才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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日本人の自画像

加藤典洋

岩波書店 2000

 日本人は種的同一性のことばかり考えると言われているが、そんなことを話題にするようになったのは開国と不平等条約のなか西洋列強と伍そうとしてからのことで、それがイギリス人やイタリア人やスペイン人より濃いのかというと、そういうこともない。
 むしろ中江兆民が日本人の「恐外病」ないしは「侮外病」を警告したように、ガイコクやガイジンを気にしすぎるといったほうが当たっている。しかし、日本人が自分の自画像をまるでラカンの鏡像過程のように気にしているのはまちがいなく、自分で自画像を描くよりも、外から自分がどう見えたかを気にする。
 では、日本人自身はちゃんと自画像を描いたのか。どのように描いてきたのか。それはどこにあるのかというのが本書のテーマになっている。本書が検討する自画像は荻生徂徠・本居宣長・福澤諭吉・柳田国男・江上波夫・小林秀雄・吉本隆明らによって描かれた自画像である。何を本書が検討したのか、かなりとばしながら、そこにぼくの解釈をまじえて要約する。

 荻生徂徠は外国語と日本語を発見した。その本来のちがいに気がついたといってもよい。どのように発見したのか。たとえば、ここに「日本」という漢字2字があるとして、これを何語といえばいいだろうか。これだけでは中国語とも日本語とも判断がつかないにちがいない。どう読むのか、どのような意味なのかというと、さらに当惑する。これと同じことに徂徠は直面した。
 酒井直樹は1996年の『死産される日本語・日本人』のなかで、日本人の種的同一性は、日本語を国民全体主義と個人主義を共犯関係にして成立させているようなところがあると指摘した。そのうえで、たとえばいまあげた「日本」という2字を前にして、日本人はそれが本来的な言葉と意味をもったものなのか、外来的な言葉と意味をもったものなのかを判断するところに追いこまれたと考えた。加藤もこのような酒井の指摘に促されて徂徠を検討する。

 徂徠の時代、日本人は書き言葉のなかですら漢文・和漢混淆文・擬古文・ひらがな和文・候文・歌文・俗語文などの多様な文章に出会っていた。それを日本人はおかしなこととはおもわず、許容していた。
 しかしあるとき、ここには何かが欠けていると感じた者が登場してきた。その一人が徂徠なのである。徂徠については第1008夜にあらかたの案内をしたので詳細は略すけれど、中国語を中国語のままに読むことにいったん戻れと言ったのだ。
 当時、藩校や町の儒者のところでは、『論語』学而の「過則勿憚改」という文章は「過てば則ち改むるに憚る勿れ」などと読み下して教えられていた。漢文訓読法である。徂徠は前半期を独学で儒にとりくんだ。独学でとりくんでいたのがさいわいして、そのうち、このような漢文訓読はおかしいと気がついた。
 いまふうにぶっちゃけていえば“I am a boy”を「アイはボーイにしからしむるam者なり」と言っているようなもので、これでは英語を理解したことにも日本語をつくったことにもならない。
 徂徠は書物は「本来の面目」において読むべきものだという信念をもっていたので、「過則勿憚改」は中国語ふうに「コウ・ツェー・ホー・ダン・クァイ」と読むべきだと考えた。チンプンカンプンでもまずそう読む。そう読めば、少なくともそれによって言葉が使われている場所が感じられる。そのうえで、今度は読み下すのではなく、その言葉の意味を率直にとらえる。「しくじったらやりおなすことを遠慮するな」というふうに。訓じるのでは訳すのだ。こうして徂徠は、漢文訓読法が「崎陽の学」であって「訳文の学」ではないと退けたのだ。
 なぜこんなことをしたか。チンプンカンプンなどなぜ必要なのか。そうすることによってこの文章が外国語で成り立っていることがわかるからなのだ。
 次に徂徠は、ひょっとすると中国人にとっても古代の言葉や文章は外国語のようなものだったのではないかと推理した。それなら中国の儒を学ぶには、もともとの中国の言葉の本来に戻って読まなければいけないのではないかと考え、そのような方法で孔子や孟子を読むことを「古文辞学」と名付けた。
 これによって徂徠が何を意図したかは、第1008夜に書いたように朱子学を批判した。中国中世の儒学が本来の儒学ではないことを乗り越えようとした。

