父の先見
文明論之概略
岩波文庫 1931・1962・1995
福澤諭吉は編集術の名手だった。
最初は翻案である。ソサエティを「交際」と訳したのをはじめ、ルサンチマンを「怨望」ととらえて、フランス語以上のイメージをつくった。
なにしろ遣米施設や遣欧施設に随行すると、その見聞をたちまち『西洋事情』『掌中万国一覧』『世界国尽』に著して(これらが明治2年までの仕事)、そうしたインストラクションの仕事にぞっこん夢中になれた。『世界国尽』など婦女子用のためもあって、すべてが七五調なのである。
そのインストラクションの工夫を、文明開化に立ち会いつつある自分が悉く引き受けるのだという自負と気概が向かうところは、その対象領域とともにまことに広かった。それこそ収税論から教育論におよび、学校経営から新聞(時事新報)の発行におよんだ。あまり知られていないけれど、『開口笑話』というジョーク集の翻案すらしてみせた。
天保5年の大阪堂島の生まれ。故郷は大分の中津藩。この時期の開明派に共通して、福澤も下級武士の家である。
はやくからめっぽう斬新で、名うての儒教嫌いだったようだが、いわゆるハイカラというのではなく、タテをヨコで眺めたり、ヨコの世界をタテの文化にすることに才能を賭けていた。のちに丸山真男がそういう福澤を、「ヨコのものをいかに自家薬籠中のものとしてタテにしたか、そこに思想のオリジナリティがあったのです」と言っている。
こうした福澤を山路愛山は「無情」と批判し、徳富蘇峰は「偏知的」とよんだ。この批判はわかる。
しかし、ヨコをタテにしてなお独創に富んでいるというのは、よぼどの才能なのである。無情に見え偏知的に見えるのは、まさにすべてを「情報」として平等均等に把握できる近代的合理性があったからで、そのような見方が維新直後の日本社会において"情実がない"と映るのはしょうがない。事実、福澤ほど「恩威情実」を批判した者はいなかった。
そこを正宗白鳥は、当時の鴎外・漱石ですら「あの頃の日本の秀才には、その頭脳の半面において甚だしい古さが潜んでゐる」と言い、「本当に頭の新しかつた人と云ふと、一時代前の福澤諭吉たつた一人であつた」と書いた。
おそらく白鳥が「頭の新しかつた人」というのは、頭の中に入っている古いものも、新たに入ってきたものも、その全部をとりあえず公平に検討できて、それらを現状や将来に応じて組み替えができるということである。
組み替えるだけではない。そこに新たな展望のための概念や方策を提示できるということである。それを一言でいうのなら、福澤は「近代編集思想」の開拓者だったということになる。また、そういう編集思想に徹する方法も編み出していた。
その方法というのは、わかりやすくいえば「A知はB知に変換できる」というもので、そのB知からまたC知をつくりだせるというものである。
実際にも『文明論之概略』では、フランソワ・ギゾーの『ヨーロッパ文明史』やヘンリー・バックルの『英国文明史』を頻繁に引いているだけではなく、それらをベーシックモデルにして、その枠組のうえに自身の見解の幹を加えて枝葉をのばした。そういう方法をもっていた。
事実、福澤がそれらの原著に書きこみをした蔵書が何冊も残っていて、福澤が猛然たる読書によって思索を拡張しながら、本書の叙述を計画的に深めていったことの跡が読みとれる。
そういう意味では、『文明論之概略』はまさに"読書編集型の思索構成"の成果なのである。きっと参考書を読みこみながら、その論旨や視点を日本社会の現実や将来に着地させるための大胆な編集をしつづけたのだろう。そういうことは、ぼくのような、ある意味では似たような作業にかかわってきた者には、手にとるようにわかるのだ。
しかしながら、本書の執筆はそのことにのみ終始したわけではなかった。「因習の日本に新たな文明論の切っ先をもちこむ」という断固たる決意によって、日本の総点検にも向かった。そのことができたからこそ、本書はその後の日本近代史のすべての文明論的先駆体をはたすことにもなっている。
福澤の手元にどんな蔵書があったにせよ、そこから抜き出した概念や用語をひとつずつ独自の日本語におきかえるたびに、福澤はそのつど独得の論述を繰り出したのだ。
誰もそんなことをしていなかった。
同じ豊前の帆足万里らの先駆者を除けば、当時「文明としての日本」などということを誰も考えていなかったし、仮に考えていたとしても福澤のように西洋をその目と体で見聞もしていなかったし、また、西洋の書物に熱中できる語学的才能も解釈力も、もっていなかった。
