小熊英二
単一民族神話の起源
新曜社 1995
ISBN:4788505282

 日本が単一民族の国だというふうになったのは、古いことではない。古いどころか、日中戦争や太平洋戦争以前は日本はむしろ多民族国家として位置づけられていた。大日本帝国の時代には多民族国家論や混合民族論の標榜と論証のほうがずっと多かった。日本が日本を単一民族国家と見るようになったのは、なんと戦後のことだったのだ。
 このような、ある意味では意外におもわれそうな“結論”を指摘するために、著者が本書で試みたことは重厚で詳細をきわめた作業であった。まだ四十歳をこえたばかりの慶応大学の相関社会科学の教授である(東大農学部出身)。「日本人の自画像の系譜」が副題だ。
 この大著のあと、著者はさらに、台湾・朝鮮などの植民地における日本人意識を検証した『〈日本人〉の境界』、戦後ナショナリズム議論を追った『〈民主〉と〈愛国〉』(ともに新曜社)を問うた。いずれも大著だが、目を洗われるところが少なくない。
 考えてみれば、明治政府が明治二八(一八九五)年に台湾を、その十五年後に朝鮮を併合したときに、すでに日本の総人口の三割におよぶ非日系人が“臣民”として大日本帝国の傘下に入れこまれていたのである。その後の日中戦争や太平洋戦争の渦中で「進め一億、火の玉で」と煽った一億とは、台湾や朝鮮を(ときには満州をも)含めた帝国人口のことであって、内地の人口のことではなかった。つまり帝国は多民族国家だったのである。そこで疑問が生ずる。では、日本人はいつどこで「均質な民族像」をもつようになったのか。本書はその疑問に挑んだ。
 
 日本が単一民族の国だという“神話”が戦後につくられたのだとすれば、それ以前はどうだったのかというと、明治期には、日本は多民族国家の議論にあけくれていたのである。
 日本人が日本民族について考察をはじめたのは新井白石あたりを嚆矢とするが、これを人類学として本格的な議論にのせたのは坪井正五郎・鳥居龍蔵・小金井良精らが明治中期に設立した人類学研究会「じんるいがくのとも」(のちに東京人類学会)の活動以降だった。坪井は混合民族説を主唱した。ただ、これがすんなりは通らない。とくに不平等条約の撤廃を志す動きのなかで巻きおこった外国人の居留をめぐる内地雑居論争をきっかけに、人種問題と定住問題が絡んで吹き出して、さまざまな見解のかたちをとった。
 田口卯吉は、外国人の流入は古代の朝鮮・中国からの渡来人以来のことだから日本はもともと単一民族国家ではないと見て、内地雑居を許可することを訴え、今後はアメリカのような移民国家になるべきだろうと主張した。これに反対した井上哲次郎はその反対の根拠として日本人は劣等人種なのだから、このさいは日本民族が一致団結すべきだと説いた。
 結局、内地雑居は不平等条約の改正とともに明治三二年(一八九九)より認められることになったのだが、論争はべつのかたちでさらに大きくなっていった。朝鮮併合問題の現実化と教育勅語がその火をつけたのである。
 明治の政治家や言論思想家たちは、ひとつの大きな難問をかかえていた。そもそも明治体制は立憲君主制と有司専制を前提にして生まれたものである。大日本帝国の臣民は天皇を祖先とする一大家族である。それを有司専制システム(官僚)が守って内閣がコントロールしていくというものだ。
 しかし、そうであるのならこの先、朝鮮や台湾の異民族が帝国に編入されるようになったとき、いったいどうやって国体の論理を維持できるのか。征韓論が紛糾した背景にも、そこはいったい日本の土地なのか外国の社会なのか、日本人としての居住領域をどこまで広げられるのかという議論があった。
 
