父の先見
絶望の精神史
光文社 1965
この一冊は、これまで「千夜千冊」でとりあげてきた164冊の本のなかでは、日本人として最も身に滲みた一冊である。
実は同じような感慨をもった本がもう一冊ある。それは同じ金子光晴の『詩人』である。どちらも自伝のようなものだが、「ユリイカ」に連載されていたときはまさに『自伝』と銘打たれていた。この『詩人』を“原型”とすれば、『絶望の精神史』のほうはその変形ヴァージョンで、日本人論になっている。
ここでは『絶望の精神史』だけをとりあげるが、その読後当時の身ぐるみ剥がれて丸裸にされたような実感を、はたして今日のぼくが適確に綴れるのかどうかは、あやしい。あの20代のとき、貪るように読み進めながら寒気がしたり熱発したことを、いまそのような感情の起伏のままに綴れるのかどうか。
そこはまことに心もとないのだが、とりあえずは紹介がてらに書いてみる。
その前に言っておかなければならないのは、第一には、この本は金子光晴が高度成長の絶頂期の70歳のときに綴ったものであるということ(『詩人』は62歳のときの出版)、第二にこの本は、日本を憂える日本人も、日本を楽観したい日本人も、そのいずれもが虚心坦懐に、ただし一気に読んだほうがいい一冊だということ、第三にこのような本を書ける世代は今日の日本にはもういないだろうということである。
金子光晴が本書で書きたかったことは、「日本人のもっている、つじつまの合わない言動の、その源である」。金子は日本人がどうしてこんなにくだらない日本人になってしまったのかということを怒りながら観察して生きてきた。なぜそうなったのか、それはどこからきたのか、それでいいのか。
しかし、その矛盾の多い“源”を突き止めるのは一筋縄ではいかない。なにより金子自身の生き方を通し、その生き方を問いつつ考えざるをえなかった。
金子はこの苦渋に満ちた試みを、恐るべき自己客観とすばらしい露悪趣味によって泳ぎきった。そのためにおそらく金子は、次の方針を貫いた。(1)書きたいことを書く、(2)身近な人間の生きざまを露出させる、(3)気にいらないことはあけすけに指摘する、(4)自分のなさけない人生の大半も隠さない、(5)それらを通して日本人と絶望の関係を徹底的にハッキリさせる、(6)あまり考えないで書く、(7)明治大正昭和を生きてきた実感に頼って書く。
このようなことを貫いた意地に、20代のぼくは心底感服してしまった。当時のぼくにはとうてい予想もつかないような焦燥と苛立ちがぼくの血を逆流させたのだ。しかし、その「絶望」を金子以外の体験をし、金子の表現力のないわれわれはどのように受け継げるのかは、わからなかった。何が金子を追いつめてきたのだったろう。
話は明治の日本から始まる。金子が生まれたのが明治28年だったからである。北村透谷が自殺した翌年だった。
生まれてまもなく口減らしのために養子に出た。虚弱な体だったが、10歳のころに「男女の区別なく、友人に、たんなる友情ではがまんのならない、激しい愛情の接触を求めていた」。男生徒と裸のまま一晩抱きあっていたこともあったという。
その明治を「ひげ」が君臨し、「ひげ」が威張っていた時代だったと金子は見ている。天皇も政治家も役人も巡査も、たしかに「ひげ」をたくわえていた。その前の江戸の社会は「ひげのない政策」だった。武士や庶民に虚勢をはらせない政策である。それが明治で緩んだ。「ひげ」の虚勢が全面に出た。
そういう時代に金子は暁星中学校に入り、銀座竹川町の教会で洗礼をうけ、そのキリスト教的道徳に反発して家出した。流行しつつあった自然主義文学を読んだのは性生活を覗き見するためで、本気で文学をするつもりなどこれっぽっちもなかった。自然主義文学なんて、「日本人の鼻先に汚れた猿股や靴下をつきつける、薄汚い小説」なのである。それでも金子はホイットマンをはじめとする文学の周辺をうろついた。
以来、金子のまわりでは痛ましく傷ついていった男たちと驕慢な虚栄を嘯いていた男たちのいずれかが、頻繁に通りすぎていく。いや倒れていく。金子はその一部始終を見逃さない。立派な「ひげ」を生きた明治の父親たちが明治の息子たちを苦しめたのだ。
