セイゴォ ほんほん

本から本へわたり、本と本をつなげ、
本にさらわれていく……。
つれづれに思索する事柄をつぶやきながら、
日々をつづる本との交際録。
ときにフェティッシュに、ときに痛切に、
たいてい明け透けに、たいがい辛口に、
今日もほんほん、明日もほんほん。

ほんほん54(最終回)ぼくは「本数寄」なのである

◆慶応義塾大学出版会から「世界を読み解く一冊の本」というシリーズが刊行されている。『旧約聖書』『クルアーン』『三教指帰』『西遊記』『カンタベリー物語』『百科全書』『言海』『伝奇集』『一九八四年』『薔薇の名前』の10冊だ。えっ、たった10冊かよと思うだろうが、その10冊に空海、チョーサー、大槻文彦、エーコが入っているのが絶妙な特色だと思ったほうがいい。ただし原著やその翻訳ではない。それぞれ著者が別にいて、これらを解読している。藤井淳の『三教指帰』を読んだが、なかなかユニークな視点になっていた。
◆千夜千冊では「世界を読み解く一冊」をできるだけ選んできた。これまで書いてきた1800冊の中の300冊から500冊くらいが、そういう本だったと思う。吉本隆明は、本はたいてい自分のかかわりとの関係で読むものだけれど、自分が関心のない本にめぐりあうにはどうすればいいかという問いに対して、それは「書物に含まれている世界」が決めてくれるのだと答えていた。すぐれた本は「書き手が世界をあらわしたくて書いているものだ」というのだ。その通りだろう。
◆ボルヘスは、本は記号の集合体であるけれど、そこに読み手がかかわるとその記号は千変万化に息づいていくと言った。エーコは、本はスプーンやハンマーやハサミ同様に500年前とまったく変わっていない形態のものだけれど、それは「スプーンがあれ以上の形をとれないこと」と同様に、実にすばらしい究極の姿なのであるとみなしていたのだ。
◆たしかに「本」はあの形がいい。四角くて、表紙と裏表紙にページがぎゅっと挟まれて、ちょっと重たげで、本棚に並べると背中が何かを訴えている。これは「物実」(ものざね)もしくは「憑坐」(よりまし)なのだ。
◆ぼくが「本」という形をとったブツにぞっこんになったのは、20代半ばに自分の6畳・3畳のアパートで本棚を手作りしたときあたりからで、そのとき、わずかな蔵書を少しずつカバー自装したせいだった。カバー自装というのは、中身は気にいったのに外見が気にいらない本に適当なカバー材を選んできて、そこにレタリングセットや油性ペンでタイトルなどを付けていったことをいう。物実らしくしておきたかったのだ。これで護法童子が走りまわるようになった。これで「本」と一緒に暮らすようになった。
◆そういうふうになったのは、やっぱり10代に本に夢中になったからで、それがもしギターや算数に夢中になっていたら、別の生き方をしていたのだろうと思う。昆虫学者になっていた可能性もあるし、聴診器や注射器が手放せない診療所に暮らすようになったかもしれない。
◆ぼくは家庭用品や生活用品にからっきし関心がない。自分の部屋にそういうものを揃えたくなかった。もっとはっきり言うと、「生活する」に関心がない。生活は好きな仲間と一緒にいたいという、ただそれだけだ。リラダンとタルホの影響が滲みこんだせいだろう。これがわが生き方だ。だからぼくの日々はいまだにロクな用品に囲まれていない。自動車や電子機器はスタッフに頼っているし、たいていの日々は誰かが介添をしてくれている。つまりは生活オンチなのである。このオンチのせいで生活用品が自分の周辺に不可欠だと思えない。
◆では何が不可欠かというと、それが「本」だった。本が炊飯器で、本が大工道具で、本が食い道楽で、本が旅行で、本が恋愛で、本がうたた寝なのである。そんなことだから、当時から部屋には本だけがふえるだけだったのだ。本以外で大事なのはジャケットとタバコくらい。
◆こんなふうなので、そうとうな読書家ですねえ、さぞかし希覯本や珍本が集まったでしょうねと言われるが、そうなのではない。たしかに読書はするが、たくさんの本を読みたいとは当初から思っていなかった。いまも冊数はカンケーない。「読書するという状態」に、科学や文学や音楽の秘密が隠れていると思っているので、その読書状態をなんとか持続させ拡張させていくための日々をおくることが好きなのだ。だから希覯本はいっさい集めない。文庫本でも十分なのである。
◆もう少し正確に言うと「読むこと」が好きなのだ。もっと正確に言うと「読み」が好きなのだ。さまざまな民族言語による言葉が組み合わさって、それが人麻呂やシェイクスピアやジャン・ジュネやガルシア・マルケスや阿木耀子になってきたということ、その多様性のプロセスと成果を読むことが好きなのだ。
◆これはどちらかといえば、植物や動物の進化を読んでいるのに近い。だから批評したり書評したりするのは、実はほとんど気が向かない。千夜千冊も一度も書評をしようと思って書いてはこなかった。空き番だらけの「本の進化の木」をひとつひとつ埋めているような気分なのだ。
◆ただし、またまた別のことを言うようだが、この文明の流れのなかで、言葉や「読み」が進化してきたなどとは思っていない。人類の思索や表現が進歩してきたとも見ていない。そういう進歩史観はもっていない。むしろ言葉が意味からずれ、何かを隠さざるをえなくなっていく様子や、書くことが「逸脱」をおこしていくのを読むことに、大いなる興味があったのである。
◆つまりは、ぼくの「本好き」は「本数寄」なのである。何かを数寄の状態にしていくための本なのだ。遁世の数寄なのだ。それが70年以上もずうっと続いてきた。千夜千冊はやめられないだろう。また、どこかに本棚を作って進ぜるという仕事も、きっと続くだろう。最近は「本の寺」に関心がある。まったくもって大変なビョーキに罹ったものだ。
◆さて一方、この「ほんほん」コラムはそろそろ「お開き」にしたいと思った。ブックウォッチャーを続けるのもどうかなという気にもなったのだ。別のコラムを始めるかもしれないけれど、どういうものかはわからない。そのときはそのときで、どうぞ御贔屓に。

ほんほん53拾読と老軽ニュース

◆拾読(しゅうどく)という読み方がある。拾い読み(ピックアップ・リーディング)のことだ。パラパラとページをめくるイメージがあるかもしれないが、そうとはかぎらない。アタマの中のエンジンの「読みモード」スイッチを「早送り」にする。だから速読なのではない。意味の読み取りはノーマルスピードのままなのだ。だから映画のビデオを早送りで見るのとは違う。あれでは会話が聞き取れない。拾読は文字が見えている。
◆最近の拾い読み、いくつか。デイビッド・バリー『動物たちのナビゲーションの謎を解く』(インターシフト)。動物がGPSを持っているのではなく、GPSが分化して動物になったのだ。真木太一編『日本の風』(朝倉書店)。農業気象学のベテランが50をこえる風の意味を「見える」ものにした。風の工学だ。エンツォ・トラヴェルソ『一人称の過去』(未来社)。歴史が「私」の語りによって創造的な可能性を孕みつつも、政治的な曖昧度を広げすぎて一人称の力を失っていく問題を扱った。『全体主義』や『ヨーロッパの内戦』などの歴史学者が歴史語りの人称を問うたのである。鵜飼秀徳『仏教の大東亜戦争』(文春新書)。耳が痛い仏教関係者もいるかもしれないが、この「殺生とは何か」を通らなければ仏教力は浮上しない。
◆また、いくつか。ポール・フルネル『編集者とタブレット』(東京創元社)。紙の本が好きなら必読だ。久しぶりにナンシー関のシリーズ(角川文庫)。『何をいまさら』『何の因果で』『何が何だか』『何もそこまで』など。鬱憤抜きのためにはもってこいである。ぼくは拾読はたいていリクライニングチェアでしているのだが、ナンシー関はそこでは女王さまである。ラニ・シン編『ハリー・スミスは語る』(カンパニー社)。後藤護君が送ってくれた一冊で、黒魔術っぽいけれど、平岡正明っぽい。拾い読みしてすぐに、そうか宇川直宏がずっと以前に話していたあれかと思い出した。野嶋剛『新中国論』(平凡社新書)。香港と台湾を嬲(なぶ)る習近平の意図をまとめたものだが、抉ってはいない。山極寿一『人間社会、ここがおかしい』(毎日文庫)。例によってゴリラが人間を見破っていく。
◆ナンシー関や山極寿一ではないが、何かがおかしいはずなのに、何かがヘンなはずなのに、その原因や正体かがわからないことは多い。科学はそこから始まるのだけれど、このところ「おかしいぞ」が多すぎて、これは文明のせいだとか現在日本のせいだなどと大ざっぱになってきて、まずい。
◆最近のニュース。湊部屋の逸ノ城が優勝したのに盛り上らない。それでいいのか。安倍晋三元首相が応援演説中に銃撃され即死。狙撃犯は母が貢いだ旧統一教会を恨んでの犯行だったようだが、世論のオピニオンは「民主主義への挑戦だ」と言う。それでいいのか。参院選は自民圧勝。維新に中条きよし、れいわに水道橋博士、参政党に神谷宗弊、N党にガーシー。何に向かうのか。コロナまたまた感染爆発して第7波、わが周辺にもちらほら感染者や濃厚接触者が出てきたが、ぼくはいまだマスク着用頻度がきわめて低い。ぼくはこれでいいのか。
◆ロシアとウクライナの歴史と現状について、先だって佐藤優さんに『情報の歴史21』を使いながら本楼で話してもらった。グラゴール文字文化とキリル文化の話、ガリツィア(紅ルーシ)のナショナリズムとイエズス会の話、マイダン革命の奥のウクライナ民族主義者ステパン・バンデラの話などに聞きいった。話は読書指南にもなっていて、防衛研究所の『ウクライナ戦争の衝撃』(インターブックス)よりも、エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書)、副島隆彦『プーチンを罠にはめ、策略に陥れた英米ディープステイト』(秀和システム)を読んだほうがいい、あの戦争の背景思想を知りたければ片山杜秀の『皇国史観』(文春新書)に書いてあることを読んだほうがいいと薦めていた。佐藤さんの話は「謎」が組み合わさるようになっていて、あいかわらず愉快だ。
◆最近のぼくの「老軽(ローカル)ニュース」少々。弁当一人前が一度で平らげられない。残して夜中に半分を食べる。メガネのフレームを太めの黒縁にした。気分転換だ。遠近と近々を誂えた。BS「一番新しい古代史」が終了。やたらに評判がよかったらしい。おしっこが一日10回以上になった。ガマンも効かないので、会合などで何食わぬ顔で立つための「芸」が必要になってきた。早く喋れず、声も響かない。息継ぎと発話のタイミングもずれる。それに座布団がないと、どこに坐ってもお尻が痛い。数年前から痩せているせいだ。そろそろ人前に我が身を晒せないのである。でもタバコは着々ふえている。それはそれ、寝床に入ると黒猫ナカグロがゆっくりくっついて寝る。爺さんどうしの二人寝である。
◆15離が始まって半分まで来た。離学衆も指南陣もいい。37期の花伝所がおわった。これまでになく充実している。新しい世代の活躍も目立ってきた。イシス編集学校が「ぼく」の代わりなのだ。これはコレクティブ・ブレインの創発なのだろうか、やっとの人麻呂代作集団の出現なのだろうか、面影編集一座の旗揚げなのだろうか。とりあえずは、こう言っておく。「師範代、出番ですよ」。

ほんほん52書物こそ梁山泊である

◆ミカラデタサビ。いろんなことがミカラデタサビである。できるだけ、そう念(おも)うようになった。齢(よわい)のせいだ。侘びたくもあり、寂びたくもある。とはいえ、読みたい本も言い残していることも、かなりある。
◆コロナのせいにしてからのことか、それともオンラインでそこそこ何でもできると踏んだせいなのか、このところ仕事場に来ない連中が多い。7、8年前から、ずいぶん安易に休むようになっているなと思っていたが、たいていは体調のせいらしく、それならまあ仕方がないかと言い聞かせてきたのだけれど、そんなに休んでいるのにかえって本当に体が悪くなるようで、そのうち病院に行く。そんなことをしていてどうするのかと心配していたら、そこにコロナ・エピデミックが到来して、これらいっさいが正当化されていくように解釈されていった。いや、うちの仕事場だけでなく、仕事相手の職場にもそれを感じる。
◆そんなふうにすることが「働き方改革」やSDGsだと言うのなら、そういう明るいヴィジョンにもとづいた「本位のルール」を遵守する世の中とは、ぼくはとても付き合えない。そういう世なら好きに「世捨て人」していたい。これが高齢特有の老いの繰り言だというなら(まあ、そうだろうが)、それでかまやしない。いやいや、松岡さん、実はわれわれも困っているんです、何かヒントをくださいと言うなら、そういう諸君には21世紀の梁山泊こそがおもしろいということを伝えたい。
◆横尾忠則の『原郷の森』(文藝春秋)が途方もなくおもしろかった。横尾さんの書くもの、たとえば日記や書評もいろいろ読ませてもらったけれど、これはそれらを縦横にまたいだ抜群の集大成の、霊界シンポジウムだった。横尾さんが『神曲』の地獄篇よろしく、ピカソや三島や柴田錬三郎や、川端やデュシャンや日野原センセイや、北斎やキリコやウォーホルと忌憚なく言いたいことを言い合うのである。舞台の仕立てはありきたりなのだが、寄って集(たか)っての座談に加わる参加者たちの発言が本人の主義主張を適確に持ち出しているように横尾さんが仕組んでいるので、霊界シンポの議論のやりとりは、どこもかしこも本位を抉(えぐ)った芸術論としても危機を突く文明論としても、格別だった。なるほど、老いの繰り言はこういうふうに繰るとよかったのか。
◆ポール・デイヴィスの『生物の中の悪魔』(SBクリエイティブ)は、情報生命を解いて出色。生命史にひそむデーモンと情報との一蓮托生を、ここまで迫った試みは少ない。
◆森山未來くんと話した。東京オリンピック開会式の「2分間のソロダンス」があまりにすばらしかったので、遅ればせながらこちらから声をかけ、本楼に出向いてもらって話しこんだのだが、3時間ほどずっと喋りづめだったのに、一分の隙もなかった。いや、というよりも、その「一分の隙」にささっと詰めてくる言葉が高速で、すこぶる刺激に富んでいて、なんとも嬉しかった。この男、すでにしてそうなっているだろうが、さらにそうとうのアーティストになるだろう。
◆末木文美士(すえき・ふみひこ)の本を片っ端から読んでいる。読んでいるだけでは足りなくて、三井寺で2年にわたって末木さんに話しをしてもらうことにした。「還生(げんしょう)の会」と名付けた。日本仏教とはどういうものかを語ってもらう。三井寺の福家長吏とともにぼくが聞き手になり、石山寺の鷲尾座主以下の参加者にコメントをしてもらう。東京でも開くつもりだ。近江ARSのメンバーは、全員が『日本仏教入門』(角川選書)を事前共読をした。ぼくはいま、本気で仏教を一から学びなおしたい。
◆こちらは自分の欠陥を補うためだが、ほったらかしにしていたカール・バルトの読み、および内村鑑三とカール・シュミットの読み直しも始めた。危機神学と境界心性とアルチザン政治学を少しばかり体に突き刺しておくためだ。宗教と政治はもとより裏腹で、その裏腹がいまやかなり薄氷のように表裏一体になってきた。どちらがどちらを破っても、何かが波及していくだろう。この脆い関係は国連やSDGsではどうにもならない。あと十数年以内に、表裏一体が世界を惑わせていく。
◆山本耀司の次の秋冬メンズコレクションの招待状は、黒とアイボリーのトートバックに印刷されている。それがこともあろうに、ぼくが以前に書いた「日本はクソである」という一文なのだ。そんなことをしてショーを愉しみにくるお客さんたちはきっと困るだろうに、ヨウジはそういうことをする。どんな服をどんな男たちが着てお披露目されるのか知らないけれど(だから、こっそり見にいくが)、きっとそこは一陣の風が擦過するような梁山泊になっていることだろう。
◆千夜千冊が1800夜になった。23人のファッションデザイナーを扱ったスザンナ・フランケルの『ヴィジョナリーズ』(Pヴァイン)にした。20年前の本だけれど、世界のモードデザインはそこで止まったままなのである。リアルクローズが蔓延したというよりも、ユニクロが勝ったのだ。
◆故あって高倉健の生きざまとインタヴュー映像を追っている。しばらく健さんと向き合っていると(たとえば『ホタル』映画化についての呟き)、当方、とても深い溜息が出るので困っているが、世の中の「稀有」や「マレビト」とはどういうことかを感じるには欠かせない。
◆もうひとつ、追っていたものがある。甲本ヒロトだ。ブルーハーツからクロマニヨンズまで、年嵩(としかさ)がいってからの心境の吐露なども、あらかた見た。頷けたこと、少なくない。真島昌利が鍵、甲本が鍵穴である。
◆次の千夜千冊エディションは『読書の裏側』だ。何をもって裏側としたのかは手にとって確かめられたい。第1章が「配剤を読む」。何を配剤と見ているのかを感じられたい。口絵に町口覚さんのディレクションで、製本屋の圧搾機が登場する。書物はもとよりフェチの行方を孕んでいなければならない。書物こそ梁山泊である。

ほんほん51ひさびさ千夜、古代史番組、湖北めぐり

◆この一カ月、千夜千冊を書きそこねていた。いくつか理由はあるが、それでノルマがはたせなかったという説明にはならない。階段の昇り降りがへたくそだったとか、散髪がどうにもうまくいかなかったとかいうのに似ている。ずっと前のことだが、急に俳句が詠めなくなったり、人前で話すとなんとも食い違うということがあったりしたが、そういうことに近かったのだろうと思う。ロシアのことを書いて取り戻すことにした。
◆関口宏・吉村武彦と一緒に『一番新しい古代史』という番組をやることになった。BS・TBSの毎週土曜日のお昼から放映される。3チームが次々に用意するフリップ上の古代史クロニクルを関口さんが入念に辿っていくのを、ところどころで吉村さんが解説を加え、ところどころでぼくが勝手なイメージをふくらませるというやりかたで進む。1時間番組だが、30分ほどのリハのあと、本番用をだいたい90分か100分を撮って、それをプロダクション・チームが多少の取捨選択をして、絵やキャプションを付けて仕上げる。おかげで事前に、吉村さんの著書を読むのが仕事になった。これは仁義でもある。さきほどは岩波新書の『聖徳太子』と『女帝の古代日本』を再読した。
◆古代史の本はキリなくある。記紀・風土記・六国史をはじめとする史書をべつにすると、多くは研究者たちのもので、ぼくは研究者ではないからこれまでバラバラに、かつ好きに読んできた。なかにはとんでもない仮説に走ったものも少なくないが、それらにもけっこう目を通した。数えたこともないけれど、500冊や1000冊はとっくに超えているだろう。さあ、それで通史的にはどうまとまったのかというと、まとまるわけがない。とくにぼくは古代史の流れよりも古代観念の渦のありかたに関心があるので、万葉の歌や折口の文章に耽るのが醍醐味になってきたから、その手の読書がそうとう多い。これは通史的にはなりえない。間歇泉のような息吹とのつきあいなのだ。
◆それでもふりかえってみると、やはり内藤湖南・津田左右吉・石母田正・井上光貞・直木孝次郎・西嶋定生・小林敏男というふうに発表順・テーマ別にアタマの中に並べなおして、定番史観を眺めてきたようにも思う。研究じみてつまらないように思われるかもしれないけれど、いろいろ読んでいくと、そうなるのだ。それがまた歴史観の錬磨には有効なのだ。しかし、こういう並べなおし読書だけでは何も飛躍がない。歴史は通史がまとまればそれでおもしろいというわけではなく、『鎌倉殿の13人』ではないけれど、自分なりの人物像やドラマ性もギャップも想定できて、かつ一挙に細部に入り込んだり、巨きく俯瞰もできるようにならなければ、歴史を展いているという実感がもてない。
◆こうして結局は、火焔土器の本、スサノオをめぐる本、司馬遷、三韓や加耶についての本、仏教的言説、貴族の日記、新井白石、頼山陽を読み、松本清張や黒岩重吾や山本七平や安彦良和の『ナジム』(徳間書店)にも目を走らせるということになったのである。日本の古代史、実はまだまだ謎が解けてはない。わかってきたのはせいぜい3割くらいだろう。番組がどのくらい光をあてられるかはわからないけれど、多少はご期待いただきたい。
◆近江ARSのメンバーの用意周到な仕立てのおかげで、久々に湖北をめぐった。長浜・菅浦・大音(おおと)・石道寺(しゃくどうじ)・木之本を訪れた。長浜はわが父松岡太十郎の故郷なのである。いまの体力からすると3日の行程は少しきついのだが、存分な準備とサポートによって、いろいろ深い体感をものすることができた。劈頭に願養寺(松岡家の菩提寺)と梨の木墓地(松岡家の墓)に参ったのが、ぼくに湖北のヌミノーゼを散らしてくれた。
◆湖北は汚れていなかった。50年前の白洲正子の感嘆がほぼ残っていた。雨模様の夕方に近江孤篷庵(禅寺・遠州流)で時を偲んだときに、そのことがしっかり伝わってきた。しかしその一方で湖北が何かに堪えているようにも感じて、そこに多少のお手伝いをしなければと思った。帰って和泉佳奈子にも話したことである。
◆「東洋経済」が「世界激震! 先を知るための読書案内」を特集した。「ウクライナ危機の行方がわかる」と銘打って、橋爪大三郎・岡部芳彦・斎藤幸平・佐藤優・羽場久美子・輿那覇潤・津上俊哉・鶴岡路人といった面々が顔をそろえて危機を乗り越えるための本を推薦しているのだが、かなり知られた本が多く、やや失望した。橋爪・佐藤『世界史の分岐点』(SBクリエイティブ)、ウォルター・シャイテル『暴力と不平等の人類史』(東洋経済新報社)、輿那覇『平成史』(文藝春秋)、田中孝幸『13歳からの地政学』(東洋経済新報社)、六鹿茂夫『黒海地域の国際関係』(名古屋大学出版会)、ヨラム・パゾーニ『ナショナリズムの美徳』(東洋経済新報社)、福嶋亮太『ハロー、ユーラシア』(講談社)、イワン・クラステラ『アフター・ヨーロッパ』(岩波書店)、羽場『ヨーロッパの分断と統合』(中央公論新社)、秋山信将・高橋杉雄『「核の忘却」の終わり』(勁草書房)、橋爪『中国VSアメリカ』(河出書房新社)あたりがお薦めだろうか。ドゥーギンとプーチンの間を埋めるチャールズ・クローヴァーの『ユーラシアニズム』(NHK出版)が入っていないのは、どうしたことか。

