才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ことばの起源

猿の毛づくろい、人のゴシップ

ロビン・ダンバー

青士社 1998

Robin Dunbar
Grooming, Gossip and the Evolution of Language 1996
[訳]松浦俊輔・服部清美
編集:清水康雄・阿部俊一
装幀:岩瀬聡

 市虎三伝という。誰か一人が「市に虎が出た」と言い出してもべつだん騒動はおこらなかったのが、三人が言い出せば「その虎」(噂の虎)は人々の心を襲うものになる。そういう中国の諺だ。
 噂というものはつくづく妙なもので、正体があるようでなく、ないようである。けれどもいったん噂が撒き散らされるとウイルスのような感染力をもつ。そうなると、どこからそんな噂が出てきたものか、見当がつかない。そのうち噂の帯域の中に自分も巻き込まれていることに気がつく。虎が出てくるなんて、そんなバカなことは早く打ち消されるといいと思っていること自体が、すでに情報感染状態なのである。

 かつてから噂というものの出所は掴みがたいものだった。「かつて」というのはヘロドトスやイソップ物語や清少納言(419夜)や兼好法師(367夜)のころからずっとという意味だ。それでも「人の噂は七十五日」とも言われ、耳を疑うほどの噂もいつしか立ち消える。英語でも “A wonder lasts but nine days.”などと言う。
 噂(rumor)はインテリジェントな情報である。流言、伝聞、飛語、風説、風評、デマ、醜聞、ゴシップ、陰口、都市伝説、フェイクニュース、バズなどとなった噂は、人々の価値観をゆさぶるのだから、どう見てもインテリジェントだ。ネタの信憑性が確認されるかどうかにかかわりなく、人々の良心を打ち砕くかどうかにもかかわりなく、燎原の火のごとくコミュニケーションに焼き焦げをつくる。噂はさかしらな知的情報なのである。

同盟締結の人質として、魏の太子が趙の都・邯鄲(かんたん)に行く際に、随伴する魏の大臣の龐蔥(ほうそう)は、君主の恵王に助言を与える。「市場に虎など現れていないにもかかわらず、三人も虎が現れたというと、人々はそれを信じてしまいます。趙は魏からはるかに離れており、私が立ち去った後、私の讒言を口にするものは三人どころではありますまい。王よ、くれぐれもよく考えてご判断なさるよう」と。しかし、太子の人質期限が過ぎ、龐蔥が国に戻ったとき、龐蔥は恵王に会うことが許されなかった。

日本の民俗学の先駆けとなった柳田國男『遠野物語』の序文の中には「国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と記されている。柳田は、鬼、雪女、河童をはじめとする様々な伝承から、近代化に向かって突き進む世相に一石を投じ、日本人とは何かを追い求めた。

周の幽王は寵愛していた側室の褒姒(ほうじ)を笑わせるために、偽りの狼煙を上げさせた。狼煙は他国からの襲来を告げる合図であったため、狼狽する兵士たちの様子が褒姒には滑稽だったのである。幽王はこれを繰り返したため、兵士たちは狼煙を信じなくなった。遂に幽王が正室を廃し、褒姒とその子を王后と太子にした時に、廃された正室の父親が反乱を起こす。このとき幽王を守る兵士は誰もいなかった。周は滅び、ここから春秋戦国時代が始まる。

エドモンド・ハレーの予言通りに、1910年にハレー彗星が再来することがわかると様々な言説が飛び交った。彗星の尾に地球が入り込み、空気がなくなったり、シアンガスで地球が覆いつくされると信じる者たちが絶えなかった。防毒マスクがベストセラーになり、彗星から身を守る傘も流行した。図版は、彗星の傘を持った「天国の門番」が彗星から地球を守っている様子を描いた、1910年の5月に発売されたパックマガジンの表紙。