 
 徂徠の古文辞学は、古言(ふること)をそのまま理解するほうが、妙な訓読や注釈を加えるよりずっと直截にその当時の思想が理解しやすいということを強調した。
 それはまた、「今言」によって歴史の起源をたどろうとすることが誤りであろうことを示唆していた。徂徠はそういう方法で日本人や日本語も発見したのだった。
 そこで本居宣長が登場して、徂徠の指摘したことの奥にはまだ片付いていない問題がある、そこに「漢意」(からごころ)があることこそがもっと深い問題なんだと指摘した。このことについても第992夜第564夜第387夜にふれたので詳しいことは省くけれど、いまそれをわかりやすくまとめれば、次のようなことになる。

 徂徠は、「外国人である中国人から見た外国人」である日本人を意識したわけである。つまり、日本人を向こうから見る方法で日本語をもつ日本人の自画像にアプローチしたわけだ。
 しかし宣長や、それに先立つ契沖や賀茂真淵が試みようとしたことは、朱子学を批判したり、儒学の本来を理解するために日本語や日本人を考えようとしたのではなく、日本の古言(ふること)だけで日本人の思考の方法の根幹にたどりついてみようということだった。
 そのためには、もはや「日本人」という外在的な見方にとらわれることなく、もともとこの土地に育まれてきた言葉で日本人とか日本語とかとよぶことすら不要になるような、純粋の思考ができるような方法を確立しなければならないのである。それにはまず漢意をアタマから排除する。ついでその純粋な思考を「真心」あるいは「まことの道」とみて、その方法でたどった古言による古意(いにしえごころ)の世界を記述する(それが『古事記伝』になった)。
 宣長はこういうことを試みたのだ。加藤はこれが、日本人が試みた初めての自画像の制作方法の提示だったとみなした。これは「普遍」というもので「日本」を記述しようとした最初の方法だった。

 宣長は1801年に死んだ。それからまもなくしてアヘン戦争がおこり、中国がとんでもない晒しものになった。あの儒学と朱子学の国が列強の猛威に晒され、ガタガタにされたのだ。
 ここにおいて何が中国やそして日本にやってきたかといえば、ひとつには資本主義の原理の発動が届き、もうひとつには「万国公法(=国際法)」が届いてきた。つまり列強が用意した「普遍」がやってきたのだ。法学的にいえばグロチウスが『戦争と平和の法』に書いたことが押し寄せてきた。グロチウスは中世的な自然法からトマス・アクィナスにはあった宇宙論的な背景を切除して、新たな人間中心の社会の法を普遍的なものにした。
 これは、中国も日本も国際的な関係社会の一員でなければならないことを強要するものだった。宣長にしてみれば、そんな必要はまったくない。「まことの道」を歩んでいれば、外国も日本もないのであって、そのことを外側の目で、現代思想ふうにいえば他者の目でいちいち議論してもらわなくたってよかった。
 しかし、宣長ののちの時代はそれを許さない。たとえば佐久間象山はアヘン戦争の知らせを聞いたのち、やっと朱子学を捨てて洋学に走った。宣長の方法があることを象山は知らなかったのだ。
 象山だけではない。当時の知識人の多くが新たな普遍の刃の前で、それまでにない種的同一性に危機をおぼえ、それをもってナショナリズムに芽生えていったのである。
 そんなものは日本にはなかったのだが、そうなっていった。そのナショナリズムのひとつのかたちが尊王攘夷である。日本は外側を意識して、アヘン戦争ののちにナショナリズムをつくったのである。
 これは思想の問題ではあったが、実際には軍事力や経済力の問題として結果していった。思想の問題であれば、尊王攘夷にも「外側」の強要とぶつかって雌雄を決するという方法はあったけれど、長州・薩摩が体験した下関戦争や薩英戦争はたちまちその思想を解体させてしまったのだ。