ほんほん50プーチン・ロシアのウクライナ侵攻

◆プーチン・ロシアのウクライナ侵攻が日々刻々報道されている。苛烈なミサイル攻撃が都市と施設に炸裂し、攻守入り乱れての戦闘が交錯し、国民や市民や家族が必死に移動して、二重三重四重の経済制裁が発動される。泣き叫ぶ老婆、わが子を失った若い母親の悲嘆、瓦礫になっていく街が、毎日テレビ画面やネット画面に映し出されている。
◆そのなかで、バイデンのステートメント、プーチンの公式会見、各国首脳の対策提示のニュースが平静を装うかのように流れ、その隙間を破るような普段着のゼレンスキーのナマ声ナマ画面が、ポップアップのように飛び出てくる。これは尋常ではない。
◆オミクロンの感染、北京パラリンピック、中国全人代、韓国大統領選挙、通貨と株価の変動、震度6の地震、そして当然ながらありとあらゆる出来事が、この戦乱の渦中でも同時平行して勃発・施行・上演・管理しつづけているのだが、これらがプーチンとゼレンスキーのシナリオの進捗と変更とは写し鏡にはならない「別件」のように感じられるのは、当然である。湾岸戦争やイラク戦争やシリア内戦とは何かが異なる「戦乱」が白日のもとに晒されているはずなのに、その実態はウクライナの日常の凄まじい破損を通してしか伝わってこないのだ。いったい、われわれは何に立ち会っているのか。あるいは何に立ち会えていないのか。
◆1998年5月、ニューヨークタイムズで95歳のジョージ・ケナン(元ソ連大使)がNATOの東方拡大についてのインタビューを受けて、「新たな冷戦の始まりになる。ロシア人は強く反発するだろうし、ロシアの政治にも影響を与えるだろう。悲劇的なあやまちだ」と述べた。このケナンの記事をウィリアム・ペリー(元国防長官)が自著の『核戦争の瀬戸際で』(東京堂出版)に引いて、さらにこう書いた。「冷戦終結とソ連崩壊はアメリカにとって稀なほどの機会をもたらした。核兵器の削減だけでなく、ロシアとの関係を敵対から融和へと転換する機会がやってきたのだ。しかしわれわれはそれを掴みそこねた。30年後、米ロ関係は史上最悪になる」。
◆まさに史上最悪になった。プーチンの堪忍袋の緒が切れた。その兆しは、2008年にNATOがウクライナの将来的加盟の可能性をユシチェンコ大統領に矛盾したことに始まっていた。2004年、すでにエストニア、スロバキア、スロベニア、ブルガリア、ラトビア、リトアニア、ルーマニアがNATO加盟していたから、この予告は問題がなさそうに見えた。プーチンがそのころからウクライナのヨーロッパからの隔離を謀っていたことを、昨日、91歳のゴルバチョフのインタビュー記事を読んで知った。ゴルバチョフはプーチンがKGBのころからNATOとの戦いを強調していたとも言っていた。
◆NATOは「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」ために結成された軍事同盟である。冷戦終結後は東方の巻き込みが眼目になっていた。そこにアメリカの東欧ミサイル配備、領空開放条約が重なり、ロシアはジョージア(グルジア)、ウクライナのNATO参加を警戒しはじめていた。
◆2008年、プーチンなジョージアとウクライナがNATO参加に踏み切るなら、ロシアはクリミア半島を併合するためウクライナと戦争すると、公然と表明した。ただ、トランプがNATO不要論を吹聴しはじめたので、この戦火はお預けになっていた。しかし、ここからウクライナの方が燃えはじめた。
◆アンドレイ・クルコフというウクライナの作家がいる。新潮クレスト・ブックスに『ペンギンの憂鬱』と『大統領の最後の恋』が入っている。レニングラードに生まれてキエフで育った。日本文化にも詳しく、川端・三島の愛読者にとどまらず、和歌・俳句・旋頭歌を嗜む。
◆心身症のペンギンを飼っている売れない作家が食いぶちのために死亡記事のライターをしているうちに不穏な事件巻き込まれるという『ペンギンの憂鬱』は、読ませた。『大統領の最後の恋』はさらに意外だ。恋に見放されたセルゲイ・ブーニンという男が大統領になるのだが、かつて心臓移植手術をしたその心臓の持ち主があらわれて、ブーニンは自分の思考がどこからどこまでか混乱するのに、その心臓の持ち主である女性に惹かれるというあやうい話になっていた。
◆クルコフには『ウクライナ日記』(ホーム社)というマイダン革命をドキュメントした作品もある。ヤヌコヴィッチ大統領がウクライナのEU加盟の算段を裏切ったことに反対するキエフ市民が、155日にわたってマイダン(独立尊厳広場)に集会を開き、なんとか決起しようとした刻々と顛末を追った。2014年2月に大統領が国外に逃亡して事態は雲散霧消するのだが、クルトフはそのキエフに集中する民衆の怒りを、事実経過をもとに透明に描こうとしていた。
◆普段着が好きなウォロディミル・ゼレンスキーは、このマイダン革命に刺激を受けて登場する。翌年のテレビドラマ『国民のしもべ』全24話を元気に主演したのち、2019年の大統領選挙に立候補すると、決選投票で当選した。相手はオリガルヒ(新興財閥)出身の現役大統領ポロシェンコと元首相のティモシェンコだった。これでゼレンスキーは圧倒的な人気で政界リーダーになったのだが、ミンスク合意で決められていた親ロシア派の分離独立を認めなかったため、ロシアとの関係が悪化して、そのぶん一気にNATO加盟を謳う欧米派に接近した。その主旨はわかりにくく、2021年10月には支持率が25パーセントまで落ちた。プーチンがベラルーシとの特別軍事行動に踏み切ると見たゼレンスキーは、ここで敢然と立ち上がり、うっちゃり作戦に打って出た。支持率は90パーセントを超えつつある。ロシア語読みはウラジミール・アレクサンドロヴィッチ・ゼレンスキー。
◆ウクライナは中世以来のキエフ大公国の伝統をもっている。東スラブの中心で、キリスト教正教を奉じ、大穀物地帯とロシア・フランスに次ぐヨーロッパ3位の軍事力を誇る。4000万人の人口もヨーロッパで4番目に多い。そうではあるが、歴史的にはつねに領土がポーランド・リトアニア、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国などによって分断されてきた。ロシア革命期に民族自決が高まってウクライナ人民共和国を宣言したのだが、ソ連・スターリンの圧政に苦しんだ。第二次世界大戦ではドイツ軍からもソ連軍からも侵攻をうけた。やっと独立したのが1991年だ。独立のときに中立国を標榜したにもかかわらず、この路線はたえずふらふらしてきた。
◆学校でそういうことを教えないのが問題だが、世界の文明は4大河川で動いてきたのではなく、紅海と黒海とベンガル湾で動いてきた。そのうちの黒海にはトルコ、ブルガリア、ルーマニア、ロシア、ジョージアがくっついている。かつてはイスタンブールにビザンツ帝国が栄え、中世はハザール・カガン王国が、近世にはオスマントルコが世界最大の力を見せていた。
◆そのウクライナについては、黒川祐次の『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)、タラス・シェフチェンコの『ウクライナ:コブザール』(AMAZON限定)、オリガ・ホメンコの『ウクライナから愛をこめて』『国境を超えたウクライナ人』(群像社)などがあるものの、決定的な本はない。プーチンについてはいろいろ本が出ているが、真野森作の『プーチンの戦争』(筑摩叢書)、フィオナ・ヒルらによる『プーチンの世界』(新潮社)が定番か。
◆では、ロシアとウクライナはどうなるのか。「予断を許さない」なんておためごかしはいくら言っても仕方がないが、どう見ても根っこが深すぎる。アメリカは傍観しつづけるだろうし、NATOも自分からは出てきやしない。失敗はすでに30年前におこっているのだ。それなら折り合いがつくのかといえば、たとえばクルコフはマイダン革命を通して、ウクライナとロシアが共存する可能性がかなり薄いだろうことを痛感したようである。それは歴史の奥からの判断ではなく、戦後の現実とソ連解体後の欧米とのかかわりのミスリードから来ていると見ているものだった。
◆ところで太田剛がペガサス・ブログ版にデヴィッド・ハーヴェイのウクライナ情勢に寄せる暫定ステイトメントが掲載されていることを知らせてくれたので、数日前に読んでみた。今日の世界を失敗に導いた軍産共同体の志向、軍事ケインズ主義の動向、冷戦解体後の組み立ての未熟そのほか、ウクライナ紛争の背後にひそむいくつもの要因をあげたうえでハーヴェイが結論づけていたのは、この半世紀、世界は共産主義とソ連を解体させたプロセスを幸運にも共有したにもかかわらず、一度たりとも西側の諸国アドバンテージを切り出して、マーシャル・プランのようなしくみにその「負荷」の削減を組み込むような提案を出してこなかったこと、とくにロシアと中国にそのチャンスを与えてこなかったことが、すべて裏目に出てきたという見解だった。
◆新自由主義の正体を真っ先に暴いた地理学者ハーヴェイ独特の論法であるけれど、半分以上は当たっているし、それにこういうことをステイトメントする思想家はなかなかいなかった。だから、はいはい、ハーヴェイやっぱり書きましたねと感じたけれど、もっとこの手の議論は噴き出てこないといけない。そのためにはベルリンの壁解体以前と以降をつなげる発言がもっと必要だ。ぼくはゴルバチョフが元気なうちに、さらにさらに本音を漏らすべきだと思っている。

ほんほん49"読み"のソクドとシンド

◆数年前から虹彩炎その他で右目がウサギのように赤く濁り、しばしば痛い。近所の眼科でリンデロンやクラビットを処方してもらっているが、液晶画面に向かいすぎる日々が続くと必ずおかしくなる。飛蚊症(ひぶんしょう)のほうはまだあいかわらずで、いまでも両眼に何匹もの蚊がふらふら飛んでいる。加えて数カ月に一度くらいの頻度で、視野欠損がおこる。視野の中心部がチカチカして見えなくなる。このときばかりはひたすら目を閉じているしかない。
◆目が老化しているのは否めない。60代までは平気だったのに、遠近両用メガネで本を読むのがムリになってきた。やむなく40代後半から50代にかけての十数年をそうしたように、目の前の作業にあたるときは専用老眼鏡に掛け替えるのだが、この老眼鏡がいまやぴったりこないものになったのだ。度数が日々微妙に変化する。本読みもキーボード入力作業も3時間くらいなら大丈夫でも、4時間すぎると見えにくくなる。靄や霞がかかる。ときにずうんと痛くなる。靄や霞がかかるからといって、漢詩がよろこぶ「烟雨の風情」とは言いがたい。
◆晴眼者にとっての「読む」という作業は文化人類学的な「食べる」「走る」「着る」などとくらべても、よほど格別なものである。目が文字を追い、単語を掴み、次々にフレーズと文節を後方に送り、軽やかにスタンザ(行)とページ(頁)を渉(わた)っていく。そのたびに意味を感じ、文脈が提示しているところを解釈する。これらがリーディング(本を読む)という行為の基本になっている。このスキルはたいへん奇妙なものだ。衣食住からは生まれてこない。そこには二つのソクドがある。速度(スピード)と測度(メトリック)だ。二つのソクドはアイスキャニングの二つのシンドを変える。進みぐあいについての進度と、言葉群が構成する深みぐあいに関する深度だ。もし、その気があるのなら、このソクドとシンドに分け入ると「読み」のスキルが鍛えられていく。
◆お節介ながら、次のようなことを気にするといいのではないかと思う。第1に、読みにはやっぱり観察的動態視力がカンケーする。ボクサーの動態視力とはちがって、読書における動態視は、自分と本との「あいだ」が動くので、その「あいだ」の動態視を鍛えることになる。本の中身と自分の中身の両方が動くことを観察できるようにするのだ。となると 読書時の動態視力には「単語の目録」と「イメージの辞書」に強いほうがダンゼン有利になる。つまり語彙や言いまわしに多少通暁していればいるほど、読書によるソクドとシンドが手にとれる。
◆第2に、本の中のセカイは文字が並んでいるだけではなく、意味が出入りしているので、この「意味のゲシュタルト」のようなものをすばやく読みとることが読書を深くも速くも精緻にもする。ぼくの経験では、それにはマーキング読書を重ねていくのがいいと思える「準え」(なぞらえ)がおこるからだ。ただし、傍線だけにこだわらない自在なマーキングをするといい。意味の特徴に応じたマーキングを工夫するのだ。これを試みていると、そのうち文章群をさらさらっと読んでいくだけで認知ゲシュタルトをいろいろ伴うようになるので、ある時期から急にページから「意味の形」が浮かび上がってくるようになる。文意の断捨離もうまくなる。読書はどんどん捨てていくのもコツなのだ。
◆第3に、謙虚に「倣い読み」をするのがいいだろう。「倣う」というのは著者のクセに倣うということだ。習うのではない、倣うのだ。ボブ・ディランの歌はディランに倣い、ミーシャの歌はミーシャに倣って歌ってみるのが唄いやすいように、読書でも著者の声質や張り方や伸ばし方をいかして読むのがうまくいく。耳コピならぬ目コピだ。それができたらエレカシの宮本浩次くんのように『異邦人』や『ROMANCE』を自分なりに唄う(読み上げる)。
◆第4に、本が本棚のそこかしこに出入りしていることを実感するといい。これは自分の本棚の中の本やネットの中の本を見ているだけでは、とうてい充実しない。身体認知がくっつかない。できるかぎり書店や図書館で、自分が手にとった立体物としての本を出し入れするようにする。スーパーで商品を棚に入れたり出したりするうちに、アルバイトにさえ高速の商品認知が進むように、書店や図書館で出したり入れたりするのがいいわけだ。本のソクドとシンドは、本棚の位置や並びとともに成立しているのである。つまり本にくっついている情報がソマティックに(身体的に)ふえていったほうが、読書のソクドとシンドも動くのだ。
◆第5に、これは言わずもがなだろうが、著者の経歴や専門性を知り、依って来たる学問の系譜を知り、さまざまな本がつくりだしてきた思想潮流をある程度は知っておくのは、もちろん役に立つ。当然、その著者やその本の分野や傾向にまつわるクリティックも参考になる。けれども、世に出回っている「思想文化地図」のようなものに頼るより、自分でマッピングをしたほうが断然にいい。読書は立体的でレイヤードであればあるほど、おもしろく、そのレイヤードが当人好みであればあるほど、ダイナミックに動くものなのだ。ちなみに小説はこれらにこだわることなく読んでいけばいい。
◆というようなわけで、晴眼者の読書は「目から始まってセカイに抜けていく」というふうになる。そこでは視覚的で意味論的な輻湊的なセマンティック・リーディングに向かって、さまざまなアイスキャニング・スキルとソマティック・スキルがものを言う。だからぼくのように目が衰えてくるのはヤバイのだ。
◆とはいえ、以上のトレーニングで本読みが充実していくとはかぎらない。零れること、パターン主義に陥ること、本に従属しすぎることもおこるので、どこかからは、別の配慮や刺激も用意したほうがいい。それには読む姿勢から流しておく音楽の選定まで、いろいろの手があるけれど、ぼくが一番おすすめしたいのは、一に3冊ほどを同時に読み進めること、二に因果律で読まないこと、三に読書脳を開墾することだ。
◆3冊読みは誰もが何かを調べるときにやっている。たとえば旅行先のプランをたてるときはガイドブックを何冊も同時に見るし、プロジェクトの企画をたてるときも該当するだろう関連本を何冊も入手して机に並べる。あの要領で、3冊読みをする。だんだん自分が読みたい数冊を、扇を開いたり閉じたりするように(ウチワであおぐようにでもいいけれど)、出たり入ったりするクセをつけるのである。
◆因果律で読まないというのは、この本を読んだらこんな御リヤクを得たというような算段にとらわれないようにするということで、読書を原因に仕立てない、結果にこだわらないようにするわけだ。もっと揺蕩(たゆた)いなさいということでもある。そのため、ぼくはしょっちゅうそうしているけれど、面倒な本は途中で投げ出してしまったほうがいい。ただし読書を投げ出すのではなく、別の本に移るのがコツだ。
◆読書脳の開墾なんてモギケンか斎藤孝ふうでつまらない言い方になってしまったが、これはアタマの中に洞窟フォーマットやスケッチブックやウォーキング・クローゼットをつくっておいて、読むたびにそこにドローイングや洋服ハンガーを並べ替えていくということにあたる。ぼくは若いころはそれを手持ちのノートに次々にドローイングしていたが、ある時期からノートがなくてもできるようになった。また、それを講演でいかそうとして、壇上に3枚のタテ長黒板を並べて(裏も使って)、そこに話の内容を次々に書きながら話すようにした(これはアラン・ケイがTEDで数枚のホワイトボードを使ってやっていたのをヒントにした)。ただし、あるときからそれにも限界を感じた。流れが止まったり分散するのだ。そこである時期からは講演に映像を入れるようにした。だいたい5~6本をそれぞれ2~3分に編集して流すのである。以来、ぼくの読書脳には「動画」が動くようになったのである。
◆なんだか、目の衰えの話が読書スキルの話になってしまったが、これらも自戒から来たことだった。ぼくのように困りはてる前に、みなさん本の好き勝手を堪能していただきたい。以上、北京の冬季パラリンピックの選手とコーチの筆舌に尽しがたい練習量に、敬意を表して――。

ほんほん48前後際断・東山水上行・一帰何処(道元)

◆オミクロン旋風でまたもやいくつもの装置が風前の灯火をかこつことになりながら、いま日本列島は容赦のない真冬が続いている。こんなに吹き荒れたコロナ感染がもしもやまなかったらどうしょうか? もしもやんだらどうしょうかと思い悩む向きも少なくないと聞く。はたしてコロナ・ウイルスに因果がはたらくでも思っているのだろうか。
◆『正法眼蔵』の現成公案に「前後際断」が出てくる。「知るべし、薪は薪の法位に住して、前(さき)あり後(のち)あり。前後ありといえども、前後際断せり」と示す。薪は燃えて灰になるのではない。薪は薪で完結し、灰は灰で完結しているのだから、そんなところにつまらぬ因果法則をもちだしてくよくよするなと、道元は言ったのだ。薪は薪の因果、灰は灰の因果なのである。ウイルスはウイルスの因果で動く。その因果をわれわれが付き取る必要など、なかったのである。いや、引き取れない。
◆遅まきながら、あけましておめでとうございます。今年の仕事始めは雪が舞うなか、近くの松陰神社に初詣。ゆっくりと「けったい、けっちゃく、けつぜん」(懈怠=怪体、決着、蹶然)と三べん唱えた。まあ、少しは憤然としているわけだ。そろそろ言いたいことを言おうと思っているわけだ。ただ、それだけではダメだろうから、松岡正剛を語るということをしなければとも思う。ただし、これはどのようになるかはわからない。
◆年末年始はスタッフとたくさんの編集学校の諸君に本棚整理を手伝ってもらったあと、末木文美士(すえき・ふみひこ)の仏教もの数冊、ポール・デイヴィスの情報論『生物の中の悪魔』(SBC)、武田梵声の声と音楽をめぐる不思議な異種格闘技ともいうべき『野生の声音』(夜間飛行)、奥野克巳・清水高志の共著『今日のアニミズム』(以文社)、ジョセフ・メイザーの『数学記号の誕生』(河出書房新社)、岡田英弘の遺著にあたる『漢字とは何か』(藤原書店)などを読んでいた。道元なら「東山水上行」と一言ですませるところを、ぼくはこうして他力を馮(たの)んで三昧をする。
◆去年の暮、言い忘れていた二つの慶事があったので報告しておく。ひとつは、宇川直宏君のライブストリーミングチャンネル「DOMMUN」(ドミューン)で、2日間にわたって「AIDA」(あいだ)のエディティング・プラットフォームをライブ配信した。25人くらいのビジネスマンたちが次々に『情報の歴史21』に合わせて自分史クロニクルを披露。こんな私的なトークがおもしろいのかどうか心配していたけれど、絶妙な宇川ナビで盛り上がった。ゲストに田中優子、武邑光裕、佐藤優、フォローに吉村堅樹、そしてぼく。
◆DOMMUNEは画期的なメディアである。2010年から配信が始まったのだが、前身は「マイクロオフィス」という仕事場だかクラブだかわからないライブトポスで、かつてぼくの仕事場にいた野田努が三田格とトークしたり、いろいろなアーティストや書き手が顔を出していた。それが世界配信型のストリーミング・メディアに変身して、とんでもない番組数が放出されていった。静止画デザイン・動画加工・スイッチングを、リアルタイムで宇川くん一人でやってきたことにも驚く。ぼくは「番神」(つがう・かみ)という書を贈った。
◆もうひとつは、角川武蔵野ミュージアムが諌山創、伊集院静、YOASOBIとともに講談社の野間出版文化賞の特別賞をいただいた。林真理子・野間省伸・茂木健一郎らの推薦だった。ありがたく謹んで受理したが、現状の角川ミュージアムはまだまだ充実していない。ダニー・ローズ展「浮世絵劇場」が人気のようだが、全面展開に入るのはやっとこの秋あたりからだろう。展示方法におけるアフォーダンスを工夫したいと思っている。
◆最新の千夜千冊で分析哲学のネルソン・グッドマンの『世界制作の方法』(みすず書房・ちくま学芸文庫)を書いた。「世界はヴァージョンとともにできている」という主旨で、世界はオリジナル・モデルがどこかで先行しているわけではなく、むしろ「われわれはヴァージョンを制作することで世界を制作してきたはずだ」というのである。こんなこととっくにわかっていたことだが、哲学ではこういうことをまことしやかに糊塗してみせるのである。道元はそこを「一帰何処」と言った。「一、何れの処にか帰す」と読む。三浦梅園は同じことを「一、一、即一」と言った。多様性(ヴァラエティ、ヴァリエーション)の容認とか持続可能性(サステナビリティ)の発揮とかという言い分を「みんなで守ろう」などというのは、かったるい。世界はずっとヴァージョンなのである。
◆この「ほんほん」が読まれているころ、ウクライナは綱引きの真っ最中で、北京は冬季オリンピック開催中に、ミャンマーは「沈黙のストライキ」に突入し、アップルiCloudプライベートリレー」を開始する。「いまだ洗面せずは諸々のつとめ、ともに無礼なり」(道元)。