 噂は大昔から飛び交っていて、その出所を求めて権謀術策も政権交代も、また治世論や歴史学や文学を発達させてきた。とくに天変地異の予兆、隣国の情報、不明の病変、異類妖怪の風聞、他人のゴシップ、権勢にまつわるデマゴーグ、自分についての噂は、多くの者の判断を狂わせた。
 判断を狂わせるような情報は、それが電子化され、クライアント・サーバー型ネットワークの網目に染み出すようになって、「世界は噂ばかり」という情況を現出していった。世界大の市虎三伝だ。ハッキングが横行し、そのうち噂の出所がかなり突き止められるようになり、スノーデンやアサンジも活躍した。
 とくにSNSは異常なほどに「噂のネットワーク」の拡散装置と化して、名指しの噂をやたらにふりまく者もいれば、他人の噂をわがもの顔にしていちはやく不分明な事態の渦中にこれみよがしに入りこむ連中も出てきた。トランプなどはゴシップと噂とフェイクだけを政策にしているほどだ。アメリカはおかしい。
 噂は「言葉のパパラッチ」なのである。その風聞に耐えられず深刻な心労に陥る者、また自殺をする者も少なくない。これは「いじめ」や「公開処刑」に近いので、プロバイダーがこれらを必死に削除したとしても、しょせんはイタチごっこだ。
 おかしなことに「当事者さがし」が目立ってくると、エゴサーチに余念のない者も出てきた。ぼくは自分に関する噂には疎く、ほとんど関心もないので、何であれほったらかしだが、気になる者は噂を撲滅したくなるのだろう。これは墓掘りになりかねない。

パレスチナ出身の父を持つアメリカのファッションモデルであるベラ・ハディッド。彼女がイスラエル・パレスチナでの武力衝突に関連して「イスラエルを支持します」と語る動画は、2023年10月29日にX(旧Twitter)上で拡散された。これにより、彼女には何百もの殺人予告が届くが、動画はAIによってつくられたフェイク動画であった。AIが噂という知的情報を流布させることができるようになってきている。

2013年6月、アメリカ政府による国際的な監視プログラムの存在を暴露した元NSA(米国国家安全保障局)職員のエドワード・スノーデン(右)。NSAやCIA(中央情報局)が対テロ捜査の名のもとに、同盟国の要人や自国の一般市民の通話、メール、SNSなどの情報を違法に大量収集していた実態を世界中に知らしめた。また、2010年、ジュリアン・アサンジ(左)が創設したウィキリークスは欧米の主要メディアとともに大量の米当局の機密情報を暴露。ウィキリークスのような告発サイトの出現で、一次情報がネットを通じて世界中に発信される時代が到来した。

 いったい噂やゴシップとは何なのか。忌まわしく異様で、ろくなことを撒き散らしていないようなのに、なぜ世の中は噂やゴシップにかまけたくなってしまったのか。ひょっとしたら噂やゴシップを強調するしくみをつくったことが文明の大失敗か文化の大問題だったろうに、社会学や心理学はこの厄介な謎に決定打を放てないままだった。
 ここに登場してきたのが、「それは言語そのものが噂やゴシップとして発生し、発達してきたからだ」という、びっくりするような仮説である。本書の人類学者ロビン・ダンバーがこの仮説をぶちあげた。類人猿の毛づくろいが霊長類のゴシップ言語に転じていったというのだ。
 噂はヒトザルがヒトになろうとしていったとき、すでに「ことば」の開発とともに生まれていた、それはサルの「毛づくろい」の代わりのようなものであるというのだ。そんな奇っ怪なことがあるのか。あるらしい。

 ロビン・ダンバーは1947年のリバプール生まれだから、同じリバプール生まれのジョン・レノン(1940生)とともにオルタナティブなシーンを求める時代社会を過ごした口だ。ぼくはこの二人の中間に属する世代にあたる。
 オックスフォード大学のモードリン・カレッジで動物行動学の泰斗ニコ・ティンバーゲンや利己的遺伝子研究のリチャード・ドーキンス(1069夜)に学び、ブリストル大学、ケンブリッジ大学で人類学や進化生物学を修め、リバプール大学やオックスフォード大学に移るころからは霊長類の研究にとりくんで、英国学士院の「ルーシーから言語まで」プロジェクトのリーダーを務めた。その間に「言語は噂やゴシップとともに発達した」という大胆な仮説に到達したようだ。
 本書は構成に少々の趣向があり、記述の仕方にもさまざまな工夫が施されているが、ダンバーの意外な仮説のレポートあるいは雄弁な論述書に近い。つまり予想に反してくそマジメな本である。ダンバーの本は、ほかに『科学がきらわれる理由』(青土社)、『なぜ私たちは友だちをつくるのか』(青土社)、『人類進化の謎を解き明かす』(インターシフト)、『宗教の起源』(白揚社)などが邦訳されている。いずれも通説にまみれている者にはギョッとさせる視点が躍る。
 どこにギョッとするかはこれを受け取る側のモンダイだけれど、毛づくろいが言葉に変化したのだとしたら、仲間どうしの毛づくろいやグルーミングという行為がそんなにもコミュニケーションに富んだものだということに驚くべきだろうし、初期の言葉にグルーミングに相当するはたらきがあったとしたら、ヒトの幼児の言葉に毛づくろいめいたものがあるらしいことにギョッとするべきだ。