 明治になると、かつてはあったかもしれない「この土地の思想」というものが音をたてて崩れていった。それとともに「民族の記憶」よりも「国民の誕生」が志向された。
 三宅雪嶺の「日本人」や徳富蘇峰の「国民之友」は日本人の自画像を、民族像としてよりも国民像として描こうとした。あまつさえ、多くの思想は国権派と民権派に分立せざるをえなくなってきた。
 こうしたなか、福澤諭吉は独自な自画像のスケッチを試みた。福澤はまず「一身独立して、一国独立す」という立場をとって、国権や民権といった漠然とした集団像ではなく、一人一人において国や民族や世界や普遍を考えるしかないのではないかという考え方を前面に押し出した。それが明治維新直後のことである。
 ついで西南戦争が終わると、つまり明治維新が終わると、西郷隆盛が新聞などで一斉に国賊扱いされているのに呆れて、ひそかに『丁丑公論』に、こう書いた。
 これから書くことは、いま発表すると出版条例などにひっかかるだろうから、あえてひそかに「後世子孫」のために「現況」を書くのだが、それによって「以て日本国民抵抗の精神を保存して、其の気脈を断つことなからしめん」とおもう自分の気持ちは伝わるだろう。自分は西郷とは会ったことはないし、西郷の行動を擁護するものでもないが、その西郷の企てが破れるや、列島こぞって非難をしているのは我慢ができない。西郷は一度立って維新を成就し、二度立って目的を果たせず、いま国賊として非難されているが、この二度のことはその思想も内容も同じことなのだ。そこには大義名分が正しければこれを果敢に実行に移し、まちがっているなら大義名分にすら抵抗するという精神が、「私情」においても貫いていることを示している。
 そもそもわれわれは国をつくるまでは私情で動き、維新がおこって国ができれば公的なりうるものだ。愛国心や忠君心といった公的なものは国家の子供のようなものなのだ。しかし、国家をそれがないところからつくりあげ、それがたとえ滅びてもこれを支えるのは「私情」なのである。

 このように福澤は書いたのだ。
 これは有名な「痩我慢の説」と一対をなすもので、そこには日本国家のなかの私情による自画像というものが描かれていた。
 つまり福澤は、こう考えたのである。立国というものは一人一人の人間が他人と結ぶ関係を確立するもので、それゆえ立国された国と国は交易もし戦争もするのだが、それは「天然の公道」によってつくられたものではない。最初は私情によってつくられたのだ。ところが国が確立すれば、人間の私情は「立国の公道」という大義名分に転移する。それは「人類の私情」ともいうべきものである。しかし、国家は立てられるものであるがゆえに廃されることもある。国家がなくなれば公道も根拠を失う。公的なものとは実は国を支えるのではなく、国に支えられるものなのだ。
 しかしながら、その亡国ののちにそこに残るものは「人類の私情」だけなのだ。痩我慢は、その無根拠の私情となった立国の最後の根拠を象徴しているのではあるまいか――。

 この福澤のスケッチは、宣長が無根拠として突き出した「もののあはれ」や宣長自身の生活思想であった「私有自楽」に通じるスケッチである。痩我慢とは「もののあはれ」を裏側から見たもの、国家確立後の精神のことなのである。
 それでは、このような宣長や福沢によって辛くも確立していた日本人の自画像は、近代社会がさらに進展するなかでは、どうなっていったのか。あいかわらず少数者の自画像でありつづけたのか。加藤はここで柳田国男の例を出す。