ほんほん47年の瀬は『電子社会』とヤマザキマリ

◆年の瀬だというのに、やっと千夜千冊エディションの『電子社会』の入稿原稿の赤入れがおわったばかりだ。仕事が混んだ時期の作業だったので、かなりフーフーした。気も焦って急いだけれど、発売はだいぶんあとの4月中旬なのである。年末年始の入稿は版元から先取りを迫られるのだ。
◆千夜エディションの仕事は外科医が手術プランに向かうような気分で、そこそこ大胆な構成作業から始まる。当初のプランは3倍くらいの過剰ボリュームを相手に組み立てるのだが、これを1冊の文庫に収まるように断捨離するうちに、だんだん1冊の狙いが確定してくる。そこで、選んだ千夜を構成順に出力して次々に手を入れる。これはまさに手術をするように心掛ける。章立てをし、1本ずつに仮のヘッドラインをつけ、目鼻立ちを仕上げると、これを太田香保が入念に整理し、造本デザイナーの町口覚スタジオの浅田農君が設計フォーマットに変換して、松岡事務所に戻してくれる。この段階ではまだページがオーバーしていることが多いのだが、これをぼくが本気で悪戦苦闘して推敲しまくって確定原稿にする。このあたりで初期の千夜千冊はそうとう様変わりする。
◆確定原稿が角川編集部に送られると、次は規定通りに初校・再校というふうに進むのだが、途中に徹底したプロの校正が入り(なかなか優秀だ)、さらに原著の引用チェックを大音美弥子が担当し、全体の文章の流れを太田がくまなくおさらいする。これがようやく初校ゲラになり、ぼくはこの見違えるような1冊を虚心坦懐に読み、またまた赤を入れまくる。他方で町口君や編集部(伊集院元郁・廣瀬暁春の二人)と松岡事務所で字紋、カバーデザイン、口絵を検討する。たいてい町口側から何案ものデザイン案が出る。ここに和泉佳奈子も加わる。
◆ざっとこんなふうに1冊のエディションが仕上がっていくのだが、これを数十冊のシリーズにしていく初期の準備は和泉が角川の伊達百合さん、町口君とともに練った。けっこうなブックウェア仕事だった。
◆ついでながら、最近ぼくがどんな本を依頼されているのかという話をしておこう。某社から自伝を頼まれている。とうとう来たかという注文だが、さあどうするかと考えた。もし引き受けるとしても、幼児から最近までの出来事を順に通した編年的な自伝を書く気はほぼないので、きっと工夫をすることになる。また。米アートマガジン日本版の創刊時からの長期連載も頼まれた。これは担当編集者と話してみて引き受けようと決めたのだが、やはりスタイルをおもしろくしたい。おそらくアーティストたちと一緒に組み立てることになるだろう。
◆『試験によく出る松岡正剛』(仮称)という本の準備も進んでいる。入学試験や模擬試験にぼくの文章が使われるたびに、後日その問題が送られてくるということが40年近く続いた。試験問題のすべて見ているわけではないけれど、ときどき自分で解いてみて手こずったり、まちがったりするのが愉快だった、そこでこういう企画が立ち上がったのだが、すでにイシス編集学校の師範の諸君の力を借りて、太田が構成案をつくっているので、1年後くらいにはお目にかけられるのではないかと思う。
◆それと少し似ているかもしれない企画として、松岡さん流の「書く力」を伝授してほしいという依頼も来ている。いつか「書く」とはどういうことかというぼくなりの考え方やスキルをまとめようかなと思っていたので、とりあえず引き受けたのだが、どういう構成にするか悩むところが多く、まだラフ案もできていない。いわゆる「文章読本」にはしたくない。このほか津田一郎さんとの数学をめぐる対談本も進行中で、これはいったんゲラになったのだが、ぼくの怠慢で渋滞中なのである。
◆本を出すという行為は誰にだって可能だ。編集者や版元が動いてくれれば、どんなものも本になる。そうではあるのだが、そうやってつくった本が書店にいつも並ぶかというと、すぐにお蔵入りすることがほとんどだと思ったほうがいい。現在の書店状況では、発売から2~3カ月で売行きが少なければ、刊行された本の約80パーセントが書店からさっさと姿を消す。本は自転車操業の中の泡沫商品なのである。
◆どう読まれるのか、どのくらい売れるのかということも、事前にはまったくわからない。出版業界は告知を除いてプロモーションや宣伝はめったにしないので、その本が世の中に出ていることすらなかなか伝わらない。空しいといえばなんとも空しい事情だけれど、それが本というものの昔からの実情であり、宿命だ。そのことにめげていては、本には着手できない。
◆ぼくはこれまで100冊以上の本を世に出してきたが、たいへん幸運だったと思っている。この幸運はすべて編集者との縁によっている。ぼくに関心のある編集者がいてくれなければ、本は出せなかった。雑誌の依頼を別にすると、単行本の最初の声をかけてきてくれたのは春秋社の佐藤清靖さん(→『空海の夢』)だった。
◆ぼくは、自分がもともと雑誌編集の仕事をしていたので、本は「編集作業の延長」として出来(しゃったい)するものだと確信していた。椎名誠君、いとうせいこう君、安藤礼二君なども同じ出自だ。つまりぼくは最初から「著者」であろうとはしてこなかったのだ。さしずめ「エディターソングライター」なのだ。それがよかったかどうかはわからないが、最近はこの手がとみにふえてきたように見受ける。
◆この「ほんほん」を読んでくれている諸君に一言申し上げたい。本を出してみたいのなら、以上のゴタクはいっさい気にしないでひたすら構成や内容や文章に邁進することをお勧めする。どんな著者も実はそうしているのだ。売行きや読者のことを心配したり考慮するのは「編集ナースのお仕事」なのである。
◆ところで、千夜千冊について画期的な読み筋「おっかけ!千夜千冊ファンクラブ」なる企画が密かに始まっていて、大いに愉しませる。これはイシス編集学校の「遊刊エディスト」というメディアのラジオ番組になったもので(→https://edist.isis.ne.jp/just/otsusen15/)、千夜坊主の吉村堅樹と千冊小僧の穂積晴明とが妖しくも親しい対話をしながら進める。千夜千冊がアップされるたびにリリースされている。すでに15回目だ。これが実にいい。千夜千冊を書いている本人がそう言うのだから信用してもらっていい。ぜひ年末年始に聞かれるといい。
◆大晦日に、本物のラジオに出る。「ヤマザキマリラジオ~2021忘年会~」というNHKのラジオ番組で、ぼくは先だって本楼にマリちゃんが来て収録したのだが、暴言悪口を二人で交わしてたいへんエキサイティングだった。紅白直前番組です。よかったら盗聴してください。では、よいお年を。

ほんほん46吉右衛門・近江ARS・オミクロン株

◆播磨屋が逝った。痛恨だ。これほどの大器でありながら細部に徹底できた歌舞伎役者は、しばらく出ないだろう。仁左衛門などの少数をべつにして「ほれぼれする役者」は、これでいなくなったのだ。
◆早稲田のフランス文学科の同級生だった。出席点呼で「波野久信くん」と呼ばれても、たいてい返事がなかった。当方も似たようなものだからお互いさまで、クラスメイトも波野くんが中村万之助だとは思わなかった。
◆吉右衛門になってから、何度も話しこむことになった。連塾にも来てくれた。あの声も、あの踊りも好きだった。できれば一緒に仕事をしたかったけれど(踊りのシナリオを提供していた)、残念ながら実現は叶わなかった。最後に『近江源氏先陣館』を孫と共演したいと言っていた。山本寛斎につづいて同い歳をまた喪ったと思うと、なんとも寂しい。
◆12月3日、大津のびわ湖ホールで『染め替えて近江大事』を催した。いつか吉右衛門にも来てもらいたいと思って結成した近江ARSのお披露目と、三井寺の福家俊彦さんの長吏就任の祝いの会を兼ねた。和泉佳奈子と石山寺の鷲尾龍華さんがナビをして、ぼくはリードトークを担当した。たくさんのゲストが駆けつけてくれたが、田中優子さんと平出隆さんがすばらしいトークをしてくれた。終わってホワイエで「名残り」を交えたのだが、この2年近く遠慮していたのに、なんと30分ほどで15人くらいとハグした。
◆近江はちゃんと議論されていないままの大事な地域である。かつては白洲正子の『十一面観音巡礼』、『近江山河抄』、『かくれ里』(いずれも講談社文芸文庫)が、最近は今谷明の『近江から日本史を読み直す』(講談社現代新書)、千城央の『近江にいた弥生の大倭王』(淡海文庫)、澤井良介の『邪馬台国近江説』(幻冬舎)などがあるけれど、まだまだこれからだ。とくに比叡と山王日枝の関係、坂本職人文化の底力、逢坂山と蝉丸、天台本覚思想、天海の事績と思想、芭蕉の近江、近江八景の意図、琵琶湖をめぐる見立ての歴史が解けていない。
◆過る7月末と10月半ば、大津歴史博物館の横谷賢一郎さんの案内でぼくがまだ知らなかった近江の一端を感じた。ひとつは「近江に葬ってほしい」と言った芭蕉の遺言を受けて、その後に義仲寺を核に芭蕉ネットワーク文化を単身で築いた蝶夢のことである。蝶夢がいなかったら、今日の芭蕉研究はなかったろうと思えるほどの編集力の持ち主だった。横谷さんは『芭蕉翁絵詞伝』を歴博に展示して、その驚くべきARSの全容を教えてくれた。
◆もうひとつは、明治の日本画家の山元春挙の数寄屋「蘆花浅水荘」を案内してもらったことだ。膳所に近い琵琶湖湖畔の浅水荘は予想以上の出来ばえで、とくに「竹の間」などに唸らされた。けれどもこの数寄屋についてもだが、そもそも春挙の絵について21世紀の近江文化は忘れたままにしていて、残念なのである。東京近美の『塩原の奥』、滋賀県美の『法塵一掃』、ボストンの『雪中老梅と鷹』屏風など、見ているとぶるぶるっとくる傑作だ。近江に雪が降ったら、春挙こそ思いあわされるべきである。
◆12月に入って、石黒浩君から新著『ロボットと人間』(岩波新書)が贈られてきた。ちょうどアンディ・クラークとスティーヴン・シャヴィロを読み直しているところだったので、あらためて「人間というサイボーグ」を考える機会になった。ダナ・ハラウェイなら『猿と女とサイボーグ』(青土社)、クラークなら『生まれながらのサイボーグ』(春秋社)だ。いろいろ読んでいて少し気になったのは、最近のロボット工学者や実在論者たちが「身体」というものに引きずられすぎているのではないかということだ。あまりに人体全部を意識しすぎると、細胞や情報という見方がどこかに飛んでいく。ニューサイバネティクスの再検討が必要になっているのではないかと感じる。
◆新型コロナウイルスにオミクロン株という変異があらわれた。30カ所以上でスパイクタンパク質による受容体結合領域がつくられていて、細胞とウイルスの結合をおこりやすくさせている。新型コロナウイルスが細胞に侵入するときはフーリンという分解酵素がスパイクタンパク質を切断するのだが、オミクロン株ではフーリンによって切断される近くでも変異がおこっているらしい。
◆ウイルスによる感染のプロセスは、人間にも動物にも機械にも「変容のアンダーシナリオ」を共通させている。コンピュータはこれらをすべてバグとして排除するけれど、生命情報というものはそれを活用しながら機能性を増してきた。われわれが寂しくなったり、欣喜するのも何かの感染とバグのせいなのである。俳句が上手かった先代吉右衛門にこんな句があった、「どこやらで逢ふた舞妓や冬の霧」。

ほんほん45大澤真幸を多読する

◆イシス編集学校には2年前から「多読ジム」が開設されている。200人くらいのメンバーが入れ替わり立ち代わりして、好きな本や課題の本をとことん読むためのネットジムで、誰それが何を読んでどんな感想をもったのかということが、お互いに見える。いわば共読ジムなのだ。何人もの「冊師」(さっし)という指南役というか、見守り役もいる。長い準備をへて木村久美子が構想した。ぼくはそこに「読相力」という視点を提供した。読みにも観相術が使えるといいよというヒントだ。
◆その多読ジムで、この秋から大澤真幸の『〈世界史〉の哲学』(講談社)という大著シリーズをみんなで読むことになった。すばらしいシリーズで、こんな本は日本になかった(世界でもない)。
◆古代篇がキリスト教と資本主義の両面から世界を眺望する見方を、中世篇は都市が「死体」によって繁栄した理由や愛を説く宗教がセックスを原罪にした理由などを解く見方を、近世篇がルネサンスと宗教革命とニュートン力学が矛盾しあい連携しあいしながら世界観をつくりあげようとしたプロセスを浮き彫りにする。近代篇は「主体の誕生」とドストエフスキーを通した「資本主義の父殺し」の2冊になっていて、西洋近代が大半の世界ゲームをつくりあげたのはどうしてなのか、その仕組みに問題がないのかということを問う。東洋篇はあれほど中国やモンゴルが巨大な世界帝国をつくりあげたのに、なぜ世界史の主人公を欧米が握ったのか、では東洋の思想システムには何が長けて、何がなかったのか、そこをめぐる。
◆大著であるが、多読ジムの有志に諮ってみたところ、ぜひとも共読したいという反応だ。こうしてさっそく『〈世界史〉の哲学』読みが始まり、大澤さんも乗ってくれた。きっと興味津々になってくれているのではないかと想う。終了期がたのしみだ。
◆大澤真幸がすぐれた視野と思考力とコミュニケーション力の持ち主であることは、デビュー作のスペンサー・ブラウンを扱った『行為の代数学』(青土社)、3冊目の『資本主義のパラドックス』(新曜社→ちくま学芸文庫)のときに感じていた。さっそくNTTの情報文化フォーラムのレギュラーメンバーに呼んだところ、めっぽう柔らかく、おもしろく、鋭い。彼のほうもぼくをおもしろがってくれたようで、千葉大学の特別講座で『情報の歴史』をめぐってほしいと言ってきたので、4日間通って話した。1日目は20~30人だったが、話しているうちに教室が満員になった。いまでも語り草になっているらしい。
◆大澤社会学は学問の是正よりも、ナマの社会が抱えこんだ矛盾と隙間の奥の要因を強烈に照射していく展開に特徴がある。「問い」と「例示」が出色で、実はナマの社会が制度や言葉や取引や同盟で成り立っている「代数」のようなものであること(つまりナマではないこと)が、次々に解明されるのだ。世の中で大手を振る「自由」や「正義」の議論のどこに眉唾があるのか、大澤ほど見抜いている社会学者は少ない。
◆どのように大澤は思索したり表現しているのかということについては、『考えるということ』(河出文庫)や『〈問い〉の読書術』(朝日新書)を、大澤の時代社会感覚については『戦後の思想空間』(ちくま新書)や『不可能性の時代』(岩波新書)を、実はオタクやサブカルをウォッチしているセンスについては『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』(KADOKAWA)などを読むといい。
◆日本の社会学は総じて堅いか、左翼思想に覆われているか、言わずもがなの繰り返しだったのだが、やっと大澤真幸の出現でその様相が変わってきた。その全容が姿を見せてくれているのが『ナショナリズムの由来』(講談社)と、そして『〈世界史〉の哲学』なのである。これからはニッポンやネット社会にメスをふるってほしい。

ほんほん44まだまだ続く"千夜千冊"という戦い

◆ご覧の通り、秋分の日をまたいで千夜千冊のフォーマットが一変した。1782夜からだ。ロムバッハの『世界と反世界』にした。この「ほんほん」も装いが新たになった。ウェブ千夜のフォーマットが変わるのは多少のレイアウト変更を含めて5回目になるのだが、今回はスマホ上でも読みやすくするため、かなりプログラムを書き換えている。
◆ベーシックデザインとトップページは和泉佳奈子と佐伯亮介君が担当してくれた。それまでのフォーマットは富山庄太郎君による。もっともこのあとのトップデザインは何人かが入れ替わり立ち代わり担当してくれる。寺平賢司君の采配である。寺平君は松岡正剛事務所の32歳で、若き日々に松丸本舗に通っていたころからの戦闘的読書編集派。去年、突如として父親になった。お母さんは編集工学研究所の仁禮洋子だ。戦闘性が落ちないことを希っている。
◆2000年2月、インターネット上の「編集の国」の一角にスタートした千夜千冊は、開設当初はかなり呆れられた。プリントメディア派からは「なぜ松岡ともあろう者がインターネットの中で書評をやるのか、紙に印刷しろ」と言われ、電子メディア派からは「なぜ無料にしたのか。あとあと切歯扼腕することになるから早々に有料にするべきだ」と言われた。書評ではなく、ぼくの読書日録や感想深層記録なのだが、案の定、最初は反応が薄く、65人とか210人とかが読んでいる程度だった。それが300夜をこえるころに70万ビューになり、700夜くらいで300万アクセスビューになった。
◆千夜千冊を書くのは、かなりの格闘だった。どの本を選ぶか、その何を書くのか、要約はどこまでするか、ライティング・スタイル(書きっぷり)をどうするか、著者とのつながりは何を洩すか、新しい本をどのくらいまぜるか、そんなことと、のべつ格闘していた。ただ、毎晩一冊ずつ採り上げる(土日は充填日)という苛酷な縛りがよかったようで、その速力密度のようなものがだんだん効いてきて、930夜をこえるあたりからはゾーンに入ったか、エンドルフィンが迸るかで、自分でも異様に長めの千夜千冊がおもしろく連打できた。一休、プルースト、ホッブス、南北、カラマーゾフ、ザメンホフ、後深草院二条、火の鳥、近松、杉浦康平、石牟礼道子、道元、芭蕉、梅園、ライプニッツ、王陽明、ホメロスは、そんな状態で書いた。
◆けれども、角川文庫で「千夜千冊エディション」を編集することになってあらためて20~30冊ずつを一冊の文庫の中に構成するために連続して読みなおしてみたら、あまりに未熟なものが多すぎて、焦った。手の入れようのないものも少なくなく、加筆訂正におおわらわだったのである。けれども、刊行された角川エディションについては、そこそこ水準がぶれないものになっているのではないかと思う。安心して読んでいただきたい(笑)。
◆2006年5月、1114夜の柳田『海上の道』を書いたところで、いったん区切って、そこまでの千夜千冊を7巻仕立ての千夜千冊全集として求龍堂から刊行した。装禎を福原義春さんが「ぼくがやるよ」と言って引き受けてくれた。そこで、ここからはウェブ千夜のテンポとインターバルを少し自由にした。またこれを機会に1278夜の老子、1295夜の『マグダラのマリア』、1305夜のダマシオの脳科学、1316夜の大島弓子、1322夜の谷川健一の常世論というふうに、以前から書きたかった本を10冊くらいごとにしっかり挟むことにした。
◆これでいよいよ経済分野にとりくむ気になった。1330夜の『たまたま』を先頭に、連環篇として60冊近くの経済関連本を、アンドレ・フランクの『リオリエント』まで続けさまに書いた。それでしばらくイスラムの歴史と社会と文化の千夜に入っていったのだが、ここで3・11になった。さっそく3月16日に1405夜『活動期に入った地震列島』を採り上げ、そこからは地震・津波・原発関連の本を数十夜にわたらせた。
◆たいていは、こんな感じであたふたと千夜千冊してきたのである。なんとか気をとりなおして、ここからは「じっくり千夜」に変身していこうか、じゃあ何から始めるかと思ったのは、1500夜の人麻呂に向かえたときだった。今後も千夜は冬虫夏草もどきが続くだろうが、いまはまだそうやって凌いでいくしかないと思っている。ご愛読、深謝。

ほんほん43唸り本、ダントツ本、うるうる本

この夏に目を通して印象に残ったものを何冊か紹介しておく。30~40冊ほどのなかで、つまらないものが7割、イマイチが2割、「努力の結晶」を感じる本が5分、唸った本が5分。これはいつもの配分だ。あとは毎月十数~数十冊の献本がある。ぼくの好みを見計らってのようで、おもしろい本が送られてくることが多い。
まずその献本から。竹倉史人の『土偶を読む』(晶文社)は土偶を植物像から読み解いて、ハッとさせられる。嗅覚認知科学者A・S・バーウィッチの『においが心を動かす』(河出書房新社)はこれまでの香りの美学や匂いの人類学を一歩出るもので、匂いが脳のしくみを変更してきたことを告げる。内藤廣の『建築の難問』(みすず書房)は真壁智治の食い下がりに答えた内藤独特の構築意志が滲み出ていて読ませた。
同じく献本で、福元圭太の『賦霊の自然哲学』(九州大学出版会)はフェヒナー、ヘッケルらの精神物理学を案内して、なにかと評判が悪かった生気論を復権させて浩澣。犯罪研究の管賀江司留郎による『冤罪と人類』(ハヤカワ文庫NF)は、調査する者にひそむ道徳感情が事態を誤った方向に展示させていく例を暴いたもので、広く読まれるといい。驚くべき内容だったのは武田梵声の『野生の声音』(夜間飛行)だ。著者のことは知らなかったが、人類の音楽舞踊史をホカヒビトの視点で解きまくっていて、瞠目させられた。ダントツ本である。文脈は不整脈だったけれど、見方が凄い。いつか千夜千冊したい。
では、ぼくの夏の読書メモから。48歳で自殺したマーク・フィッシャーの『わが人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』(Pヴィアン)は、あらためて憑在論(hauntology)の切れ味を念押しして、憑依を許容するオントロジーを浮上させて、いささかグノーシス。いまや不気味なるものの立ち往生こそ、21世紀思想のド真ん中に突き出てくるべきだろう。李珍景(イ・ジンギョン)の『不穏なるものたちの存在論』(インパクト出版会)も、不気味や不穏に焦点をあてたもので、「心地よいもの」をみんなで褒めあう最近社会に矢を放っている。「最適者」なんて統計的平均の中にしかいないのだ。アフガニスタンにとってのタリバンの支配をどう見るか、欧米の戸惑いにすべては顕著だ。
ドイツの現代思想を研究していた戸谷洋志が『Jポップで考える哲学』(講談社文庫)を書きおろした。西野カナ「会いたくて会いたくて」、aiko「キラキラ」、東京事変「閃光少女」、ミスチル「名もなき詩」、RADWIMPS「おしゃかしゃま」、AI「Story」、いきものがかり「YELL」などを採り上げて、これにフィヒテやベルクソンやバタイユをぶちこもうという安易な手立てなのだが、Jポップの歌詞の大半が20世紀の佳日の哲学をフツー言葉でなぞっているのが見えて、そこがぞっとした。
古典も、煎茶をゆっくりいただくようにたいてい目を通す。これはコーキコーレー・アスリートのお作法に近い。8月はプロティノスの『エネアデス』(中公クラシックス)とニコラ・フラメルの『象形寓意図の書』(白水社)。新プラトン主義とヘルメス学の古典だが、困るほどに初々しい。
最後に、ぼくも少し登場する1冊を。稲葉小太郎の『仏に逢うては仏を殺せ』(工作舎)だ。吉福伸逸の日々を追いかけたもので、十川治江が編集した。たいへん懐かしく(登場する100人くらいの半分が知り合いでもあり)、また読んでいて何度も胸が詰まった(後半の69歳で死んでいく覚悟の準備が…。)。早稲田やアメリカでのジャズ・ベーシストとしての姿は初めて知ることもあって、当時のカウンターカルチャーごと蘇ってきた。いつか、同世代の吉福、松岡、田中泯、杉本博司の4人をパラに追いかけた一冊ができると、きっと「不気味」と「不穏」が錯綜するようにひしめいて、さぞかしおもしろいだろうね。

ほんほん42異常事態のオリンピック、にほんにほん

コロナ・パンデミックの第5波とオリンピックの東京開催がまっこうから交差するという異常な事態だった。無観客、無歓声、無騒動。世界中から押し寄せる客もゼロ、チケット購入に当たった日本人もゼロ。アスリートと関係者以外は競技場にはいなかった。テレビ観戦だけが室内で進行し、実況アナウンサーが活躍し、日本テレビは増収増益になった。
開催のために投下した多額の資金はかなり空転しただろう。施設は残って再利用できるが、いろいろムダな経費を惜しみなく費い、世の中には「空費」というものがあることを教えた。コロナ対策でアベノマスクや援助金が配られたことが思いあわされる。
では、お待たせしました。みんなから「松岡さんは開会式をどう思われましたか」と何度も訊かれるので、一言。開会式だけで165億円なのだ。
言うまでもない、開会式も閉会式は信じがたいほどサイテーだったね。「日本」を見せそこね、タレントに媚びた。ページェントというもののサイズがとんちんかんなのだ。「代」がわかっていない。とくに小芝居を入れる演出が万事を低俗にした。劇団ひとりではボードビルはつくれない。
ラーメンズはデビュー後の5年ほどはおもしろかったが、小林賢太郎には「巨きいもの」はつくれない。阿弥陀来迎くらいを演出できなくちゃ。まあ、MIKIKO(水野幹子)が電通のやりかたに業を煮やして降りたのが、すべてを語っている。電通丸投げは、なんであれ日本をダメにする。
総じて、多様性と持続可能性などというグローバル・コンセプトに縛られすぎたのが、最大の敗因だ。「愛の讃歌」を歌ってみせる必要なし(春日八郎を堂々と歌ってみせてほしかった)。野村萬斎・山崎貴・佐々木宏らを当初の演出トップに据えたのもまちがい。ぼくも声をかけられたが、早々に辞退した。
もうひとつ、選手からボランティアにいたるまで、コスチューム・デザイン(山口壮大ほか)がひどかった。スカパラ演奏中のパフォーマーのためのデザイン(森田晃嘉)も気の毒。着物を訴えられないとしたら日本はオワリだ。『日本語が亡びるとき』を読んだほうがいい。ただし、アスリートのためのユニフォーム・デザインは世界中の誰がやっても難しいものだから、とくに気にすることはない。
開閉会式で記憶にのこったのは、森山未來の3分ダンス、ドローンの空中エンブレム、長島の歩き(松井はダメだった)、佐藤オオキの聖火台、佐藤直紀の表象式音楽、タカラジェンヌたちの君が代、そのくらいかな。花火がイマイチすぎた。全国各地で連続的に数発ずつ打ち上げればよかったのに。
ついでながらちゃんと見ていないけれど、阿部詩が強かわいくて愛らしかった。田村亮子の再来だが、「田村で金、谷でも金」は夫婦愛で、詩はお兄ちゃん愛。こちらのほうがいとおしい。兄妹ではバレーの石川祐希・真佑もいい。ぐぐっときたのが水泳の大橋悠依、女子ソフトの上野・藤田、柔道の大野・素根・永瀬・新井、サーフィンのカノア、バレーボール男女、5000メートルの田中希実、野球の山田・森下・千賀、サッカーの三苫・吉田、ハンドボールの土井レミイ、バドミントンの渡辺勇大、卓球の水谷の兄貴ぶり、女子レスリングの川井友香子あたり。フェンシングは見なかった。空手の清水希容には勝たせたかったねえ。
以上、今回は「ほんほん」ではなく「にほんにほん」にしました。

