才事記

海上の道

柳田国男

筑摩書房 1961

 今夜は柳田国男の『海上の道』をもって、いったん「千夜千冊」を擱筆するつもりでとりあげようと思っているのだが、その前に少し書いておきたいことがある。何にも煩わされることなく柳田や折口を読んでいたころがひたすら懐かしいということだ。
 早稲田で折口信夫の『国文学の発生』にちょっとふれたのが最初だった。田中基君に薦められたのだが、あまりに突然に目眩く古代日本のカレイドスコープに一挙に突入したためか、すぐにはハンドリングできなかった。ついで、全集を入手したこともあって南方熊楠に耽溺し、それから一段落して折口全集に入っていって、それがずいぶん続いた。ぼくには南方と折口が先だったのだ。
 何がきっかけか忘れたが、そのあとやっと柳田をポツポツ読み始めたのである。その最初が薄っぺらな角川文庫の『桃太郎の誕生』だったことをよく憶えている。日本にもシンデレラや赤頭巾と似た話があって、灰かつぎ姫や馬琴の『皿皿郷談』や瓜子姫と並べられていた。とくに「小さ子」に想像力がのびているところが新鮮だった。その、まさに昔話を近くに引き寄せるような書きっぷりが好ましかった。続いて『一つ目小僧』や『木綿以前の事』を読んだ。全集ではない。みんな角川文庫だった。

 南方も柳田や折口も、どれも学問的に読みはしなかった。一介の読者にすぎなかったのだから当然だが、それは昔話を読むような感覚であって、昔日の出来事を長老の家の縁側で聞いているようなもの、感想といえばふうん、なるほど、そんなことがあったんですねというぐあい、誰かとそのことを話すにしても、なぞって話すしかない。そのころのぼくは読めば口移しであって、丸呑みなのである。
 それなのに、まるで記憶喪失をした者が日本の過日のことを思い出している、そんな気分だった。『木綿以前の事』など、芭蕉七部集の付合(つけあい)から木綿のことを想うというふうになっていて、民俗学というより文芸学の香りがした。
 読むうちに頷き、そのことを誰かに話したくなる。ただ、それだけである。そういう読書だった。けれどもそれが懐かしい。そのように読めたことが懐かしいのである。のちのちこの3人の民俗学者が自分が書いたことがそのように継承されるように綴られていたことに思い当たることはあったけれど、当時はそのことすら自覚しなかった。それをふくめて懐かしいのだ。

民俗学研究所解散記念

民俗学研究所解散記念(昭和30年)

 柳田や折口を読むようになって、日本を想うようになったのだった。小説や研究書では、そんなことはおこらなかった。
 もしも少年時代か青年時代に外国へでも行かざるをえなくなっていたら、日本を想うということがそこからおこったかもしれないが、ぼくのばあいはそういうこともなく、京都に生まれ育ってその京都を高校1年で離れたときに、ふいに京都を懐旧することに襲われたけれど(第1111夜参照)、それは室生犀星と金沢の関係のようなもの、日本を懐旧するわけではない。
 それがなぜ柳田や折口を読むと、だんだん日本を懐旧する気分になれるのか、そのこと自体がたいへん不思議なのである。日本についての知識がふえるのではない。自分が知らなかったはずの日本のことが、あたかも思い出せるように感じる。そこが不思議なのだ。学問の用法にしなかった、研究の便法にこだわっていなかったということもあろうが、なにより自由に綴っていった文体のせいだったのではないかとおもう。柳田のばあいは、講演が文章になったというケースが多かったのもよかったのだろう。
 それが深刻な問題を扱っても味になる。たとえば『国語の将来』は吟味すべき内容がいろいろ富んでいる文章だが、それが人はなぜ早口になるのだろうかというような問いから始まっていて、それがいつのまにか語りものと古語の荘重との関係になり、そのうち「二段」ということを話題にする。言葉には、たんに聞いておくものとそれを口にするようになる「二段」があって、この一段と次の一段とにいろいろの国語文化の特質というものが出るのだというのだが、そういう話を書いているあいだに、そのような問題を扱う姿勢や手立ての感覚というものが、これを読むわれわれに過不足なく伝わるようになっているのだ。
 そんなことは話芸だろう、文章術だろうと勘違いしてもらっては困る。それが柳田の民俗学なのである。

