才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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モーセと一神教

ジグムント・フロイト

ちくま学芸文庫 2003

Sigmund Freud
Der Mann Moses und die Monotheistische Religion 1939
[訳]渡辺哲夫

 恐ろしい本である。引き裂かれた1冊である。
 ヨーロッパ文明の遺書の試みだった。おまけにこの本は人生の最後にフロイトが全身全霊をかけて立ち向かった著作だったのである。それが「モーセ」という神の歴史に立ち会ったユダヤ者の謎をめぐるものであったことは、フロイトその人がかかえこんだ血の濃さと文明の闇の深さを感じさせる。
 ぼくが最初にこの本を読んだのは、日本教文社の『フロイド選集』第8巻(吉田正己訳)だったのだが、たちまちにして“しまった”という気分になった。もっと早く読んでおけばよかったという悔いと、こんな本は知らなければよかったという気持ちが一緒くたにやってきた。そのころはまだユダヤ教やユダヤ人の歴史をろくすっぽ学んでいなかったし、多神多仏の風土に育った日本人として一神教スタイルの社会文化を眺めるということもしていなかった。だからフロイトがこの問題に立ち向かう意味がほとんど見えてはいなかった。
 その後、さまざまな歴史の起源や宗教の意図や、ラカン、ドゥルーズ、ハンデルマンらが解読したフロイト思想のその後が少しずつ見えてきた。そこであらためて『モーセと一神教』を読んだのだが、今度はますます「事の重み」に身が引き締まってまたまた読まなきゃよかったと悔いた。
 こういう事情があったので、書きたいことはいろいろあるけれど、それをちょっとこらえて、今夜はいくつかの感想に絞りたい。

 本書はなぜ恐ろしい本なのか。モーセの謎とフロイトの謎が2000年の時空を超えて荒縄締めのように直結してしまっているのが恐ろしいのだ。直結していながら、そこに法外な捩れと断絶と計画がはたらいているのが恐ろしい。
 フロイトはユダヤ人だったから、ユダヤ教にはもとより敬虔な気持ちをもっていた(フロイト自身は社会的にはカトリック教会に親近感をもっていると書いていた)。一方、モーセはユダヤ教を開闢した張本人である。モーセによって一神絶対者としてのヤハウェ(ヤーウェあるいはエホバ)が初めて語られ、初めて「十戒」が定められ、初めてユダヤの民が選ばれた。割礼も始まった。ということは、こう言ってよいのなら、それまで歴史上にはユダヤ教はなかったのだ。ユダヤ人もいなかったのだ。
 ところがフロイトは本書において、モーセはユダヤ人の起源者ではなくエジプト人であり、古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世が名を変えてイクナートンとなったときに、ごくごく限られた宮廷集団で信仰していた「アートン教」の直系になったとみなしたのである。

 アートン教はすこぶる興味深い。マート(真理と正義)に生きることを奉じた太陽神信仰なのだが、人類史上で初の純粋な一神教となった。
 それまでのエジプト王朝は代々ともに死後の生活を信じる多神教だったのを、イクナートンことアメンホテプ4世が光輝に充ちたアートン神(アテン神)を奉じて一神化してしまったのである。それとともにテーベ北方の新都アマルナに遷都して、次々に神殿を建てた。古代エジプト史ではアマルナ改革とよばれる。ただしイクナートンの死とともにアートン教は廃止された。瀆神者の烙印を捺されたファラオーの王宮はあっけなく破壊され、多くのものが略奪され、第18王朝は壊滅した。紀元前1350年前後のことだった。
 そんな束の間の出来事のようなアートン神による一神教の観念を、なぜモーセはこれだと感じたのか。あまつさえ、それをなぜヤハウェと言い替えて、エジプトからカナーンの方へ運び出したのか。
 これまでの考証では、モーセが「出エジプト」を敢行したのは、およそ紀元前1250年前後のことだろうということになっている。おそらく50年ほどの誤差はあるだろうから(ぼくは『情報の歴史』では前1275年を出エジプトの日とした)、これは、アートン一神教が隆盛していた時期と年代的にほぼ符合する。モーセはそのアートン教を持ち出した。持ち出して、どうしたか。ユダヤ人のためのヤハウェ一神教に変じさせたのである。