ほんほん41思考が息切れしている

やっと酸素ボンベを使わないですむようになってきた。ただし、声を出して話すとまだまだ息が切れる。ハーハーする。ハーハーすると言葉づかいが変調をきたす。それでみなさんに心配をかける。「松岡さん、ヤバクない?」。
思考はアタマの中の「ワードとフレーズのオーケストレーション」で指揮棒を振っているのだから、喋ると息が切れるからといって、言葉がもつ意味のストリームがひどく変形するわけではないはずなのだが、実際には「語り」がきれぎれになると、思考もふだんとは別の断続や連接をおこすのである。思い当たることは、いろいろある。
少年時代に吃音で悩んだこと、緊張するとうまく喋れなくなること、久々に京都弁で話題を話すとアホになること、睦事にはふだんの言葉が出てこないこと、手術後の数日は言葉が連続できないこと、猫たちと話すと赤ちゃんのようになること、森や林や庭のテラスで会話をしていると平易な話が多くなること‥‥。こういうこととカンケーがあるのかどうか。カンケーあるに決まっている。言葉は体の函数なのである。
さて、オリンピックとともに新型コロナの第4波が猛威をふるいそうになってきた。デルタ株などの変異ウイルスの強力な蔓延によると言われている。体内潜伏時間も2日ほど短くて、バンバン活性化するらしい。なぜ、かれらはわれわれの体を好むのか。そこで変異をおこすのか。ズーノーシスとマイクロバイオームを温床にしてきたからだ。これはいまさらのことではない。
『土と内臓』(築地書館)という本がある。デイビッド・モントゴメリーとアン・ビクレーが書いた。アレルギーやストレスが食べ物を通した「内臓からの信号」に左右されていることを告げていた。われわれの「調子」の多くが土にひそむ微生物にカンケーしているという本だ。モントゴメリーは『土の文明史』(築地書館)の著書でもある。大農場だ、整地だといって土壌をやたらにかきまわすな、それこそが文明をおかしくさせるという名著で、ユヴァル・ハラリやマルクス・ガブリエルを読むより、ずっと文明的な説得力があった。
モントゴメリーが注目するのは、土と体に共通するマイクロバイオームである。土の文明を左右しているだけでなく、われわれの体にひそむ腸内フローラなどのマイクロバイオームがわれわれのさまざまな「調子」を左右しているという話だ。こうした微生物がつくる「調子」の上にコロナ・ウイルスも乗ってくる。
土と体の両方にまたがる微生物の隠れた役割については、ロブ・デサールとスーザン・パーキンズの『マイクロバイオームの世界』(紀伊国屋書店)などがわかりやすく説明している。この本の第5章「私たちを守っているものは何か」にとりあげられている「ワクチン、免疫系、植物と動物の免疫、抗菌剤の正体」などのくだりは、必読だ。
さらに重大な警告を発しているのは、微生物学のマーティン・フレイザーが書いた『失われてゆく、我々の内なる細菌』(みすず書房)だろう。人体には細胞の3倍以上の細菌が活動している。ということは、われわれを構成している細胞の70パーセント以上がヒトに由来しないものだということだ。かれらはヒトに由来しないけれども、ヒトと共生してきた独自の有機的な群れなのである。われわれは3歳~5歳くらいで、そのヒト由来でない細胞を組み込んだ構成によって「自分」をつくったのである。ピロリ菌などが有名になった。
最近、「ポスト・コロナ」ということを合言葉にするきらいがある。ぼくも「ポスト・コロナ社会はどうなると思われますか」とよく訊かれる。空語ではないけれど、「コロナ以前に戻る」とか「コロナ以降を展望する」とかと、あまり設定しないほうがいい。地球系と生命系とわれわれ系はずっとまじってきたのだから、その「まじり」を研究する気になったほうがいい。
それにしても肺ガンで肺の一部を切除したくらいでハーハーし、ハーハーすると発話に損傷をきたすというようでは、ぼくもナンボのものかということだ。タバコと「復煙」するのではどうか。それはもっとヤバイというなら、俳句のように短い言葉で話をするというのでは、どうか。

ほんほん40全国で"知祭り"/アートと資本主義

コロナ収まらず、菅もたつき(河野いんちき)、オリンピック近づき、中国暴走(ロシア眈々)、イギリスあやしく(ドイツ青息)、わが母国は万事よそよそしく、万端めくれあがって処置なし。そんな6月の日本列島が大雨に苛まれるなか、ぼくは新たな角川千夜千冊エディションを「アートをめぐる一冊」にするため、入稿原稿を仕上げていた。さっき初校ゲラの赤を入れて、太田に渡した。
その太田香保が組み立てている千夜千冊エディション・フェア「知祭り」が、いま全国70書店に及んで始まっている。当の本人は面映ゆくてもぞもぞするしかないのだが、各地のイシス編集学校師範・師範代たちがすばらしいボランティアを推進して、各書店の店長や担当者とみごとなコラボを展開してくれている。先頭を切った九天玄気組の中野組長チームと名古屋曼名伽組の小島組長の展示が先行モデルとして効いた。おかげで実売も土用のうなぎのぼりのようだ。
千夜千冊エディションはぼくの「本読み」に関する集大成である。これまで書いてきた千夜千冊既存原稿をテーマによって組み上げ、並べなおし、ほとんどにその構成によるエティションをかけ、仕上げている。これまで20冊が刊行されてきたが、おそらくこの倍はつづくだろうと思う。どう構成してきたのかというと、一冊ずつ全力を傾注する。
次回配本の『資本主義問題』でいえば、60~70夜くらいの候補から、A案・B案・C案というふうに絞る。絞り方で、訴える内容がそうとうに変わる。まあ、編集とはそういうものだ。
結局、第1章が金本位時代からの貨幣の意味を追った「マネーの力」、第2章が市の発生や複式簿記やオークションや株式会社のしくみを解読した「資本主義の歯車」、第3章がケインズ、ハイエク、ウォーラーステイン、フリードマンらの経済学者がどんなリクツをつくったのかを並べた「君臨する経済学」、第4章がスーザン・ストレンジのマッドマネー論やソロスの投資論から反グローバリズムを訴えたヴィルノやカリニコスの反骨までの解説で組み立てた「グローバル資本主義の蛇行」というふうになった。c案に辿りつくまでフーフーだ。
この並びを自分でもまた読みなおしながら、いろいろ加筆訂正や推敲をしていくわけだ。それでもたいてい一冊には収まらない。『資本主義問題』では、リスクとオプションの問題、金融工学関係、宇沢弘文、中谷巌、IMF、地域通貨や仮想通貨、アート市場については別のエディションにまわした。
実はこういう作業をしながら、何十回となく反省もする。こんな「読み」では甘かった、ああ、あのことを触れなかったのはやっぱりまずかった、そうか、こういう関連書もあったのかと、いちいち反省と訂正に見舞われる。毎回、どんなカバーデザインや口絵でいくのかということも大事な仕事になる。町口覚チームがとりくんでいるのだが、毎度絶妙な工夫をしてくれる。
もともと千夜千冊を文庫化するにあたっては、和泉佳奈子と角川の伊達百合さんが当初の路線を組んでくれたのだが、和泉が「町口さんでいきたい」と言ったのが決定的だった。用紙選定からとりくんでくれた。
こういうことをしながらも、まだ千夜千冊は少しずつウェブの中で増殖しつづけているのだ。最近はいままで封印していた神秘主義やグノーシス主義やヘルメス思想にまつわる重大な本にとりくんでいる。ここにはカバラやスウェーデンボルグやルネ・ゲノンなども入ってくる。またアートやファッション系譜の本もふえる予定だ。
こちらはこちらで毎夜の図版作成のために、寺平賢司をキャップとする編集学校チームが動いている。読み合わせ会も東京、各地、松岡正剛事務所主宰など、いくつもが継続されている。それを聞いていると、ぼくの「読み」をさらに展開した新たな「読み」が次々に生まれていくのを感じる。千夜千冊はもはやぼくの専任仕事ではなくなっているといったほうがいい。

ほんほん39酸素ボンベライフ、息切れと読書

左肺上葉部の腺ガン摘出手術は無事おわりました。2度目だったので警戒していなかったのですが、術後の胸がけっこう痛いので、鎮痛剤を3種、一日3回のんで紛らわせています。こんなところに綴るのは横着ですが、何人もの方々からお見舞いのメッセージや祈祷のお札をいただき、ありがとうございました。励みになりました。築地の病院でみなさんのことを思い出していました。一人ずつにお礼ができないままで、ごめんなさい。
おかげで、いまは毎日、仕事場に行っています。ただし、まだ万全というわけではなく、有酸素呼吸力に少し難があるようで、自宅と仕事場に酸素ポンベが置かれ、ときどきこれで酸素補給をしてます。そういう姿はさすがに情けないもので、何か、がっかりさせられます。喋るときにハーハー息が切れるのも困ったもので、意図のアーティキュレーションが分断されてしまいます。
そのせいかどうか、このところ読書アビリティに変化が出ているように感じます。ページを開いて読み出したり、ここぞと読みこんでいくときの速度や深度に、ばらつきが出るのです。同じ読書姿勢を続けにくいのも要因でしょうけれど(すぐ背中が痛くなる)、こういう認知曲線に少しでも狂いが出てくると、内角低めのボールに手が出にくくなったり、バックハンドの打ち損じが出たりするのと同様で、いろいろな「読みの不如意」が出てくるのですね。
言葉をめぐる技能というものは、もともとたいそう微妙なものです。言語は、一方では文字や単語や概念の出来にもとづいてリテラルな言葉づかいを成立してきたわけですが、他方、発語する言葉のすべては必ずや「呼吸を吐くとき」に成立しているので、呼吸のリズムや呼吸量とともに発展してきました。この、息を吸いながらオラルな言葉を喋ることができないということ、息を吐くときだけ言葉が出るという片方性は、われわれに意外な言葉のアビリティの制限をもたらしました。
蝉や鳥とちがった方法で、哺乳動物が吠えたり唸ったりするようになったとき、すでに吐気とともに獣声を出すしくみができたのでしょう。それがヒトザルがヒトになるにつれ、咽喉や舌や歯や鼻孔のぐあいで複雑な言葉を操るごとく喋れるようにしたのでしょう。そうではあろうものの、このこと自体が曲者なのです。言語文化にいろいろな片寄りをつくったのです。
最初、われわれの呼気言語は、赤ちゃんや幼児の喃語のようにアーアー・ウーウー・エーエーといった母音中心の言葉でした。そこにク音やガ音やツ音などの子音をまぜる工夫が加わって、だんだん複雑な言葉を発音できるようになるのですが、このとき各地の風土や気候や食事による影響が出て。それが口唇事情に微妙な変化をもたらします。
こうして各部族・各民族の言葉に独特の違いが出てしまったのです。それぞれの母国語(祖語)が異なるものになったのです。それもフランス語やドイツ語やノルウェー語の違いだけでなく、同じ日本語でも津軽弁と名古屋弁と広島弁の違いもおこします。これは方言というより、生きた「土地語」です。けれども、ここが大事なところですが、本人たち(われわれ)には、そういうことは意識(自覚)できません。自分が喋っている言葉の特徴が意識できないということは、おそらくは人間の意識や自我の重大な特質をつくりあげた重大な要因になっているように思います。
そこへもってきて、世界中で国語教育が始まり、国語それぞれに標準語(基準語)か確立されました。これは自分の喋っている言葉とはまったく違うもので、先生やアナウンサーといった「言葉のアンドロイド」がつくりあげたものです。呼吸もプロのものです。これでますます「自分の言葉」の特徴が見えなくなったはずです。
近代以降、リーディング・スキルがすっかり「黙読」中心になったことも、自分の言葉づかいに意識を重ねていけない理由になっていると思います。黙って新聞や本を読むのは、もともとの言葉の呼吸リズムを無視して読むということで、「文字と目の直結」が呼吸という潜在力を度外視させているということなんです。はっきりいえば、黙読は「内語」の知覚から呼吸性を奪ったのですね。
おまけに最近はツイート文化の普及によって、相手の口語的なセンテンスを目で読んで、それに対する反応を親指で口語的発信する奇妙な慣行が広がりました。喋ってもいないのに、口語を親指送信するのですから、これはかなりメチャメチャです。いったいどんな複合知覚がこれからの言語文化をつくりあげるのか、容易には想像がつきません。
まあ、こういうことをあれこれ左見右見してみると、肺機能が少し低下して、ぼくのリーディング・スキルに変化が生じているというのは、ホモ・サピエンスっぽくて観察に足ることだということになるかもしれません。そんなこともあって、先週は山極寿一さんのゴリラ本を堪能していました。

ほんほん38近江・情歴・仏教・肺がん

新たに三井寺の長吏に就任された福家俊彦さんのはからいで、国宝の光浄院客殿に熊倉功夫さん、樂直入さんを招いて語らい、そこに石山寺の鷲尾龍華さんらが加わって、煎茶の茶事まがいを遊んだ。中山雅文・和泉佳奈子が準備した。広縁をおもしろくつかった灌仏会もどきの室礼は横谷賢一郎さんの趣向によるもの、福家俊孝さんが三井寺茶の点前をして、叶匠寿庵の芝田冬樹さんがお菓子を用意した。
光浄院はぼくが大好きな書院造りで、桃山がいっぱいだ。付書院には巻紙に硯、筆を置いて、夕刻にみんなの寄せ書きをしてもらった。久々に愉快な半日だったのだが、前日、大津歴博で義仲寺の蝶夢がなしとげた「芭蕉翁絵詞伝と義仲寺」の展示を見て、その編集ネットワークの成果に大いに驚いた。よくぞ蝶夢は近江の俳諧文化を芭蕉に託してまとめたものだと感服した。露伴が絶賛していた理由がやっとわかった。芭蕉が墓を近江にしたかった理由も納得できた。
林頭の吉村堅樹の乾坤一擲で始まった『情報の歴史』21世紀版がこのたびついにまとまって、4月半ばの発売にこぎつけた。編集工学研究所初めての出版物で、それも520ページの大冊だ。既存版が1995年まででおわっていたのが、2020年までのクロニクルがずらり出揃った。イシス編集学校の諸君がさまざまにかかわって仕上げたので、感激一入であろう。デザインは穂積晴明が担当した。穂積はタイプフェイス感覚に富む若者だ。
同じくイシス編集学校の米山拓矢君が、こちらは1人で1年以上をかけて構成してくれた『うたかたの国』が工作舎から刊行され、はやくも2刷になった。新聞雑誌・ウェブの書評も多く、評判がいい。編集作業には米沢敬君がプロの技を発揮して、日本の詩歌を組み上げた「セイゴオ・リミックス」として手ごたえのある仕上がりにした。ぼくの著作は他人の手によって編集される(リミックスされる)ことが少ないけれど、こういう出来のいい編集構成をされてみると、けっこう気持ちがいいものだ。令和にも蝶夢がいたわけだ。
実は、教科書・学参カンケーの某版元で『試験によく出る松岡正剛』(仮題)という企画も秘密裏にすすんでいるのだが、これは「周辺から松岡を彫り込む本」になりそうで、ここには太田香保のもと、またまたイシス編集学校の諸君が何人もかかわってくれるらしい。お題に強い連中なので、きっとおもしろい本づくりをしてくれるだろう。
千夜千冊エディションの最新刊『仏教の源流』(角川ソフィア文庫)はあいかわらずぼく自身の自己編集構成だが、インドと中国の仏教コンテツンツだけで1冊のページが埋まってしまい、ぼくの仏教感覚の突っぱり具合を出すのに苦労した。加筆と推敲を多めにしておいた。これで千夜エディションも20冊になり、角川側でささやかな書店フェアをやってくれるそうだ。
ウェブの千夜千冊についても、新たな変化がおこっている。これまで千夜の図版は松岡事務所の寺平賢司が中心になって構成してきたのだが、これからは編集学校の師範や師範代も加わることになった。ウェブ千夜はエディションとは異なって、図版が魅力のヴィジュアル・ブックナビゲーションなのである。
さて、話ががらりと変わるけれど、先だってまたしても肺ガンを宣告された。CTで見つかった。今度は左の肺上部の原発性の腺ガンのようだ。さいわいレベル1Aで転移もないようで、手術によってカンペキに除去できるらしい。いまはコロナ禍中の築地がんセンターでの手術日を待っている。渡辺俊一先生の執刀だ。さっそく順天堂のおしゃべり病理医の小倉加奈子ちゃんが肺機能を強化するトライボールZを持参してくれた。
それにしても二度目の肺ガンとは、なさけない。15年前の胃ガンを入れて3発目。父親ゆずりの体質だろうと思うことにした。半年に1回のCTで見つかったので、1年に1回の検査では危なかったかもしれない。
それはそれ、渡辺先生の助手から「タバコをやめないと手術が失敗しますよ」と警告されたので、しおらしく断煙の日々を続けているのだが、なんだか調子が悪い。ニコチン切れに困るのではなく、手持ち無沙汰というのでもなく、口さみしいといえば口さみしいが、ぼくの日々の基本プレイに出入りする何かが欠如したように思える。
念のため説明しておくが、ぼくの喫煙は半世紀のあいだ一日も休まず続いていて、平均1日3箱ほどになっていた。強いタバコではない。最近はメビウスの1ミリ、その前はキャスターの1ミリ、その前は3ミリという程度だったのだが、ただ人前でも仕事中でもスパスパ喫っていたので、結局はバチが当たったのである。手術がおわったら、基本プレイに欠如したものを補う何かを発見しなければなるまい。ディエゴ・シメオネの闘いぶりや川口ゆいのダンシングに肖って。
そんなこんなで、勝手な読書三昧がしにくい1カ月だったのだが、なかでデヴィッド・クレーバーの『負債論』(以文社)、ジャン・ストレフの『フェティシズム全書』(作品社)の大著のほか、久々にガストン・バシュラールの著作を拾い読みした。これは「離」の方師、田母神顯二郎明大教授が、松岡さん、バシュラールはそろそろですかと促してくれたからだった。

ほんほん37キジュに因んだヤバめの話

77歳を迎えた数日後の宵の口から、松岡正剛事務所、編集工学研究所、イシス編集学校の諸君が「キジュ」をリアル&リモートで祝ってくれた。さすがに準備は万端、細工は流々、たいへん凝った趣向で、ヤキトリに始まり、あれこれの手を替え品を変えてのサプライズのあげく、後半は総勢数十人が次から次へ歌い継いでみせるという“We are the World”状態で、3密どころか5密なシングアウトに包まれた。たいへん愉快なひとときだった。
しかし、けれどもだ。宴のあとでしんみり考えた。やっぱり「キジュ」はどうみてもヤバいのだ。これから仕上げられそうな「こと」や「もの」を想定してみると、どうみてもタカが知れている。砂時計に残された時間がないというのではない。数年前からじりじり感じてきたことなのだが、気力と体力のセッサタクマの案配がめっきりおかしくなっていて、これは「別のエンジン」を急がせなくてはいかんのである。ところがそのエンジンの開発がままならない。
すでに思いついていたり、着手してみたプランもほったらかしだ。そこには著書もあるし(5冊ほどの見当がある)、書画もあるし(仏画っぽいもの)、或る種のマザープランづくりのようなものもある。かつて着手しはじめた『目次録』などは何人もの諸君の助力を得ながら、放置したままになっている。
これはヤバい。キジュに乗っていてはまずい。本を書き上げることくらいならなんとかなりそうだけれど、ぼくの仕事はエディトリアル・オーケストレーションに向かっていくことだから、自分一人が書き手に甘んじていてはいかんのだ。そう、戒めてきた。編集オペラのようなもの、編集ページェントのようなもの、そっちに向かっていなければならなかったのだ。それが遅れている。
「本のページェント」にする試みだけなら、図書街や松丸本舗や本楼や近大やMUJIブックスや所沢のエディットタウンなどにしてきたが、それらは世の中での「本」の扱いが静かすぎるので、いろいろ制約が多かった。そこで連塾や織部賞やトークイベントのステージなどでは、そこに音や映像やナマのゲストの出入りを加えたけれど、まだまだなのだ。
そういう不足感を払底するために、15年ほど前から考えていた不思議なマザープランがある。「故実十七段」とか「次第段取一切・故実日本流」と呼んでいるもので、従来の歴史的な試みで喝采を送りたいもの、たとえばディオニソス祭や修道院立ち上げや人形浄瑠璃の成立や、ライプニッツのローギッシュ・マシーネや天体観測装置やファッションショーやムンダネウム計画や、あるいは賭博・競馬・バザールやスペクタクル映画やアニメの傑作などの制作成果を、都合100~150例ほどトレースしながら思いついたことで、これらを複合的な世界装置開展のためのマザープランにしてみようとしたものだ。
マザープランのドラフトはあらかたできているのだが、これをどうみなさんに開示したり実現したりしていけばいいのか、そこは手つかずだ。先だって、やっとその小さなキックオフをした。追々、どんなふうになりそうなのか報告したいと思っているけれど、これもやっと腰を上げたばかりなのである。
そんなこんなで「キジュ」はヤバいのだ。もっと深刻なことを言うと、ほんとうはもっと本を読みたいし、読み替えていかなければいけないことが溜まっていて、うっかり千夜千冊などというリテラル・ナビゲーションをルーチンにしたため、自分が考えたり感じたりしていることが、読んだ本の紹介や案内ではカバーしきれずに、いちじるしく非対称になってしまっていて、このフラストレーションこそ、実はもっとヤバいことなのである。好きなときに好きなことを書くようなジンセーにしておけばよかったのに、なんだか律義な責任のようなものをつくりすぎたのだ。
それでも諸姉諸兄からしたらいささか意外に思えるだろうことも、実は着々とやってきた。これらについてはぼくの生命時間を超えてしてきたことなので(死後にもわたって継続できるようにしてきたことなので)、いつかその中身が他人の手でリリースされるかもしれないけれど、それがどういうものであるかはぼくからは説明できない。僅かにリークできるのは、そのひとつ、イシス編集学校の「離」で十数年にわたってコツコツ進行してきたことで、これはとても大事にしてきた。毎期、限られた参画者(30人)にしか読めない1500枚ほどのテキストを、ずっと書き換えてきたのである。どういうテキストかは説明できないが、世界観共有学習のための「穴空きプロトコル」のようなものだ。
もうひとつ、ぼくが仮想思考してきたことを綴っているものがある。仮想思考だから、アタマの中やメモの中やPCの中でだけ、アーキテクチャをもっているものだ。これはおそらく「生前贈与」をしたほうがいいかもしれないので、そのうちその一部をリークしようかと思っている。以上、キジュに因(ちな)んだヤバめのお話でした。

