才事記

まつりちゃん

岩瀬成子

理論社 2010

装幀:池田進吾 挿画:上路ナオ子

               
    
 70年代おわりから80年代にかけて、日本がむずむず浮かれ出していた。宅地造成がふえ、会社人間がふえ、なんであれ取引が多くなりすぎていて、社会の構造に脱落状態が目立ってきた。まだ電子時代がやってはきていなかったので、ニッポン工業社会の「あがき」のような消費社会一辺倒のスパートに入っていたのだろうと思う。国鉄民営化から電電民営化へ。ニッポンはしゃにむに走っていた。
 これじゃあ、忘れ物が何かということもおっつけ看過するだろう。どこからも軋みの音が聞こえていた。こういうとき、何が描かれるべきなのか。そんなことを考えるようになっているなか、「遊」の第3期を若いスタッフが3チームに分かれて編集制作に向かっているなか、ぼくは世の中の気になる表現作品をあちこちで見るようにしていた。本が頼みの綱とはかぎらない。映像や舞台、アートやファッションも気になる。抜き手を切ってマンガ家があっと驚かせてくれることも、少なくない。

 そんな1980年の9月、砂防会館ホールで民芸の『朝はだんだん見えてくる』という芝居を観た。
 米軍基地がある町で、10代半ばの奈々がジャズ好きの少年とオートバイをたのしんだり、反戦喫茶に出入りして基地反対デモに参加したりしながら夏休みをおくるという話で、日本が抱える刺を扱っているのに、とても明るい。日色ともゑが好演していた。
 しばらくたって、この原作者が岩瀬成子(いわせ・じょうこ)という児童文学作家で、岩国に住んでいることを知った。ぼくより5、6歳年下だ。さっそく同名の原作(理論社)を入手してみると、長新太が絵を描いていた。それから、ぽつぽつとこの作家のものを読むようになった。最近、『まつりちゃん』(理論社)と『マルの背中』(講談社)に感心した。

 『まつりちゃん』は、そうタイトリングされているのだからてっきり主人公だろうと思われるのだが、話の中には少しずつしか出てこない。小さな町の小さな家にいて、小さな小学生一年生くらいなのに、どうやらキンちゃんという小さな黒い猫とだけ暮らしているようなのだ。なにもかもが小さい。
 話は、町の少年やおばさんやおばあさんたちが、いつどこでまつりちゃんと出会ったかというだけの展開になっていて、みんなが少しずつまつりちゃんに気づいて、いったい女の子ひとりでどんな暮らしをしているのか心配をするのだが、まつりちゃんのほうは屈託もなく、出会う者たちにちょびっとずつだけれど、不思議な透明感を植え付けていく。そんな話だ。

(絶筆)

執筆開始時期:2020年6月

■補足解説

 今回の千夜千冊は児童文学です。松岡は、少年少女のフラジャイルな心情について、千夜千冊で多くの言葉を費やしてきました。ペローノヴァーリスアンデルセン小川未明野口雨情など、幼い頃のはかない記憶を綴った作家たちの作品も多くとりあげています。それらの千夜で松岡が一貫してキーワードにしていたのが「幼な心」という言葉です。

 幼な心は掴まえがたい。幼児から老境まで去来しているのに、ぴったり思い出せないものになっている。思い出そうとするとおぼつかなく、うたかたの泡になる。自分の中にあって、自分では掴まえられない。きっと、しばしば寄り添う「よそ」と「べつ」と「ほか」であって、断ち切られたままの「走り去っていく菫色」なのだ。そこには電話がかけれられない。
1816夜 マイケル・トマセロ『心とことばの起源を探る』より

 この捉えがたい「幼な心」にこそ、「方法の秘密」があると松岡は切々と訴えてきました。これまでの編集的な試みの一切は「幼な心を編集しつづけている結果だ」とも語っています。幼な心の探索や解読は、松岡が千夜を通してずっと追い求めてきたテーマでした。

 「幼な心」の探求こそ、われわれのめざすべき編集的未来なのである。
1816夜 マイケル・トマセロ『心とことばの起源を探る』より

 「幼少年期を取り戻せないわれわれ」が頻りに思い、その解明に没頭することだけが、文芸や音楽や、恋愛や政治や、絵画や遊蕩の本質だ。
1169夜 ヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』より

 当夜でとりあげた『まつりちゃん』の作者である岩瀬成子さんも「幼な心」を書き続けている作家といえるでしょう。
 児童文学作家として知られる岩瀬さんは、1977年のデビュー以来、毎年のように1〜2作の著作を刊行しつづけてきた多作な作家で、一貫して子どもの物語を綴ってきました。60冊近い小説の根っこにあるのは、岩瀬さんが子ども時代に感じた「ちぐはぐ感」です。岩瀬さんは幼少期に持ち続けてきた社会や世間に持ち続けてきた「わからなさ」や「ちぐはぐ感」をうまく解消できなかったからこそ、大人になってからその原体験を物語として書いてきたといいます。

 岩瀬さんの作品は、全体的にほのぼのとした雰囲気をまとっていますが、登場する少年少女たちは経済的な事情や家族間の問題、将来の不安など、シビアな現実に直面し、アイデンティティにゆらぎを感じています。
 当夜の登場人物である「まつりちゃん」も空き家のような暗がりの家で一人で留守番しているのですが、物語を読みすすめていくうちに、家族の事情があることが徐々にわかってきます。
 松岡が本文の冒頭で、高度経済成長期にあった日本社会の浮かれ具合について言及しているのは、時代状況や社会状況の狭間でとりこぼされていく子どもの心性を掬っていく岩瀬さんの物語スタイルについて言及したかったからだろうと思われます。松岡の本文の言葉を借りれば、「日本が抱える刺」が子どもの心にもちくちくと刺さっているのです。

