ノヴァーリス
青い花
岩波文庫 1929 角川文庫 1949 国書刊行会 1983
Novalis
Heinrich von Ofterdingen 1801
[訳]薗田宗人・今泉文子

 「すべて、見えるものは見えないものに、聞こえるものは聞こえないものに、感じられるものは感じられないものに付着している。おそらく、考えられるものは考えられないものに付着しているだろう」(ノヴァーリス)。
 見えないものを見る。聞こえないものを聞く。感じるためには、感じないものに心をこめて注意する。ノヴァーリスならではの宣言だ。とくに「考えられるものは、考えられないものに付着しているだろう」は、極上だ。思索や表現はつねにこうありたい。そのように思索された本、表現された本を読むわれわれも、ぜひともそうありたい。
 読書は想像なのである。彷徨なのである。しばしば「夜」と「偶然」と「別国」が関与する。そういう本を読んだときは、夜中に街を歩いていてふと見上げた星々にも何かを感じることがある。本は星なのである。
 たとえばドイツ浪漫派にいつ出会えたか。これはその後の読書感覚の流れを決めていく。漂流する海上でどんな星に出会えたかということに近い。その星はゲーテでは大きすぎるし、ヘルダーリンではあまりに微に入りすぎている。ホフマンかノヴァーリスか、あるいはジャン・パウルかティークあたりがいい。これらは北斗七星やオリオン座といった星座たちである。
 一度目についたら、浪漫派の全天はこの星々をつないだ星座から始まっていく。ちょっと冬めく夜陰ならアルニムかブレンターノというところ、さしずめスバルや猟犬座だ。運がよければ最初からシュレーゲル兄弟という連星に出会うということもある。
 ドイツ浪漫派に出会うこと、それは、読書においてどのように「夜の思想」を享受できたかということだ。この体験はどのように「夢」と「電気」と「彗星」を同時の刻限に観相できたかということを物語る。その同一刻限に見る浪漫派の光景は、そこに入りこんでみなければ決してわからない結晶的な雰囲気を伝える。ぼくにはそれがノヴァーリスの『青い花』からだった。
 
 ノヴァーリスという稀有な作家がいること、父親はハルデンベルク男爵でザクセン製塩所の長官であったこと、そのノヴァーリスが『青い花』という魔法のような、この世のものともつかない作品を書いたこと、原題は「ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン」という主人公の青年の名であること、ノヴァーリスには十三歳で婚約したゾフィーという少女がいたこと、そのゾフィーはすぐ重病に罹って死んでしまったこと、ノヴァーリスもまたわずか二八歳で死んでしまったこと……。
 そういうことを下を向きながら、黒っぽいアルバムに貼ってある古い写真の秘密をあかすように教えてくれたのは、四谷の予備校で知りあった橋本の綱ちゃんだった。
 彼女はノヴァーリスだけではなく、海老を紐で結わえて散歩させていたネルヴァルのことや、いくつものシャンソンや、アデンに旅をした大歩行者ランボオのことなども、低い小さな声で教えてくれた。そんなことを知っている女学生がいることは驚嘆のかぎりではあったが、何も知らなかったぼくにはそのことが驚嘆すべきことであることも、わからなかった。
 それからというもの、『青い花』が憧れになった。読んだのは大学二年のときだ。あまりに気分が高揚して、夢遊病患者のようになった。ウキウキしすぎて話にならなかった。そのときの印象をまずは書いておく。
 
 岩波文庫の小牧健夫訳だった。その後に斎藤久雄訳も読んだが、今夜は都合により国書刊行会のドイツ・ロマン派全集「ノヴァーリス」に入っている薗田宗人訳をとりあげた。ちなみに英訳も手にしてみたけれど、これはハインリッヒがヘンリーになっていて、とうていノヴァーリスと思えない。
 読みはじめてすぐに了解できたことがある。これぞ夢の別国への彷徨そのものだということだ。「まどろみ」の中の逆旅なのである。暗い森を抜けていけば出会える幻想のコア・コンピタンスがあるとしたら、それが青い花なのだ。
 ついで、すぐに自分がハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンになっていた。これは軽い「めまい」のようなものだから、うっちゃっていただいてよい。読み方もおかしかった。ひたすら電気的で結晶的なフレーズを探して読んでいて、その言葉がどんな前後の脈絡をもっているかということなど、まったく意に介していなかった。ひたすらに見知らぬ夢や見果てぬ夢を一途に見られれば、それでよかったのである。