 宗教史的には「モーセがユダヤ教を作った」ということはあきらかだ。まさにパウロがキリスト教を作ったように、である。
 けれどもパウロが作ったキリスト教は「キリスト人」とか「キリスト民族」という血の創造ではなかった。パウロはそこまでの創作はしていない。パウロがしたことは聖典のための多能な情報編集ばかりだ。ところがフロイトによれば、モーセはユダヤ教を作っただけでなく、ユダヤ人を作ったのである。モーセはアートンをヤハウェにするとともに、自身が“ユダヤ人の父”たらんとしたのだった。
 それまで、ユダヤ人の母集団であるセム族とヤハウェ信仰とはまったく結びついていなかった。だいたいヤハウェという神の名もなかった。またセム族の集団や部族が割礼をするということもなかった。割礼は古代エジプト人の一部の慣習だ。モーセはこれらを一挙に創作したか、制作したか、出エジプトにあたって持ち出した。
 エジプトを出たモーセはシナイ半島を渡り、特定の地に落ち着いた。今日でいうパレスチナの南のカナーンの地だ。そこで何がおこったかといえば、アブラハムやイサクたちがユダヤ人の父祖となり、初期ユダヤ教が生まれた。つまりモーセが「ユダヤという計画」を実施した。モーセはまるで遺伝子操作のようなことをしたということになる。本当にそんなことがあったのか。
 フロイトの仮説はこれだけでは終わらない。モーセはそのようにして計画を実行に移し、それを新生のユダヤの民が受け入れたにもかかわらず、かれらによって殺害されたとみなしたのだ。この点についてはスーザン・ハンデルマンの快著『誰がモーセを殺したか』(法政大学出版局)があるのだが、いまはそこまでは踏みこまないことにする(最後にちょっとふれる)。
 
 ざっと以上がフロイトが言いたかったことの骨格だ。なんという仮説であろう! こんなことが精神医学にとって必要だったのか。
 フロイトは最晩年の78歳になって、まるまる2年にわたってこのモーセ問題に憑かれてしまったのである。もっと長生きしていたら、もっと深淵に向かってこの問題に傾注していたかもしれない。それでも、ここからは意外な展開が待っていた。
 この時期にナチスによる大量のユダヤ人迫害と虐殺が大進行していった。これにはフロイトはそうとう深く考えこまされていた。たとえば1934年のアルノルト・ツヴァイク宛の私信のなかで、「私はいま、なにゆえにユダヤ人は死に絶えることのない憎悪を浴びたのか、自問しております」と書いていた。これはフロイト自身の奥にどくどくと流れている文明の血を根本的に振り返るあきらかな動機のひとつになっていた。また、長きにわたったヨーロッパの社会史の現在が、いまになってなぜユダヤ人と全面対決しているのかという謎を解きたいという動機にもなった。ホロコーストの対象になったこと、さらにさかのぼればディアスポラ(離散民)の宿命を受けた理由のことである。
 が、これだけならフロイトならずともユダヤ系の思想家や文学者なら考えそうなことだった。ユダヤ人だったマルクスもカフカもずっとこのことを考えた。だからここには、もうひとつの理由があるはずだ。こちらのほうが大きい。
 フロイトはユダヤ人でもあるが、かつまた精神医学者であって、精神の歴史の解明者であった。そういう自負をもっていた。人間あるいは人類が宿命的にかかえた意識と無意識の潮流を証したという自負がある。自負だけでなく、長年にわたって培った精神分析による成果もある。自分がそのような真実を突きとめたという実感ももっていた。それは「類」としての人間の「精神の暗闇」に挑むという研究だったのだから、人種や民族を超える真実であるはずだった。
 この暗闇の真実にはだれも踏み込んではいない。フロイトはその未踏の領域にさしかかって、きっともっと踏み込みたかったのだろう。そして、この「精神の暗闇」に挑むには、モーセは殺されていなければならなかったと考えたのである。
 
