメジャー化して、その後はパンクはポップスの中にまみれていったとおぼしい。尖っていたのは宮沢章夫、いとうせいこう(198夜)、竹中直人らのラジカル・ガジベリビンバ・システムだったろうか。ちなみにぼくは80年代前半をEP-4の佐藤薫ともっぱら遊んで、ニューウェイブなメディア・スタイル談義に耽っていた。いまとなっては、とても懐かしい。
以上、いささかお節介なことでした。サブカルは新型コロナウィルス騒動に埋没していてはいけません。
2014年4月11日、新宿ロフトで催された「山崎春美のこむらがえる夜」の様子。『遊』時代の思い出話とともに、当時の音楽状況について語り明かした。後半では能勢伊勢雄(写真左)、EP-4の佐藤薫(写真左から2人目)も加わり、アングラ色の強いイベントになった。

⊕サブカルチャー⊕
∈ 著者:ディック・ヘブディジ
∈ 発行者:西谷能英
∈ 発行所:株式会社未來社
∈ 装幀:魚屋美智代
∈ 印刷:スキルプリネット
∈ 製本:株式会社富士製本
∈ 発行:1986年11月20日
⊕ 目次情報 ⊕
∈ 序文 サブカルチャーとスタイル
I 文化からヘゲモニーまで/バルト――神話と記号/<イデオロギー>――実践された<関係>/ヘゲモニー――移動する均衡
∈∈ 第一部 いくつかの事例についての研究
II 陽光の中の休日、ミスター・ロットンの成功/バビロンの退屈
III 故郷アフリカへ/ラスタファリアンの解決/レゲエとラスタファリアニズム/脱出――二重の横断
IV ヒプスタ、ビート族、テディボーイ/英国育ちのクール――モッズのスタイル/白い皮膚、黒いマスク/グラム・グリッタ・ロック――アルビノ・キャンプとその他のグループ/白人版ルーツ――パンクと白人の民族性
第二部 解釈
V サブカルチャーの機能/特性――2種類のテディボーイ/スタイルの発生源
VI サブカルチャー――不自然な分解/統合のふたつの形態/商品形式/イデオロギー形式
VII 意図的なコミュニケーションとしてのスタイル/ブリコラージュとしてのスタイル/反逆の中のスタイル――不快なスタイル
VIII ホモロジーとしてのスタイル/意味する行為としてのスタイル
Ⅸ よろしい、これは文化だ、しかし芸術だろうか
⊕ 著者略歴 ⊕
ディック・ヘブディジ(Dick Hebdige)
英国メディア理論家、社会学者であり、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の芸術およびメディア研究の教授。一般的にサブカルチャー研究と、社会に対する抵抗に関する研究。メディアの地形学、砂漠の研究、およびパフォーマンスの批判。ヘブディジは、現代美術、デザイン、メディア、文化研究、MODスタイル、レゲエ、ポストモダニズムとスタイル、シュルレアリスム、即興、村上隆について幅広く執筆。
⊕ 訳者略歴 ⊕
山口淑子(やまぐちよしこ)
1933年和歌山市生、1956年熊本大学法文学部ドイツ文学科卒、翻訳家。

















































































