身ぶりと言葉

アンドレ・ルロワ=グーラン

新潮社 1973

Andre Leroi-Gourhan
Le Geste et le Parole 1964
[訳]荒木亨

 白眉は「人間はその思考を実現することができるようにつくられている」という一文にある。この、何でもなさそうな一文こそ、ルロワ=グーランの思想と研究の目的のすべてをあらわしている。この一文こそ、ぼくをして「遊」を継続させ、編集工学研究に向かわせたエンジンとなった。
 目標をたてて行動計画を実行するのではない。「思い」をもつこと、その「思い」にひそむ言葉を紡ぎ、それを採り出していく。そこに「その思考を実現できる」ものが見えてくる。ルロワ=グーランはそのことを証すための研究にとりくんだ。
 本書は、言葉の起源と進化をめぐる研究書にみえて、それをはるかに上まわる展望と推察を駆使した一書である。それまでぼくは凡百の言語文化論の数々にほとほと失望していたのだが、本書によって初めて「言語というものが技能のひとつであること」にやっと自信がもてた。ということは、ぼくの言語観はソシュールやチョムスキーによってではなく、また時枝誠記やクリステヴァによってではなく、ルロワ=グーランによって開眼させられたわけなのである。

 ルロワ=グーランは『身ぶりと言葉』の冒険的な記述を、あたかも偉大な科学者のように、左右対称性や前部強調などの動物の力学的体制の特徴から始めた。
 ついで、四足動物の歩行と把握の発達が人類の頭蓋や大脳皮質の発達を促したプロセスをのべると、最初の言葉の萌芽が石器の分化と並行していたこと、住居や衣服の発生が知的言語の基礎とつながっていること、あるいは死骨にたいする信仰や埋葬の慣習が一種の内言語を促していたことなどを次々にあかした。さらに旧人から新人にいたってようやく芽生える社会組織的なるものにふれ、そこに「リズムの進化」や「時空の構造化」という特質があったことを指摘した。
 ここまででも充分に刺激的なのだが、これはまだ序の口で、ルロワ=グーランはこれらの一連の知的な技能のおおもとに「共生の意思」「交換の利得感」「種から収穫にいたる周期性に対する感謝」などが踵を接して育まれていったことを見抜いたのだ。大当たりだった。
 のみならず、定住と遊牧の分化による格差が階級や階層をつくっていったこと、そのなかで運動機能に長けたものから表現技術の飛躍がおこり、詳察機能が得意なものによって図示表現の飛躍がおこったことも説明してみせた。そのうえで、その図示表現の一部から書字能力が拡張していって、それが爆発的に言語能力を複雑にしていったのではないかと推理した。なんという堂々たる透徹であったことか。
 
 いまではルロワ=グーランの言語文化観(といってもここではパロールを中心にしているのだが)に関する推理のすべてが必ずしも正しいとはいえなくなっている。けれどもそんなことは、このさい、大目にみたい。
 もともと、このフランス人は推理の途中にふれた一つずつの現象に足を止めたいのではなく、それらをつなぐ推理の筋書きを重視したのだった。だからこそ、言語を「思い」を実現するための技術ととらえ、その周辺に線的な刻印技術や絵画表現がどのように隣接していったかといった視点を配することができたのである。