 本書の117ページ(文庫版)に、フロイトはこんなことを書いている。ある人が激越な列車事故に遭遇し、見たところ無傷に立ち去ったとしても、のちに過度の精神的ならびに身体的な症状が出てくることがある。これは「外傷神経症」というものであるが、この外傷神経症とどこか共通する事態が、ひょっとするとユダヤ一神教の誕生に関して「類」的におこったのではないか、というふうに。
 トラウマがどういうものかは、いまならPTSD(心的外傷後ストレス障害)のことを含めてだいたい見当がつくだろうが、当時はピエール・ジャネがギリシア語の“trauma(傷)”を心的作用の比喩につかったことすら知られておらず、これが心理学用語になったのは1917年にフロイトが『精神分析入門』に使ってからのことだった。それでもこの用語は個人におこる心的外傷に適用されるだけだったのだが、晩年のフロイトはそれを一挙にユダヤ人という「類」にあてはめたのである。
 フロイトは『モーセと一神教』において「潜伏期」という神経症発症の用語をつかってまでして、ユダヤ教とユダヤの民の歴史において「モーセの一撃」がもたらした衝撃を語ろうとした。ユダヤ人には「類」としての早期の自我侵害がおこっていたというのだ。
 そんなことがありうるのかという疑問に答えて、フロイトは反論を用意する。この民族の早期の自我侵害は、モーセという特定の個人の出現による事件を中心に語られるようになったことが、長きにわたるユダヤ民族の「普遍的な自我」の外傷となったのである、と。
 なるほど、これは穿った推理だ。ユダヤ教が漠然と集団的に発生していたのならともかくも、ヤハウェの十戒の声を聞いたモーセという明白な個人の計画によって起源したのなら、その後のユダヤの民の意識は、つねに一個のモーセに回帰していったのだとも言える。「モーセを想う」ということは、「モーセに連なる個人としてのユダヤ者」を想うことなのである。そのモーセは「類」としてのユダヤ民族の発祥者でもあったのだから、ここには「類」と「個」の重合がおこってくるのだろう。ユダヤ人とはこの文明的で民族的な宿命をもった者たちだった、ということになる。
 このような見方は、民族としての日本人の発祥者(つまり造物主)をはっきりもっていないわれわれ日本人には、どうもピンとこないものがある。多くの民族の歴史は祖先伝説や始祖伝説をもっているけれど、それが盤古とかイザナギとかオーディンといった得体の知れない物語の主人公であるばあい、そこにはフロイトが言うような、実在者としてのモーセ問題がない。しかしフロイトのモーセ問題には、ユダヤ民族の外的傷害である一撃がこめられていたのである。
 
 話はここまでで、まだ半分だ。フロイトはモーセが殺害され、それによってユダヤの民がこの事実を背負うことになったと書いた。これは、いったい何を意味するのか。何を暗示するか。だいたい、なぜモーセは殺害されたのか。フロイトはどうしてモーセの殺害を問題にしたかったのか。
 どこの地のどんな古代中世史にも、神の殺害や王の殺害があることは、司馬遷の『史記』にもエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』にも、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』にも、ふんだんな類例が提出されている。王や一族の首長やリーダーが殺されるのは、とくにめずらしいことではない。それなのにフロイトはモーセが殺害されたことを重視した。なぜなのか。フロイトは、もうひとつの事件が重なっていたと見たからだ。それは「父殺し」ということだった。「原父」の殺害と抹消ということだった。