ほんほん36フェチが足りない/本棚劇場にYOASOBI

巷間、コロナ本がいろいろ出てきたが、なかで去年刊行の美馬達哉の『感染症社会』(人文書院)がよくできていた。この著者(立命館の医療社会学者)は2007年の『〈病〉のスペクタクル』(人文書院)で抜群の洞察力を示していたが、今回も渋くてすばらしかった。なぜCOVID19でこれほどの社会混乱が生じたか、痒いところを掻くように書いてくれた。
コロナ関連本はこれまでも10冊以上を紹介してきたが、ほかに言い忘れていた本があったので紹介しておく。21世紀前半のものでは、ポール・ラビノウの『PCRの誕生』(みすず書房)、アルフレッド・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ:忘れられたパンデミック』(みすず書房)、カール・タロウ・グリーンフェルドの『史上最悪のウイルス:そいつは、中国奥地から世界に広がる』(文芸春秋社)、ローリー・ギャレットの『崩壊の予兆:迫り来る大規模感染の恐怖』上下(河出書房新社)など。
最近のものでは堀井光俊『マスクと日本人』(秀明出版会)、木村盛世『厚労省と新型インフルエンザ』(講談社現代新書)などだ。ちなみにぼくの病気論はずっと前からルネ・デュボスの『健康という幻想』(紀伊国屋書店)にもとづいている。デュボスは抗生物質の発見発明者だが、晩年に向かってすばらしい病気論を開陳した。病気とはエンビオスの神が動かなくなること、すなわちインスピレーションを欠かせることなのだ。
ところで、このところフェティシズムの本を読み漁っているのだが、これはぼくの周囲に「フェチが足りない」などと言っているのに、どうもその意図が伝わらないようなので、こちらもベンキョーしなおそうと思ったからだ。マルクスの物神論とフロイトのフェティッシュ論、あるいはド・ブロスやラトゥールではまにあわない。そこで田中雅一の「フェティシズム研究」3冊本(京都大学学術出版会)を下敷きにすることにした。『フェティシズム論の系譜と展望』『越境するモノ』『侵犯する身体』だ。ただ、フェチの驚くべき底辺の歴史と実情が重要なので、こちらはジャン・ストレフの分厚い『フェティシズム全書』(作品社)と川島彩生が編集構成したフェチ愛好家のためのマニアックな『フェチ用語事典』(玄光社)で補っている。
マルクスとフロイトの予想とは異なって、フェチには普遍性などがない。そこが頼もしいところで、あくまで個人的個別的、かつ特殊関係的なのだ。そこでそのフェチに降りていって、そこに爆薬を仕掛ける。これが編集には必要なのである。
今年になって田中優子さんとの対談本『江戸問答』(岩波新書)、千夜千冊エディション『サブカルズ』(角川ソフィア文庫)、米山・米沢が編集してくれた『うたかたの国』(工作舎)が刊行された。いずれもかなり読みごたえがあると思うけれど、自分の本が出るのは実はとても面映ゆいもので、とうてい「どうだ、やったぞ」などとは思えない。むしろ地味にほめたいものなのだ。
書評や紹介などがあるには越したことはないが、それよりも、そうやって仕上げた本を、著者本人はどう思っているのかを聞く機会があるのがいいように思う。以前、自著について語る「自著本談」という企画、千夜千冊をぼくが朗読しながらところどころ解説する「一冊一声」という企画をネット上でしばらく続けたことがあるのだが、世間でもこういうものがもうすこしあってもいいのではないかと思う。
本は版元と著者によって閉じすぎる。おまけに書店や図書館ではもっと黙りこくっている。いったん閉じてしまうと、なかなか緩まない。そこで当事者がセルフサービスをする。本の口をこじあける。詩人の朗読会は「黙って詩を読んでもらうより、ずっと読書が深まるもんですよ」と高橋睦郎さんが言っていたが、そうなのだろうとし思う。ただふつうの本は音読するには長いので、そこを著者や編集者がお手伝いするのだ。
紅白歌合戦でYOASOBIが角川武蔵野ミュージアムの本棚劇場を特設ステージにして『夜に駆ける』を披露した。カメラはエディットタウンのブックストリートから本棚劇場に向かい、本に囲まれたYOASOBIを映し出した。このユニットはソニーミュージックの小説イラスト投稿サイトに登録された小説を素材に歌をつくっていくという仕組みから生まれた。『夜に駆ける』は星野舞夜の『タナトスの誘惑』から切り出されたデビュー作である。本がこういうふうに生身でボーカロイド化されるというのも、黙りこくっている本の口を割らせるいい方法だろう。かつてはトリスタン・ツァラもアポリネールも得意にしていたことだった。本は賑やかでお喋りなものなのである。

ほんほん35読書は"格闘技"である

このところ格闘技のユーチューブをよく見る。武術アクター坂口拓の『狂武蔵』の電光石火の手際に感心したのがきっかけで、次に朝倉海を、ついで元パンクラスの船木誠勝が淡々と語るものを見て、一気に関連映像を渫った。
ぼくは長らく前田日明一辺倒で(いまもこれは変わりないが)、そのぶん他のレスラーやボクサーや武道家を見続けるということをあまりしなかったので、いい機会になった。桜庭和志もミルコ・クロコップも吉田秀彦も一挙に見て、ときとぎ船木の解説語りに戻ると、これがなかなかの味なのだ。ヒクソン・グレイシーに落ちて、その直後に引退宣言したのが船木の奥行きをつけたのだろう。
ところで、読書にも格闘技のような技がいろいろある。投げ方を読む、打撃を読む、関節を読む、呼吸を合わせる、呼吸をはずして読む、いろいろだ。ただ読書は(最近は読相術という言い方もするのだが)、勝負を争わない。そこがまったく異なる。また、読んでいる最中の技が外には見えない。だから多くの読書が孤読になっていく。
実は、読書のプロセスを少しは外に見えるようにできるかと思って始めたのが千夜千冊だった。もう20年続けたことになる。しかし最初はまったく理解されなかった。いまは多少は知られるサイトになっているけれど、2000年に始めた当初は細々としたもので、すぐさま「ネットで書評したって読まれっこない」「1回分が長すぎる」「自分のことを書きすぎている」とか言われた。
500夜前後でアクセス数が100万ビューに達したころは、今度は「なぜ有料ブログサイトにしなかったのか、もったいない」「松岡ならメルマガのほうがもっとおもしろくなるだろう」「こうなったら3000冊をめざせ」云々だ。みなさん、いろいろよく思いつく。
書評サイトだと見られている向きもあるようだが、そうではない。書評をするつもりはまったくなかった。批評したいとは思わなかったからだ。ケチをつけるために本を選ぶのはフェアではないし、そもそもケチをつけるほどラクな手口はない。それより、どういうふうに著者やその本をアプリシエートすればいいか、いい格闘技を愉しむか、そこ念頭においてきた。
とはいえ気楽に書いてはこなかった。どんな難解な本も必ず要約を欠かさないようにした。あえてネタバレも冒した、ただし、要約編集の仕方を工夫した。千夜の読書はまずはコンデンセーションなのである。
格闘技には、かなりいろいろのルールがある。柔道とキックボクシングとはまったく違うし、ボクシングと空手と合気道は、素手とグローブの差もあれば、組み方の違いもある。主宰団体によっても異なる。UWFとパンクラスとリングスはその違いがおもしろかった。それぞれよくよく練ったのだろう。
読書や読相術は本を相手のちょっとした格闘技だけれど、やっぱり本によって読みのルールが変わるのである。小説を読むときと学術書を読むときは変わるし(もともと小説と学術のルールが違う)、量子力学の本と進化論の本もルールが異なる。速読術はお勧めしないけれど、このルールをマスターし、体感すれば、いくらでも速く読めるはずである。
読書には乱取りも十人斬りもある。何冊も一緒に読みながら斬りまくるのだ。これは将棋や以後の十面打ちより、ずっと格闘わざに近い。もっともそういう乱暴しないで、何をどう読んだのか、そのプロセスを多少は実況しようというのが千夜千冊だったのである。あと100冊くらいは続行することになるだろうか。

ほんほん34戸田ツトムをめぐって/「エディットタウン」オープン

きのう、浅草のギャラリーで、松田行正・臼田捷治と「戸田ツトムのブックデザイン展」をめぐる鼎談をしてきた。聴衆はすべてリモート。こんなに早く戸田君が亡くなるなんてと思いながら話したので、あの繊細で鋭く、切断と陰影に充ちていた戸田君のエディトリアルデザインを偲ぶのが痛ましかったが、せめてブックデザインやエディトリアルデザインのことがもっと世の中の話題にのぼるようにとの思いで、あれこれ話した。
本というもの、実に多様な職人と諸事情とコンテンツが集約されて出来上がっているもので、「著者がいて、本ができました」なんてことはありえない。版元、エディター、著者、ライター、文字組、写真家、図版屋、印刷関係者、製本、書店、販売営業、帯づくり、いろいろな努力としくみが複合化する。それが本だ。ブックウェアだ。なかで「造本」という領域が実に多彩な仕上げに向かっているわけで、この分野のことはもっともっと語られなくてはいけない。
ぼくはさいわい杉浦康平さんの薫陶を受け、30代に「遊」を通して多くのクリエイターに出会えてきたので、本や雑誌がどのように出来上がり、どんな才能が起爆したり切り取られていくかをつぶさに間近で体験することになったけれど(その現場に戸田君もいたわけだが)、いまは何でもネットでコミュニケーションができると思われ、ウェブユーザーがオーサリングできていると勘違いされているので、本の「独壇場」がどんなものかは、ますますわからなくなっている。残念だ。
貨幣が電子マネーになったわけではなく、森の生活が都市のビル住まいになったわけではなく、演劇が古典ギリシアとともにあるように、今日の本も2000年にわたる積層された変遷を、いまなおあれこれ演じているのである。戸田君や松田君はそれを引き受けてきた。
そういう本の姿を思い切った方法でもっと堪能してもらおうと思って用意した「エディットタウン」が、角川武蔵野ミュージアムの4階に、高さ8メートルの本棚劇場とともにオープンした。ワインディングするブックストリート、違い棚ふうの本棚、大小4段階におよぶ立体見出しの出入り、天井から吊り下がる数々の多変バナー、横置きを辞さない提示法、本棚に埋め込まれたチビモニターたちなど、いろいろ工夫してみたので、かなり賑やかだ。おかげでかなり話題になっている。
本はつくるときにはいろいろの手立てが総合されているのだが、これがいったん流通に入ると、まことに寂しく、通りいっぺんになる。大手取次店の配本にもとづき、書店も図書館も十把一からげになっていく。図書館の10進分類も管理のためばかりで、なんら訴求力がない。閲覧室は病院のようだし、書庫は墓場のようだ。
とくに書店は、もっと好きに棚組みをしたり好きに飾ってもいいはずで、本以外のものも置いてもいいのに、そうしない。これではネットに顧客を奪われても仕方ない。だいたい書店はサービス業だと思っていないようだし、書店員は「いらっしゃいませ」も「ありがとう」も言わない。本を見て、本を選ぶという行為にまつわる工夫もしない。たとえば本は3冊以上持ってレジに行くのが手いっぱいになるのだが、ちびカゴもカートもない。
一番まずいのは、書店は「知的なお店」だと思いすぎていることだ。本はそもそもありとあらゆる分野をカバーしているコモディティで、そこには哲学からポルノまでが、お仕着せから被害の告発までがある。くだらない本もたくさん混じっていて、それで本屋さんなのである。済まして並べていて、いいわけがない。
ついでに言うけれど、ブックカフェなるものもふえているようだが、かっこを付けすぎていて、いただけない。もっと、片隅にボロボロのマンガ本が並んでいた昭和の喫茶店のようものも、復活してほしいのである。ぜひエディットタウンを見てほしい。

ほんほん33アメリカ大統領選と"わかりにくさ"

トランプは血迷っているから今年いっぱいの先行きがどうなるかはわからないが、大統領選挙はバイデンに軍配を上げた。だったらバイデン、ハリスのお手並み拝見である。それはそれとして、ここに至るまで、日本のマスコミや論壇やコメンテーターがトランプの暴論暴走を正面きって叩かなかったのが、なんとも信じられない。バイデンとの政策比較に汲々としたからだろうが、暴論暴走は大いに叩けばよろしい。様子を伺って、それまでは右顧左眄して、結果が出てから「ほれ、みたことか」と言うのは、もうやめたほうがいい。ジャーナリストも論者も育たない。
アメリカではトランプを「性差別の先頭を走る」「マフィアのボスだ」「管制塔に紛れこんだ12歳児」といった批判が乱れとんだ。ボルトンやコーミーらの元側近による暴露本も囂(かまびす)しかった。それらのトランプ批判がどのように的を射ていたかはべつにして、これにくらべると、日本はたんに臆病だった。情けない。
理由はいくつもあろうが、そのひとつに、いつのまにか日本の論調が、ひたすら「わかりやすさ」に向かうようになったということがある。お粗末きわまりないけれど、どこもかしこも「わかりやすさ」に落着することを選ぶようになった。事の是非に鉄槌を食らわせることも、文春砲まかせで、できるだけ避けるようになった。
最近、河出の編集出身の武田砂鉄が『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)を書いて、「わかりにくさ」において気持ちが通じることの重要性を説いていた。その通りだ。「偶然」に対する希求と筋力が落ちているという指摘も、その通りだ。武田は『紋切型社会』(朝日出版社)や『日本の気配』(晶文社)でも、そうした山本七平の「空気」批判のようなことを書いていた。ただし、なぜ「偶然」(偶有性)がすごいのかを説明しなかったのが残念だった。
「わかりにくさ」といえば、日本の左翼活動の言説はまことにわかりにくかった。60年代半ば、ぼくもその一翼にいたのでよくよく実感したが、わかりにくければそれでいいというほど、舌足らずでもあった。ブント用語、全共闘用語というものもあった。では、なぜそんなふうになったのか、その事情の渦中を浮上させようという試みが、このところふえてきた。情況出版や明石書店など、いろいろ新たな分析が出ているし、懐かしい津村喬の『横議横行論』(航思社)や長崎浩の『革命の哲学』(作品社)なども出ているが、鹿砦社が構成した『一九七〇年 端境期の時代』を興味深く読んだ。
田原総一朗のインタビューから始まって、フォークをやめた中川五郎、水俣病闘争の渦中にいた矢作正、大阪万博をふりかえった田所敏夫、新宿で模索舎をやりつづけた岩永正敏、赤軍事件背景を「山小屋論」として綴った高部務、そして板坂剛による仮想「革マルVS中核」ディベートやよど号事件以降ピョンヤンにいる若林盛亮の回顧談など、いずれも読ませた。1970年の詳細な年表も挿入されている。
1970年は、東大全共闘が撃沈し、安保改定が確立し、大阪万博が開かれ、三島由紀夫が自害した年である。数々の「わかりにくさ」と「犠牲」と「総括」が渦巻いた最後の年であったかもしれない。

ほんほん32コロナ自粛の"いびつ"

コロナと猛暑とリモートワークで日本がおかしくなっている。だいたいGOTOキャンペーンが最悪の愚策だった。そこに自治体首長たちの自粛要請、保健所とPCR検査の機能麻痺、しだいに重々しくなってきた医療危機、発言確認ばかりで満足しているリモートワークが重なり、それに猛暑日・熱帯夜・熱中症が加わった。おかしくないほうが、おかしいほどだ。
外出自粛でコトが済む時期はとっくに過ぎた。水道の元栓を開いたままで蛇口の分量を調整しようというのだから、これではコトの予測さえ成り立たない。そこをたんなる自粛で乗り切ろうとすると、「いびつ」がおこる。外出先を制限すれば、居住性のほうに危険が移る。いまや危険なのはキャバクラやホストクラブではなくて、家庭のほうなのである。お父さんが自宅で仕事をして、大きい姉さんが仕事場に出られず、弟が学校に行けず、早やめに小学校から帰ってきた末っ子が騒ぎ、いよいよ爺さんか婆さんが勝手な望みを言い出せば、母親は苛々するばかりだ。おかしくならないほうが、おかしい。
ところでコロナ・パンデミックについての論評には、まだ芳しいものがない。なかでイタリアの素粒子物理学者パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(早川書房)は、コロナ発祥拡散直後の3月に書かれたエッセイで、1カ月ぶんの激変の中で綴られた、涼やかだが、思慮深いエッセイだった。
ジョルダーノが言いたいことは次の5点だ。①いま僕らの頭脳が試されている、②われわれはまだ複雑性についての対処に取り組めていなかった、③感染症の数学として、感受性人口(Susceptibles)、感染人口(Infection)、隔離人口(Removed)の3つのパラメータによるSIRの計算が必要である、④市町村の単位ではない共同体についてのモデルを考えなければならない、⑤感染症の根本要因は僕らの軽率な消費活動にある。
日本ではダイヤモンド・プリンセス号に入った岩田健太郎の『新型コロナウイルスの真実』(KKベストセラーズ)や病理医の堤寛による『感染症大全』(飛鳥新社)などのような啓蒙書か、富山和彦『コロナショック・サバイバル』(文芸春秋)、高橋洋一『コロナ大不況後、日本は必ず復活する』(宝島社)、ムックの『アフターコロナ』(日経BP社)などの経済コロナ対策本が多い。緊急に小説も書かれた。たとえば海堂尊の『コロナ黙示録』(宝島社)だ。海堂得意の桜宮サーガのバチスタ・シリーズに乗せた政権批判小説だった。病理と国際政治学との関連性にふれた詫摩佳代の『人類と病』(中公新書)もあった。
野田努君らのエレキング・ブックスからは『コロナが変えた世界』(Pヴァイン)が刊行された。ブライアン・イーノとヤニス・ヴァルハキスのポストコロナ社会のヴィジョンをめぐる対談が目玉になっていたので期待したが、これは得るものがほとんどなかった。イーノがこんなにも能天気だとはがっかりする。それより内田樹、宮台真司、上野千鶴子、篠原雅武に対するインタヴューの答えのほうが、ずっとおもしろかった。
内田は、コロナ問題でまたまた日本の統治機構の劣化と、日本人が「ものさし」をつくっていないことが露呈したと指摘。『方丈記』とともに漱石の『草枕』を推薦しているのが粋なはからいだ。上野の指摘はすべての問題は平時の矛盾が有事に出てきたという見方が一貫して、ゆるがない。女子問題にまったく言及しない小池都知事に苦言も呈した。篠原は「人新世」の前触れとしてコロナ禍をとらえ、マイク・ディヴィスやデイヴィッド・ウォレス・ウェルズの素早い反応なども紹介していた。
宮台は、各社会の危機管理の性能とその性能に応じた社会の支えがアンバランスであることを指摘したうえで、アメリカにはアレとコレが両立しない共時的矛盾があるが、日本にはかつての作法が通用せず、それなのに今日に通用する作法がまったくできていないという通時的矛盾がはびこっていると強調した。これは当たっている。ようするに日米両方ともにゼロ・リスクを求めるために思考停止がおこっているわけで、宮台としてはそれを突破するには「もっと絶望を」ということになる。
多くの識者を集めた『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』(河出書房新社)も緊急出版だったが、こちらは一番大きな展望を提供した大澤真幸、シニカルな與那覇潤・笙野頼子、病理の仲野徹、アフリカ研究の小川さやか、ドゥルーズ派の堀千晶などが読ませたが、全体としては目次もあとがきもない促成本だ。ところで、GOTOキャンペーンとともに、大きなお世話だと言いたいのが「ステイホーム」の標語だが、どこかの首長が「どうぞ、ゆっくり本をお読みください」と言っていたのとはうらはらに、圧倒的にネット読みとテレビ視聴率が上がっただけだったらしい。

ほんほん31ぼくの仕事場

ぼくの仕事場は、建物としては赤堤通りの角の3階建のスペースそのものである。そこは編集工学研究所が借りていて、1階の井寸房(せいすんぼう)や本楼(ほんろう)、2階のイシス編集学校の事務局にあたる学林と制作チーム、3階の企画プロデューサー・チームと総務・経理などに分かれている。その3階に松岡正剛事務所も入っていて、ここに太田・和泉・寺平・西村の机、そしてぼくの作業用書斎がある。
作業用書斎といってもとても小さい。部屋ではなく書棚で囲んだ領土(領分)になっていて、8畳まで広くない。ふだんは、この「囲い」の中の大きめの机の上にシャープの書院とDELLのパソコンが並んでいて、二つを同時に使って執筆する。両方とも通信回線は切ってある。だからぼくへの通信は松岡正剛事務所のスタッフを通してもらわなければならない。ケータイ(スマホは持たない)も番号を知る者はごく少数なので、めったに鳴らない。メールも切ってある(メールは30年間、使っていない)。
「囲い」の書棚には、数えたことはないけれど、3000冊ほどの本がぎっしり詰まっている。思想系の本と新着本と贈呈本ばかりで、選書の基準は「できるだけ複雑に」というものだ。「面倒がかかる本」ばかりが集まっているのだ。ただ、すでに満杯である。だからときどき棚卸しをして、各階に配架して隙間をあける。配架といっても、全館の書棚にはすでにおそらく6万冊以上の本が入っているので、こちらももはや溢れ出ている状態だ。だから二重置きしているほうが圧倒的に多い。それでも、たいていの本の位置は太田と寺平がおぼえている。
作業書架「囲い」には、本と机とPCのほかには何もないが、二つだけ格別なものが用意されている。ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。食後や疲れたときにここに坐り、たいてい本を読む。ほどなくして疲れて背を倒して寝る。これはほぼ日課になってきた。
もうひとつはこの「囲い」ができた当初から和泉が用意してくれたもので、洋服箪笥と狭いクローゼットが書棚の裏側に隠れるようにして、ある。ここで着替えるのだが、この作業がぼくには必須なのである。本を摘読することと着替えることとは、まったく同義のことであるからだ。「本」と「服」とは、ぼくにはぴったり同じものなのだ。実はもうひとつ同義なものがある。それは「煙草」と「お茶」(あるいは珈琲)だ。
以上、ぼくは、こんな「ほんほん」な状態で日々を送っているのです。ちなみに自宅の書斎はもっと小さい。書院とipad、それに書棚が二つで、本の数はごく少量だ。いつも300冊くらいが少しずつ着替えているくらいだと思う。

ほんほん30ウイルス対策は"人類治療"だ

自粛とテレワークが強いられているが、メディアで見ているかぎり、有事の中の緊張はないようだ。戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。
緊急事態宣言が解かれても、ワクチンや治療剤が登場するまでは、なお異常事態が続いていくとも見るべきである。その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。経営もしだいに逼迫していくだろう。なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。
一般に、多くの医療は「至近要因」に対処する。人間一人ずつに対処して治療する。これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。いわば人類が相手なのである。人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。
かつて動物行動学のニコ・ティンバーゲンは、そのように「生きもの」を見る前提に「4つのなぜ」があると説いた。①適応の機能に関する「なぜ」、②系統発生にもとづく「なぜ」、③器官や分子に関する「なぜ」、④個体の維持に関する「なぜ」、の4つだ。これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。ゼツヒツの1冊だ。
こういうふうに、われわれを「生きもの」として見る医療は「進化医学」とも言われる。進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。
このような進化医学については、定番ともいうべきランドルフ・ネシーの『病気はなぜ、あるのか』(新曜社)が興味深かった。「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。
進化医学をもう少し突っ込んでいたのは、ぼくが読んだかぎりでは、シャロン・モアレムの『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』(NHK出版)やポール・イーワルドの『病原体進化論―人間はコントロールできるか』(新曜社)だ。いずれも大いに考えさせられた。イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。