昭和25年10月、折口信夫とともに関西に講演旅行したおり

昭和25年10月、折口信夫とともに関西に講演旅行したおり

 柳田の民俗学は思想の言葉をもたなかった。見聞をしたことを記載することが柳田の方法で、それを聞き書きというなら、まったくそれ以上でもそれ以下でもなかった。
 鏡石佐々木喜善からの聞き書きの『遠野物語』がそのようにして一冊になった。なぜこんなものがあるのか、泉鏡花だけが感心した。宮崎椎葉村での聞き書きは『後狩詞記』(のちのかりことばのき)になった。なんらの装飾もない。復元といっていい。両方とも自費出版である。
 思想の言葉をもたなかったからといって、思想がないわけはない。ぼくの父や母だって思想の言葉はこれっぽっちもなかったが、いろいろ思想をもっていた。柳田のばあいはおそらく日本を想う経世済民の思想であろう。経世済民から「経済」の2字を抜き出した連中にくらべていえば、「世民」あるいは「済民」を抜き出した。それを救荒学とも、土俗学とも平民学とも郷土学ともいうのはかまわない。
 けれどもかりそめに「学」とはついていても、べつだんヨーロッパに拮抗したり、ヨーロッパに認めてもらうつもりの救荒学や郷土学ではなかった。独自に歩んでそれが「学」になっていった。
 その思想をしだいに民俗学(フォークロア)とよぶようになったとしても、それが柳田学とよばれるようになったとしても、柳田の土俗や農民や海民に目を凝らし耳を澄ますという態度と気持ちは、たいして変わらなかったのではないか。柳田の『故郷七十年』にはこんなふうにあった、「ヒストリーを望むにはエスノグラフィーの樹陰がよく、しかもその森の中にただ一筋の小路をたどらなければ、フオクロアの我家にはかえてこられぬ」。

遠野町遠景

遠野町遠景

 かつてぼくが、柳田や折口によって日本を想えるようになったというだけの話をこれ以上書いてもしょうがないだろうから(実はこのことがほんとうは大事なのだが、それはともかくとして)、そろそろ本題に入ろうとおもうのだが、柳田が『海上の道』に至ったには、ずいぶん長い時間がかかっていた。
 なんといっても『海上の道』は柳田の最後の著作なのである。これを発表した翌年の昭和37年に、柳田は死んだ。
 一貫した論文ではない。「島の人生」「海神宮考」「みろくの話」「根の国の話」「鼠の浄土」「宝貝のこと」「稲の産屋」などで構成されている。しかし、この著作をもって柳田は柳田の民俗学が訴えてきたことを行方に託したのだ。日本人はどこから来て、どこへ行くのか。それが柳田の最後に語ろうとしたことだった。
 柳田が語ろうとしたこと、それは琉球諸島に漂着した者たちが稲と貝に価値を感じて、それを伝承し定着させていったのではないかということである。そのことを語るのに長い時間がかかっていたというのは、この稲をもった日本人の漂着という物語の発端が、柳田が青年のときに渥美半島の伊良湖岬で椰子の実が流れ着いているのを見たことから始まっていたからだ。明治31年の24歳のときである。

 その年の8月の1カ月、柳田は伊良湖岬に滞在して、黒潮に乗って遠い島から流れついた椰子の実に何事かを感懐したのである。
 当時は同じ新体詩の仲間だった友人の島崎藤村が「その話、もらったよ」と言って『椰子の実』という詩にし、それに大中寅二が曲をつけたという、あのことである。
 柳田は大正9年に沖縄に渡った。3カ月ほどの滞在だったが、沖縄学の父ともいうべき伊波普猷(いはふゆう)と出会い、『おもろそうし』に感嘆し、笹森儀助の『南東探検』を読み耽り、本島や八重山や宮古島や石垣島のそこかしこを歩いた。その体験が『海南小記』になった。このとき柳田は琉球独自の文化に惹かれたことはいうまでもないのだが、他方で、琉球と日本をつなぐ共通性に思いをめぐらしていた。ただ、そのことを伊良湖岬の椰子の実から日本民族の稲作にまでつなげる時空を超えた構想にするのに、生涯の時間をかけたのだ。

