才事記

日本風景論

志賀重昂

講談社学術文庫 1976

 船坂弘の道場で剣道着を半ば脱いだ三島由紀夫と話したのは、泉鏡花のこと、月岡芳年のこと、そして志賀重昂のことだった。この三人のところで日本が変わったというのである。
 「この三人のところ」というのは、この三人は少なくとも三島のいう「日本」を死守しようとした者たちだったが、この時期に他の「日本」は失われはじめたのではないかということである。この時期とは「明治20年代がおわると」という意味だ。
 「明治20年代がおわると」とは、明治33年が1900年だから、日本は20世紀に突入することになる。当時はそういう西暦感覚はいまほど強くなかったので、これはいいかえれば1900年の前が日清戦争、後が日露戦争なので、この日清と日露のあいだあたりから「佳き日本」が失われはじめたのではないかという意味になる。
 しかし、これは三島が感じていたというよりも、当時の日本人がなんとなく感じ、かつ何人かの勇猛果敢な思想者たちが痛切に焦慮していたことでもあった。

 志賀重昂が、三宅雪嶺・杉浦重剛・陸羯南・井上円了・島地黙雷ら13名と政教社をおこして、「日本人」という雑誌を創刊したのが明治21年(1888)である。
 雑誌名は主宰格の三宅雪嶺がつけた。「日本人」創刊祝いの日、徳富蘇峰も加わって、全員が後藤象二郎の邸宅に招かれた。このとき後藤が全員に大同団結を勧めた。勧めたというより煽ったのであろう。煽る理由があった。この3年前、福沢諭吉が「時事新報」に有名な「脱亜入欧」を唱えていた。鹿鳴館に象徴される洋風文化をかれらが嫌ったわけではないが、そうした風潮の底流に「日本」が軋みはじめているという感想を全員がもっていたからだ。
 もっと政治的に緊迫した事態も迫っていた。条約改正をどうするかという懸案の問題が急激に浮上していて、時の黒田清隆内閣の大隈外相がどのように条約改正にとりくむかということが風雲急を告げていた。すでに松方内閣の外務卿井上馨の改正案のときは、領事裁判権の撤廃の主張まではいいのだが、それとひきかえに外国人法官の任用を約束したという裏取引がすっぱ抜かれ、すでに日本の国力の脆弱が暴露されたばかりなのである。
 雑誌「日本人」はそのような風潮に「待った」をかけるためのものだった。
 つづいて帝国憲法が発布された明治22年に、陸羯南が日本新聞社をおこして新聞「日本」を創刊した。これは弱腰の条約改正案に鮮明な反対の狼煙をあげるためのもので、蘇峰・雪嶺も応援にかけつけたし、日本新聞社には池辺三山・中村不折・正岡子規らも入社してきた。杉浦重剛が編集監督をひきうけた。

 このような「日本」を標榜する思想や運動は、その後の歴史観からみると国粋主義あるいは日本主義ということになるのが"常識"なのだが、当時はこれを「国民主義」と言った。
 志賀重昂の『日本風景論』はこの国民主義の台頭と軌を一にしていたのである。
 こうして日本は日清戦争に向かって突進していった。条約改悪派もその反対派も、自由民権派もいよいよ生まれつつあった若き社会主義者たちも、ともかくもこの戦争だけは突破しようと一致した。まさに戦争の最中に発売された『日本風景論』は大ベストセラーになった。
 しかし、1900年をまたいで、日本が今度は日露戦争にとりくむところにくると、「日本及び日本人」にも「日本の社会主義」にも変質がおとずれる。かつて日清には賛同した内村鑑三や堺敏彦をはじめ、日露には「非戦」の立場をとる者が続出した。では、何が日本の主張で、何をもって日本人の社会というべきかということが、三島のいう「この三人」の明治20年代がおわると、一挙に問われることになったわけである。

 剣道場の三島の話から始めたせいで、なんだか明治の大所高所の話になってしまったが、志賀重昂を読むにはむろん、以上の大所高所も重要である。
 実際にも志賀重昂の生い立ちが、そもそも明治の大所高所と深い関係がある。父親が昌平黌に学んだ学者で、幕末に岡崎藩を脱藩して榎本武揚の五稜郭に奔ったため、藩邸に蟄居させられたような人物だったし、志賀重昂自身も明治7年に上京して、最初は芝の攻玉塾に入って英語を学び、東京大学予備門の入学試験に合格してもこれに従わず、大望を抱いて札幌農学校に入って「世界主義」とでもいうべきを抱いている。
 その意志は大きく、卒業後は同郷の玉置政治の丸善に勤めることになるのだが、明治18年にイギリスが朝鮮全羅南道の巨文島を占領したというニュースを聞くと、居ても立ってもいられなくなって、軍艦筑波に便乗して対馬へ、さらにはフィジー、サモアの南洋諸島からオーストラリア、ニュージランドまで赴いた。
 この世界体験は終生、志賀を動かしたようで、その後、志賀は3回にわたって世界周遊を企てた。

 しかし、そうして世界を見れば見るほど、志賀の心は「日本」に戻っていたようである。そういう志賀重昂をかつて土方定一は「国を愛するが故に故国にとどまった者は多いが、国を愛するが故に遠くに赴いた者は少ない」と書いた。
 ぼくはいっとき岡崎の美術館のオープニングの仕事をしたことがあって、頻繁に岡崎を訪れていたことがあるのだが、そのとき中根岡崎市長に案内してもらって、志賀重昂の遺品の数々をつぶさに見せてもらった。ぼくがひとつひとつをゆっくり見ていると、市長は「志賀重昂っていったって、いまは岡崎の人間も知りませんで」と言っていた。なんといってもボロボロになった「重昂世界旅行鞄」とでも名付けたい大きな鞄が印象に残っている。

 そこで『日本風景論』であるが、一言でいえばこれは文化地理学書である。しかし、日本の大所高所が激動しつつあった時期の著作であって、かつ「日本人」同人としての自覚も高かったので、本書はまことに奇妙な書物になっている。
 わかりやすくいえばガイド。もうちょっと正確にいえば日本各地の地質風土気象植生をめぐる地理学的分析書。難しくいえば、きわめて精神主義的な日本論なのだ。
 こんなことが山岳や湖水や植物動物のいちいちと一緒に重なって書けるかとおもわれるかもしれないが、当時の猛者にはこういうことこそ書けたのだ。フィジカルな解読とメンタルな説得が同時進行できたのである。
 かつてぼくがとくに気にいったのは、日本風景の根本を水蒸気と火山岩に絞って説こうとしたところ、およびそのような日本風景を観照する眼を「瀟洒」と「美」とそして「跌宕」(てっとう)から説こうとしたところで、とくに「跌宕」が炯眼だった。
 これはまさに雪舟が描こうとした日本の「真景山水」そのものと通底する眼であったとおもわれたからである。