次の大正の日本は、金子がうろついた浅草の「包茎をおもわせる十二階」に似ていた。この十二階が関東大震災でポッキリ折れたとき、大正の夢が錯覚だったことがバレたのだ。それはすでに「ひげ」の乃木大将とともに明治が終わり、「国民に睨みのきいた明治天皇」が「不幸な大正天皇」に代わったことにも象徴されていた。
ありていにいって、大正文化は外来思想と外来文化でかためたようなものだった。金子も文学と恋愛を求めれば求めるほど、日本が醜く見えてきた。実は大正時代は「珍しく軍と官憲の弱腰の時代」だったのだ。それなのに、知識人はその正体を暴ききれず、民衆はまだ明治の夢を見ていた。
金子はついに日本を脱出することにする。船の中ではアジア人たちの強欲だが赤裸々な生き方を見せつけられた。ヨーロッパではめちゃくちゃな仕事をして暮らしのカテにしていた変な日本人ばかりに会った。
それでも、そんなことをしていれば、日本の国内で外国文学に憧れていた連中の化けの皮がどういうものだったかは、あからさまに見えてくる。「彼らは、外国文学によって、自己を発見する方法を学びうると信じている。その自己によって、日本人である自分と、まわりにいる日本人を区別し、日本人に絶望すると同時に、おなじく日本人である自分にも絶望せざるをえない、サディズムの甘渋い味を知った」。
大正の移入文化がいかに浅いものかは、ヨーロッパの「石と鉄の文明の深さ」を見れば一目瞭然である。
けれども、日本人がヨーロッパでヨーロッパ人になることも不可能なのである。それはまたもっと滑稽だ。その滑稽はヨーロッパでさんざん見た。では、それに対抗するはずの日本がもつ「紙と竹と土の文化の幻想的な美しさ」が、金子を救ってくれたかというと、そこは、「大正を生きた僕には、もう、帰ろうにも帰れない滅びた世界」となっていた。「明治精神が、それを断絶してしまった」のだった。
しかし金子はまだなお「不遜にも、西洋の模倣でない、新しい日本の芸術を、この身をもって作り出してみることが、必ずしも不可能ではない」とおもいこんでいた。ただしそれには、ひとつ条件があった。自分を「エトランゼ」と思い切ることだった。
こうして金子は、「一人の女に袖にされ、他の女のところへ行ったが、そこでも相手にされず、また元の女に戻ってきた惨めな男」のように、モーニングを着て山高帽を被って、「家並みの低い、とりとめのない、ゴミ捨て場のような港、神戸に帰ってきた」。しかし、ひとつだけ自信が出てきていた。金子は日本でもエトランゼでありつづけられそうだったのだ。
その目でみれば、たとえば次の3人などはそうとう奇妙な成功者だった。「大宅壮一をほんとうにがむしゃらにして、不幸せにしたような岩野泡鳴」、まるで「鼠が宝珠の玉の貯金箱を抱いているような姿が浮かぶ泉鏡花」、「爛熟と頽廃美にかけては、西欧のいかなる文化にも劣らぬ繊細で多彩で、調和のとれた江戸末期の亡霊の世界へ、安ペカな西洋まがいの新文化、新生活を尻目にかけ、ひとりさびしい後ろ姿をみせて帰っていった永井荷風」の3人だ。けれども、彼らもまたエトランゼであるのだから、日本の文化人は見放すしかないだろう。
関東大震災で「大正人のきれいなうわっつらがひんめくられ、昔ながらの日本人が、先方から待っていたとばかりに、のさばり出てきた」。
このときに登場する日本人を、金子は鋭く見抜く。「それは僕ら自身のなかから、拘束し、干渉するものがいないとわかって、無遠慮に、傲慢に、鎖をはずされたならず者のように、口笛をふきながら、あたりを尻目に駆けて出てきた、ほんとうの日本人なのだ」。この日本人は、「朝鮮人が井戸に毒を投げこんでいる」といった流言飛語をまき、それに乗っかっていったアモック(狂乱)な日本人である。このアモックな日本人を利用して、日本の軍部がのし上がる。金子はそのように見てとった。
いや軍部ばかりではない。「無政府主義者を名のる若い詩人たちが、新宿、池袋から、白山あたりを横行し、詩をどなったり、飲んであばれたり、けんかをしたり、持てるものから金を強要したりしてあるいた」。