 作品のどこからどこまでが夢で、どこが地の描写かということもはっきりしないまま読んだ。
 なにしろ父といい、商人といい、老人といい、ハインリッヒといい、登場人物がみんな夢の話をする。それも長い夢の話ばかりだ。まるで幻覚剤をのんだまま映画を見ているようなのだ。ノヴァーリスがそうした夢と現実の境界に溝を引かなかったのだ。すべてがアナザーワールドなのである。ノヴァーリスはどこが出来事で、どこが夢であるかなどということを分別などしたくない。それがノヴァーリスのやりかたであり、ぼくはそのノヴァーリスに園丁のごとくに従った。
 そうした夢の話のなかではクリングスオールの物語が圧巻だった。とくに神のような婦人がギニスタンに渡された紙片をうけとると水に浸し、それを引きあげるたびに文字が消え残っていくというくだりにさしかかってからは、たいへんだった。ファーベルの所作のひとつひとつがただならない。
 ざっとそんなふうに夢の日々の片隅の住人のように読んできたので、『青い花』が第二部「実現」の半ば、霊感と寓話が重なって鉱物世界の円頂である天界からの啓示をうけようというまさにそのとき、ぷっつりと未完におわってしまったことが信じられなかった。ぼくは橋本の綱ちゃんから、『青い花』が未完の物語であることを聞いていなかったのだ。
 
 いったんノヴァーリスに出会ったということは、ヘッセの『車輪の下』や漱石の『三四郎』を読んでヘッセや漱石の他の作品をつづけて読みたくなるというような、そんな生易しい冒険ですませられる後日談を用意してくれはしない。
 ひたすらノヴァーリスの只中に入り、『日記』『断片』『ザイスの学徒』を読み耽る。これでノヴァーリスとハインリッヒがぴったり重なれば、次はノヴァーリスを生んだ時代の哲学に入っていく。このへんで天界の旅をおえられればまだしも軽症であるが、とうていそんな程度ではおわらない。
 ノヴァーリスを読むということは、ようするにアルベール・ベガンがのちに解説した「ロマン的魂と夢」という世界の旅程へ、すなわちリヒテンベルクにおける「内気な神秘主義と虚無の関係」に始まって、ティークのセレーネ幻想とアルニムの北極星の鏡をへて、ホフマンの悪魔の霊液によって砂男になりきってしまうというような、そういうドイツ浪漫派的遍歴を徹して通過しつづける巡礼者になるということなのだ。
 それがノヴァーリスを読む精神の快楽なのである。ディシプリンなのである。ドイツ浪漫派との密約とはそういうものである。だからといって、以上の最初の熱病によってホフマンやティークやノヴァーリスの何かが理解できたかというと、そういうことはない。ただただドイツ浪漫派のウイルスによる天の麻疹に罹りたいというだけなのだ。
 
 ノヴァーリスだけがもたらす特別な熱病もある。さしずめノヴァーリス・ウイルスとでもいうものだ。
 英語圏で最初にこの麻疹に罹ったのはトマス・カーライルだったろうか。カーライルはノヴァーリスを“ドイツのダンテ”というよりも“ドイツのパスカル”として尊敬したいと書いて、とりわけ『ザイスの学徒』の数学的神秘を漂わせる哲学に酔った。『ザイスの学徒』はぼくが「遊」時代にいちばん傾注した鉱山哲学作品だった。
 一方、ハインリッヒ・ハイネにあっては、ノヴァーリスはどんな生命をも鉱物的結晶にしてしまう妖しいアラビアの魔術師である。魔術師のウイルスである。『青い花』については、ハイネはこの作品で出会うすべての登場人物がずっと以前から一緒に暮らしたことがあるように感じられてくる不思議について、しきりに言及してみせた。
 ノヴァーリス・ウイルスの猛威は各処に広がっていった。メーテルリンクはノヴァーリスを「精神の究極の表現者」と名づけ、ニーチェは「経験や本能にひそむ聖なるものはノヴァーリスによって発見された」と見た。ふだんは口うるさい連中もこぞって熱病に罹っていった。ゲオルグ・ルカーチは「ノヴァーリスだけがドイツ・ロマン派の唯一の、そして正真正銘の詩人である」と絶賛し、ヴァルター・ベンヤミンは「精神的形象における観察の理論の樹立者」と称えた。
 そんななか、ノヴァーリスに最大の心理学的実相のすべてを見いだそうとしたのはディルタイだった。ディルタイは「ノヴァーリスの自然は世界心情そのものである」と結論づけた。