福澤はそれができただけでなく、文明論の洋書を読んだハナから日本への適用を翻訳語の創案とともに論述できた。その「日本語へのおきかえ」と「独得の論述展開」とが、いちいち近代以降の日本人の編集思想の原型となっていったのだ。なぜなら、「日本語へのおきかえ」はたんなる翻訳をこえて日本社会の文脈の読み替えとなり、「独得の論述展開」はたんなる西洋理論の解説ではなく、日本社会の制度や態度の提案となっていったからである。
もっとも、こうした福澤にも、いくつもの過誤や過信はつきまとう。ここでは述べないが、たとえば優生学への加担など、福澤にしてあきらかな勇み足だった。
これは編集思想というものが、素材をまちがえると、それらをいかに組み替えようと、そこから新たな展望を出そうと、最後までボタンの掛け違いがおこるということなのである。
さて、一身独立して一国独立となる。
これが福澤諭吉の確信である。『文明論之概略』ではこのテーゼが一貫して語られる。本書だけではない。福澤は晩年にいたるまで「東洋になきものは、有形において数理学、無形において独立心」と書いていた。
では、そんな東洋の、そのまた一隅の日本において、一身独立するにはどうするか。福澤は私の「徳義」を捨てて公の「智恵」を選ぶことを決断する。そもそも福澤は儒者を嫌って、これを「腐儒」とすらよんだ。儒学が門閥制度の温床になっていたからでもある。そこで智恵を得るには、そうした腐儒の狭隘なセクト主義から脱するためにも、「公智」が必要ではないかと推断する。個人の智恵ではなく社会的な智恵をつくるしかないのではないかという見解なのだ。ということは、徳義も私徳にとどまるようなものではあってはならないということになる。
一身独立にあたって公智を養う。
これは個に至って類に及ぶというなかなかの難題である。
しかし、福澤が考えつづけた「文明」とは、結局はその一点の確立に行きついて初めて獲得できるものだった。難しかろうが、従来の日本がそうでなかろうが、それ以外の方法はない。そう、福澤は確信した。その一点の確立を見定めるならば、福澤はそこから「自由」というものが日本にも得られるはずだというわけである。一人ずつの独立が公の自由をつくり、その公智が戻ってきて個を自在にするという論法なのだ。
これは誰かの主張に似ている。そうなのだ、フリードリッヒ・ハイエクかマイケル・ポランニーである。けれども、ハイエクやポランニーと福澤の立場が根本的に異なるのは、福澤がこのことを主張するとき、そこには「日本の独立」という、いまだ見えない課題が背負われていたことである。
これでだいたいの察しがつくだろうとおもうが、福澤が『文明論之概略』において「文明」という言葉をつかうのは、日本の独立のことを年頭においてのことだったのである。誰よりも早く、誰よりも独自に「文明としての日本」を議論してみること、それが福澤が本書の執筆を通して自身に背負った課題だった。
けれども、その文明の独立に進む日本は、上からの権力でつくられるべきではなく、あくまで個人の公智にもとづくものであってほしかった。
福澤が国政にも自由民権運動にもかかわらなかった理由が、ここにある。
残念ながら、福澤の論じた「文明」は日本には実現しなかった。日本は大日本帝国として明治天皇を戴いて、立憲君主制に向かっていった。
それに福澤自身も、日清戦争では世論を統一して軍民の士気を高揚させることや戦費を捻出するための献金に奔走したりして、必ずしも下からの独立に徹したわけではなかった。けれども、福澤の自由や公智は別のかたちのなかで、一身独立のしくみとして継承されていったのかもしれない。それが慶応義塾というものだろう。小泉信三の福澤論などを読むと、そんな気がする。
加えて、もうひとつ言っておきたい。福澤の方法は、今日もなおかえって吟味するに値するということである。
『文明論之概略』の試みは、近代以降の思想方法の原型になるほどの成果であった。それにもかかわらず、福澤以降、それほどの編集思想を生んだ方法の特徴に注目する継承者があらわれてこなかった。福澤の思想を議論する者はいっぱいいたのだが、その編集方法を議論する者がほとんどいなかった。それが残念なのである。
とくに戦後思想では、ヨコをヨコのまま輸入する思想ばかりが跋扈して、あげくのはて今日の日本の現代思想はそのような"ヨコ・ヨコ輸入思想"にまみれたままになっている。
ほんとうは、今日の福澤派とでもいうべき連中が、福澤思想の拡張に向かうよりも、福澤方法の解明にとりくむべきなのではなかったか。この数年、橋本龍太郎や竹中平蔵ばかりを見させられてきた者として、ちょっとそのことを付け加えておきたかった。