伊良湖岬

伊良湖岬の海岸

 柳田の『海上の道』を語るにあたって、ぼくがいつも思い出す座談記録がある。12歳ちがいの柳田と折口が石田英一郎の司会で対談したときの記録である。活字にのこっているものが二度あって、とくに昭和24年12月の「季刊民族学」に掲載された『日本人の神と霊魂の観念ほか』が、柳田の晩年の構想とも、また折口との発想との関連でも、いつも蘇る。
 敗戦まもないころの対談で、ちょうど江上波夫の北方騎馬民族説が話題になっていて、柳田も折口も石田もこの仮説に疑問をもっていた。それで石田が反論を期待して対談を企画したのであったろうが、両雄あるいは僚友は泰然自若として、そのことよりも「奥のこと」を話していて、そこがたいへん興味深かった。石田が狙っていた問題は、日本民族の起源がどこからやってきたのかということである。

 柳田は冒頭で、自分は日本民族の構造は人種の混淆を認めていて、単一の民族が大和民族をつくったなどとは思わない。それに北のほうの出来事もさることながら、南のほうのことをもっと考えたほうがいい。それについては稲や米の到来と定着をさらに考えるべきだと言う。
 折口がそれはそうでございますねと応じていると、さらに、稲作の起源が弥生にあって縄文になかったとも言いきれない、その境い目はなかなかはっきりしないはずで、案外かなり早かったのではないか。たとえばアメノナガタ(天の長田)の名やスサノオの罪状に水田耕作のことがあったりするのは、仮に北の騎馬民族が日本に入ってきたとしても、その民族が米をもって神を祀るということを採用したのだから、そこを説明ができなくてはいけない。それが江上説ではできないのではないかと言う。
 これではやくも江上説は埒外になっている。そこで話が沖縄のことになって、琉球諸島にニライカナイをはじめとする常世信仰があるのは、お互いの島が見える関係にあるほど近いのではないのだから、それらをつなぐなんらかの線があったはずで、そこに諸島をつなぐ価値観を共有するもの、たとえば米の信仰や貝の信仰があったのではないかというふうになる。

西表島祖納のミロク神

西表島祖内の節祭

 ここはのちに柳田が『海上の道』で仮説する内容の予告になっているところだが、このときはまだ深くは言及されない。座談のほうは、ところが日本には昔から海の神話や昔話が少なく、そこをどう考えたらいいだろうかという話になっていった。
 折口は、海が楽しいとか海は幸福だという歌がめっぽう少ないのは、海を怖いものとして観念していたのではないか、またなんらかの理由によって海の噂をすることを避けていたのではないかと言う。柳田は、では、それにしてはニライカナイから来る神がいて、それが台湾や沖縄のマヤの神にもなっているのだろうから、そこは折口さんがうまくマレビト信仰で説明してくれるといいんだがと、水を向けた。たいそう虚々実々なのである。

 柳田と折口がどのような思想のちがいをもっていたかということは、さておこう。
 おおざっぱにいえば、折口は神話や地名に熟知していて、その名の発生と変遷を軸にどんなことも考えられる素養をもっていたが、柳田は説話や昔話には強いが、どちらかというと神話には弱い。それに折口のような言葉の人ではなく、まさに常民の生活体験から発想しようとする。
 そのような折口とのちがいを、柳田自身が「折口君の場合はわれわれの読み方とは違う。読むときに本を二重に読んでいる。ノートにとらないけれども二つの入口から本の内容が入っている。ぼくらはかえって抄録するので、注意がやや片寄るきらいがある。それを折口君はいっぺん読むと無意識に直覚と一致させている。単純な暗記や保存でなく、自分の素質みたいなものに変えてしまう」と説明している。折口には詩人の直観があると見ているのだ。

