父の先見
芸術的抵抗と挫折
未来社 1959
この本は、大学に入って最初に買った記念すべき一冊である。
ぼくは大学に入ってすぐに3つのサークルに入っている。「丹生の研究」の松田寿男さんのアジア学会、いまは鍼灸師であってセラピストになっているが、当時は有能な演出家だった上野圭一がリーダーをやっていた素描座(ここで照明技術を担当した)、それに週刊で「早稲田大学新聞」をつくっていた新聞会である(その後、グライダーとヘリコプターが好きだったので、航空倶楽部にも所属した)。
その3つのサークルのどこにいても、耳障りなように聞こえてくることがあった。誰もがハニヤ、ヨシモト、ハニヤ、ヨシモトと呟いていることだ。いったいハニヤやヨシモトとは何なのか。聞いたことがない。「それがな、ジドーリツなんだよ」「やっぱりマチューショだよね」などという感想もつきまとっていた。さっぱりわからない。
そのうち早稲田の古本屋や高田馬場の古本屋を抜けて帰るとき、どの古本屋にも「埴谷雄高」「吉本隆明」が並んでいるのを知った。
どの古本屋にもあるのが、埴谷の『濠梁と風車』『鞭と独楽』『幻視のなかの政治』『不合理ゆえに我信ず』と、吉本の『擬制の終焉』『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』だったとおもう。ふーん、大学生になるとこういう難解な標題のものを読むのかとおもった。
手にとってみて、かなり立読みをした。当時は立読みが読書時間の半分とはいわないが、5分の1くらいは占めていた。むろん貧乏学生だったせいである。どうやらハニヤが超然していて、ヨシモトが土着していることくらいは伝わってきた。
そして、ある日、大枚はたいてヨシモトの『芸術的抵抗と挫折』を買ったのである。先輩どもが吐きすてるように言ったものだった、「そうか、おまえも関係の絶対性かよ」。
そのときの本が手元にある。ところどころに鉛筆の線が引いてあって、少しだけだが「パラノイア!」「これで非転向?」といった書きこみがある。
最初に、マチューショこと「マチウ書試論」を読んで驚いた。ヨシモトは聖書の作者を問題にしているのだった。そして、「ジェジュの肉体というのは決して処女から生まれたものではなく、マチウ書の作者の造型力から生まれたものだ」などと書いている。これはすごいとおもった。
聖書の登場人物のすべてをフランス語読みしているのがキザであったが、高校時代に教会に通っていた者としては、聖書の作者の“造型力”を問題にするなどということは(いまなら“編集力”といいたくなるが)、それこそ驚天動地の発想だった。
もうひとつ、こんなにのらりくらりと書いている文章が学生にウケていることに驚いた。
ぼくのそれまでの読書は、書き手の意識よりも内容の意識が先に立っていた。そういうふうに読んで、べつだん問題がなかった。それがこの本は、書き手が考えているスピードにあわせて読むしかないようになっている。そのぶん書き手の思索のなかのいくつかのポイントだけが突起してくる。そこで学生はヨシモトの論理の手順というよりも、ヨシモトが何をどこで取り上げているのか、たとえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」をどこで取り上げたのか、それだけを話題にできるようになる。
奇妙なことだが、これこそ大学生になったあかし、その新鮮というものかとおもったほどだった。
ちなみに先輩が言った「関係の絶対性」は「マチウ書試論」の最後の最後に出てくる言葉であった。その意味が文脈からはみだしていて、当時のぼくにはさっぱり意味がわからなかった。
ところで「マチウ書試論」にくらべると、本書に寄せ集められていた論文はどれもこれも政治的文学批判や文学的政治批判が多くて、つまらなかった。
そういう“意外なごった煮”の本に出会うのも初めてだった。だいたい本は一貫しているものとおもってきたからだ。
もっとも、最後に収録されている「情勢論」、いわゆる文芸時評のたぐいだとおもうが、これはたのしんだ。当時ちょうど読んでいた安部公房をこっぴどくやっつけたりしているのだが、その批判の刃は誰に対しても似たようなケチのつけかたで、これはのらりくらりというよりもヨシモト印の焼印を押していく文章なのである。他人の作品や思想を病気扱いにしたり、その症状だけを問題にするという書き方があるということも、そのころのぼくの新鮮な驚きだったのであろう。
ともかくも、この本ではぼくのアタマの中のいろいろな部分の目がさめた。なかでも、おそらく「書くこと」のおもしろさのようなものに気がつかされたのが、いちばん大きかったのではないかとおもう。
その後、ぼくは吉本隆明のよい読者とはなりえていない。『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』が大学時代に出て、あいかわらずサークルの話題になっていたので、ぼくも読んでみたが、どうしても著者と対話をしている気分になれないままに、終わった。
そのかわり、大学時代は埴谷雄高にはしだいにのめりこんでいった。もう一人よく読むことになったのは谷川雁である。この三人は当時の反体制知識人の御三家だった。三人が講師のようなことをしていた自立学校というものも覗いていた。
ただ、よくもそんなことを継続していたなとおもうのは、ハニヤ、ヨシモトを知って以来というもの、ぼくは「新潮」「群像」「文学界」「文芸」を毎月読むようになったことである。回覧雑誌というもので、お兄さんが自転車にセロファン紙でぴったりカバーした雑誌を届けてくれるという、あれである。
これがぼくのヨシモト興業事件だった。