父の先見
赤いろうそくと人魚
新潮文庫 1921 1999
ある夜のこと、人魚のお母さんが神社の石段に赤ん坊を産みおとした。
赤ん坊は町の蝋燭(ロウソク)屋のおばあさんが拾って育てることになった。老夫婦には子供がいなかったのだ。二人は娘をとてもかわいがった。
娘は少しずつ大きく育ち、家の蝋燭に赤い絵の具で絵を描くのが好きになっていた。
しかもその蝋燭がたいへんよく売れた。なんでも、その蝋燭でお宮にお参りすると、船が沈まないという評判なのである。
ある日、南国から香具師(やし)がやってきて、娘が人魚であることを知った。そこで買い取って見世物にしようとした。
老夫婦は最初はもちろん断っていたが、ついに大金に迷わされて娘を売ることにした。香具師は鉄の檻をもって娘を迎えにくるという。娘は泣く泣く最後の蝋燭に絵を描いた。悲しさのあまり真っ赤な絵になった。娘は連れていかれた。
その夜、蝋燭屋の戸をトントンとたたく音がした。おばあさんが出てみると、髪を乱した青白い女が立っていた。「赤い蝋燭を一本ください」。
おばあさんは娘が残した最後の蝋燭を売った。
女が帰っていくと、まもなく雨が降りだし、たちまち嵐となった。
嵐はますますひどくなって、娘の檻を積んだ船も難破してしまった。そして、赤い蝋燭がその町にすっかりなくなると、その町はすっかり寂れ、ついに滅んでしまったという。
こんな話である。これが当時の日本の子供向けの童話なのだ。大正10年(1921)の、小川未明の特徴がよく出ている童話である。
小川未明には北国の風が吹いている。小川家自体が越後高田藩の家臣の出身だった。
父は神道の修行者で、神社創設を決意すると物乞いも辞さぬ熱狂的なオルグ活動を展開するような烈しい気性の持ち主だったらしく、母がまたそれに劣らぬ裂帛の心の人だった。祖母は祖母で、未明に「羽衣」や「浦島」の話を語りつづけた。
この少年期の、凍てついてはいたが、どこかで絞りこんだヴィジョンを夢見るような生活環境は、未明の魂の揺籃となっている。
一方、その後の未明をつくったのは、早稲田時代の坪内逍遥、ラフカディオ・ハーン、島村抱月、正宗白鳥といった文芸派たちとの出会いである。未明という筆名も逍遥からもらった。おそらく「薄明に生きなさい」という意図だった。早稲田時代には相馬御風、竹久夢二、坪田譲治とも深くなっている。
これまた当時の新浪漫主義の鮮烈な一線上を脇目もせずにまっすぐ歩んでいる。そして、その申し子にふさわしく、明治39年には坪田譲治や浜田広介らと「青鳥会」をつくる。むろんメーテルリンクにちなんでいる。4年後、未明ははやくも第1童話集『赤い船』を出した。表紙には「おとぎばなし集」としるした。
未明が童話を書いたのは、時代の要請でもある。時代は大逆事件と石川啄木の死とともに明治を崩壊させ、社会の不安を増大させていた。
こうした時期、未明の作品に注目したのは、意外なことに(実は意外ではないのだが)、大杉栄だった。未明は大杉との出会いをきっかけにアナーキーな空想社会主義の夢を見る。
そのうち時代は、鈴木三重吉による「赤い鳥」を筆頭に、「子ども神話」「金の船」「童話」などの児童雑誌ブームに向かう。未明もいっとき「おとぎの世界」を編集主宰した。こうして大正10年、東京朝日新聞に『赤い蝋燭と人魚』が連載されたのである。いまなお未明の最高傑作といわれる。岡本一平が挿絵を描いた。
その後の未明の足取りについては省く。
ここで加えておきたいのは、未明はその後ずっと“童話の神様”とか“日本のアンデルセン”とよばれてきたにもかかわらず、昭和28年あたりをさかいに、一挙に批判の嵐にさらされたことである。古田足日、鳥越信らによる痛烈な批判活動の開始だった。未明童話は呪術的呪文的であって、未熟な児童文学にすぎないという批判であった。
これで書店から未明童話が消えていく。杉浦明平や山田稔も未明とともに坪田譲治や浜田裕介を批判した。未明はすっかり忘却されていく。
こういうことはよくあることなのである。読書界というものは毀誉褒貶こそが常識で、どんな時代も一定のものなんてないものなのだ。
ところが、昭和45年ごろになって、未明は再評価されることになる。さらに紅野敏郎、柄谷行人も未明における「風景としての児童の発見」に注目をした。
いま、小川未明は賛否両論の中にいる。
どのように未明を読むかは、われわれ自身の判断にかかっている。ぼくはどう思っているかというと、次の未明の言葉の中にいる。
「私は子供の時分を顧みて、その時分に感じたことが一番正しかったやうに思ふのです」。