ロビンダンバーが、フェイスブックで、なぜ友達を増やせないのかについて説明した動画。友情を持てる人数の「認知限界」を計算した「ダンバー数」が有名になった。この公式が初めて考案されたとき、オンライン上の「友情」と実際の「友情」の違いについて議論が巻き起こった。ダンバーは、脳と科学が、恋に落ちる仕組みと理由を説明できるかを調べるために、恋愛の心理学と動物行動学も研究している。

「ダンバー数」の模式図。ロビン・ダンバーは、人間が一生のうちに持つことができる意味のある対人関係は最大でも 150 個までであると理論づけた。サルや類人猿の、意識にかかわる大脳新皮質の大きさと、一緒に暮らす仲間の数の間に、相関関係があったからである。現在ではビジネスシーンにおいても、5、15、50、150といった数がダンバー数として、組織づくりに関係すると知られている。

安定した関係の集団の大きさは、大脳新皮質のサイズ以外にも、どれだけ相手との時間を共有できているかが関係する。霊長類は一日の約 15% の時間を毛づくろいやその他の明確な社会的活動に費やしており、これが組織の拡大に大きく関与する。これは人の3時間半に相当するが、ダンバーの研究によれば、言葉を持った人類は75分の会話によってこれを代替できる。

 ヒトの赤ん坊は平均的には生後18カ月ほどで言葉を話しはじめる。2歳前後では「ちょっと喋る」になって、語彙も50語をこえる。3歳では1000語くらいにふえ、単語をつなげて短い言い回しをやってのける。たいていの両親が「うちの子は天才だ」と自慢したくなる時期だ。
 いつのまにか両親やテレビの言い回し、コマーシャルの口真似、派手な親戚のおばさんの言いっぷりをつかうようになって、そこに伝聞的な言語パースペクティブが早くも組み入れられているので、両親は驚嘆してしまう。「うん、そんなこと言っても」「わかった、じゃあそうする」「でもね」といった配慮さえ芽生える。
 小学校に入り6歳になると、約13000語を駆使するようになり、玩具とそうじゃないもの、友達と社会と自分、昆虫と知識とその管理のゲンミツな関係が急にわかってくる。自分がどんな評判かもピンとくる。あの子だけが好き、ちょっと寂しい、けっこう満足した、どうも気に入らない、ダダをこねてやる、やったやった、まあいいか、こういう判断が言葉の中に出入りする。
 ここまではどんな親もわが子に驚くことであるが、続くローティーン期の子は本人たちだって大変だ。「おとな擬き」と「抵抗と怠惰」と「自慢と劣等感」が入り混じって、内爆する。何がホントで何がウソかは、もはやわからない。過剰になった気分は外に漏れてハヤリ言葉や危ない言葉と結び付き、他人の接近が怖くもなる。そうなると言葉づかいが変じる。ついつい同調したチームに引っ張られてジャーゴン(俗語)がふえる。
 最近は「中二病」というらしいけれど、そんなレベルのモンダイではあるまい。このあたりの事情はちゃんとアドレッサンス(思春期)の発生を絡めて本気で議論したほうがいい。