 江戸時代の幕藩体制にとっては、身分や地域をこえて日本人が一大家族であるなどという思想はとんでもないことだった。徳川家からすれば、将軍も武士も農民も藩民も同じ祖先だなどという見方は許可できるはずはない。そこには士農工商も幕藩体制も参勤交代も必要だった。
 しかし黒船の来航によって、開国の日が近いことを知らされた。たちまち国論は開国か攘夷かで二分したのだが、この問題は保留され、幕府そのものの解体が先行課題となった。そこへ国学派や水戸学派による国体論が登場して、「葵」の幕藩体制に代わる「菊」の論理を提出し、それが尊王攘夷思想を支えて岩倉具視の手に落ちて、討幕にいたったわけである。
 そこまではいい。が、幕藩体制は解体したものの、そうして成就した明治維新政府にとっては、諸外国との協調を拒否する“菊”だけの国学思想などではとうてい列強に伍する国力をつくれない。そこで「明六社」の面々をはじめとした開明派の論客が登場して、新たな文明国家論ともいうべき試みに挑むのだが、そこにはさらに開化にふさわしい海外含みの新国体論とでもいうべきものが必要となっていた。
 こうして加藤弘之・穂積八束・井上哲次郎らが国体論の西欧的粉飾に向かっていったのである。とくに井上は木村鷹太郎らと組んで大日本協会を結成して「日本主義」を創刊し、ここに高山樗牛らも加わって「天下無双ノ国体」を標榜するにおよんだ。
 けれどもここには、「葵」や「菊」に相当するほどの明瞭なものがない。そのため、これらの議論に国民学習を謳った教育勅語(明治二三年)にひそむ国体論的表現を重ねることにした。教育勅語は井上毅が起草して元田永孚が手を入れた。その教育勅語の思想に、たとえば永井亨の『日本国体論』、筧克彦の『神ながらの道』、物集高見の『国体新論』、上杉慎吉の『国家新論』『国体論』などが上乗せされていったのである。

 この論調はやがて、加藤玄智が唱えた「日本人の同化力」の強調へ、国粋主義的社会学者として知られる建部遯吾による「十億日本人論」へ、さらにはのちの田中智学、鹿子木員信、里見岸雄、石原莞爾、亘理章三郎らへと、ゆれながらつながっていった。
 ここに交差してきたのが久米邦武の『日本古代史』、竹越与三郎の『二千五百年史』、大矢透の「日本語と朝鮮語との類似」、金沢庄三郎の『日韓両国語同系論』に代表される、いわゆる日鮮同祖論である。
 日本人と朝鮮人はもともと同じ民族で、それがのちに分かれたのだから、良くいえば一緒に、悪くいえば勝手に“祖国”を同じうしていけば、それでいいじゃないかというものだ。これには山路愛山・徳富蘇峰・大隈重信が同調した。
 さて問題は、このような論調はいったい日本人を単一民族と見ているのか、混合民族と見ているのかということだ。これらが国粋主義的なナショナリズムであることはその通りなのだが、著者の検証によると、その論点はいずれも混合民族論に依拠するものばかりであった。そこには単一民族説はなかった。それは「同化政策」という言葉ひとつにもよくあらわれている。すなわちこの時期、思想的な根拠は何であれ、日本は多民族国家をめざしていたというべきなのである。著者は言及していないけれど、ここには岡倉天心の「アジアは一つ」や、孫文による中国革命への共鳴がもたらした内田良平・宮崎滔天らの動きも関与していた。
 