 ハインリッヒ・オフターディンゲンは青年であるが、そのロマン的魂は少年的永遠そのものである。このことはノヴァーリスのロマン的魂が永遠をめざしていたこと、さらにはドイツ浪漫派の総体が絶対永遠少年期であろうとしたことを告げている。
 だからノヴァーリスを読むということは、われわれがそういう「少年期」に釘付けになるということなのである。その釘は「鉄」によって打ち込まれているのではなく、瑞々しい「青い花」によって別国に打ち付けられている。これこそ、少年の心が知っている釘、永遠の釘である。ぼくはずっと感じてきたのだが、ぼくの読書史はこの「少年の釘」とともに育くまれてきたのだと告白したい。

 ところで、ノヴァーリスの『青い花』を読んだ者は、だいたいが未完におわった第二部「実現」を空想したくなる。その作業に最初にとりくんだのは同時代人のルートヴィヒ・ティークだが、以来、多くの文学者が第二部の構想を予想した。
 ぼくにもいまやだいたいの見当はつく。きっとハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンは戦火のイタリアにおもむいて戦場にたち、そこで名も知らぬ皇帝の息子と出会ってギリシアに旅をするはずなのだ。しかしながら、のちのネルヴァル同様に「東方への憧れ」こそ癒しがたく、そのためハインリッヒは東方の知に向かい、エルサレムの神秘とペルシアの童話とバラモンの少女に「青い花」を求めてひたむきになるにちがいない。そしてハインリッヒは帰還する。
 ハインリッヒはオデュッセウスなのである。ドイツのオデュッセウスであった。だから帰ってきたオデュッセウスはマティルデの死に出会う。ファーベルと電気石とがその驚きを伝えたはずだった。
 悲しみにくれるハインリッヒはさまようが、ここでハインリッヒに一冊の古文書が渡される。これを渡したのはおそらくは皇帝だ。そこにはきっと「青い花」に関する最後の謎が書いてある。その場所は果てしない別国である。そこへ行くには長い旅が必要となる。そこは地上の植物も鉱物も見られない国である。しかしながら、そここそが「青い花」の国なのだ。
 ハインリッヒはここで「青い花」を摘み、マティルデの呪縛を解くことになるだろう。あらゆる石が歌をうたい、木々たちが古代文字になる。マティルデは蘇り、ハインリッヒは天界に詩を読んでいく。その詩こそ、かつてハインリッヒが見知らぬ男から最初に聞いた夢の奥に咲く「青い花」なのだ。ノヴァーリスはそのように物語を了えたかったはずである。
 ヨーロッパにおいては「青」はアンティーク・アナスタシアである。キリスト教のイコノロジーでは「赤」が愛の象徴で「青」は知の象徴だった。天使においてはセラフィム(熾天使)が赤く、ケルビム(智天使)が青い。しかし総じては神の身から発している青い光が青の到達点なのである。

第一三二夜 二〇〇〇年九月十九日
参照千夜
九七〇夜:ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスター』 一二〇〇夜:ヘルダーリン『ヘルダーリン全集』 一二二二夜:ネルヴァル『オーレリア』 六九〇夜:ランボオ『イリュミナシオン』 四七九夜:ヘッセ『デミアン』 五八三夜:夏目漱石『草枕』 九一三夜:ダンテ『神曲』 七六二夜:パスカル『パンセ』 二六八夜:ハイネ『歌の本』 六八夜:メーテルリンク『青い鳥』 一〇二三夜:ニーチェ『ツァラトストラかく語りき』 九〇八夜:ベンヤミン『パサージュ論』 九九九夜:ホメーロス『オデュッセイアー』

