才事記

思想史の相貌

西部邁

徳間書店 1997

 この人とは会ったことはないが、「朝までテレビ」などで見ていて、なんとか「本物」の発言をしようとしているのだなということは、よく伝わっていた。
 それに、この人は思想に対して「正直」だ。どういうことかというと、知たり顔、わがもの顔をしないということで、世間の思想や歴史の思想というものを、いつ、どのように自分が入手したかということを、そのシチュエーションをふくめてちゃんと言明できる言葉の能力をもっている。正直などという言葉は思想者にはふさわしくないかもしれないものの、ぼくはたいせつにしている。
 西部自身はこう書いている。「思想とは、物事を区分けし、そして道を立てつつ、言葉による表現活動としての人間の生に形を与えようとする営みのことである」。

 本書は明治から現代におよぶ13人の思想家をとりあげて、これに論評を加えた。
 13人は、明治の福沢諭吉夏目漱石、大正昭和の吉野作造・北一輝・川合栄治郎・和辻哲郎ときて、ここで伊藤博文と吉田茂という二人政治家が入り、ついで昭和も戦後にかかって坂口安吾竹内好吉本隆明の3人をつづけ、最後に小林秀雄を、そしていささか長めの議論を展開してドンジリで福田恆存をじっくり示すという、そういう結構をとっている。

 本書が西部の書いたもののなかで、どれくらい成果の高いものかは、まだこの人のものを2、3冊しか読んでいないので、知らない。
 それは知らないが、ぼくが読んだかぎりは、本書の原型が「ビッグマン」というマイナーなビジネス誌の連載で、一回ずつの枚数を制限されているなかで書きついだものだという事情を勘定にいれると、かなり高質なものになっているとおもわれる。

 西部が保守思想を堅固に標榜していることは、つとに知られている。
 この人は「戦後日本が“平和と民主”という仮面をかぶることによって、あの戦争から眼を背け」、「日本が自己固有性を見失ってしまったこと」が、がまんならない。そして、いまや「思想なるものが瀕死に達していること」を嘆きつつも、あえて思想の本来を少しずつでも回復させたいとおもっている。
 そのためには、いま思想界を覆う「ヒューマニズムの錯誤」を払いたい。そういう立場を決然と表明している人である。
 むろん、そういうことに気がついたのは、この人ばかりではない。すでに多くの思想者が新たな地平をひらくために、試みの言葉を放ってきた。そこで、明治以降、そうした試みに挑んだかとおぼしい13人をとりだし、その言説に論評を加え、これからの日本の思想史がどのような相貌をもつべきか、そこをかれらの長所と短所とともに綴ってみようとした。そこが本書の基本的な狙いになっている。
 ごく簡単に内容をかいつまむ。

 福沢諭吉については、福沢が「書生の熱狂」を嫌って「一身独立」と「人間交際」を主張したことを評価する一方、あまりに実学と数理を重視して「便利の思想」に走ったことに限界を見る。また、それが福沢の「やせがまん」の出処進退を決しているとも読む。
 漱石からは、「二重性の哲学」と「エゴから離れた自己本位」を導いて、今日の日本に欠けているのがハイデガーのいわゆるゾルゲ(生の憂慮)にもとづいた悲観的楽観、すなわち「ニヒリスティック・ヒロイズム」の一種かもしれないと告げる。

 ついで、吉野の民本主義は「死者の民主主義」にすぎないのではないか、川合には「権力に対する鈍感」があるのではないか、和辻の堕落は「全体意志」をもちだしたところではないか、という指摘がつづく。
 伊藤博文論は国体論批判と不磨大典批判に、吉田茂論は戦後現実主義批判と社民主義に妥協したことに対する批判に、それぞれ焦点をあてている。とくに吉田が「平和と民主」とアメリカ迎合の政治によって民主主義の堕落した形態としての衆愚政治をよびこんだことに、手きびしく文句をつける。

 西洋が西洋史の矛盾に気がつき、いよいよ虚無を抱きはじめたとき、日本は近代化をむかえて西洋の表面的模倣に走ることになった。
 西洋は自身の矛盾に気がついて、やっと階級意識(マルクス)を、ルサンチマン(ニーチェ)を、そしてリビドー(フロイト)を、人間の歴史の奥に発見しようとしていた。が、日本はそんなことにはおかまいなしに、近代化を突っ走り、無謀な戦争に走った。
 これではろくな日本はつくれない。表層だけが西洋になるばかりで、かれらの苦悩とは無縁のままの西洋主義になる。
 それでも唯一、日本がそのような表層をとっぱらって自身の内面に向きあう機会はあったはずである。それが敗戦直後の状況である。坂口安吾はその機会をとらえて『堕落論』を書いた。
 その坂口を西部は認めようとする。日本が日本になるために正しく堕ちるべきだと主張した坂口を継承しようとする。「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」。

 一方、竹内好は日本が自己をとりもどすために、アジア人であることを勧めたのだが、それは西部の心を動かさない。
 同様に、吉本隆明は日本人がもつべき「世界認識」を問題にしながら、どこかで「大衆のイメージ」に問題をすりかえてしまった。小林秀雄は多くの問題に気がついていながらも、その大半を審美主義にもちこんだ。これではダメなのだ。西部はそのように3人の戦後に突出した思想者を眺めた。
 そこで残ったのが福田恆存である。西部は驚いたことに、この連載を書くまでは、福田のものをあまり読まないようにしていたらしい。そういうことを告白するのもこの人の「正直」なところだが、その“照れ”を破ってここではおおいに読み、おおいに傾倒してみせた。
 そこが本書の、最も本書らしいところである。

 福田恆存には醒めきった「精神の型」がある。それをこの人は「保守思想の神髄」とよぶ。
 もともと福田が闘いつづけたのは“戦後の風潮”というものだった。バカバカしい戦争のあとにやってきた、もっとバカバカしい時代を、福田は一貫して冷たくあしらった。そういう福田を小林は「良心をもった鳥のような人だ」といい、坂口は「あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は」といった。
 西部も福田のそうした「精神の型」に敬服している。そして、「ヨーロッパの韻にあはせた日本的ミニアチュア」と「近代精神の外装である自我主義」を福田とともに壊したいと考えている。

 本書の全体の叙述が、そのような福田の計画、すなわち保守計画をうまく引きついだのかどうかは、わからない。ちょっと急ぎすぎているようにも見える。
 が、20年前なら、おそらくたいして関心をもてなかったであろうこの人の論法に、ぼくはいまなら傾聴すべきものがあるようにおもわれて、ついつい本書を精読してしまったのである。
 最後に一言。本書は戦後日本が犯した「ヒューマニズムの錯誤」を告発する一書。