 日本民族をどう見るかという議論は別の方面からも立ち上がっていた。
 第一には喜田貞吉の混合民族論がある。喜田は被差別問題に果敢に発言を開始した勇気ある学者だが、天皇観と被差別部落論を結びつけ、差別する多数者と分離する少数者のいずれをも批判して、結局は『韓国の併合と国史』などでは、「併合は復古であって、これまで辛酸をなめていた分家の兄弟が暖かい本家に戻ったようなものなのだ」というような議論に終始した。
 第二は、柳田国男の一国民俗学の登場だ。明治三三(一九〇〇)年に農務省に入った柳田は、その初期の研究調査の基本を「山人」においた。そのため各地にのこる民話や昔話を採集して、日本列島にどのような民俗の古層があるかを調べた。この山人とは、ありていにいえば当時の混合民族の定説になりつつあったアイヌをはじめとした先住民族のことだった。柳田の意図がどこにあったにせよ、当時の日本人主義に与えた影響が看過できないところになっていく。
 ところがその後、柳田は山人論を捨て南島論や稲作論に向かい、山人に代わる稲作を中心とした「常民」を主語とするようになった。しかしそこでもまた、常民と稲作と天皇家のつながりが強く指摘されたために、柳田民俗学はふたたび日本人の民族観に天皇家の投影をもたらすことになった。この常民を天皇から切り離すには宮本常一まで待たなければならない。
 第三には、アナキストであった高群逸枝が女性解放の視野から研究した女性史研究や古代研究が、しだいに混合民族論による民族同化思想となっていったことである。喜田のばあいもそのようなところがあったのだが、著者はここには「マイノリティの擁護のため生み出されたものが、結果として侵略の論理となるという悲劇があらわれている」と指摘する。
 だいぶん省いて伝えたが、このような喜田・柳田・高群にみられる論調は、時代を取り除いては検証しにくいもので、それを徹底して近代日本の現代化の過程によみがえらせた著者の労力は、脱帽に足る。
 このほか本書の後半では、ドイツ生まれの「優生学」が日本にもたらした混血をめぐる議論、永井潜を中心とする日本民族衛生学会の優良民族論と健康論の合体、古畑種基らの血液型議論、朝鮮総督府の設置の直後から強調された「皇民化政策」の動向、白鳥庫吉や津田左右吉の記紀神話論、和辻哲郎の風土論、さらには騎馬民族渡来説の流布などをとりあげ、いずれも日本ナショナリズムの高揚に寄与しながらも、そこには単一民族国家論がはなはだ稀薄であったことを立証している。
 では、いったいどこから「日本=単一民族国家」が妖怪のように徘徊してしまったのかということは、本書では触れられない。その論議は次の『〈日本人〉の境界』『〈民主〉と〈愛国〉』の大著につながっていく。きっと延々とつながっていくだろう。
 
 本書によって、われわれはこのような議論の端緒についたばかりなのだということを、いやというほど知らされた。たとえば森喜朗元首相の「日本は神の国だ」という発言のルーツを検証することは、簡単なことではなかったのである。
 しかも問題は、本書の最後にも書いてあることだが、「アメリカなどの人種思想家が支配や隔離政策を正当化したさいには、被差別者を、自分たちとは別種であると証明しようとした」のに対して、「大日本帝国の人類学はその逆に、被支配民族は自分たちと同種同文の兄弟だと主張していった」ということを、さてどのように受けとめたらいいのかということにも兆していた。また黄禍論の逆作用も兆していた。
 そのひとつのヒントではないけれど、本書の「あとがき」には次の言葉づかいがあった。「私は、本書でとりあげた多くの人びとの議論のなかに、限界はあったとしても、それなりに真剣な試行錯誤がふくまれていたと思っている。それに対し、見下したような立場から、一方的に非難する気にはなれなかった。もちろんだからといって、彼らがもたらした結果が免罪されてよいわけではないし、戦争責任の反省という意味では、もっと強く批判するべきなのかもしれない。しかし、他人を裁くことが自己の反省であるとは、私には思えなかった」。

 参考¶本書のではなく『民主と愛国』の「あとがき」に、著者は自分がこのような研究に夢中になる理由を問われると、いつも「自分でもよくわかりません」と答えてきたと書いたうえで、初めて父親のことに触れ、日本兵として中国にいてシベリアに抑留された小熊謙二がはたして“加害者”だったのかということを、さりげなく書いている。
 すでに本書を読み進めていたときから感じていたことであるが、ぼくはこのような著者の研究のほうが、聞く者を圧倒する強烈な主張や訳知りたちを唸らせるロジカルな思想地図をたちどころに披露できる連中の成果より、ずっと重要なような気がしている。なぜならここには「織物」があるからだ。

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