 柳田国男が提案した日本人の自画像は「常民」というものである。常民の概念には変遷がある。
 最初は平地に住む定住生活者の意味として、ついで本百姓に象徴される稲作農民層をあらわす概念として、最後に日本人の意識をあらわす概念として、つかわれた。もっとも、そこには民間伝承文化の担い手というイメージが一貫した。
 当初、柳田は「山人」に注目した。列島の記憶をさかのぼろうとしたとき、そこに異人としての山人が介在していて、その記録を集められればそこに先住民族の痕跡を発見できると考えたからである。しかしその痕跡はあまりに少なく(実際には少なかったわけではないはずなのだが)、柳田は沖縄旅行とヨーロッパ旅行ののち、列島に住む定住民に注目してそれを常民とよび、その常民が南島から稲とともにやってきたと考えるようになった。
 これはこれで明確な自画像のモデルの確立である。当然、日本列島に定着し、その後にマジョリティになった民間伝承文化の継承者を想定したのだから、これは日本民俗学や日本民俗学の確立を意図したもので、それゆえのちに「一国民俗学」とよばれたように、日本人が残してきたものだけを学問することによって確立しうる学問を、その後に柳田に続く者たちとともに形成するためのものであった。
 したがって、この方法を宣長の国学を継ぐ新たな国学だとみなす余地はある。柳田自身、何度かそのような発言もしていた。
 けれども、この常民のモデルは日本が農業や農政を基盤に国を富ませようとしているうちはともかくも、殖産興業や富国強兵を実現して軍事大国に向かうにつれ、あやしくなってきた。いったい常民がどこにいるのかということになってきた(第1135夜に紹介した中山太郎から赤松啓介におよぶ民俗学は「非常民」を対象にした)。

 やがて日本は戦争に突入し、農民はただ鋤や鍬を捨てて戦争に駆り立てられるだけになった。むろんこのことは柳田の民俗学が有効にならなくなったことを意味してはいない。
 むしろそうした軍事日本とまったく無縁に、ひたすら過去の遺産に常民の声を聞くという意味で、柳田自身は戦争を超えていたともいえた。フォークロアに内在することが外在する戦争を超越したともいえた。
 しかし、戦争に大敗して焼跡に放り出された日本人にとって、もはや柳田の自画像は日本人の自画像とはなりえなくなっていたのである。内在にこだわった日本は完膚なきまでに叩きのめされたのだ。こうして、ここに登場してきたのが、日本人の自画像を日本を征服した騎馬民族に求めるというものだった。

 江上波夫の騎馬民族説が敗戦後の日本人の人気を攫った理由は推測するに難くない。敗戦によって日本はアメリカを中心にした連合軍に乗っ取られたのである。日本は完全な敗者となった。
 ところが江上は、もともと日本は外からやってきた騎馬民族に乗っ取られたと言い出したのだ。その騎馬民族が大和朝廷をつくり、天皇一族をつくりだしたと言い出したのだ。これは、奇妙な仮説だった。いったい日本人の自画像を内部に求めるのか外部に求めるのか、はっきりしていない。外部の内部化を自画像とするというロジックだった。それに、この仮説を敗戦後の日本にあてはめるとすれば、マッカーサーこそが新たな騎馬民族の大王(おおきみ)ということになる。
 むろんこのようなことを吟味して騎馬民族説は人気を攫ったのではない。敗戦の鬱憤を吹き払うものとして、あるいは人間宣言をした神格天皇の一族ももともとは“よそ者”だという突っぱねるような捩れがうけたにすぎないのかもしれない。しかし、柳田民俗学にとってはこれはとんでもない話だったのである。農耕的で祭祀的で南方的であった日本人の自画像は吹っ飛んで、北方的で荒々しい武力に富んだ民族像がそれを蹂躙していったからだ。
 それはまた世界民族学が日本民俗学を包摂した瞬間でもあった。その魅力には岡本太郎が持ち出した縄文性なども加わって、いっとき日本人の自画像に大きな変更が加えられることになったのだ。