柳田国男と折口信夫

柳田国男と折口信夫

 これは青年期に詩人を志した柳田ならではの折口観である。そのように折口を見ている柳田が、マレビトの視点で沖縄の海にまつわる神々を見るとどうなるか、ちょっと水を向けて聞いたのだ。
 折口はそれに答えて、自分が感じているマレビトは時を決めて訪れるものと時を決めずにさすらうものとがあって、そのいずれにもストレンジャーとしての異様性があるので、それを村落のほうでは、障碍を脅威に変えるようなはからいによって転化していったのだと思いますと言う。柳田はそれは「うかれびと」や「ほかいびと」でもあろうが、そこに信仰の伝達というものがおこったのだろうかということを言う。
 これは柳田の鋭いところで、折口には観念の伝染がおこったと見えるものも、柳田はそこに生活文化の伝達や伝承がほしいのだ。そうなると、ストレンジャーが来たことはたしかに重要で、それこそ列島に稲をもってきた者たちだってストレンジャーなのだが、そのことと霊魂や祖霊についての観念が一緒に伝承されたのかどうか、そこが気になる。たとえば琉球のニライカナイのような常世の信仰は、どのようにストレンジャーによって運ばれたのか。

 このときの応酬がどうなっていったかは省略するが、二人は互いの意見を尊重しあっているものの、必ずしも噛み合わない。たとえば折口は石田に促されて、ムスブということがあったということを説明する。
 霊魂を物質の中に入れると物質が生命を得て成長するとともに、霊魂も育っていく。それがムスブである。結合して発育する。それが脱出しないことを主としたとき、それがイワウになる。また、それを中間物をかかわらせて肉体的に産霊つけるとククルになる。そういうふうになっていると言う。そういうことが沖縄でもマブイクミ、すなわち霊魂籠めというものになっているという話をする。
 しかし柳田は、どうもそういうことは観念の飛び火のようなもので、いまひとつ得心しない。実は折口の話のなかにはひょいと「氏(うじ)は稜威(うち・いつ・いち)に発した」といったことも出てくるのだか、柳田はまったく関心を示さない。そのかわり、柳田は折口の話を聞きながら、稲や米がなぜ日本人の信仰の中心に入ってきたのか、それが南伝いの人々の移動によって、どのように土着のものと交じったのか、それとも稲の信仰そのものも南伝いにやってきたのか、そこをしきりに空想しているのである。
 こうして、柳田のさまざまなイメージのなかについに『海上の道』という構想が膨らんでいったのだ。その構想は「流れくる椰子の実」の謎に発端していたが、それが船や稲に結びついていくにあたっては、アユの風や宝貝をめぐる結び目が必要だった。

 柳田が日本人の始祖のひとつの一群が、南海の島々をへながら海上の道をやってきただろう理由としてあげたのは、宝貝の魅力である。沖縄の島々ははるか3000年の昔から宝貝の宝庫であった。
 宝貝は日本でいう子安貝であるが、延喜式にもツスやツシタマとして記載されていたし、『おもろそうし』にもツシヤとか、宝貝を草に通したズズタマとしてあらわれる。かつての古代中国の南海地方の人々はこの宝貝を求めて琉球諸島にやってきたのではないか。そのときすでに中国南方で水田耕作されていた稲穂や稲種をもってきたのではないか。これが柳田がたどりついた『海上の道』の結論だった。
 いま、この仮説にはいくつかの誤解も齟齬もあることが判明しているのだが、柳田の構想が語ろうとしたことはいまなお生きている。それどころか東アジアの照葉樹林帯の研究、中国江南地域との食品の関連の研究、太陽信仰や鳥居信仰との関連の研究、稲作儀礼の関連の研究などを通して、柳田の「海上の道」仮説はさらに実証されてきたといったほうがいい。
 とくに、そこに東アジア稲作地帯が日本人にもたらした重要性が予見されていたことが大きかった。柳田は思想の言葉をもたない人で、論理の人でもなかったから、柳田の仮説はモノによって実証されるしかないのだが、それ以上に実証しにくい日本人の稲作による生活と信仰の原型のようなものこそ、おそらくは柳田から継承すべき思想であるはずなのである。
 しかし、そのような柳田の民俗学がしばらく前から批判にさらされているということも事実である。柳田は天皇制イデオロギーに加担した、植民地経営に手を出そうとした、南島を原郷扱いすることによって日本の南方進出を手助けしたといった批判である。
 その一方で、そのような批判にさらされた柳田をあらためて読みなおし、柳田民俗学の意味をくみたてなおす作業も、赤坂憲雄の根気に満ちた作業によって連打されるようになった。『山の精神史』『漂泊の精神史』『海の精神史』の三部作がその成果である。ぼくが柳田をあらためて書くときは、この成果をもとにするだろう。