 『まつりちゃん』は8章立ての短編小説で、それぞれの章に中心人物が配置されています。傾聴ボランティアをしている中1の女子、両親が離婚してしまった小学生の女の子、還暦をすぎた主婦など、登場人物たちは何かしらのわだかまりを持ちながら日常生活を送っているのですが、ふとしたタイミングでまつりちゃんと出会います。物語では、純粋で言葉足らずなまつりちゃんと登場人物が会話をしていく様子が印象深く描かれます。


まつり:お祈り、見たいですか
高1少女:見たい、見たい
(まつりちゃんが絵を見せる)
高1少女:栗かな
まつり:ちがう。天国です。 
高1少女:あーそうかあ。ふううん、すてきね
まつり:すてき?
高1少女:とってもいい感じってこと
まつり:ほんと、ですか
『まつりちゃん』「たまご」p,49-50より

 不思議なやりとりのあとにまつりちゃんが去ると、登場人物たちが小さな希望や喜びを得ていきます。だからといって何かの大転換が起きるわけではありません。「何もかもが小さい」物語だと松岡が書いている通りです。それでも確実に何かが作用し、かすかに心が動いていく。そのような心の機微を、岩瀬さんは物語のなかで描いているのです。

 松岡がかつて書いたラルボーの『幼なごころ』の千夜千冊をヒントにすると、突如あらわれて、何かを残し去っていく「まつりちゃん」の不思議な役どころは、風の又三郎星の王子様モモといったキャラクターに近いようです。

 大人たち、とりわけ両親というものは「お前もそろそろみんなのようにならなくちゃね」という。しかし「幼なごころ」とは、その「みんな」という平均とはおよそ異なる「突起やよそや別からやってくる。風の又三郎のように、転校生が幼い物語の主人公になりやすいのは、そのためだ。
 少年少女は、この平均を破るものの秘密に格別の関心がある。
 そのような「小さくて青い光のような美しい異様」への関心は、ときにひと夏で、せいぜい14、5歳のときにおわってしまう。そのせつなさはどんなものにも譬えようがない。どんなものにも譬えられないから、その例外的な「よそ」や「ほか」を運んできた子の憂いとともに、その記憶が刻印される。記憶が存在学になってしまうのだ。

1169夜 ヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』より

 松岡は「幼な心」の本質は「よそ」「べつ」「ほか」に秘められているのだといいます。「よそ」「べつ」の存在としてのまつりちゃんと会うことで、日常のなかに小さなひびが入り、登場人物たちの心の中に「幼な心」が立ち上がっていくといえるかもしれません。

普段の生活の中で、意識していなくても、だれかがだれかに作用を及ぼすことってある気がするんです。何かを見て、おなかの底がこそばゆくなって“心がくすくすする”時に、だれかに話しかけたくなる気持ち…。そういう変化を書きたかった。
岩瀬成子さんインタビュー「朝日新聞 2009.1.17」より

(補足解説・寺平賢司/松岡正剛事務所)

■関連する千夜千冊
1169夜 ヴァレリー・ラルボー『幼なごころ』
ラルボーは登場人物たちの「香ばしい失望」をのみ、言葉にしつづけた。それが少年少女に向かったときには、他の追随を許さなかった。

638夜 樋口一葉『たけくらべ』
惹かれ合っているのに、お互いに邪険にする信如と美登利。その邪見の奥に疼く幼な心の秘密を、一葉独特の切断的文体が立ち上げていく。

132夜 ノヴァーリス 『青い花』
ノヴァーリスを読むということは、「少年期」に釘付けになるということだ。その釘は「瑞々しい「青い花」によって別国に打ち付けられている。少年の心が知っている釘、永遠の釘である。

■セイゴオ・マーキング

⊕『まつりちゃん』⊕
∈ 著者:岩瀬成子
∈ 装幀:池田進吾
∈ 挿画:上路ナオ子
∈ 刊行年:2010年
∈ 出版社:理論社

⊕ 目次情報 ⊕

『まつりちゃん』

∈おお、川だ
∈たまご
∈おどり場
∈となりの庭
∈仔ヤギのお母さん
∈クモ
∈コンクリート
∈アリさん

⊕ 著者略歴 ⊕
岩瀬成子(いわせじょうこ)
1950年、山口県生まれ。1977年、『朝はだんだん見えてくる』(理論社)でデビュー。同作品で日本児童文学者協会新人賞受賞。1992年、『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』(PHP研究所)で小学館文学賞、産経児童出版文化賞受賞。1995年、『ステゴザウルス』(マガジンハウス)、『迷い鳥とぶ』(理論社)の2作により、路傍の石文学賞受賞。2008年『そのぬくもりはきえない』(偕成社)で日本児童文学者協会賞受賞。2014年、『あたらしい子がきて』(岩崎書店)で野間児童文芸賞、JBBY賞、IBBYオナーリスト賞受賞。2015年、『きみは知らないほうがいい』(文研出版)で産経児童出版文化賞大賞受賞。2021年、『もうひとつの曲がり角』(講談社)で坪田譲治文学賞受賞。 そのほかの作品に、『ともだちって だれのこと?』(佼成出版社)、『なみだひっこんでろ』(岩崎書店)、『ちょっとおんぶ』(講談社)、『ピース・ヴィレッジ』(偕成社)、『だれにもいえない』(毎日新聞社 )、『まつりちゃん』(理論社)などがある。