ほんほん29平時と有事のAIDA

先だってちょっとばかり濃いネットミーティングをしたので、その話をしておく。COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。
毎期のHCUでは、最終回は塾生を相手にぼくのソロレクチャーと振り返りをするのが恒例定番になっていたので、一応同様のことをしようと思ったのだが、せっかくネットワークを通すのだから、過去期の塾生にも遠州流の家元や文楽の三味線やビリヤードの日本チャンピオン(大井さん)などのゲストにもネット参加してもらい、さらにイシス編集学校の師範何人かに参加を促した。
加えてベルリン、上海、シリコンバレーからの視聴・発言も促し、過去期ゲストの大澤真幸、田中優子、ドミニク・チェン、鈴木寛、池上高志、武邑光裕、宮川祥子さんたちも、フルタイムないしは一時的に参加した。さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。
オンライン・ミーティングソフトはZOOMにしたが、それだけでおもしろいはずがない。まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。だからテレワークをしたわけではない。ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。
たんなるテレワークというなら、45年前に杉浦康平と毎晩2時間ずつの電話によるテレワークだけで分厚い『ヴィジュアル・コミュニケーション』(講談社)1冊を仕上げたことがあった。当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。
というわけで4月25日は、テレワークでもネット会議でもなく、新たなメディアスタイルを試みたかったわけである。はたしてうまくいったかどうか。それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。
かく言うぼく自身も、こんな試みを多人数でするのは初めてのことなので、中身もさることながら、いったい自分がどんなふうにリアルとネットを縦断したり横断したりすればいいのか、きっと自動カメラの前に顔を貼り付けてばかりいたら、すべてが「死に体」になるだろうと思い、大きな鉄木(ブビンガ)の卓上でたくさんの本を見せたり、動かしたりすることにした。書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。
そこへ編集学校でテスト済みの、ときどきスケッチブックに太い字を書きながら話すということも混ぜてみた。けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。76歳には過剰だったのかもしれない。まあ、それはともかく、やってのけたのだ。
今期のHCUのお題は「稽古と本番のAIDA」だった。すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。
すでに今期の参加者全員がぼくの千夜千冊エディション『編集力』(角川ソフィア文庫)を課題図書として読んできてもらっていたので、随所に『編集力』からの引用などをフリップにして挿入した。たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。一方、ウイルス・パンデミックの中でこのAIDAを振り返るには、きっとこういう時期にこそ「平時と有事のAIDA」を議論しなければならないだろうと思い、話をしばしばこの問題に近寄せた。とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。
とくに「有事」はエマージェンシーであるのだからこれは「創発」をおこすということであり、さらにコンティンジェンシーでもあるのだから、これは「別様の可能性をさぐる」ということなのである。このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。そのことに苦言を呈した。もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。
もうひとつ強調しておいたのは、いまおこっていることはSARSやMARS以来のRNAウイルスの変異であって、かつ「ZOONOSIS」(人獣共通感染状態)の変形であるということだ。つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。
そんな話をしながら、7時間を了えた。ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。

ほんほん28コロナ禍の脳内散歩

世界中がウイルス・パンデミックの渦中におかれることになった。RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。
ちなみに「変異」や「変異体」は21世紀の思想の中心になるべきものだった。せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。
それにしても東京もロックダウン寸前だ。「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。そのうち放逐されるだろう。
もともとぼくは外に出掛けないタチで(外出嫌い)、長らく盛り場で飲んだり話しこんだりしてこなかった。学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。下戸でもある。だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。
これはギリとニンジョーからするとたいへん無礼なことになるのだが、ぼくのギリとニンジョーはどちらかというと孟子的なので、高倉健さんふうの「惻隠・羞悪・辞譲・是非」の四端のギリギリで出動するようになっている。たいへん申し訳ない。
ついでにいえば動物園はあいかわらず好きだけれど、ディズニーランドは大嫌いだ。レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。
スポーツ観戦は秩父宮のラグビーが定番だったけれど、平尾誠二が早逝してから行かなくなった。格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。ごめんなさい。子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。
つまりぼくは、できるかぎりの脳内散歩に徹したいほうなのである。それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。
ところで、3月20日に『日本文化の核心』(講談社現代新書)という本を上梓した。ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。
ほぼ同じころ、『花鳥風月の科学』の英語版が刊行された。“Flowers,Birds,Wind,and Moon”というもので、サブタイトルに“The Phenomenology of Nature in Japanese Culture”が付く。デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。出版文化産業振興財団の発行である。
千夜千冊エディションのほうは『心とトラウマ』(角川ソフィア文庫)が並んでいる最中で、こちらはまさに心の「変異」を扱っている。いろいろ参考になるのではないかと思う。中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。

ほんほん27ウィルスは"仮りの情報活動体"

このところ、千夜千冊エディションの入稿と校正、ハイパーコーポーレート・ユニバシティの連続的実施(ビリヤード、遠州流のお茶)、講談社現代新書『日本文化の核心』の書きおろしと入稿、角川武蔵野ミュージアムの準備、ネットワン「縁座」のプロデュース(本條秀太郎の三味線リサイタル)、九天玄気組との記念的親交、イシス編集学校のさまざま行事などなどで、なんだかんだと気ぜわしかった。
こういうときは不思議なもので、前にも書いたけれど、隙間時間の僅かな読書がとても愉しい。1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。
さて、世間のほうでも隙間を狙った事態が拡大しつつあるようだ。新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。
ウィルス(virus)とはラテン語では毒液とか粘液に由来する言葉で、ヒポクラテスは「病気をひきおこす毒」だと言った。けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。まさに隙間だけで動く。
定義上は「感染性をもつ極微の活動体」のことではあるのだが、他の生物の細胞を利用して自分を複製させるので、まさに究極の生物のように思えるのにもかかわらず、そもそもの生体膜(細胞膜)がないし、小器官ももっていないので、生物の定義上からは非生物にもなりうる超奇妙な活動体なのである。
たとえば大腸菌、マイコプラズマ、リケッチアなどの「バイキン」は細胞をもつし、DNAが作動するし、タンパク質の合成ができるわけだ。ところがウィルスはこれらをもってない。自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。だから他の生物に寄生する。宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。
気になるのはウィルスの中核をつくっているウィルス核酸と、それをとりかこむカプシド(capsid)で、このカプシドがタンパク質の殻でできている粒子となって、そこにエンベロープといった膜成分を加え、宿主に対して感染可能状態をつくりあげると、一丁前の「完全ウィルス粒子」(これをビリオンという)となってしまうのである。ところがこれらは自立していない。他の環境だけで躍如する。べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。
おそらくウィルスは「仮りのもの」なのである。もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。
ということは、これは知っていることだろうと思うけれど、われわれの体の中には「悪さ」をしていないウィルスがすでにいっぱい寝泊まりしているということになる。たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。
急にウィルスの話になってしまったが、ぼくが数十年かけてやってきたことは、どこかウィルスの研究に似ていたような気もする。さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。

ほんほん26多読ジムの愉快な本たち

正月はどこにも行かず、誰にも会わず、とくに何も食べたいとも思わず、体もいっさい動かさなかった。まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。
それでもおととい、マキタ・スポーツと遊談して(ギターの歌まねも聞かせてもらい)、きのう、山本耀司と十文字美信と語らったことで、すべてがディープ・シャッフルされ、たいへん気分がいい。
そんなところへ多読ジムが始まった。木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。なかなか壮観だ。壮観なだけでなく、おもしろい。やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。ツイッターでは及びもつかない。参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。
みんなが読み始めた本の顔触れも目映い。ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。
須賀敦子『地図のない道』、アレクシエーヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』、木村敏『時間と自己』、野村雅昭『落語の言語学』、ユヴァル・ハラリ『21レッスン』、長沢節『大人の女が美しい』、赤坂真理『箱の中の天皇』、マット・マドン『コミック文体練習』、菅野久美子『超孤独死社会』、ハント他『達人プログラマー』、大竹伸朗『既にそこにあるもの』、ダマシオ『デカルトの誤り』、早瀬利之『石原莞爾』、斎藤美奈子『日本の同時代小説』、磯崎純一『澁澤龍彦伝』、グレッグ・イーガン『TAP』、原田マハ『風神雷神』。
ふむふむ、なるほど。赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。
高田宏『言葉の海へ』、インドリダソン『湿地』、田中優子『未来のための江戸学』、アナット・バニエル『動きが脳を変える』、有科珠々『パリ発・踊れる身体』、パラシオ『ワンダー』、イーガン『ディアスポラ』、伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』、中村淳彦『東京貧困女子』、浜野ちひろ『聖なるズー』、スーザン・ネイピア『ミヤザキワールド』、大澤真幸『〈問い〉の読書術』、中屋敷均『ウイルスは生きている』、小林昂『日本プラモデル60年史』、鷲田清一『人生はいつもちぐはぐ』、イサク・ディーネセン『アフリカの日々』、佐藤優『同志社大学神学部』。
うんうん、よしよし。イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。カトめぐ、よくやっている。
では、つづき。穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。
実に愉快な本たちだ。ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。
読書は好きなお出掛けのための身支度であって、アマプロまじりの極上ゲームの観戦体験で、つまりは組み合わせ自由の乱行気味の交際なのである。もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。

ほんほん25令和のクリスマスに"編集力"を

令和のクリスマス(クリスマスは大嫌いなのだけれど、角川文庫のスケジュールで)、千夜千冊エディションの新刊『編集力』が街に並んだ。満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。
第1章「意味と情報は感染する」に、マラルメ、ヴィトゲンシュタイン、ベンヤミン、カイヨワ、ロラン・バルト、フーコー、ジェラール・ジュネット、アガンベン、ジジェクをずらり並べた。現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。かなり気にいっている。
第2章「類似を求めて」では、中村雄二郎の共通感覚談義を下敷きに、ポランニーの方法知、エドワード・ホールの「外分泌学」としてのプロクセミックス、ギブソンが提案したアフォーダンスの力、タルドの模倣法則、それに工学屋のモデリングの手法と認知科学の類似を活用したアプローチの方法を組み合わせた。なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。
第3章「連想、推理、アブダクション」は文字通りの怪物チャールズ・パース様のオンパレードで、おそらくここまで「仮説的編集力)(つまりアブダクション)の骨法を解読してみせたものはないだろうと、自慢したい。鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。
第4章「ハイパーテキストと編集工学」は、一転してヴァネヴァー・ブッシュやアラン・ケイやテッド・ネルソン以降の電子編集時代の「新・人文学」のありかたを問うたのだが、その前提にハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』をおいた。「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。
まるごと自画自賛になってしまったが、ハイハイ・ハイ、まさに本気で自画自賛したいのだ。あしからず。編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。『編集力』は本気本格をめざしたのだ。ぜひ手にとっていただきたい。
こんなに臆面もなく自画自賛をしたのは、最近とみに出回りはじめた「編集力がイチバン大事!」「編集思考バンザイ!」ふうの本が、あまりにも編集力を欠いているのが気になっていたからだ。あしからず。
さて、ぼくの今年1年はどうだったかというと、青息吐息もいいところで、誰かに文句をつけるなどとんでもない、お恥ずかしい次第だった。
千夜千冊を書くのもギリギリ、隔月ごとに締切りがやってくるエディションを構成推敲するのもやっとこさっとこ、イシス編集学校の伝習座や会合などにスタンバイするのもおっとり刀、依頼された原稿に手がまわるのはいつもカツカツ、そこへもってきて角川武蔵野ミュージアムの館長のお鉢がまわってきて逃げ隠れができなくなっている、というような状態で、結果、お世話になっているみなさんには不義理ばかりをしてしまった1年なのだ。ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。
おまけに、体がヒーヒー言ってきた。やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。

ほんほん24小出版社のけなげ・センター試験の末路

小出版社が大切な本を刊行しているのに接すると、その「けなげ」についつい応援したくなる。最近読んだいくつかを紹介する。ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。
平敷武蕉の沖縄文学をめぐる『修羅と豊饒』(コールサック社)は、難度の高い沖縄問題を静かに射貫いてきた戦後から平成に及ぶ文学者たちの思想と方法を真っ向から批評にしてみせたもので、いろいろ気がつかされた。コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。注文が多い日々がくることを祈る。
ハンス・ゲオルグ・ベックの『ビザンツ世界論』(知泉書館)は日本ではほとんど専門家がいないビザンチン文化についての橋頭堡を確保する一冊で、前著の『ビザンツ世界の思考構造』(岩波書店)につぐものだ。ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。
海外のサイエンスライターにはたくさんの凄腕がいる。リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。
話は変わるが、朝日新聞出版に「一冊の本」という月刊小冊子がある。原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。さらにきわどい芸談に向かってほしい。佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。
本の世界をどう見せるかということは、かんたんではない。感心するのは世田谷文学館で、このところ「帰ってきた寺山修司」「茨木のり子展」「水上勉のハローワーク」「大岡信展」「幸田文―会ってみたかった」「岡崎京子展」「澁澤龍彦―ドラコニアの地平」「筒井康隆展」などをみごとにまとめた。いまは「小松左京展―D計画」を展覧中である。ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。「都市の身体」を掲げた。仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。
ところで、来年実施予定だった大学入試のための共通テスト(大学共通第一次学力試験)の英語試験の民間委託がお蔵入りし、記述型の問題の実施が危うくなっている。いろいろ呆れた。とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。

ほんほん23ラグビージャパン・中国語版『山水思想』

本の話ではないけれど、どうしても一言。ラグビージャパンはよくやった。予選リーグは実に愉快だった。何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。堀江、松島、福岡には泣かされた。これまでは力不足だった田村もよかった。リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。
準々決勝の南ア戦は平尾誠二の命日ともあって、まるで正座するかのように固唾をのんで観戦したけれど、隙間や溝を突かれて、力と技を徹底的に封印された。リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。
何度も平尾との日々を思い出した。5年ほど前は体が辛そうだった。平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。「スペースをつくるラグビー」に徹した。
これでラグビー熱が盛り上がってくれるのは待ち遠しいことだったけれど、まだまだ時間はかかる。トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。
さて本の話にするが、先だってぼくの『国家と「私」の行方』〈東巻〉〈西巻〉(春秋社)の中国語訳が完成した。孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。『歴史与現実』という訳になっている。孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。イシス編集学校の師範代でもある。
これで、ぼくの中国語訳本は『山水思想』についで3冊になった。韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。

ほんほん22東所沢に"世界劇場"が出現する

2020年夏から21年春にかけて、埼玉県東所沢の1万2000坪の敷地の一角に「角川武蔵野ミュージアム」が姿をあらわしていく。敷地内には角川グループの一部も引っ越す大型建物も出現し、ホテル、ホール、書店、オンデマンド印刷所、流通拠点もできる。角川歴彦の乾坤一擲なのである。
ミュージアムのほうはまだ詳しい中身は喋れないが、既存の図書館・博物館・美術館の概念を壊して新たな複合と融合をはかってみたものだ。まあ、書籍、アート、アニメ、博物展示、商品、フィギュア、連想検索システム、VR、飲食、体験学習、ラノベ=マンガ閲覧スペース、武蔵野ギャラリーなどを、自由気儘に組み合わせた複合文化施設だと思ってもらえばいい。すでに隈研吾の多角形の設計は了って、いま鹿島による建設の仕上げに向かっているが、なかなかおもしろい形象と構造になっている。
ぼくは荒俣宏らとともにこの複合ミュージアム施設の構想から参加していたが、いまはミュージアム館にフロアー展開する「本の森/本の街」づくりにとりくんでいる。4階だ。世界中のどこにもない「本棚劇場」と、本が賑わう「エディットタウン」(ET)とを組み上げることにした。
本棚劇場には、角川書店のこれまでの主な刊行図書と角川文化財団の蔵書のほぼすべてが入るのだが、たんに本が並ぶのではなく“IT時代のイニゴー・ジョーンズ”の世界劇場はかくやあるべしというような、いわば「本のパフォーマンス」が愉しめるようになるだろうものを用意する。ちょっとしたブック・プロジェクション・マッピングも見せる予定だ。
一方、ETのほうはかなり斬新で、かつ賑やかだ。いくつもの本棚が構成するブックストリートになっていて、本棚が見せる書街・書域・書区・書段・書列が街区のように展開する。本とそれにまつわる知的情報と付加情報が興味津々に出入りしているストリートをゆっくり歩いてもらえば、それだけで本の試食や味見ができるようになっている。いわば「本の仲見世」「本のピカデリーサーカス」「本の屋台村」なのである。“継読”や“連読”もおこるはずだ。
4階には荒俣君による博物室「ウンダーカマー」(驚異の部屋)や、高橋コレクションを中心にした現代日本アートのギャラリーも出現する。3階にはアニメやサブカル売り場が、5階には武蔵野界隈やカフェもお目見得する。
ぼくは長らく「本は交際である」「読書は編集である」「編集は乗り換え・着替え・持ち変えである」と言ってきたが、エディットタウン(ET)では従来型のじっくりした読書ではなく、来館者が好き勝手な連想読書体験のスピードに乗れるようにしたいと思っている。だから当然、ここではこれまでの図書館や書店からはおよそ想像がつかない独特のコンテキストによる「文脈棚」が出現する予定だ。千夜千冊にもとづいたエディションが反映し、そこから多様多彩な連想に向けてさまざまに遊べる本の並びによる文脈(シナリオ)も用意する。
いま現在は、それらのための選書作業に大わらわだ。9ブロック(書区)のETなので、7人のブックディレクターに数人ずつの選書スタッフがそれぞれ張り付いて、口角泡をとばしてやっさもっさ、ユニークな棚組を準備してくれつつある。選書のプロ何人かやイシス編集学校の師範や師範代から選抜したチームだ。太田香保と和泉佳奈子が仕切ってくれているが、ぼくも大中小の注文を出しているので、長時間にわたるミーティングは戦場になる。というわけで、ETは痛快で、かなり前代未聞のものになるだろうと思う。
いまさら言うまでもないだろうが、どの棚も、文学・自然科学・社会思想・実用書・医学などというふうには分かれないのだ。心のいきさつと脳科学と現代小説とAI本が組み合わさり、遺伝子やオスとメスの進化や昆虫の本を追っていくと王朝の古典や恋愛本に辿りつき、ベートーベン本やヴァレリー本から小林秀雄やジュネや片山杜秀を通ってリルケや谷川俊太郎や川上未映子に抜けていく。世界史の本のあいだにはロラン・バルトやバルガス・リョサや諸星大二郎が挟まれる。そんな感じなのだ。複本(ダブリ本)もいとわない。漱石やエーコはいろんな棚に顔を出すわけなのである。
本棚はお喋りでなければ、おもしろくない。リミックスじゃなければ、本棚じゃない。「読相術」が動かなければ、ブックコモンズじゃない。いずれまた途中経過を洩らしたい。以上、やや早めの予告のお話でした。

ほんほん21カイヨワ・あいトリ・神と理性

8月15日だった。追われて消えた。敗戦刻印の日が「終戦記念日」になってから、いつもこうだ。折しもカイヨワの『戦争論』をETVの「100分de名著」が解説していた。西谷修のナビは上々だった。言うまでもなく、カイヨワ大好きのぼくからしてもぜひとも読んでほしい一冊なのだが、実はカイヨワの戦争論ではもはやまにあわなくなってきたところもある。「情報」が議論できていないし、テロリズムに対応できていない。カール・シュミット、ヴィリリオ、高祖岩三郎を加えたい。
「表現の不自由」の展示(慰安婦少女像)の一件で愛知トリエンナーレ『情の時代』が揉めている。ウーゴ・ロンディーノら11人の海外出展作家とサブミッションを受け持っていた東浩紀が降りた。ぼくがプレ開会のトークでプロデューサー役の津田大介君と公開対談をしたときは、こんな企画は立ち上がっていなかった。それにしてもアートも吉本も大学入試もコンプラで収めようとするのは、虫酸が走る。
往時を語るというのは、通りいっぺんの提示や回顧では括れない。そんななか、「群像」連載中の瀬戸内寂聴の随筆『その日まで』が唸るほどすばらしい。9月号が第12回目で、毎回、97歳になった自分の周辺のことや脳裏を掠めていることを、零れるがごとく、貪るがごとく綴っているのだけれど、実に味わいがある。削いだ文章も、去来する記憶の扱いも申し分なく、これまでとくに寂聴文学に関心をもっていなかったぼくを、瞠目させている。
ついでに「群像」を誉めておくと、群像新人文学賞の選考委員の決然としたメッセージが、なんとも嬉しいものだった。野崎歓、松浦理英子、柴崎友香、高橋源一郎、多和田葉子が委員で、5人が5人とも明日の日本の文芸的格闘の筋交いのようなものを求めていて、凛としている。めずらしく胸が透いた。
各地のビエンナーレもそうだけれど、「何を選ぶか」「何を捨てるか」、いいかえれば「本来と将来をつなぐものは何か」という一線が、昨今はぐちゃぐちゃになってしまったのである。こういう時期は、あらためて本気の評価の立ち上がりが問われる。キュレーションもそうとう甘くなっている。まして視聴率や「いいね」ボタンの評判でコトをすすめるのは、たいていにしたほうがいい。そうでないと、評判を気にしたコンプラばかりがインチキ護符になる。評判ではなく、評価の力を磨きなさい。徂徠はこう言っていた、「まつりごと」をまるまる考えなおしなさい。そうなのである、政治も祭事も同じなのである。梅岩ではこうだ、「手前の埒をあけよ」「一を舎(す)てず、一に泥(なず)むな」。
8月25日、千夜千冊エディション『神と理性』(角川ソフイア文庫)をリリースする。「西の世界観」Ⅰとして、プラトン、オリゲネスからホッブス、スピノザをへてルソー、バークに及ぶ30人あまりを採り上げた。その原稿に加減乗除の赤をあれこれ入れながら、あらためて「神」や「理性」を打ち立てて思索と行動を律していた時代があっけなく崩れてしまったのはどうしてなのか、考えた。三十年戦争とリスボン大地震と工場産業力が打擲したのだった。
打擲すれば、時代は変わってしまうのである。打擲された側の価値観の切り替えが進むのだ。日本も明治維新でそうなった。薩長土肥はマジックにかかったのである。この手の駆け引きは、最近ならばプーチン、トランプ、習近平、エルドアン、アル・アサド、金正恩たちがよくよく知っていることだ。いやいや、政治家や資産家やマスメディアなら、そんなことは誰だって知っていた。
ところが、ここにもすってんころりんが起きはじめた。ネット社会が「なんでも民意」を嘯(うそぶ)くことになって、またまた事変がおきた。価値観に手が入ったのではない。それならいいのだが、そうではなくて、「いいね」ボタンとともに「ダメよ」ボタンが物言うことになったのである。何をか言わんやだ。ほぼ全員が監視カメラのもとで賞味期限をなすりあうことになったのだ。なんとか「一を舎(す)てず、一に泥(なず)むな」といかないものなのか。