 民俗とは民間習俗のことである。柳田はその民俗の「民」を最初のうちは「山人」に求めていたのだが、やがて「常民」にフォーカスするようになった。
 山人とは一言でいえば日本列島の先住民のことである。新石器の民とか縄文の民というのではなく、そこいらに祖先の痕跡が如実に認められる範囲での先住民のことをいう。けれども柳田はその先住民の跡を見いだしえなかった。そこで農民を母体にする常民を日本人の祖先とみなすようになっていった。そして最後には、その常民に伝えたものが海民たちの生業(なりわい)に関与していた稲作信仰であることをのべるようになった。
 そういう柳田の変遷を、民俗学批評や他の民俗学者や民族学者は「山人を捨てた柳田」「常民になれない民を見捨てた柳田」と批判した。第1135夜に紹介した赤松啓介も、そのような一人だった。赤松はあえて「非常民」という用語をつかった。柳田が常民にこだわったのは実際にそうしたのだから、この批判は当たっているのだけれど、柳田自身もいろいろ実感したあげく、きっとそういうフォーカスをもったのである。
 ただ、これは他の民俗学者にもあてはまることだけれど、民俗や習俗や風俗を見聞してそこに感得するものを強調して記述すれば、これはいつだって事大主義は免れえないのだ。言わずもがなのことだろう。柳田も折口もその他の民俗学者の多くも事大主義である。学問的なことはこのさいどうでもいいが、民族学者はこの事大主義を脱却することを心掛けてきた。
 しかし、さてそこで問いたいのだ。いったいなぜぼくは柳田や折口によって日本を想うようになれたのかということだ。

 この「千夜千冊」というのはありがたいもので、ぼくが一冊の本とどう向き合ったか、どんなふうに読んできたかを語るだけのもの、そこにはどんな学問の系譜も文学の党派も芸能の門閥も関与していない。
 おそらくこのような立場を失うと、何を書くにしても身が縛られたであろう。もともと学者や研究者や評論家さえ一度も志していなかったのだから、好きに書くのは当たり前だろうとおもわれるかもしれないが、なかなかそういうわけにはいかない。仕事仲間も多いし、学問や研究成果に敬意を払わないでは書けないこともいっぱいある。
 ぼく自身がどんな日々をおくっていようとそれはそれでいいのだが、そのぼくが世の中の成果を活用するにあたっては、そこには仁義も責任も義務もある。そういうことをいっさい無視しては、そもそも言葉の集合を社会のどこかに置いてみるという行為が成り立たないのだ。
 ところが、たんに本を読むというのなら、これはどんな気持ちになっていようと、いっさいの束縛から自由であっていい。本来、読書とはそういうものである。そして、そのような気持ちでかつてぼくは柳田や折口を読み、そのように読めたことによって、ぼくに日本を想うという気持ちが育まれたのだった。
 いまそのことを思い出してみると、柳田や折口は問うことをもって方法にしていた。その問いながら答えるというありかたが、ぼくに日本を想うことを可能にさせたのではないかとおもう。

 昭和22年の『現代科学といふこと』という、講演を下敷きにした文章がある。民俗学に総論が乏しいことを話しはじめて、素人の寄合いから立ち上がっていったのだからそれもやむをえなかったのだが、それを総論の確立として作業を急ぐ前に、ちょっと考えたいことがあるという主旨で、民俗学を科学にするには、民俗学がもっている方法によって科学にするしかないと言っている。
 何が民俗学の方法かというと、「問いによって求めた知恵」が民俗学なのだという。それには学問と文章を二つに分けてはできない。それでも民俗学を科学にしたいなら、学問と文章を分けるしかない。けれども、それで民俗学を学ぶという文化をのこせるだろうか。自分は民俗学という名称すら、フォークロアの方法からそれていると感じているのに、どうしたものか。そんなことを書いている。
 これはいかにも柳田らしく、またぼくが柳田を読むとホッとできることがどのように失われるかという危惧を、よく伝えている。柳田が長らく守ってきた方法、それが日本を想うことを可能にしてきたのである。いいかえれば、柳田は学問の親などに、民俗学の父などにならなければよかったのである。