 こうしてハイティーンになるにつれ、多くの青年青女が「6万語の社会」を演じる。とっくに性にもめざめて、ちょっとした春情や劣情が羞かしい。こうなってしまっては、人類史のすべての優劣感と矛盾と葛藤がアドレッサンスの心にビルトインされたままになって、この事情から容易には抜け出せない。せめて音楽や信仰やスポーツに耽って、そうでなければなるべく部屋に籠もって、このビルトインの事情を忘れたい。
 ということは、この連中から人類学的な成果を導くことはそうそう困難になるということだ。本人たちの心身に、社会が日々繰り出す「噂」や「嘘」がすっかり混じっているせいだ。こうなっては言葉の素踊りの姿は掴めない。そこで人類史をさかのぼって、なぜこんなふうな言葉に人類が囚われたのかを研究するようになった。ロビン・ダンバーの研究もそこから始まった。

図版左のように、舌はさまざまな位置どりをして英語の子音を発声する。人類はあるときに喉を「分節化」して、複雑な子音を使いわけられるようになった可能性がある。チンパンジーの下顎と比較して、人類の下顎は直角的な構造である。それによって喉の筋肉や喉笛が精巧になり、口腔における舌の活動領域がひろがった。

 言語学というもの、子供の言葉の成長プロセスについてはいまだに粗雑な概観しか提供していない。ヒトをめぐる生物学も、言語活動がどのように変化してきたかは説明していない。けれども、ヒトが言葉を習得するようになったのはおそらく段階的な変化によるものだったろうということは告げている。
 段階的だということは、言語は人類史のなかで変化してきたということである。ここらあたりまではさすがに納得できる。チョーサー(232夜)やシェイクスピア(600夜)時代の英語はその後の英語とは異なっていたのだし、紫式部(1569夜1570夜1571夜)や吉田兼好(367夜)や近松門左衛門(974夜)の日本語はそれぞれ異なっているし、まして現代語とはそうとうに違っている。言語は、そう言っていいなら環境適応し、化学変化をしながらエクリチュールを進化させてきたわけだ。
 しかし、もともと言語がどのように出現したかということは、この進化のプロセスをさかのぼってみなければわからない。さかのぼってどうするか。人類が言葉を喋ったり使ったり、文字を発明するようになったのは、それ以前の動物や類人猿や霊長類のコミュニケーション力の何かが言語に変性させていったと、いったん想定してみることだ。
 こうしてダーウィンやマックス・ミュラーはいくつかの言語発生に関する仮説の可能性を提出し、その後もその仮説にもとづいた組み立てが試みられてきた。しかし、せいぜい次のような程度なのである。(言語学といってもまだまだこの程度)

 ◎ワンワン説(Bow-wow theory)・・・・動物や鳥の鳴き声から変化した。ヨハン・ヘルダー説。最近、岡ノ谷一夫が鳥の鳴き方から言語発生説を唱えている。
 ◎プープ一説(Pooh-poo theory)・・・・原初のヒトの感情的な発声がもとになり、苦痛・歓喜・驚愕などにもとづく変化が初期言葉をつくらせた。
 ◎身ぶり説・・・・身ぶり(ジェスチャー)が先行し、そこに言葉がまとわりついた。グーラン(381夜)やモリス(322夜)の説。
 ◎アイコンタクト(合図)説・・・・ハーレムでの視線を合わせる度合いが言葉を派生させていった。マントヒヒのハーレムでのアイコンタクトが研究されている。
 ◎ごっこ説(志向性仮説)・・・・ごっこ遊びのような模倣行為が言葉を促した。「志向性」意識の発達が言語モデルになった。アラン・レズリーらの心の理論が想定した。「つもり」仮説でもある。
 ◎赤の女王説・・・・遺伝子の勝ち残りや集団の中のコミュニケーション・ゲームにおいて、アリスの「赤の女王」のようなふるまいが言語力を支配したという説。マット・リドレー(1620夜)が有名にした。
 ◎儀式説・・・・集団の中でのイニシエーションなどの儀式行為において、特定の言語コミュニケーションが発達し、それがコアとなって一般に普及していったという穏当な説。柳田國男(1144夜)などもこの説を唱えた。
 ◎ドンドン説(Ding-Dong theory)・・・・ミュラーの仮説。万物はすべて自然の中での共鳴と振動をおこしているので、その共鳴性を人類が言語に投影させたという見方。ピタゴラスやホイヘンスの振動論のようなものだ。
 ◎エイヤコーラ説(Yo-he-ho theory)・・・・言語は集団労働のためのリズムや掛け声から生じたと見る。北島三郎の「与作」である。民謡やフォークソングやワークソングはこの筋で生まれたかもしれないが、エンヤコーラや「与作」だけでは構文や文法は生まれない。
 ◎女性ファースト説・・・・男たちに狩猟を促した女性たちの言葉が影響力をもった。クリス・ナイトらが主唱。
 ◎スーパーファミリー説・・・・紀元前13000年頃にノストラチックという大語族(スーパーファミリー)が「世界祖語」にあたる言語を語りだし、それがインド・ヨーロッパ語族、セム・ハム語族、アルタイ語族などを派生していったというもの。実証不能。             
 ◎ジャンプ説・・・・ヒトザルがヒトになる或る段階で脳にジャンプが起こり、それが言葉によるコミュニケーションを促し、それが左脳にフィードバックされたという説。ジャンプの理由はわかっていない。