 旧約聖書「出エジプト記」には、モーセが殺されたとは記されていない。しかしいつからか、モーセはイスラエル人に殺されたというふうに言われるようになった。20世紀になってこの伝承をドイツの宗教学者エルンスト・ゼリンが『モーセとイスラエル宗教史におけるその意義』(1922)で採り上げ、モーセ殺害の可能性に言及した。フロイトはこれを読んでピンときたようだ。原父モーセは殺されたにちがいない、殺されなければならなかった、と。
 原父殺害問題なら、エディプス・コンプレックスを発見し、トーテムとタブーの不可避の関係を解明してきたフロイトには得意な問題だ。もしこのことが「原父モーセ殺し」に結びつけられるのなら、そこには個人の外的傷害に勝る、民族の精神としての外的傷害が想定できることになる。モーセ殺害が歴史的事実であったかどうかは問題ではない。犯人をあげる必要もない。符牒があればよい。ひとりフロイトがこだわりたい仮説になればよかったのだ。
 このように見てくると、これはどうやら「モーセの計画」というよりも「ユダヤ文明の計画」であり、「フロイトの計画」なのである。モーセが殺されたから、ユダヤの民族の系譜は「父殺し」の原罪をもたざるをえなくなり、しかしながらそのような外的傷害があったからこそ、ユダヤ教が保持できた。その最初の外傷の記憶がつねにこの民族を悩ませつづけたから、かえってユダヤの民が持続した。
 摘まんでいえば、こうなるわけである。モーセは殺されたのではなく、フロイトが殺したのだと言いたくなる。なぜこんな辻褄合わせが成立するのだろうか。ここからはフロイト心理学の「闇」にも入っていかざるをえない。
 
 フロイトには「エス」(Es)にとりつかれた時期がある。
 エスはゲオルグ・グロデックが仮想した心理概念だ。なかなか把えがたいものだが、フロイトが周到に想定した心的構造においてきわめて重要な“心的審級”をはたしていった。
 フロイト前期の思想では、エスは無意識的なものである。未知なものである。エスは心の最も深層においてなんらかの本質を貯蔵していて、そこではつねに生の衝動と死の衝動が対峙する。フロイトはこのエスを「存在の核」とよび、ラカンは「存在の場」とよんだ。この見方からすると、ふだんはその人間の現実的な欲望が先行しているため、エスの衝動は必ずしも外にあらわれない。したがってエスは無意識そのものであるとも考えられてきた。フロイトも初期の考察では「無意識はエスの内部における唯一の支配的な特性である」と書いている。そして、この唯一の特性には「抑圧」がかかっているとみなしていた。
 しかしフロイトはその後、このエスこそが何かの契機で自我に組みこまれた特性にもなっていると考えるようになって、あらためて「無意識」とか「イド」(id)というふうに呼びなおした。これでエスは抑圧を特性にもつことになった。そして、そのような自我に組みこまれたエスやイドは、自我がおもてだっては気がつかない強力な生の衝動や死の衝動を発動させることがあり、そこではエスやイドは自我との意外な対立物(ないしは統合物)にさえ審級するのではないかと考えられるようになった。こうして本書では(ということは最晩年のフロイトでは)、「自我はエスという樹木が外的世界の影響力をうけた結果、発達してくる樹皮のようなものなのだ」という説明になる。
 問題は、この樹木としてのエスやイドが「類」としての民族の意識や無意識という樹液にもはたらいているとフロイトがみなしたことである。
 
 フロイトは本書の第2部の後半で、ユダヤ民族の特性がいかに醸成されたかということをこれから書くと予告して、次のような巧妙な説明を試みた。
 エスには実は2つのはたらきがある。ひとつは、それを作用させる自我の状態によって快感も不快感もよびおこすエスである。エスはあまりに心的外傷が強いときは、刺激を中断する作用をもった(欲動断念)。自我が自我のありように深刻な危機がくることを見抜いたからである。もうひとつ、自我の残余の部分にエスを大きく引きこんで、自我の危機を覆ってしまうようにするエスがある。エスが「自我に審級してきた」とみなせる。これは「超自我」ともいえるもので、かつてはこれが神であることが多かった。
 問題はついに「超自我」におよんだのだ。フロイトはさらに次のように考えた。このような超自我は、近代社会以降も「両親」または「父親」の後継者あるいは代理人としての機能をもって、自我をコントロールすることがある。現代においては子供たちが、しばしばこのような超自我をスーパースターや怪獣や幻想動物に託している。まして太古や古代においては、超自我は神にも神の代理人にもなりやすいものだった。
 おそらくモーセはそのような超自我としての役割をユダヤ民族の集団心理学的なしくみのなかで発揮したにちがいない。そしてこの「モーセの一撃」によって、後続するユダヤ民族は超自我としてのモーセと一神教とを“発見”したにちがいない――。