 柳田国男は明治8年に兵庫県神東郡田原村辻川に松岡家の6番目の子に生まれた。日本で一番小さい家に生まれたと述懐している。父は医者で儒者だったが、宣長や篤胤の国学に熱心だった。弟に国語学者になった松岡静雄、画家になった松岡映丘がいる。
 11歳で三木家に1年間預けられ、そこで和漢の書に出会った。この年、「日本で最後の飢饉」が近村を襲った。この目撃は決定的だったようで、その後に柳田は開成中学・一高・東大に進むのだが、学校でとりくんだのは三倉(義倉・社倉・常平倉)の研究だった。柳田はこのことが自分を民俗学に向かわせた動機だったと書いている。三倉のことは中里介山の『大菩薩峠』白土三平の『カムイ伝』との相同性をおもわせる。
 20歳のとき田山花袋と日光に行って尾崎紅葉と会い、翌年には島崎藤村と出会った。短歌と新体詩をしきりに投稿していたころである。大学に入っての1年目の夏、伊良湖岬の浜辺に流れついていた椰子の実を見た。ちょうど自分の詩人としての資質に疑問をもちはじめたときだったようだ。しかしロマンチストとしての資質は生涯にわたって消えてはいない。
 大学を出て農商務省に入り、農業政策にとりくんだ。わずか2年の活動だったが、講演をもとに書きおこした『時代ト農政』が当時の農政学水準を抜きん出た。
 日清・日露時代の日本が貧窮に喘ぐ小作農の問題をかかえていたことは、有島武郎の北海道での闘いの敗北にも象徴されている。柳田には『日本農民史』の著述もあった。かつて谷沢永一が家永三郎に反論して『時代ト農政』を激賞したものだ。

 柳田の農業への関心はつづいて土俗学へ、さらには郷土学へ、そうして民俗学になっていく。そしてそれが、結局は水田潅漑を分類してみせた『海上の道』のラストシーンにつながったのだ。

辻川の生家

柳田が生まれた辻川の家

 その後の柳田は明治42年に椎葉や遠野を訪れ、民間習俗というものの採集の方法にめざめると、一挙に郷土調査に向かっていく。
 ここには新渡戸稲造の郷土研究との合流があって、大正2年に高木敏雄とおこした「郷土研究」、河童が水の神の苗裔であることを仮説した『山東民譚集』、大正8年の初の沖縄旅行というふうに広がっていくものがある。実際にはまだ官界の仕事を半分引き受けていた時期が重なるのだが、これをふっ切ってフォークロアに打ち込む気になったのは、おそらくは関東大震災でいっさいが倒壊することを告示されたからだった。
 それからあとの柳田の活動は日本民俗学の流れとほとんど軌を一にしているので、広がりがありすぎて案内しがたい。また、そのことをトレースしてしまうことが、今夜のぼくの気分である「柳田を読むと日本想う」という姿勢を崩してしまう。省略しよう。
 ともかく柳田は昭和前期を通して、のちに「重出立証法」という採集と表現を組み立てうる方法を確立していく。それが柳田民俗学である。それが一国民俗学の範疇を毫も出ないものであることは批判の対象にもなったけれど、かつて桑原武夫鶴見俊輔がそんなことを書いていたとおもうのだが、もし柳田が“一国”にこだわらなかったら、誰が日本の民俗風習をここままで考えるようになったか、仮に考えるようになったとしても時代が進みすぎて、もはや採集不能になっていたのではないか、そうとも言わなければならないだろう。

 では、もう一度、『海上の道』に戻りたい。この遺書ともいうべき著作の最後の最後に、柳田は「知りたいと思う事二三」というメモのようなものを入れている。8項目ある。
 読んでいるとなんだか胸に迫ってくるものがある。それがわれわれに残された柳田のメッセージであるようにおもわれるので、またそれが「千夜千冊」の擱筆にふさわしいのではないかとも感じたので、8つのことをつないで書いておきたいのだ。