 いまでは北方騎馬民族説は学問的に否定されている。それはそうなのだが、当時はこのような学説は、他方では外部の文化の優秀性によって日本を批評するという方法ともぴったり重なってもいたといわなければならない。
 つまり、ドストエフスキーランボオやゴッホを持ち出すことが、あるいはマルクス主義実存主義を持ち出すことが、日本の新しい審美性すら培えるのではないかというものとして、大いに流行したのである。 
 そのような方法をはやくから確立していたのが小林秀雄である。昭和初期から戦時中を通して、小林は文芸上の騎馬民族説を立証しつづけていた。ところが、その小林も敗戦後以降はしだいに転換していくことになる。それが第992夜にとりあげた『本居宣長』である
 小林の宣長論についてもおおかた省くことにする。ここではただひとつ、小林が宣長の方法に「言語共同体」としての可能性を見ていたことに注目しておくことにする。つまり小林は、宣長からは言語共同体としての自画像の描き方を継承したのだ。
 このような小林の継承に不満を申し立てたのが吉本隆明だった。吉本は次のように書いた。

 わたしは宣長にも、それに追従し「訓詁」する小林にも哀しい盲点をみつけだす。日本の学問、芸術がついにすわりよく落着いた果てにいつも陥いるあの普遍的な迷妄の場所を感じる。そこは抽象・論理・原理を確立することのおそろしさに対する無知と軽蔑が眠っている墓地である。

 なかなか鋭い見解である。たしかに日本人の自画像、とりわけ文芸や芸能による自画像には、あたかも普遍的であるように見えて、実はそこから何も出てこない迷妄の場所というものがある。
 それを「無」とか「無常」とか「粋」とみなしていけばいくほど、その説明が何も生まなくなるようなものがある。これはそのような思索をする者の大半が、科学や論理学や自然学と交わってこなかった欠陥でもある。吉本のように東工大で応用化学と少しでも交わった者にとって、このような“芸談”ふうなものに進むやりかたは、どうにも肯んじられないものだったろう(ぼくはまったく逆で、物理学をどこまで極めようと、それとともにロックパンクも芸談がありうると考えている)。 

 吉本は結局のところ、このように自画像が傾いていくのはそこに「世界認識の方法」が欠けているからだと見たのである。
 吉本にも紆余曲折はあった。かつては吉本も文芸的発想のなかにいて、そこで「内面性の自由」さえあれば他には何もいらないと思っていたのだが、やがて文芸的発想というのはつくづくダメなもので、よくってヘーゲル的な全円性、たいていは勝手な誤謬にはまりこんでしまうだけだと気がついていったのだった。
 ということは、吉本は「漢意をみくびってはいけない」という意識がはたらいたということなのである。小林は漢意にこだわる学者的なるものに対して、宣長の生活者的なるものを対置した。それによって宣長の日本的自画像を擁護した。吉本はそうではなくて、むしろ柳田のように外からの視線を感じつつも、徹底して内面の思考を貫徹する視線を国土に届かせようとした方法に共感をおぼえるのである。柳田は外の力を借りないで、いわば独自の漢意を日本の自画像につくりあげたのだ。常民などという概念は、そういう漢意をあらわしていた。
 こうして吉本は、柳田の『海上の道』が外側の吟味に応えうる「世界認識の方法」のひとつのやりかただとみなしたのだ。そしてそのうえで、柳田が稲作民にこだわったことによって、制度化された大和朝廷的なるもののいっさいにかかわることなく、日本の自画像を描出しようとしてきた方法に、宣長や小林に勝るものを感じるのである。

 以上が、ぼくの勝手な本書の要約である。とくに加藤がどこを強調し、どんな用語でこれらのことを解説していたかということにふれなかったけれど、まあ、いいだろう。
 ぼくとしては加藤のお手並みや包丁さばきにおもしろいものを感じたので、その料理を皿に盛ってみただけなのである。

附記¶加藤典洋は『アメリカの影』(河出書房新社)で颯爽とデビューした。山形出身で、東大のフランス文学科を修めて現代日本文学を専攻した。その後、『日本風景論』(講談社)、『日本という身体』(講談社)、『敗戦後論』(講談社)、『可能性としての戦後以降』(岩波書店)、『日本の無思想』(平凡社)、『戦後的思考』(講談社)というふうに、一貫して日本の現代を問うて、本書にいたった。いまは明治学院大学の国際学部の教授だが、もっとメディアが引っ張り出して、そのユニークなコメントの包丁さばきを享受してみてはどうかとおもう。