 そのほか仮説はいろいろあるのだが、ダンバーは言語学を整理したいわけではないので、この手の話には詳しくはない。そのかわり、チンパンジーを飼育し、そこそこ仲良くなってきて気づかされたことがあった。チンパンジーがときに飼い主ダンバーの毛づくろいをしてくるらしい。そうなるとダンバーも妙に「原始的な感情」でいるような気持ちになってきた。
 これはいったい何がおこっているのかというところから研究が始まり、本書が生まれた。ギョッとする仮説ではあったが、残念ながら腑に落ちるところは少なかった。
 ぼくがダンバーの仮説を読んで確信できたのは、毛づくろいや噂のゴシップ・コミュニケーションが言語文化をつくったというのではなく、言語はチンパンジーとダンバーの関係に見られるように、互いに「エディティング・モデル」を交換する気になったということだ。つまり言語文化の発達の基本は、きっと「移行」や「代替」によって習得されていったのだろうということだ。
 ただ、毛づくろいに代ってゴシップや噂が言語文化を促進させたのだとすると、言語は必ずやコミュニケーション行為のセットとともに組み上がってきたのだろうということ、このことは納得できる。このセットが「エディティング・モデル」なのである。これについてはダンバーは『宗教の起源』でも援用していた。
 最後に一言。もし噂やゴシップによって言語が発生したというなら、そろそろSNSやAIが新たな言語を発生させてもいいはずである。それには或るAIのつくりだした言語が別のAIにセット転化することがまずはおこる必要があるだろう。言語とは「換置」が本質なのである。

19世紀にイギリスの文献学者・音声学者・文法学者のヘンリー・スウィートがプープー説を提唱した。間投詞的な「おお!」や「イタッ!」といった本能的な感情表現から変化をおこして、言語は発達したという説だ。同時代のマックス・ミュラーは、ワンワン説やディンドン説とともに空想的でユーモラスな説として対比的に論じた。

文鳥を手にのせる岡ノ谷一夫。ヒトの言葉と同じように音に規則性を持つ小鳥のさえずりの仕組みを研究している。「さえずり」は日頃耳にする「地鳴き」(鶯でいう「ホーホケキョ」)とは異なり、個体ごとにオリジナル・ソングがある。ヒナから成鳥になる過程の学習によって獲得されるという。

「赤の女王仮説」とは、アメリカの進化生物学者リー・ヴァン・ヴェーレンが1973年に提唱した「生物の種は絶えず進化していなければ絶滅する」とする仮説。『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王が発した台詞「同じ場所に留まるために力の限り走り続けないといけない」に由来し、敵対種間の進化的軍拡競走や有性生殖の利点を説明する喩えとしても用いられる。

令和元年11月に行われた「大嘗祭」の様子。毎年11月に国と国民の安寧や五穀豊穣を祈るのは「新嘗祭」だが、皇位継承に伴って一層大々的に行われる。起源は7世紀の天武、持統天皇まで遡るといわれる。当時は神の威力ある詞を精霊に言い聞かせることで言う通りの結果が生じて来るとされ、天つ神の詞は天子をはじめとした代理者、すなわちミコトモチの間に伝達されていった。