 まず、寄物(よりもの)のことである。海から漂着したものたち、たとえば椰子の実だが、それ以外にも「玉藻刈るあま乙女」が親しんだ海の玉藻のこと、「それもてこ」と言われた貝や石のこと、なかでも宝貝あるいは子安貝については、それが貨幣としてどのくらい流通できたのか、それが都では呪物になったのはどうしてか、そこを知りたい。また、寄物ではないが、日本の近海を回遊しているイルカのこと、こういうことをもっと知りたい。
 弥勒の出現を海から迎える行事が遠く隔てた南北にある。ひとつは鹿島の鹿島踊りにうたわれていて、もうひとつは八重山にある。これらがニロー神やニライカナイの島と、あるいはまた中世文学によくあらわれる美々良久の島や、遣唐使船が船を寄せたという肥前五島の三井楽の崎と、どんな関係をもつのか、知りたい。
 そうなるとやはり鼠が海上をわたって島から島へ移ったという「鼠の浄土」のモデルがどこにあったかをつきとめたい。新井白石は「ねずみ」は「根の国」と縁のある言葉だというけれど、それなら「根の国」のモデルはどこかの海を島伝いに伝承されてきたということになる。それにつけて、クロモジの伝承が気になる。あんなに香りのある木を形にして継承してきたというのは、それを伝えることになんらかの意味があったからで、それを担った人々とはどんな者たちだったろのだろうか。それを知りたい。
 つまりは稲の伝来がすべてにかかわっているはずなのである。いったいアエノコトのような祭りはどこからやってきたのか。稲を大事にすることと産屋を大事にすることはどこでつながったのか。そういう稲からとれた米を粥にして大事な日々に食べるのはどうしてか。そこに小豆が入るのはなぜなのか。そういうことが儀式化されて宮中の儀礼にとりこまれたのは、なぜだったのか。そういうことを知りたい。
 自分はもう齢(よわい)を重ねているので、欲張りなことはできないけれど、日本という国を考えるには、これらのことをどうしても詳らかにしておきたいのである。

 ざっとこのような感想である。最期の柳田国男の構想だった。
 けれども、柳田はこれを書いた一年後に没した。まさに海上の道に没したのである。ぼくもそのように終りたいものだ。

隠居所前にて

晩年過ごした隠居所前にて

附記¶柳田のものはどのようにでも読める。『定本柳田国男集』全31巻・別巻4(筑摩書房)に網羅されているが、とりあえずは角川文庫や岩波文庫で十分に堪能できる。ぼくは筑摩の「現代日本思想大系」29の『柳田国男』の益田勝実に導かれたときに、初めて構えて読むようになったのだが、上にも書いたように、構えずに読んだときの印象が心の底に流れているのがありがたい。文中に紹介した赤坂憲雄の3部作『山の精神史』『漂泊の精神史』『海の精神史』は「柳田国男の発生」(小学館)と銘打たれていて、いまのところ最も信頼できる柳田論になっている。『海上の道』は第3部でとりあげられている。そのほか柳田論はいくらもあるが、最近の柳田批判として痛烈な見解を含むのは、村井紀『南島イデオロギーの発生』(太田出版)、岩本由輝『柳田民俗学と天皇制』(吉川弘文館)、河村望『柳田国男の世界』(人間の科学社)などである。構成に難点があるものの『柳田国男事典』(勉誠出版)という分厚い案内書もある。
 さあ、これで「千夜千冊」の連続執筆をいったん終えることにする。5年にわたったのは予想外の作業になったけれど、求龍堂がこれらをすべて全集に収めてくれるというので、それを潮時にした。すべてを7巻に構成しなおしてみたので、ずいぶん手を入れることにもなった。ウェブで読んでいただいものとはかなり様子が変わったとおもわれたい。ぼくにも「重出立証法」ではないが、多少の「方法の魂」で編集構成をする気があったのだ。では、求龍堂で会いましょう。

「千夜千冊」第1期放埓篇は、今宵第1144夜でひとまず完了しました。2000年2月23日に始まり2006年5月22日に向かった6年3ヶ月にわたるご愛読、ご声援、ありがとうございました。第1145夜からの新シリーズ(名称はおたのしみに)は6月6日、装いも新たに再開します。どんなブック・コスモスが展開されるのでしょうか。乞ご期待!