ほんほん20EU離脱・反資本主義・加速主義

イギリスのEU離脱がスッキリしない。それどころかイギリスってあんなにひどいのかというほどの国政状態だ。だいたいEUがうまくない。2015年のギリシア問題のときの体たらくが象徴的だった。
ところであのとき、ギリシアの急進左派連合ツィプラス政権の財務大臣が「債務帳消し」を言い出していたのが印象深く、ざっくばらんな姿恰好もおもしろかったのだが、あれはヤニス・バルファキスという、エセックス大学で数学を修め、アテネ大学で経済学を教えている男であって、リーマンショックを予想して話題になった。
その後、3冊の本を世に問うた。『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話』(ダイヤモンド社)、『黒い匣:密室の権力者たちが狂わせる世界の運命』(明石書店)、『わたしたちを救う経済学』(Pヴァイン)だ。いずれも「非EU的・非アメリカ的デモクラシー」や「ツイン・ピークス仮説」を展開した資本主義批判の問題作で、告発力に富んでいる。
グローバル資本主義をどう批判するか、ぼくもこれまで千夜千冊で20冊以上の本を採り上げてきた。スーザン・ストレンジからジョン・グレイまで、中谷巌から金子勝まで。そのころのお気にいりはデヴィッド・ハーヴェイの一連の新自由主義批判(作品社)だったが、解決案があるわけではない。
その後もいろいろ読んだ。最近の日本では左派リベラル(レフト3・0)の松尾匡やブレイディみかこの『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(亜紀書房)などが元気で頼もしかったけれど、総じてはつまらない。経済学は死産したのかとさえ思わせられる。
経済学にはもっと地政学と情報構成論が必要なはずで、そこが欠けすぎている。つまり「社会」を情報地政学的に見るという下敷きが欠けている。そこはいったんイアン・ハッキングなどに戻って学んでみるか、アメリカの未来シナリオがそれに乗っているのだが、ジョージ・フリードマンなどを読み込んだほうがいい。トマ・ピケティやマルクス・ガブリエルの水辺でぴちゃぴちゃしているのは、いただけない。
勢いをもちはじめたのは「加速主義」(acceleration)である。今日の資本主義をもっとラディカルに拡張加速するべきだという思潮だ。右寄りのニック・ランドが提唱した「加速主義」やニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズがネットに提起した「加速派政治宣言」、左寄りのラボリア・クーボニクスの「ゼノフェミニズム」やベンジャミン・ブラットンのオープンエンド「デザイン・ブリーフ」の提唱などがある。ブラットンの「デザイン・ブリーフ」は、情報技術インフラが地政学社会をスタックさせているというもので、そこにどのように“つっかい棒”を入れるかというものになっている。
去年の8月、kizawaman02のアカウント名で「オルタナ右翼の源流 ニック・ランドと新反動主義」という2万字に及ぶ論考がウェブ投稿された。暗闇の熱を持ち出したような反響に包まれたものだ。この論考の中身はその後、木澤佐登志の『ニック・ランドと新反動主義』(星海社新書)にまとまった。
そんななか、今年の「現代思想」6月号も「加速主義」を特集して、千葉雅也・仲山ひふみ・木澤らによって、「資本主義が資本主義の外まで出ていく可能性」が議論されていた。これらがはたしてドゥルーズ=ガタリのアンチ・オイディプスの追想なのか、自殺したマーク・フィッシャーの鎮魂なのか、シンギュラリテイ仮説のヴァージョンにすぎないのか、まだ見えてはきていない。ぼくは、フレデリック・ジェイムソンの『未来の考古学』(作品社)などが示したSFのディストピア観をもう少し議論したほうがいいと思っているのだが、さあ、どうだか。

ほんほん1975歳のキズ・ズレ・アレ

75歳になってから目の調子が思わしくなく、困っている。数時間ごとにワープロとコンピュータから目を遠ざけないと、ぼんやりしてくる(ぼくはワープロとPCを二重使いしている)。そうすると、思考のキレも悪くなる。だから机から離れて、ちょっと休む。肺癌手術のあと、仕事場の書斎に松岡正剛事務所がリクラニングチェアを入れてくれたので、そこで休むのだ。
声の調子も少しおかしい。人前で話していると、隙間があく。かつてはそういう隙間も何かのチャンスだと思って、そこで発想を加速させたりギアチェンジしていたのだが、そのキレも悪くなった。
キレが悪いとどうなるかというと、第1にこれまでストアしてきたレパートリーの棚からの引き出す技が甘くなる。第2にその引き出しについての自分の「当たり」がズレる。第3に連想力が落ちる。なんとなくアレだとは思うのに、そこへ一気呵成に向かえない。キレが悪くて、ズレがおこって、アレが思い当たらないのでは、処置がない。
もともとぼくの思考は、たくさんのレパートリー(目次録)にもとづいて、あえてキレ・ズレ・アレを活かして連想編集を愉しむというものだったのに、そこに齟齬が生じるのは、まことにヤバイのだ。
第4に手摺りと鏡の役割が変調をきたすようになった。これはどういうことかというと、ぼくの編集思考は少女たちがバレーを習うように、手摺りに掴まりながら鏡に向かって手足を動かしていくというレッスンから始まったのである。その手摺りがダーウィンや情報理論の手摺りだったり、芥川やベルクソンやヴィトゲンシュタインの手摺りだったりするわけで、そのどこに掴まったかを鏡(マッピングボード)に映しながら編集するのだ。だから手摺りはいつも違う。まあ、ボルダリングのカラフルなホールト(突起物)のようなもので、掴まるところが次々に変わる。
ところが最近になって、この手摺り(ホールド)と鏡(ボード)との関係がぴったりこなくなってきた。これまたヤバイのだ。アタマで掴もうとした箇所と、それが鏡に映って見せてくれるところの関係に誤差が生じるのだ。おそらく立体的な(トポロジックな)誤差だろう。これは立体顕微鏡を覗きながらの操作がまちがっていくようなものだ。
第5に以上のような編集思考を文章にしていくとき、迷うようになった。中身で迷うのではない。表出すべき転位のレベルに迷う。それまでの作業とはまったく別のことを書きたくなってしまうのだ。それなら最初からパスカルやモンテーニュや内田百間のエッセイでよかったのだ。
そんなわけで、いろいろ青息吐息なのだが、ところが、ところが、である。75歳になってから、なんと読む本の数がどんどんふえてきたのである。倍くらいになっている。これはリクラニングチェアで休むときに、しばらくたって回復感がやってきても、机に戻らず、近くの書棚から次々に本をパッセージさせるせいだ。これがやたらに気分がいい。いったん弛緩させた何かが、別様の動きを見せてくれるのだ。努力も集中もしていないのだが、どんどん読める。疲れればそのまま仮眠に入ればいいので、気楽なのだろう。
それで思うのは、そうか、ぼくはこうして死んでいくのだろうということだ。セミやチョウチョがどんなふうに死んでいくのかは知らないが、これまで飼ってきた犬や猫は死に支度を心得ていた。読み遊んで死んでいく、少なくとも仮死状態になっていく。これはけっこう悪くない。

ほんほん18"擬き"が生んだ至高の芸

「歌まね・ものまね」番組をよく見る。最近のコロッケやプロレスラーの一発モノマネ芸はつまらないが、コージー富田、原口あきまさ、福田彩乃、青木隆治、ざわちんなど、ときにほれぼれする。フツ、フッ、フッ、ひそかに贔屓にしている。ああ、あれあれ、そうそう、これこれと「思い当たらせる」のが、ものまねの真骨頂なのだ。「思い当たらせる」というのは編集力の賜物でもある。
ものまね芸はルーツが古くてその裾野もやたらに広い。そこには古代ギリシアこのかたのアナロギア(類推)・ミメーシス(模倣)・パロディア(諧謔)の伝統があるし、日本では世阿弥がもっぱら「物学」(ものまね)を最大限に重視した。ぼくなどは、そもそも「似せる」という表現こそが、すべての表象行為の原動力になってきたと見ているほどだ。ガブリエル・タルドの『模倣の法則』(河出書房新社)、アウエルバッハの『ミメーシス』(筑摩叢書)、カイヨワの『遊びと人間』(講談社学術文庫)を持ち出すのもナンだが、カリカチュア、ミミクリー、ギミック、フェイク、イミテーション、シミュレーションは、思想にとっても最重要課題なのである。
ものまねは芸能だけでなく、肖像画、似絵(にせえ)、似顔絵、マンガ、パントマイム、メーキャップ、扮装、ファッションにも深く関係する。ぼくはコスプレにも唸ってみたいと思ってきた。だいたい思想と映画の大半がコスプレなのだ。現代アートから見ても森村泰昌やシンディ・シャーマンは極上の「ものまね芸術」だ。
ところで、「なりきる」と「誇張する」がまじってくると、そこに滑稽が生じる。滑稽とは字義通りには「すべって乱れて酔わせます」ということである。ものまねはそこに「本歌どり」と「見立ての妙」が加わる。たんなるお笑いやユーモアなのではなく、これは「擬き」の芸なのだ。「肖り」であり、「準え」なのだ。日本の芸能が「擬き」を主眼にしてきたことは、夙に折口信夫に詳しい。
大室幹雄に『滑稽』(岩波現代文庫)があった。古代中国で異人のありかたが強調されて、ストレンジャー(異人)が里人にとっての滑稽だったことを証して、折口のマレビト論の奥を覗いた。『のらくろ』シリーズの田河水泡は『滑稽の研究』(講談社学術文庫)で、マンガがどうすると滑稽になるのか、笑いどこで生じるのかを解いた。「ころび」に注目していた。どこで転ばせるか、そこがポイントなのだと言う。2年ほど前に刊行されたばかりの『〈ものまね〉の歴史』(吉川弘文館)は、なんと仏教学者の石井公成がまとめた。インド・中国・韓国の寺院芸能にあった滑稽芸が日本に来て、大幅に変化していく変遷を追った。まじめすぎる研究だが、ものまねが信仰と隣リあわせだったことには、頷けた。
先だって国立劇場で『妹背山』を見た。久々に堪能させてもらった。呂勢大夫に色気がふえて、勘十郎は華麗が漲り、蓑助さんはますます凛としていた。ちょうど「千夜千冊エディション」の新刊『芸と道』(角川ソフィア文庫)で、その口絵に玉男さんが時姫を操って世阿弥の文庫本を見ている写真を入れさせてもらっていたので、なんだか他人事ではなく見てもいた。
人形浄瑠璃は中世の傀儡(くぐつ)の辻芸をルーツにしている。傀儡は変ちくりんな人形だが、それが箱から取り出されてちょこちょこ操られるのが、おもしろい。おかしい。けれどもそれがしだいに極め付けの芸術に達した。竹本義太夫、近松門左衛門、紀海音、植村文楽軒らの才能がそうしてみせた。文楽である。人形は三人遣いになり、大夫の浄瑠璃と太棹の三味線が付いた。世界最高の芸術芸能だ。しかし、その奥は「口移し」であり、「人形ぶり」であり、「合わせ」なのである。つまりは「擬き」であって「準え」なのだ。
最近は若手旗手の竹本織太夫の『文楽のすヽめ』(実業之日本社)なども出て、若いファンも広がっているが、やっぱり安藤鶴夫の『文楽』(朝日選書)や竹本住大夫の『文楽のこころを語る』(文春文庫)あたりで冷や汗をかいたほうがいいように思う。何を真似るべきなのか、そこがキモなのである。
ところで先月、大屋多映子の『馬琴と演劇』(花鳥社)が上梓された。40代になったばかりの著者による、滝沢馬琴や山東京伝に出入りする「舞台」の影響に迫ったもので、浩瀚な出来になっている。近ごろは伝統芸能を女性が切り結んでくれることが多く、新鮮である。福田彩乃も大いに活躍してほしい。

ほんほん17読相術/読相学

最近になって、「読相術」とか「読相学」というものを考えている。どうも読書法とか読書術とか読書論という言い方に限界や桎梏を感じてきたからだ。マラルメやブランショのころまでは、読書という言葉にはちゃんと「書物」というオブジェクトが黒光りしていた。書物はモノリスだった。それにとりくむのが読書という格闘でありファンタジーであり、陶酔であり反逆だった。けれどもいつのまにか、そういう見方がすっかりなくなった。
読書感想文とか読書コンクールも、いまなお全国どこでも施行しているのだろうと思うけれど、管見するに、かなりひからびてきた。ビブリオバトルも狙いがよくわからない。まだしも学校での朝読(あさどく)のほうがいい。読解力を試す国語の問題づくりも低迷している。
こうした傾向は、書物や本を相手にしていないところに悪習がはびこったのである。文章を相手にしているだけなのだ。著者や執筆者の「言わんとしていること」を質すばかりで、著者や執筆者と交歓できていない。悪しきテキスト主義である。これではハイパーテキスト感覚など、とうてい醸成できない。テキストを正確に解釈するのではなく、本の表紙やページに触ったり離れたり、入ったり出たりすることが大事なのである。
読相術とか読相学というのは、フンボルトらの観相学(フイジオノミー)にも響くもので、モードやフェーズやアスペクトの「相」に注目する。その「相」が相似したり相転移するところを読む。基本的にはそういうことなのだが、もちろん学問として確立したいというわけではなく、ただみんなと本を読みながら、そうしたくなったのである。みんなというのはみなさん一般ではない。仕事仲間、千夜千冊の読者、イシス編集学校の師範代や師範たちのことをさす。
サルトルが読書のことを作者と読者とのあいだに結ばれた「ジェネロジテ」だと言って、所与ではなく贈与としての読書行為を強調したことがあった。ドゥルーズが「パレーシア」を持ち出して、本の中の語りが自分の存在の様式になるために鍛練することを読書として重視したことがあった。いずれも読相術の兄弟になりうるが、ぼくが勧めているのは、もっとカジュアルでファッショナブルなこと、あるいはアートなことだ。本やページや目次に出入りするたびに、なんらかの乗り換え、着替え、持ち変えがおこっているのだが、そのつどの「相」の変化に注目すること、これが前提なのである。
こういうことに注目しているのは、もともとぼくは「読み」というものは本やテキストを読む前から始まっていると見ているからで、われわれは町を歩いていても、コンビニで何かを物色しているときも、会話をしているときも、さまざまな「読み」をしているのである。そもそも知覚や認知が「読み」なのだ。これを仮に「潜読」の状態と名付けると、本やメディアや映画によって、われわれは新たに「顕読」をおこしているわけである。同じことを幼児もやっている。母親とともに潜読していることが、言葉や名前や絵本で新たに顕読されるのだ。
しかし、この潜読から顕読の過程は、テキスト的におこっているとはかぎらない。八百屋の店頭の「ごぼう130円」という書きなぐり、コマーシャルで急にあらわれる色のついた声、新聞の見出しの白ヌキの強さ、絵本の表紙の絵柄、アイドル歌手のメロディを伴った歌の言葉、そういうものも潜読状態にあり、顕読を待っている。読書は国語問題的におこるばかりではなかったのである。
しばらく前に、こうした読相術についてのメモをまとめて、仲間たちと共有しはじめた。いささか詳しいスキルやルーチンもも提供したが、どのくらい納得できるものになるかは、みんな次第なのである。いつの日か、ひょっとして「読相術」といったタイトルの本が登場することがあるかもしれないが(ぼくが書かなくてもいいのだが)、そのときは、この「ほんほん」を思い出してもらいたい。

ほんほん16万葉の"令和"が諡られた

新しい元号が「令和」になった。中西進さんの提案だ。天平2年、太宰府の大伴旅人邸での梅花の宴で詠んだ32首の和歌に付けられた「序」からの採字である。ついに和書が出典になったと政府も巷間も沸いてはいるが、万葉集の「初春令月気淑風和」は『文選』の「仲春令月時和気清」からの翻文なので、「まるごとニッポン」というわけではない。王羲之の香りがする。
昭和の「和」がはやくも再使用されたのも、どうか。選考プロセスが堅すぎたのではないか。中西さんなら、そのへんの相談をすればもっと代案をつくってくれただろうに。万葉秀歌や古今集や源氏にブラウジングしてもよかったのである。『古今集』の真名序と仮名序の対比、藤原公任の『和漢朗詠集』の漢詩と和歌の重畳対比からして、すでに和漢をまたいだうえでの「まるごとニッポン」の試みなのだ。
これは冗談だが、マンガなどで遊んでくれるといいのだけれど、ヴァーチャルには仮名の元号があっても、おもしろい。たとえば「てふてふ元年」とか。マンガにでもなると末次由紀の『ちはやふる』(講談社)以上のものになるかもしれない。
それはそれとして、改元発表で万葉集が本屋に一挙に並んだ。このまま万葉ブームがくるのかどうか知らないが、これはこれでおおいに結構なことだ。ただしかなりの歌数なので、うまく遊べるかどうか。斎藤茂吉の『万葉秀歌』(岩波新書)、それこそ中西さんの『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫)、ビギナーズ・クラシック『万葉集』(角川ソフィア文庫)あたりで愉しむのがいいだろう。上野誠や鈴木日出男のものも入りやすい。ぼくとしては折口信夫の『口訳万葉集』(岩波現代文庫)を推したい。
万葉は日本人が「歌を詠む」という行為がいったいどういうものだったかということを、明かしてくれているものだ。日本人のリプレゼンテーションの方法がわかる。それは一言でいえば「寄物陳思」と「正述心緒」だ。「物に寄せて思いを陳(のべ)る」か、それとも「正に心の動きの端緒を詠む」か、この二つだ。むろん、日本語のリズム(律)や枕詞や歌語・縁語のルーツもわかる。ぼくは人麻呂の「代作性」に関心をもってから、万葉が詠みやすくなった。
アーティストとしての万葉に溺れたいなら、歌人別に読んだほうがいい。万葉はアートだから。入門的には「コレクション日本歌人選」(笠間書院)がとてもよくできている。人麻呂、額田王、憶良、家持、東歌・防人歌、そして大伴旅人などが一冊ずつになっている。このシリーズは古典から寺山修司のような現代歌人まで、実にバランスよくラインアップされている。
ところで、改元を機に「元号をどう思いますか」という街頭インタビューやアンケートがされているようだが、あったほうがいいに決まっている。ぼくはメートル法や太陽暦の絶対施行にも文句があるほうで、なんであれ呼び名はいろいろあっていい。人も町名もお菓子も国も、暦も校名も名所も会社名も、呼び名は愛称なのである。読売ジャイアンツが「巨人」でもいいように。ハンドルネームや道号や雅号はあれこれ出入りするべきなのである。どんなアイデンティティもグローバル基準になる必要はなく、どんなものも併用多様が望ましい。
元号が気になるなら、諡号や追号も気になってほしい。「諡」というのは「おくりな」のことだ。人だけではなく刀や器にも「おくりな」がつく。日本は「贈る」「送る」「諡る」の国なのである。これは自分で付けるのではなく、戴く(頂く)ものである。

ほんほん15弾む対談・座談本

対談本や座談本というのは、なかなか売れないらしい。なぜか読者が多くはない。たしかにダメ本が出回りすぎたせいもあるのだが、なんとなく面倒くさいと思ってしまうのだろう。実はおもしろいものはかなりある。エッカーマンの『ゲーテとの対話』(岩波文庫)から小林秀雄の『学生との対話』(新潮社)まで、古典的な名著も少なくない。丁々発止が愉しく、ふだんは隠れている衣の下の鎧も見える。
思想の模様が見えることも多い。クレール・パルネとドゥルーズの『ディアローグ』(河出文庫)やウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(メディアハウス)、佐々木閑・大栗博司の『真理の探究・仏教と宇宙物理学の対話』(幻冬舎)あたりは、対談仕立てじゃなきゃ読めない模様が見えた。編集力によるが、計画的な対話も見逃せない。大澤真幸と橋爪大三郎の『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)シリーズは話題にもなったが、なかなかよく出来ていた。
対話や座談の名人もいる。司馬遼太郎や小松左京がそういう人だった。話術がうまいのではなく、問題意識が自在に行き先を求めて動くのだ。この動きや飛びが貴重なのである。独特の調子がたまらない人たちもいる。ぼくが出会った人々では、禅の大森曹玄、日本文化の白洲正子、踊りの土方巽、神秘学の高橋巌、染色の志村ふくみが印象的だった。それとは逆に、何度喋っても好き勝手なことしか言わないのは稲垣足穂さんである。
かく言うぼくも、なんだかんだの対話本がある。ついでなので紹介する。ジョン・ケージやJ・G・バラードやスーザン・ソンタグと語らった『遊学の話』(工作舎)、レオ・レオーニとの『間の本』(工作舎)、石岡瑛子・楽吉左衛門・美輪明宏・島田雅彦・阿木耀子・辻村ジュサブロー・山口小夜子・安藤忠雄・萩尾望都らとの『色っぽい人々』(淡交社)、山口昌男・ジャック=デリダ・吉本隆明と話しこんだ『間と世界劇場』(春秋社)、平尾誠二とラグビーをめぐった『イメージとマネージ』(集英社)、エバレット・ブラウンとの『日本力』(パルコ出版)、茂木健一郎との『脳と日本人』(文芸春秋)、編集者が仕掛けたドミニク・チェンとの『謎床』(晶文社)、佐藤優との『読む力』(中公ラクレ)、田中優子との『日本問答』(岩波新書)などだ。いまも津田一郎との対談本が進行中だ(これはかなり濃い)。
というわけで、ぼくは対談や座談にはけっこう関心があるのだが、最近の現代思想カンケーでは対談・座談本のほうが著書よりも「弾んでいる」という例が目立っているようにも思う。たとえば、千葉雅也の『思弁的実在論と現代について』(青土社)は阿部和重・いとうせいこう・清水高志・小泉義之・吉川浩満・松本卓也らを相手に、あの堅い文章の千葉の、実はとてもナイーブな側面が醸し出されていて、けっこう味わえた。清水高志・落合陽一・上妻世海の『脱近代宣言』(水声社)も突っ込みどころが古典的かつ新鮮で、読ませた。落合が入ったよさだろう。東浩紀が石田英敬にとことん喋らせてみごとな誘導をしてみせた『新記号論』(ゲンロン)も適確な見取り図が次々に多重トレースされていて、楽しめた。東の控え方がよかった。ゲンロンカフェでの収録だったようだ。
文芸誌や総合誌や思想誌が売れない時代に突入しているが、それらに載っている対談や座談はしばしば虚を突いてくる。書店でパラパラめくって気になれば、入手されるといいだろう。

ほんほん14本との交際の仕方

ぼくがなぜこんなにも本と交際してきたかということを、春を迎える前に述べておく。まずなによりも、本を読むことは思索を深め、自身の構想を多重立体的にしていくにはきわめて有効なのである。
われわれの思索というもの、なかなか充実しにくくなっていて、たえずワインディングや拡散をおこす。理由がある。第1に脳は自活できない、第2に内言語はぐるぐるまわる、第3に確信と連想の区別がつかなくなる。このせいだ。
そこで本を読むと、本が手摺りになってくれるのである。
本にはいろいろな著者たちの言葉と流れがすでに示されている。これは、未知の町には通りがあり、通りには歩道や信号があり、進むにつれて周囲にさまざまな店や看板が並んで待ってくれているようなもので、われわれはこれらを通過しながら何かを考えることができるようになる。本を読むとは、その流れを手摺りにして、自分の考え方の筋道と脇道を見極めたり、勝手な連想や妄想を広げているようなものなのだ。ぼくは本を思索のストリートガイドのようにしてきたのである。
もちろん、それで本の中身が理解できたかどうかは、別だ。ストリートガイドとしてはぼくの思索の欠陥をカバーしてくれたけれど、だからといって中身に入れたかどうかは別問題だ。そこで、本を読みながらマーキングをしたり、メモを書き加えたり、気にいったところをノートに写したりするようにしてきた。犬のようにおしっこをかけ、ビーバーのように小枝で絡み結びをし、カメラ小僧のようにスナップショットを残していくわけだ。
これで、かなり付き合い(交際)が深くなる。愛着も出る。エンガチョがふえるのだ。ただし、まだ充分というわけではない。できるかぎり、その道(その本)をもう一度、通ることが欠かせない。ざあっとでもいいから、もう一度、その本を見るのだ。瞥見読みである。ただし、このとき乗り物を換えるようにする。自転車にしたり、いちいち足で蹴るスケボーにしたり、自動車にしたりする。できれば着物も変えたり、持ち物もちがうものを持つ。
これでなんとか、最初のストリートガイドとしての本は知覚変換されたものになり、一冊の本は少しぼくなりのものになっていく。
本を読むとは、このように理解を深めるばかりが愉しみなのではない。本から本へ亙り、本と本をつなげ、本の中に別の記憶を埋め込んだり、仮説を遊ばせるということもできる。千夜千冊はそのためのぼくの稽古となった。読書はインプットばかりに精を出していても、ダメなのである。適度にアウトプットをすることも必要だ。これはゴミ出しや断捨離ではない。生命が適度にエントロピーを捨てているようなものだ。新陳代謝を動かすのである。
では、溜まった本はどうするかというと、本棚に入れる。このときさまざまな本の並びで、新たなアウト・リーディングを遊ぶのである。諸君、春は鉄までが匂うもの、本をいろいろファッションしてみてはどうか。