クリス・ナイト(Chris Knight)はイギリスの人類学者で、言語や文化の起源についてダーウィンの提唱した「漸進的進化」とは立場を違える「革新的進化」を唱える。1991年の処女作『Blood Relations』では、人間文化が霊長類の延長線上にあるとした当時の主流説を拒否し、ヒトの女性によって言語や文化がもたらされたとする説を主張した。

コロンビア大学の研究者たちは、AIを使ってデータから変数を発見する方法を提案した。画像はAIが物理系の挙動を理解し、それを記述するのに必要な変数を特定できることを示唆している。AIが変数を発見できるようになれば、将来的にその変数を使って人類が把握できていない新しい法則や式を発見することができるようになる可能性がある。

TOPページデザイン:野嶋真帆
図版構成(センセン隊):寺平賢司・大泉健太郎
中尾行宏・齊藤彬人・南田桂吾・上杉公志


⊕『ことばの起源――猿の毛づくろい、人のゴシップ』⊕
∈ 著者:ロビン・ダンバー
∈ 訳者:松浦俊輔・服部清美
∈ 編集:清水康雄・阿部俊一
∈ 装幀:岩瀬聡
∈ 発行者:清水康雄
∈ 発行所:青士社
∈ 本文印刷:ディグ
∈ 扉・表紙・カヴァー印刷:方英社
∈ 製本:小泉製本
∈ 発行:1998年

⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ 謝辞
∈ 1 むだ話をする人々(トーキングヘッズ)
∈∈ たいした話ではないけれど
∈ 2 めまぐるしい社会生活へ
∈∈ 私の背後にいる猿
∈∈ 困ったときの友
∈∈ マキアベリ登場
∈∈ ダーウィン主義への寄り道
∈ 3 誠実になることの重要性
∈∈ 触られる感覚
∈∈ 猿のおしゃべり
∈∈ 類人猿語
∈ 4 脳、群れ、進化
∈∈ 猿はなぜ大きな脳を持っているのか
∈∈ 様相がさらに複雑になる
∈∈ 人類はどこにおさまるのか
∈ 5 機械の中の幽霊
∈∈ デカルトのジレンマ
∈∈ 誰か他にそこにいるのか
∈∈ 心の中へ、そして向こうへ
∈ 6 はるか彼方へ時をさかのぼる
∈∈ 涼しさを保つために立って背を高くする
∈∈ 森林のはずれにおける危機
∈∈ 仮説の検証∈∈ 高価な組織という仮説
∈∈ 赤ん坊は手がかかる
∈ 7 最初の言葉
∈∈ 風に乗った身振り
∈∈ 儀式と歌
∈∈ はじめての話し
∈ 8 バベルの遺物
∈∈ バベルまでさかのぼる
∈∈ 混乱のダイナミックス
∈∈ 私の兄弟そして私
∈ 9 生活のちょっとした儀式
∈∈ プロパガンダという裏技
∈∈ 目は口ほどにものを言う
∈∈ 求婚ゲーム
∈ 10 進化の傷跡
∈∈ 小さいことはいいことだ
∈∈ コロネーションストリートブルース
∈∈ コピー機を囲んだ売り込み
∈∈ 訳者あとがき
∈∈ 参考文献
∈∈ 索引

⊕ 著者略歴 ⊕
ロビン・ダンバー(Robin Dunbar)
1947年、イギリス生まれ。オックスフォード大学で哲学と心理学を専攻、ブリストル大学で心理学の博士号取得。心の進化論を専門とし、リバプール大学教授で心理学を担当。著書に『科学がきらわれる理由』(青土社)、『なぜ私たちは友だちをつくるのか』(青土社)、『人類進化の謎を解き明かす』(インターシフト)、『宗教の起源』(白揚社)他。

⊕ 訳者略歴 ⊕
松浦俊輔(まつうら・しゅんすけ)
1956年生まれ。名古屋工業大学助教授。訳書に、ロジャー・ニュートン『宇宙のからくり』、ロビン・ダンバー『科学がきらわれる理由』、デヴィッド・リンドリー『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』(以上、青土社)ほか多数。

服部清美(はっとり・きよみ)
訳書にピーター・ブローナー『一瞬の英雄』(徳間書店)、共訳にゴードン・チャン『やがて中国の崩壊がはじまる』(草思社)他。