才事記

カメラ・オブスクラ年代記

ジョン・ハモンド

朝日選書 2000

John H. Hammond
Camera Obscura 1981
[訳]川島昭夫

 17世紀のイエズス会師にして、エジプト文字の研究者、かつ支那学と神秘数学とイシス学に通じたエンサイクロペディストだったアタナシウス・キルヒャーに溺れていたころ、ぼくはカメラ・オブスクラとラテルナ・マギカの、二つの光学装置にぞっこんだった。ラテルナ・マギカとは幻燈器のことをいう。
 ロンドンに行ったとき、心はやらせてまっさきに駆けつけたのも、ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムの覗き眼鏡と、ナショナル・ギャラリーの透視法箱と、ロンドン科学博物館の書物型カメラ・オブスクラだった。ロンドン最初の日は、カメラ・オブスクラがあるかどうかを確かめられなかったというただそれだけの理由で、大英博物館に行かなかったほどである。
 カメラとはラテン語で「部屋」という意味である。オブスクラは「暗い」という意味だった。暗い部屋、それがピンホールによって影像を映し出したカメラ・オブスクラというマジック・ボックスの意味である。まさしくカメラの曾祖父にあたる。

 この影像の原理に最初に気がついたのは、おそらく紀元前5世紀の墨子であった。墨子はピンホール影像を正確に理解した。経書にそうした記述が見られる。
 ついでアリストレスがこれに気がついた。ただし、アリストレスは日食のときの木の間から洩れる三日月形の日食像を知り、それが指をまるめてもおこることを確認しただけで、その原理の説明もできなかったし、ピンホール影像を人工的につくれることにも、まったく気がつかなかった。ヨーロッパがこの原理を理解するのは、なんと16世紀のことだった。
 原理をある程度は解説できたのは10世紀イスラムのアルハンゼンである。ぼくは、『遊』第1期のころ、キルヒャーとともに、アルハンゼンにも夢中になった。このころ、ぼくは光学から天文学へ、測定器から幾何学へという道を究めたかったのだ。
 それはともかくとして、アルハンゼンの研究をすこしだけ敷延したのが、ヨーロッパ実験科学の祖といわれたロジャー・ベーコンである。だが、のちにゲーテはベーコンの実験は空想の産物にすぎないと批判した。実際にベーコンがどこまで実際をしたのかは、いまもってつきとめられてはいない。
 わかっていることは、ベーコンにしてもウィテロにしても、この時期の初期科学者はカメラ・オブスクラの機能を日食観測の道具としてしか見ていなかったということだ。

 天文愛好者たちによる太陽観測のブームはつづいた。ファブリキウスのように黒点観測に挑む者もいた。かれらはたいてい眼をやられた。
 一方では、カメラ・オブスクラは画家が愛用する道具になっていった。アルベルティ、レオナルド・ダ・ヴィンチがこれをつかって遠近法を確立し、その応用を重ねていったらしいことがわかっている。
 これはカメラ・オブスクラにレンズが入ったことによる普及だった。
 レンズをピンホールに入れたのはおそらくミラノの数学者だったジロラモ・カルダーノである。そして、このことを喧伝したのが、これまたぼくがいっとき関心を寄せていた正真正銘の“博物学的な物狂い”を演じたジョヴァンニ・バッティスタ・デ・ラ・ポルタだった。16世紀のベストセラーといってもいい『自然魔術』の著者である。ミシェル・フーコーもポルタについては『言葉と物』のなかでさかんに持ち上げている。

 ヨハネス・ケプラーは、ポルタの本でカメラ・オブスクラを知った。
 ケプラーは母親が霊能者だということもあって、少年時代から死ぬまで、錬金術の秘密や霊夢の秘密に凝っている。ぼくは「遊」の創刊号から連載した『自然学曼陀羅』に、アイザック少年がどれほど彗星狂いであったのか、その幻想科学少年ぶりをいろいろな資料をしらべて綴ったものだ。
 いずれこの「千夜千冊」でもとりあげるつもりだが、ケプラーの『ソムニウム』(夢)こそは、ぼくが幻想小説の歴史的記念碑としてたいせつにしている格別の一冊なのである。
 けれども、ティコ・ブラーエやケプラーもそうだったのだが、かれらはまだレンズ付ピンホール影像の光学的な真理をつかむにはいたらなかった。
 ただ、ケプラーが「カメラ・オブスクラ」という名称をつくったらしいことだけがわかっている。それまでこの謎の巨大暗箱は、たとえば「コンクラーベ・オブスクルム」(暗い部屋)とか、「クビクルム・テネブリコスム」(黒い玉座)とか、また「カメラ・クラウサ」(閉じた部屋)といった名前でよばれていたらしい。

 こうして、ジョン・ディ、ロバート・フック、アタナシウス・キルヒャー、クリストファー・レンといった面々がカメラ・オブスクラの虜となっていく。
 いずれも名うての遊学派たちである。かれらはその魔法のようなヴィジョンを知ると、競ってこれを王侯貴族にショーアップさせた。ようするにカメラ・オブスクラは、中世から近世にいたるあらゆる科学的幻想をつくりだしていったヴァーチャル・リアルな王様だったのである。
 ロンドンにコーヒーハウスが流行しはじめた18世紀初頭、ジョセフ・アディスンは自分が編集する「スペクテイター」に「想像力の楽しみ」という記事を書いていた。その中に、グリニッジパークのカメラ・オブスクラ訪問記が入っている。これはぼくがタイムトラベルをしてでも、行きたかったところだった。

 その後、カメラ・オブスクラがどのように活躍したかは、本書が初めて教えてくれたことである。
 カメラ・オブスクラは携帯化され画家のお供となったほか、書物の挿絵づくりに活用され、たとえばウィリアム・チーゼルデンの『オステオグラフィア』の図版のすべてをつくりだしたり、エドワード・ドドウェルの『ギリシア古典地誌案内』の挿絵のすべてとなった。
 なかでもジェームズ・ブルースのことが心に残る。ブルースは“カメラ・オブスクラをもった探検家”ともいうべき人物で、その成果を『ナイル源流を発見する旅』に集大成してみせた。1790年のことである。100年後、ロバート・ランバート・プレイフェア中佐がブルースの果敢な跡を追って『ブルースの足跡をアルジェリア・チュニスにたどる旅』を出版している。
 ブルースは、ロンドンの機器製作の名門ネアン・アンド・ブランド社に自分の設計による折り畳み式カメラ・オブスクラを発注するほどの凝り性だったようだ。ゲーテが「旅行中にカメラ・オブスクラをもって歩くイギリス人」という評判をたてたものだが、それはこのブルースに始まるものであったらしい。当時、見世物小屋で流行っていたデリニエイター(輪郭写し機)も、ブルースのカメラ・オブスクラの模倣品であったという。
 このほか、本書はマイセンやウェジウッドの陶磁器がカメラ・オブスクラによって模写されていたことを告げている。
 少なくとも、エカテリーナ女帝の注文に応じてつくられたジョサイア・ウェジウッドの有名なクリームウェア「ロシア食器セット」は、カメラ・オブスクラを駆使した陶磁器だったようである。

 まあ、こんなわけで、本書はぼくの科技的幻惑をいろいろ喚起させてくれる一冊だった。何を隠そう、ぼくは小学5年生のときに「電気倶楽部」を花井君と二人でつくった“下京区のヨハネス”だったのである。