 フロイトは「エス・自我」に「超自我」が審級してくる可能性を、モーセがユダヤの民に与えた歴史的ふるまいを通して解こうとしたわけである。ゲームは終了した。フロイトはこの遺書を残して死んだ。
 遺書に対する反響はひどく冷たいものだった。フロイトの推理や結論はあまりに唐突で、論証は曖昧で、また、モーセの殺害という奇矯な仮説には、それが父親殺しのモチーフのユダヤ教への導入であったとしても、どうにも無理があるという批判が相次いだのだ。フロイトの著作のなかで「最も妄想が過ぎる」という非難も集中した。さらには、精神分析はいつだってこういう妄想によって患者を“逆正当化”しているにすぎないという、当時の精神分析全体の傾向に鉄槌をくだす者もいた。
 ところが、ところが、である。この遺書にはもうひとつの読み替えが可能だったのである。ゲームは終わっていなかったのだ。その予想もつかない読み替えにふれて、今夜のモーセ=フロイト散策を終えておきたい。
 
 フロイトの父親はヤーコプ・フロイトという。フロイトは『夢解釈』でこの父親ヤーコプを影の主人公として登場させて、フロイトがどのように父親の存在を超えようとしてきたかを述べた。ありていにいえば、いわば「父殺し」を試みた。
 この「父殺し」はうまくは成就しなかった。すでにフロイトは『トーテムとタブー』によってかの有名な父殺しの理論、すなわちエディプス・コンプレックスの理論をなかば証明してみせていたのであるが、『夢解釈』ではそれを自身の家系にあてはめることには成功しなかったのだ。
 しかしフロイトはあきらめてはいなかった。ぼくはフロイトが『モーセと一神教』にとりくんだのは78歳からの2年間だったと書いたけれど、その後のフロイト研究では、もっと前からモーセにとりくんでいたらしいことがわかってきた。これはフロイトがミケランジェロのモーセ像にあれほど傾倒していたことからも、察しがつく。フロイトはこう書いていた、「これほどまでに強烈な印象を私に与えた彫刻はいままでのところ、ほかにない」というふうに。だからかなり以前からモーセが気になっていたのであろう。その文章にはもっと暗示的なことも書いてある、「私自身がモーセのまなざしを受けている一人なのである」と。
 フロイトは父ヤーコプからの脱出を、全人類史の主要な一部ともいうべきユダヤ民族の父殺し(モーセ殺害)を幻視することによって、なんとか正当化しようとしていたのだ。『モーセと一神教』は、フロイトの周到きわまりない精神史的家系論の仕上げだったのである。
 このことにはジャック・ラカンやマルト・ロベールやエドワード・サイードらも気がついた。かれらはフロイトの精神分析学が重要なのではなくて、フロイトの精神を分析することがフロイトの精神分析学であると主張した。ハンデルマンの『誰がモーセを殺したか』もこのことを議論した。
 きっとフロイトは、自分自身の父親ヤーコプ(=ヤコブ)の精神史的殺害を通して、これをモーセの出現とその殺害に時空をまたいで重ねたのである。そして、そのことを証すために『モーセと一神教』という遺書を書いたのだ。ずいぶん思いきったことをしたものだ。ただし、これでユダヤ人の始原が見えてきたわけではない。ぼくはいつまでもフロイトのところに居つづけるのはまずいとおもったものである。