そんななか、金子は生まれたばかりの長男をあずけて、母親と二人で上海にわたり、そこを振り出しに7年間にわたる二度目の海外旅行に出掛けてしまう。しかし彼の地で金子がしたことは、中国で無政府主義くずれの連中と、内外綿行などを相手に理由かまわぬ金を強要するようなことだった。そういうことを金子は赤裸々に告白しつづける。こうして金子は2年をかけてパリに舞い戻る。
日本は昭和の時代になっていた。ふたたび浦島太郎のエトランゼの資格を得て日本に帰ってきた金子は、パリの日本人とは正反対の男たち、たとえば山之口獏と正岡容と知りあう。
二人はそれこそ破天荒な貧乏を遊んでいた男たちにすぎなかったが、満州事変が世界の話題になってきた時代には、この二人にくらべると、多くの日本人に欠けているものが見えてきた。「日清、日露の戦争のときには、国の内部に軍の実力への半信半疑が湧いてくるのを、民衆がスバーしようとした若い情熱があった。しかし、昭和の民衆は、この情熱をもう持ちあわせていない」のである。昭和の日本人は軍というものから心が離れていたのだ。
これがいいようで、実は悪かった。日本は軍部とテロルの花園となり、「昭和人は勘定高くなっていった」。そんななかで本物の戦争が動き始めたのである。満州帝国という“もうひとつの日本”がつくられつつあったのだ。金子は中央公論社の畑中繁雄のすすめもあって、自分の目で「戦争」と「満州」を見る必要を感じる。金子は輸送船で荷物となって神戸を出港した。
そこで見たものはいろいろあったが、一言でいえば「日本軍が理想を失って、指揮者が戦争に熱がないくせに、兵士にむりに忠誠を誓わせたこと」、これである。
三たび、擬似エトランゼとなって日本に戻った金子を待っていたのは文学報国会である。金子はずるずるとこれに出て、ずるずるとサボタージュをする。
次に、息子が招集されることになった。金子は医師の診断書を入手して息子を戦地に行かせないために、とんでもないことをする。息子を応接室にとじこめて、ナマの松葉を燻す。いっぱいの洋書をリュックサックに入れて、これを背負わせ1000メートルを駆け足させる。「その難業を続けさせる自分が鬼軍曹のように思われてきて」、さすがに金子は閉口するが、このサボタージュはなんとか成功した。
かくて、招集をぬらりくらりと逃げとおした息子と二人で、疎開先の山中湖で金子は玉音放送を聞く。すべては終わったのではなく、また同じことが再開するのかと思った。
金子は綴る。「日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望してほしいのだ」。「日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか」とも綴る。
そして、この『絶望の精神史』は、次の言葉で結ばれる。「人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる」。
こんなところがぼくなりにダイジェストした『絶望の精神史』だが、このダイジェストまがいを読んでもらってもわかるように、金子は自分の「絶望」に引きつけて日本人の絶望の仕方にひそむパターンを問いまくり、返す刀で、そうした絶望すらしない傲慢きわまりない日本人に疑問を投げつけた。
こういう詩人の本は珍しい。坂口安吾でもないし、鮎川信夫でもない。歯に衣着せぬ社会批判が大好きな吉本隆明や谷川雁だって、こんな赤裸々に「日本人に対する文句」を言わなかった。仮に金子以上にめちゃくちゃな人生を送っていた者も、野口雨情や尾崎放哉や織田作之助もそういう人生だったろうが、こういうふうには書かなかった。これはやはり「絶望」を大声で言っている“芸”をもっている一冊なのである。
しかし、久々に本書をふりかえってみてよくわかったのは、金子光晴は日本人に対して絶望しているのではなく、“絶望を問題にしない日本人”を問題にしたかったということである。
自伝『詩人』ではまだしも“魂の放浪記”であった文章だったのだが、本書ではその文章の背後に蟠っていた“絶望を問題にしない日本人”に対する憤懣が爆発したのであった。いずれにしても、本書はこれまでの「千夜千冊」のなかで、ぼくが最も身に滲みた一冊だったことに変わりはない。