ぼくたちの足下に
幻想鉱物が結晶している

アーダルベルト・シュティフター
水晶
山室静訳 新潮文庫 一九五一 望月市恵訳 白水社 一九六五 手塚富雄・藤村宏訳 岩波文庫 一九九三
Adalbert Stifter: Bunte Steine 1853

 作品社の加藤郁美さんから「鉱物をめぐる松岡さんらしい本を書いてほしい」と頼まれたまま数年たつうちに、先日、退社しましたという挨拶の訪問をうけた。「もう、日本の出版社はいい本はつくれませんね。売れるものしか出そうとしないですよ」と嘆いていた。
 加藤さんはぼくの『ルナティックス』(作品社→中公文庫)の担当者で、これが彼女の本格的デビューだった。その後の彼女の編集能力はたちまち高山宏や武田雅哉やタイモン・スクリーチらを唸らせ、斯界の評判になっていた。だからむろん、そういう加藤さんの頼む「鉱物の本」とはどういう趣向のものになるべきかはわかっていた。わかっていただけに、その濃密な意匠のついているハードルを越すための時間がなかなかとれずに、結局はお流れになった。延ばして申し訳ないと思いつつ、ちょっとホッとしていたら、「いや、まだ流してませんよ」と言っていたが、だとしたらこの本はいま、どこかの川底に置かれた水成鉱物になっているのだろう。

 ヨーロッパ文芸の底辺の一角には、地下鉱山幻想というものが中欧から北欧にかけて広がっていた。中世鉱山技術大全ともいうべきゲオルク・アグリコラの『デ・レ・メタリカ』(岩崎学術出版社)がバイブルだ。そこに水銀や白金や賢者の石を探索する錬金術幻想が絡まった。
 足下に最も深遠なアナザーワールドがあったのだ。これを下敷きにしてノヴァーリスやジャン・パウルやヤコブ・ベーメや、のちにはホフマンスタールらの、鉱山幻想文学あるいは鉱物神秘主義ともいうべきが次々に登場してきた。地中深く沈められた鉱物や化石が秘めた幻想を、そこに誘われ、そこに閉じこめられた人物の綾なす宿命とともに解いていくというのが基本の大筋だが、その幻想は幾重にも複雑になって、しばしば『青い花』や『巨人』などの傑作が開花した。
 
 アーダルベルト・シュティフターは一八〇五年の生まれだから、アンデルセンと同い歳である。けれどもデンマークに生まれたこととオーストリアに育ったことが、二人の資質の開花を分けた。分裂しつづけたオーストリアのことではない。オーストリアといってもベーメン、すなわちボヘミアに育った。
 風景の南端にはアルプスの銀嶺が霞み、北にはボヘミアの漆黒の森林が連なっていて、少年シュティフターは天体観測や博物学や登山の途中に出会った岩石の形状や、ときおり露出する石英・水晶の土にまみれた輝きに胸ときめかせることができた。

 中世的でロマン派的な神秘主義はもう退嬰していた。代わってビーダーマイヤー様式とよばれる善良な家庭主義とでもいうものがドイツ・オーストリアに蔓延していた。この様式は近代ドイツ社会がどのように均一的な家庭をつくっていったかを解明するにはおもしろい特色をもっているのだが、しかし、そんなもので少年が幻想の翼を広げられるはずがない。シュティフターはボヘミアの自然にこそ夢中だった。
 その体験が結晶したのが『石さまざま』である。六篇の小篇作品からできている。『みかげ石』『石灰岩』『電気石』『水晶』『白雲母』『石乳』と続く。『水晶』はそのうちの一篇だ。このような鉱物名を標題群にした文学は世界文学史上でもめずらしい。
 鉱物文学というべきではない。シュティフターは鉱物それ自体を描こうとしたわけではなく、「小さなもの」を擁護したかったので、そのために少年少女の日々と、その「小さなもの」の象徴として岩石と鉱物の光景を組み合わせたかった。
 