ほんほん13読書は"ポリフォニック"である

長らく千夜千冊を書いているので、ふーん、最近の松岡さんはこの本を読んでいるのかと思われがちなのだが、あれは採石場からの「切り出し」で、実際にはいろいろの石を読んでいる状態が継続している。
その「いろいろ」にも幾つかの筋目があって、これはと思った著者をそのまま続けて読む(お百度読み)、その本にまつわる別の著者の本を読む(親類縁者読み)、気分転換のためにその時のコンディションで何の脈絡もなく気楽に読む(反脈読み)、部屋での坐った位置でその近くの本棚から取って読む(腰掛け読み)、ゴートクジの仕事場をまわりながら物色して読む(棚卸し読み)というふうにかなりまぜこぜなのだ。そもそも読書はポリフォニックなのである。
小林惠子の『聖徳太子の正体』がちょっと変わっていたので、そのあとは『広開土王と「倭の五王」』『興亡古代史』(いずれも文藝春秋)、『大伴家持の暗号』(祥伝社)などをちらちら読んだ。クリストフ・コッホの『意識をめぐる冒険』(岩波書店)を読んだときは、そこにジュリオ・トノーニの総合情報理論の言及があり、そのヒントに導かれてトノーニの『意識はいつ生まれるのか』(亜紀書房)から十数冊の路線バスの旅が始まった。こういうことばかりしている。
最近のお気にいりは細胞・細菌・微生物である。ぼくはこの数年はネンキン生活をしているのだ。ブレイザーの『失われてゆく、我々の内なる細菌』(みすず書房)、デサールとパーキンズの『マイクロバイオームの世界』(紀伊国屋書店)が痒いところに手をのばしていた。
思い出し読みもする。ああ、あのへんずいぶんほったらかしにしてきたなと、何かの折りにその著者の流れに舞い戻るという読み方だ。テイヤール・ド・シャルダン、徳川夢声、蘇東坡、遊民研究の沖浦和光、ホッファー、神秘学の高橋巌、エーリッヒ・フロムなどだ。ダマテン読みも多い。レヴィナス、佐々木中、多和田葉子、片岡義男、森博嗣、片山杜秀、セール、東浩起、モラン、笙野頼子、阿部和重、宇宙物理学の佐藤文隆、デリダ、赤坂真里、ファイヤーアーベント、千葉雅也などは、まだ千夜千冊していないが、ほぼ隠れファンの気分で読んできた。
しかし、ふりかえって一番のコツは何にあったかといえば、何度も何度も繰り返して読んできたものがあったということだと思う。モンテーニュ、稲垣足穂、蕪村、シオラン、寺田寅彦あたりだ。これはみなさんにも、いまさらながら奨めたい。絵本でもマンガでも教科書でも、なんでもいい。数年単位の再読でもいい。できるだけ繰り返して読むことだ。まあ、水中歩行読み、もしくはビタミン読みである。
ところで、平成30年は思想本が突出できなかったように思う。ハラリの『サピエンス全史』『ホモ・デウス』(河出書房新社)はこの手の人類文化史ものが初めての諸君には恰好の入口になるだろうが、シュペングラー=ローレンツ=ダイアモンド型の読書に慣れてきた者には新しくはない。AIものが話題のわりにはつまらなかったのも目立った。アタマ打ちをしているにちがいない。本当は仏教思想の新たな展開に期待しているのだが、さあ、どうか。

ほんほん12千夜千冊エディションに追われる

このところ角川ソフィア文庫の「千夜千冊エディション」に追われていて、これじゃ好き三昧に本が読めなくなるなと思っていたのだが、なんとこれが逆だった。最近は目がおかしくてモニターを見ながら文章を打つのが2時間くらいでいったん、へたる。そこで、机を離れてそばの松岡正剛事務所が用意してくれたリクライニングチェアに身を移して目を休めるのだが、しばらくするとむずむずしてきて、まわりの本棚から本を取り出してパラパラ読みをする。これがたまらなく高速集中になって、とくに若い連中の思想もの、文芸誌の小説など、いくらでも進むのだ。むずむずがいいらしい。まったく因果なことである。「千夜千冊エディション」はおかげで『理科の教室』まできた。その前の『面影日本』は神田でベスト10に入ったらしい。どのエディションもそうだが、この仕事はぼくの集大成の一部を担っている。かつての千夜千冊を並べなおし、おそらくは50冊か80冊くらいにするというシリーズなのだが、一冊に20夜から30夜くらいが入るので、これを章立てをし、すべてにヘッドラインをつけ、さらに一行ずつすべてを読みなおして推敲する。加筆もあるし、削除もある。千夜千冊を書いたときの気分から抜け出て、新たな構成意図で綴りなおしているような気分になれるのだ。『理科の教室』は構成そのものを3度くらい組み直した。
これはいったい何をしているのかなと考えてみたら、それなりに長く歌ってきた歌手が、自分の持ち歌(レパートリー)でリサイタルをしているようなものかなと思った。毎回、レパートリーを替え、バンドもアレンジも衣装も違うから、気分も変わる。ただぼくの場合は、そのつど歌詞も少しずつ違っていくのである。『面影日本』も『理科の教室』も200カ所以上、味付けが変わっているはずだ。なかにはお茶漬けだったものが海鮮丼に、エッセイ風だったものが思想クロニクルを盛り付けた皿ものになっている。
ヤバイこともおこっている。エディションを始めると、足りない本がいくらだって出てくるのだ。千夜千冊は好きに一夜ずつを摘まみ食いをしてきたのだから、流れでは書いていない。それが4章立てや5章立てに選んで並べるということになると、ヌケが気になってくる。プラトンとエピクロスは書いていたのに、アリストテレスを書いていなかったという感じだ。とはいえ角川エディション用だけに新たに追加するわけにもいかないので、困るのだ。忸怩たる思いになる。そこで先を見通して、千夜千冊の最新夜にのちのちの流れを補填できる本を選ぶということになりかねないのだが、これは何がおこっているかといえば、本末転倒だ。日記を書くためにその日の出来事をふやしているというヤツだ。まったくもって因果なことである。
ところで新刊を出した。『雑品屋セイゴオ』(春秋社)というもので、35年前にSF雑誌に連載していたものを、太田香保と寺平賢司の勧めでまとめたものだ。ぼくの子供時代に執着した商品やオブジェを120個採り上げた。当時のぼくのフェチが洩れ出ている一冊になっている。菊地慶矩君が120枚のすばらしい絵をつけてくれた。もう一冊、手書きの原稿用紙のまま本になった『編集手本』(EDITHON)も本屋に並んだ。これは以前、編集工学研究所にいた櫛田理君と佐伯亮介君が入念に仕上げた。『雑品屋セイゴオ』も『編集手本』もザッピングがねらいなのである。クリスマスにどうぞ。

ほんほん11歌人選・プリンス・赤坂真理

笠間書店の「コレクション日本歌人選」1~3期の全60冊が揃い、いよいよ4期が始まった。すばらしい企画だった。4「在原業平」、19「塚本邦雄」、31「頓阿」、54「正徹と心敬」、56「おもろさうし」、59「僧侶の歌」などが印象にのこる。
ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(河出書房新社)がベストセラーになったのには驚いた。かつてもジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)がゼロ年代のベスト1になったというので歓んだのだが、実際にはロクに読まれていなかった。今度もそうならないことを希うけれど、実は中身はあまり斬新ではない。同じ著者の次の『ホモ・デウス』は狙いはおもしろいのだが、いささか空振りだった。それでもこういう本が一般向け世界史テキストになるのなら、日本も見捨てたものじゃない。が、もうひとつのサピエンス史であるはずの、デイヴィッド・ライクの『交雑する人類』(NHK出版)が話題になっていない。これじゃお里が知れている。
清水高志や岡嶋隆佑らとの対談を収めた千葉雅也の『思弁的実在論と現代について』(青土社)と、同じく千葉の『意味がない無意味』(河出書房新社)。それなりに愉しめたが(ぼくは千葉のものはいつも愉しんでいる)、アートに踏みこんだところであまりに概念が不足した。「空回り」をめざすのであれば、まさに正徹や心敬や江戸戯作をとりこむといい。もっともっとメイヤスーから九鬼周造への転回を期待する。
野中モモの『デヴィッド・ボウイ』(ちくま新書)、西寺郷太の『プリンス論』(新潮新書)、および大著でありながら瑞々しい『ヴィヴィアン・ウエストウッド伝』(DU BOOKS)を奨めたい。ポップカルチャーがいかに前衛を辞さないファッションとともに唸り声を上げてきたのか、その真底が窺える3冊だ。ユニクロばかりじゃいけないよ。
集英社新書でシリーズ「本と日本史」が始まっている。神田千里の『宣教師と「太平記」』はまずまずで、ぼくとしてはこのあとの龍澤武の『百科事典の終焉』を愉しみにしている。最近、日本史の中の「本」が浮上しているのは嬉しい。
白井聡の『国体論:菊と星条旗』(集英社新書)の評判がいい。よく練られているうえに、端的な切れ味がよく、天皇とアメリカの隠れた裏地を暴くものとしても注目される。できれば先行していた赤坂真理の小説『東京プリズン』(河出文庫)や評論『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)なども一緒に語られてほしい。
本づくりの面で2冊。本についてのアッサンブラージュ風の『本の虫の本』(創元社)、善養寺ススムが文章・イラスト・レイアウトを手掛けた江戸時代図鑑の英語版『Fantastic Edo Era』(入谷のわき書庵)が、丹念に本づくりをしていて好ましい。アニエス・ジアールの第2弾『愛の日本史』(国書刊行会)とともに推薦しておく。造本こそ電子書籍をぶっとばす。

ほんほん1021世紀にとっての仏教

心するものがあって、このところあらためて仏教を総浚いしている。いったんは古典古代に戻ってブッダの意図、原始教団のこと、アビダルマについて、大乗仏教の起こり方などを見直しているのだが、同時に21世紀にとっての仏教がどんなものだか、いろいろ判断をしている。アンベドカルやティク・ナット・ハンも見極めたい。木村文輝がまとめた『挑戦する仏教』(法蔵館)、ケネス・タナカの『アメリカ仏教』(武蔵野大学出版会)なども参考になった。
日本の近現代の仏教も抉らなければならない。そう思って曽我量深などを読んでいたのだが、大谷英一らが『近代仏教スタディーズ』(法蔵館)という愉快で精緻なガイダンスを仕上げてくれた。この本はみんな、買っておくといい。初めて「もうひとつの日本近代」が見えてくる。
「現代思想」10月号が「仏教を考える」という特集をした。冒頭、末木文美士が近松から入って近世の釈迦伝を浮き彫りにしているのと、安藤礼二が得意の大拙・折口・井筒を交差させて「東方哲学」をスケッチしているのがあいかわらずの手際だったが、ぼくは宮川康子が富永仲基と慈雲飲光を取り上げたのがおもしろかった。仲基も慈雲もほとんど議論が置き去りにされてきた近世仏教者なのである。とくに仲基の「大乗非仏説」はいまこそ検討されるべきものだ。
いま日本の寺には、とんと力がない。ボーズたちも鬱屈しているか、当たり障りのないことばかりを言っているか(へたくそ説法ばかりだ)、遊んでばかりいる。むろん例外はあるけれど、このままで日本仏教がアクチベイトするはずはなく、といって、こういうときにどのように革新者が出現してくるのか、その様相をの予想もつかない。近現代仏教はこれまで新興宗教者以外に、この手の革新のシナリオをもってこなかったのだ。オウム真理教の傷など気にすることなく、ここらで猪突猛進が見てみたい。

ほんほん9マニエリスムにむかうこと

ぼくのヨーロッパ理解はバロックを境目にして培われた。しかししばらくたって、バロックを細部で支えたのがマニエリスムというメソッド文化の束だということがわかり、あれこれを渉猟するようになった。しかし、なかなかマニエリスムを広げられる奴がいない。とくにアメリカまでは。
高山宏と巽孝之が縦横無尽の対談をくりひろげた『マニエリスム談義』(彩流社)は、目一杯マニエリスムを広げるとどうなるかを示した画期的なものになった。どうしても読んでもらいたい一冊だ。二人はそれぞれ浩瀚きわまりない知の牙城を営々独自に築いてきた張本人だけれど、その二人が砂塵逆巻く四つ辻で、クロサワの用心棒よろしく互いに懐手で交差しながら喋っているのが、まずもって見逃せない。
ときに巽がおさおさ準備怠りない万全な技をかけると、高山が居合抜きや合気道よろしくこれを空気投げしたり、酔拳で返すのである。それだけでも決闘シーンのような見物に足るのだが、交わした中身が英米マニエリスムだというところが、やっぱり学ばされる。この二人でなければ、これだけのジューシーな話は出てこない。なにしろポーに始まってトム・テイラーに閉じるのだから、その途中で何がキンピカの話題になってもおかしくない。方法(マニエラ)を文芸にかこつけて語るとは、こういうことかと得心させてくれる。
対談はかなりな玄人相手の知的パスティーシュになっていたけれど、この本はサブカル好きの若い諸君こそ読んでほしい。マニエリスムを知らなくても、たとえば「リアル」の意味、「フィギュア」の正体、「ワンダー」の本来、「コピー」の本義がわかるだけでも、人生が変わる。その上で方法だってアドミニしなければ空疎になるということを知ってほしい。興味が出たら、高山・巽のそれぞれの自著に向かうこと。

ほんほん8腸に良いおいしい本たち

ぼくはグルメでもなく粗食派でもなく、自然派でもジャンク派でもない。たんに食に無頓着に生きてきただけなのだが、なぜか周囲にはぐるりと食通や食文化研究家やオーガニック派がとりまいている。
おかげでぼくは栽培も調理も何もできないのに、とてもおいしいものが身近にやってきてくれることも多い。「新潟の樹液が一番おいしかった」と言って、カエデの樹液を小瓶に入れてもってきてくれるエヴァレット・ブラウンがいたり、糠床を分けながら発酵を社会学しているドミニク・チェンのような俊英もいる。そんなこともあって、最近はその手の本を読むこともふえてきた。
たとえば小倉ヒラク『発酵文化人類学』(木楽舎)、中島春紫『発酵の科学』(講談社BB)などである。大いに啓発された。小倉クンは「発酵デザイナー」を標榜して、ついに「発酵する、ゆえに我あり」に到達した。中島さんは日本伝統の「さしすせそ」調味料のうちの、す(酢)せ(醤油)そ(味噌)を分け入って、縦横無尽な解説をしてみせた。遅ればせながらエドワード・ハウエルの『酵素の力』(中央アート出版社)も読んでみた。
発酵もそうだが、ともかくも微生物がやっていることが凄いのだ。知れば知るほど興味深い。最近はモントゴメリー&ビクレーの『土と内臓』(築地書館)、エムラン・メイヤーの『腸と脳』(紀伊国屋書店)に感心した。モントゴメリーは『土の文明史』でも唸らせた土壌科学者である。植物の根とヒトの内臓が直結していることがよくわかった。当然アレルギーもそこが要因なのである。
ぼくはストレスがたまらないほうなのだが、それでも「片腹痛い」ことや「腑に落ちない」ことはしょっちゅうおこる。メイヤーはENS(腸管神経系)とマイクロバイオームの研究者で、われわれがいかに「おなかで考えているか」を証している。『腸と脳』を読むと、会話は腸内の井戸端会議なんだということが、よくわかる。

ほんほん7千夜千冊エディションは重戦車だ

すでに御存知の諸君が多いようだが、さる5月25日、「松岡正剛・千夜千冊エディション」シリーズの最初の2冊が角川ソフィア文庫にお目見えした。『本から本へ』と『デザイン知』だ。8月からは毎月1冊ずつ配本されていく。
これまでの千夜千冊をかなり大胆に20~30冊ずつ再構成して、新たな編成組曲に仕立てたもので、かなり品揃えに凝った。そのための加筆推敲もかなり加えてあるので、自分で言うのもなんだけれど、けっこうおもしろいものになっていると思う。すでに2冊とも重版された。
『本から本へ』は1「世界読書の快楽」で、ぼくがどのように本を読み書きしているのかということを、道元・パスカル・馬琴・バルザック・ポーをもってリプレゼンテーションした。2「書架の森」と3「読みかた指南」では、そもそも歴史的に読書はどんなメソッドで確立してきたのか、そのための図書館や読書会はどのように組み立てられてきたのか、いったい「本読み」とはどういう作業のことなのか、そのあたりを逍遥した。カラザースの『記憶術と書物』、ロストの『司書』が圧巻だ。4「ビブリオ・ゲーム」は一転して電子書籍時代の「読書」の意義や意味を追った。デジタル派のユーリンとマーコフスキーがリアル本にこだわる理由が必見だろう。
『デザイン知』はどうしてもまとめておきたいイメージング・インテリジェントのための第1弾で、ユクスキュル、メルロ=ポンティ、ゲシュタルト心理学、ウィトカウアーのアレゴリー論、ホワイトの形態学、パノフスキーのイコノロジーなどをふんだんに配した。そこにパウル・クレーの『造形思考』を筆頭に、モホリ・ナギ、エットーレ・ソットサス、ブルーノ・ムナーリ、原弘、杉浦康平、石岡瑛子、山中俊治・川崎和男・深澤直人らの実作者のデザイン知を注ぎこんでみた。先だってギョーカイ人から「爆発的に読まれてますよ」と聞かされた。
8月の3冊目は『文明の奥と底』を予定している。すでにゲラ校正したが、これは厚みも深みも「ハンパじゃない」、かなりの重戦車だ。期待していただきたい。

ほんほん6"書き"が"読み"に感染する

あまり洩してこなかったことだが、いろいろな本を継続して貪り読めるコツのひとつに、ときどき自分が知らない極端な専門家たちの吐露や告白、未知の領域の観察や報告ついての本を挟み読みしておくということがある。ぼくはこれを欠かしたことがない。
たとえば、斎藤勝裕『ぼくらは「化学」のおかげで生きている』、柳家花緑『落語家はなぜ噺を忘れないのか』、本田直之『なぜ、日本人シェフは世界で勝負できたのか』といった本は、むろん中身もそこそこおもしろいのだが、それよりも他の本を読むスキルをふやしてくれるのだ。化学・落語・料理にはスキルがあって、それがいつのまにか当方の「読みのスキル」に侵入してくれるのだ。
竹谷靱負『日本人は、なぜ富士山が好きか』、小島寛之『数学的決断の技術』、厚香苗『テキヤはどこからやってくるのか』、為末大『日本人の足を速くする』などもそういう本だ。テレビで富士山やテキヤや陸上選手のドキュメントを見ておもしろいと思うことがあるだろうが、あれは「見て」感じておわる。ところがこれらの本にはそのことがさまざまな語彙と文章と文脈をもって「書いてある」。この「書き」が「読み」に感染するのだ。本は中身のために読むばかりではないのです。

ほんほん5読書には伯楽が必要だ

佐藤優さんと対談した『読む力』(中公新書ラクレ)がよく売れている。もとは「中央公論」で連載したもので、中公創刊後の130年の東西論壇を駆け足で評定するという無謀な趣旨だったが、実際はかなり脱線した。その脱線が好評なのだという。たしかに本はまともに論壇批評するよりも、どうしてわれわれには「読みの深浅」や「読みの好き嫌い」がおこるのかということのほうが、ずっとおもしろいはずなのだ。
ところで脱線のなかで二人が一致したのは、「読書には伯楽が必要だ」ということだった。佐藤さんもぼくも、子供時代や青春時代に「本」と「読み」とを刺激してくれた先生や先輩たちがいたことがかなり共通していたのである。しかも二人ともその伯楽の指示をまともに守り、いまなおその読書体験を一種のベースキャンプ」にしていたのだった。
本というもの、孤立していない。どんな本にも親類縁者がいて、本から本へとつながっている。仮に若き日々に伯楽に恵まれなかったとしても、自分が出会った数冊の本を前後左右に数十冊数百冊に広げて読んでいくのが、一番愉しい「読みの舌鼓」をもたらすはずなのである。

ほんほん4諏訪哲史の自白に惑溺する

芥川賞をとった諏訪哲史の『アサッテの人』は吃音の叔父が主人公で、文芸的失語感覚あるいは哲学的奇行とでもいうべきものを扱って、この才能はなかなかビリビリさせるものがあるなと思っていた。
『ロンバルディア遠景』では、イタリアに旅立ったまま消息を絶った若い詩人の詩稿と書簡から、異様な試作が炙り出されてくるというふうで、これまた感心した。いったいこの男は何者かと気になっていたのだが、『偏愛蔵書室』を見てなるほどと合点した。諏訪が何を好んで読んできたのかを自白した本だ。
案の定、李賀、ホフマンスタール、露伴、ラヴクラフト、フォークナーで、なおかつゲオルク・ハイム、鷲巣繁男、山崎俊夫なのである。これはかなりのビョーキだ。おまけに大泉黒石や沼正三や山口椿に惑溺できている。諏訪君、もっと自白をしつづけてね。

ほんほん3新潮クレスト・ブックスの斬新なライン

新潮クレスト・ブックスという海外現代文学シリーズがある。ノンフィクションを含めて斬新なラインが読める。アリス・マンローの『ディア・ライフ』は透明な文体の達人技が堪能できた。ブライアン・エヴンソンの『遁走状態』は眩しい悪夢が連打される瞠目の短篇集だった。インドとアメリカを舞台にしたジュンパ・ラリヒの長篇『低地』、女スパイと作家が恋に落ちるイアン・マキューアンの『甘美なる作戦』、憂鬱症のペンギンを伴侶とする男に迫る見えない恐怖を描いたアンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』、いずれも遊べた。なかでもジュノ・ディアスのマジック・リアリズムが捌いた『オスカー・ワオの凄まじい人生』に出会えたのは、かけがえがない逢着だった。そして斬新きわまりない映画監督ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』と写真入りノンフィクションの『あなたを選んでくれるもの』だ。空気を切りまくっている。

ほんほん2スジ本・マジ本・ヤジ本・カジ本

スジ本=小林の担当編集者だった郡司勝義がみごとに再現させた『小林秀雄の思ひ出』文春文庫。沁みた。
マジ本=ハーヴェイの『資本主義の終焉』作品社。17の矛盾を列挙してみせてさすが。
ヤジ本=成りあがりのマーク・ウェバーの『出世の極意』飛鳥新社。ルイ・ヴィトン元CEOだ。
トジ本=ひそかにルネ・シェレールを読んできた。マキシム・フェルステルの『欲望の思考』が渋かった。富士書店。
カジ本=以前大腸菌をドキュメントしたカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』。文章展開がうまい。
ドジ本=坂井豊貴『マーケットデザイン』。マッチングに問題あり。

ほんほん1アジ本・ドジ本・サジ本・ロジ本

アジ本=岩本憲児『幻燈の世紀』森話社。「うつす」という興奮がよく伝わってくる。
スジ本=吉福康郎の一連の「武術の科学」もの。体のバイオメカニクスと生命情報科学が動員されておもしろい。
ドジ本=アディクションはぼくの探求主題のひとつだが、アン・シェフの『嗜癖する社会』は役に立たない。逆ベイトソンになった。
サジ本=名うてのPR屋バーネイズが手の内を明かした『プロパガンダ教本』成甲書房。大衆操作インテリジェンスだ。
ロジ本=西本裕隆『飛田新地の人々』鹿砦社。まさに裏の裏のロジ本。