 第二部はさらに二一世紀的だった。「記憶と技術の世界」というはなはだ魅力に富む内容で、人間がどのようにして記憶を外部に保存し、その保存された記憶の貯蔵庫のしくみをどのように工夫していったかということを明らかにする。
 ぼくの「遊」(工作舎)に始まって『情報の歴史』(NTT出版)に及んだアイディアの基礎は、ここにひしめいていた。ことに第八章「身ぶりとプログラム」が当時のぼくを奮い立たせた。証書・一覧表・文章・物語・辞典・目次・注解・カード検索といった編集機能の進化の歴史を、ぼくはこの数十ページではっきり自覚できたのではなかったかとおもう。
 一方、第三部「民族の表象」は、イメージの古生物学というものがありうることを攻めた。民族のそれぞれがもつ価値観には必ずやリズムと身体の関係が埋めこまれているのだが、そこでは、「欠乏と制御」こそがその源泉になっていることをたっぷり示唆したのである。その通りであろう。リズムは何かが欠けていることから生まれ、そうであればこそ、そこにまだ見ぬ価値が派生するものなのだ。価値とリズムは「欠乏と過剰」を親とするものなのだ。
 それに付随して、いまでも鮮やかにおぼえているのは、道教と仏教の結びつきが現世の円環的リズムから脱却するための方向をつくったのではないかといった意外な指摘とか、人間がまわりの世界を知覚するには二つの方法があって、ひとつは動的に空間を意識しながら踏破することだが、もうひとつは静的に未知の限界まで薄れながら広がっていく輪を自分は動かずに次々に描くことではないかというような指摘をしていたことだった。
 とりわけこの後者の指摘は、世の中には「巡回する道筋によって得られる世界像」(循環的世界像)と、「二つの対比する表象によって得られる世界像」(対比的世界像)とがあって、そうであるのなら、それはオオカミの世界認識にもマンダラによる世界認識にも共通するものであるという確信をぼくにもたらした。それ以来というもの、「巡回」と「対比」は編集工学的な方法が最初に試みる楽譜になったのだ。
 
 本書の最後は、第一五章「想像上の自由、およびホモ・サピエンスの運命」となっている。ここではぼくの編集エンジンなど、問題にもならない。J・G・バラードは「人類に残された最後の資源は想像力だ」と言ったけれど、まさにその想像力のためのエンジンが仮想設計されていた。
 これは、まいった。やっぱりこういう着想を筋立てて表明できる思索者というものがいるんだと、素直に脱帽した。しかも、そのエンジンから出力されるのは、技術論のルイス・マンフォードやメディア論のマーシャル・マクルーハンの出力表には書きこまれていない内容が多かった。
 たとえば、ラジオとテレビは手の退行とともに手の解放を意味しているのではないか。エレクトロニクスの発達はむしろ口頭文字の復活をもたらすのではないか。伝統文化とは出身母体の行動記憶との同一化のことではないか。われわれは新たにメディアに転移された人間像を考えざるをえなくなっているのではないか。このような逆マクルーハン的な〝予言〟も連打されるのである。
 かくてルロワ=グーランは、まとめていえば、われわれの想像力が選択する枝を次の三つに絞りすぎているのではないかと問うたのだ。

 チョイス1。多くの人間が結果を知らないで考えている技術(たとえば原子爆弾)に自分たちを委ねることをやめ、もっともっと結果がわからない人間そのものに未来を賭けたらどうなのか。
 チョイス2。人間も地球もいずれ終末を迎えるのだから、いまのうちにその終点からすべてを逆算して考えてみたほうがいいのではないか。
 チョイス3。あらゆる技術が個人に向かっているのだから、個人の単位の中に少しずつ世界を注入できるようにして、集団や社会のことを忘れられる人工世界に未来を託す時代に期待するのもいいではないか。

 二一世紀はこのうちのどのチョイスを選ぶだろうか。諸君はどうか。ルロワ=グーランはこのいずれにも与しない。こんな程度の選択肢は「想像力をつかっていない」と吐き捨てたのだ。
 もっと個人性と社会性の関係を根本から捉えなおしたい、もっと地球の管理を偶然と必然のあいだにおきたい、もっともっと生活の細菌的な活動から脱したい。そこから想像力エンジンをつくりなおしたいと言うのだ。
 ぼくの三十代に起動した編集エンジンは、こうして、ルロワ=グーランのメタプログラムを搭載して走ることになったのだった。

参考¶アンドレ・ルロワ=グーランはコレージュ・ド・フランス教授、パリ大学教授、民族学研究所所長を務めつつ、厖大な著作と研究成果をもたらした先史学の第一人者。社会文化人類学の泰斗でもある。その分野はつねに「分類不能」にこそ向かっていた。日本にはもう少しルロワ=グーランの著作の翻訳が紹介されるべきだろう。