 シュティフターがこだわった「小さなもの」を、批評家は理解しなかった。「小さなもの」だけが材料になり、人物もありふれた描写に終始していると解釈した。これを弁解反論した「序」が『石さまざま』の冒頭についている。
 反論はごく穏やかなもので、道徳談義に流れているきらいもあるが、このなかでシュティフターが淡々とあげている例はすばらしい。それはある人物が多年にわたって磁石の針を一定の時刻に観察しているという例で、磁針が北をさす精度だけを示しているからといって、この「小さなもの」がそれだけしか意味しないというのだろうか、そんなことはあるまいという反論だ。
 シュティフターは言う。たとえ磁針の示す数値がごく僅かなものであったとしても、それらを総合したとき、「地表全体がいわば一種の磁気の戦慄を感ずる」という事態になるはずなのではないか、それこそはわれわれ自身が「電気をとらえる感覚器官」をもっていないにもかかわらず、雷光や稲妻に感興をもつことに匹敵するのではないか。そう、言ったのである。
 ここに、シュティフターの基本の哲学はすべてあらわれている。『石さまざま』もこの「地表が感じる磁気の戦慄」と「電気をとらえる感覚器官」を、少年少女の心におののく“銀の匙”に託したくて書いていた。
 すでにアンデルセンの夜のところでも書いたことであるが、少年少女においては「部分が全体を逆襲する」。どんなに小さな部分にも全体の体裁をゆるがす何かが秘められていて、少年少女というもの、一日中でも一年中でもそのことばかりを夢想する。シュティフターはそれを「小さなもの」とも「磁針」とも見たのだが、それはまさしく世界をゆるがすピアニッシモな一撃のための哲学なのである。最弱音が最強体制をくつがえすという存在学なのだ。
 
 意外なことに『水晶』は、少年コンラートと少女ザンナが山中にあるおばあさんの家からの帰りに雪に降られ、その雪が無性に嬉しくて歩いているうちに道に迷ったまま、あっというまに氷の世界に閉じこめられるという話で、水晶はまったく出てこない。
 それなのにこの作品が心に残るのは、われわれが、とりわけ少年少女たちが、初めて水晶を見て胸が高鳴って以来、そのままその透明な石がもつ名状しがたい世界におそるおそる魅入られる感覚のすべてが、まことに微妙な描写の積み重ねによって表現されているからである。とくに前段がいい。
 コンラートとザンナが住む山麓の村から見る雪山の描写と、かれらの父親にあたる靴屋の周辺の描写の、ほとんどその二つのことしか書いていないにもかかわらず、コンラートとザンナが雪に見舞われ、氷に誘われるときの興奮と不安とが、まるでいつかの思い出なのかというふうに読めるようになっている。
 だいたいぼくは靴屋に弱い。靴屋にはなんだか「いわく」がありそうなのだ。靴屋の倅がとくにあやしい。他人の靴を作り、その作業の一部始終が子供にも客にも見え、しかも仕上がった靴がピカピカになって諸国諸人生に旅立っていく。ここがなんとも大変な「いわく」なのである。
 もうひとつ、ひょっとすると「修繕」ということも気になっているのかもしれなかった。ぼくは『水晶』が山村から見える雪山と靴屋の事細かな事情によって舞台を整えていたことに、おおいにしてやられたのである。
 
 三つほど付け加えたい。
 一つ、『水晶』はできるだけ早いうちに少年少女が読むといい。講談社の「少年少女世界文学全集」に『みかげ石』とともに入っている。少年少女にはたくさんのアメージングなんていらないのである。たった一、二度の『水晶』のような体験をすればいい。ぼくはすでに三人の少年少女にプレゼントした。一方、大人たちには『晩夏』(ちくま文庫)、『ナレンブルク』(林道舎)を奨めたい。運命と香気の関係が読める。
 二つ、シュティフターは画家でもあって、このうちの何点かの岩場の絵がとてもいい。きっと画集もどこからか出ているはずだろうが、まだ見ていない。おそらくラスキンやユゴーのヨーロッパ山水画に通じる岩石感覚を描出しえているとおもう。いま、ヨーロッパは大洪水に襲われているようだが、シュティフターもモルダウ河に何度も取材して、その景観を油彩に描いたものだった。
 三つ、たいして読んではいないのであまりえらそうなことを言いたくないが、シュティフターをめぐる評論にはあまり見るべきものがない。これはどうしたことか。なかで谷口泰が「恩寵」を切り口にとりくんだ『アーダルベルト・シュティフター研究』(水声社)があって、ぼくの知らないシュティフターが析出されていた。

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