才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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断腸亭日乗

永井荷風

岩波文庫 1987

 21世紀の最初の年がゆっくり暮れていく。
「千夜千冊」も今夜をもってちょうど450冊目になった。
 感慨はないが、感興はある。その感興も450冊ぶんの千差万別になりうるだろう。通りいっぺんの感想なんぞで1年を過ごすほど、ぼくは目出度くもない。
 この1年にしてからが、誰もがきっとアメリカ同時テロの年とか小泉政権誕生の年と言うだろうが、サブナショナル・ステート元年と言ったっていいのだし、タリバンが消えた年と言っても、不気味な中国沈黙の年とも言えた。そんなことはいろいろその都度の綾取りなのである。誰の手の模様から誰の手が綾を掬うかによって、時代や個人の模様はいくらでも変わるものなのだ。
 そのような1年の歳末最後の1冊に、さていったい何を選ぼうかと思ったが、あまり考えることもなく『断腸亭日乗』にした。ぼくの「千夜千冊」がもともと日々の言吹きだというのもあって、荷風の日記とともに暮れ泥(なず)もうと思ったのだ。もっとも荷風の日乗だって一筋縄ではない。毎日、1冊の書物を相手にするというのも大変なのだが、淡々とその日のことを記すというのは、大変を書かないということにおいて、かえって大変なのだ。

 そもそも荷風はどのように日記を綴り始めたのか。広く『荷風日記』というなら、明治29年の秋に成島柳北の『航西日乗』をまねて綴りはじめていた。
 それからいくつか断絶がある。とくにアメリカ、フランスの遊学から帰った明治40年代は、文壇デビューもあって忙しさに紛れていた。そのころの荷風は、当時はハヤリの”新帰朝者”という役割を演じた。この期間は日記を書いていない。演じることが嫌いな荷風ではなかった。
 それが『断腸亭日乗』となると、荷風37歳にあたる大正6年9月16日が第1日目で、それから死ぬ前日まで続いた。42年におよぶ。
よほどの決意なのである。たしか文化勲章を受けた夜のことだとおもうのだが、荷風自身が「ぼくの最大の業績は荷風日記かもしれないよ」と言っているのだから、やはりそうなのだ。
 もっとも最初の書き出しに重要な意図があるとはおもえない。ぼくの「千夜千冊」は中谷宇吉郎の『雪』で始まったのだけれど、これは3、4本を書いたのちに、順序を入れ替えて最初にもってきたものだ。荷風もこの日は、籾山庭後に雑誌「文明」を降りる旨の手紙を出していることからみて、このあたりで鴎外の好意で就いた慶応義塾教授の仕事から解き放されて、「三田文学」の編集も降り、いよいよちょっとした余裕が出たのかとおもわれる。そんな気分で書き始めたのだ。しかし、そのうちこの”発端”が”計画”になっていった。

 ぼくは1973年から、新宿富久町の横田アパートに住んでいた。そこから番衆町の工作舎までは5分、抜弁天までも5分、断腸亭跡があった余丁町まではそぞろ歩いても7分である。
 抜弁天から右へ折れて、余丁町に向かって歩いていくと、昭和の昔日の名残りがはすかいにやってきた。ぼくはそこを平べったい下駄で散歩をするのが好きだった。沢木耕太郎が「あれ、松岡さんも下駄ですか」と言ったものだが、その沢木もいつも下駄を履いていた。
 そのころの余丁町にはまだ大衆劇場の廃屋があった。荷風の断腸亭の痕跡はすっかり消えていた。消えてはいたが、ぼくはむりにでも荷風を想像した。そのころのぼくは生涯のなかでもいちばん散歩をしていたのではないかとおもうのだが、それは荷風散人への憧れだったかもしれない。

 多少の理由があった。当時のぼくは「耄碌」に憧れていたのである。そのことを鈴木忠志に言ったことがあり、すぐさま「おまえ、変わってるなあ」と大笑いされた。むろん若者が耄碌するのは不可能である。
 そんなことには遠いから、せめてとおもって老人に会うことを仕事にしていた。人生を60年、70年ほど送った人の話を聞きたかったのだ。それがいくつもの『遊』のインタビューに残っている。稲垣足穂白川静武田泰淳、澤田瑞穂、湯川秀樹唐木順三野尻抱影、下村寅太郎、岡崎清一郎、吉岡義豊、田村松平、伏見康治、大岡昇平、柳家彦六、梯明秀、バックミンスター・フラー、ポール・ディラック、リチャード・ファインマンレイ・ブラッドベリルネ・デュボス…。
 けれども、荷風はそこにはいなかった。当たり前である。時代が違うし、このすばらしい老人たちは荷風のようには最初から老人風情などをしていない。歳をとるべくして、とった。ところが荷風は若くして老人をめざしたのだ。
 荷風は日記の冒頭から身辺整理をし、墓碑の準備をし、「余既に餘命いくばくもなきを知り、死後の事につきて心を労すること尠からず」と書いている。それがなんと37歳あたりのことなのである。荷風はその歳にして「老人風情」を地で行った。老人計画に着々と手をつけたのだ。驚くほかはない。
 ぼくは25歳前後で耄碌に憧れたのだから、その寸志だけは多少は荷風に比して自慢してもよいものがありそうだが、およそ何の準備もしなかった。実は着流しもよく着ていたのであるけれど、呉服屋の伜が着物を着るのではサマにならない。せいぜい高倉健に憧れるばかりで、これはおよそ荷風ではなかった。
 ところが荷風は徹底して準備をする。老人計画に着手する。そして、その準備こそが実は四十年におよんだ『断腸亭日乗』だった。念のため言っておけば、そうだとすれば『日乗』は”創作”だったということになる。

 ところで、荷風が大半の『日乗』を綴ったのは余丁町の断腸亭ではなく、麻布市兵衛町の偏奇館に移ってからのことだった。
 荷風は、父親が遺した余丁町の家をすこぶる気にいっていたのだが、大正7年8月8日に裏の土蔵の整理をおもいついた。だいたい整理整頓は荷風に似合わないのにそんなことをしたので、妙なものが見つかった。亡父久一郎は郵船会社の上海支店長を務めていて、
そのころに買いこんだのだろう大量の書画骨董が、そこに埃まみれに蔵ってあった。荷風はそれを見て、変な推理をする。これは母親が長男の自分に渡したくなくて隠しておいたのだ、それならそんなものを隠してきた家に住む必要はない、自分はどこかに引っ越して自分の余生をおくりたい。百科事典を構想したり漢文の素養もすぐれていた父親にさんざん外遊をさせてもらったことへの、その父の”財産”を隠した母へのあてこすりを含んだ、これは荷風らしい抵抗である。
 で、その年の暮に家をたたみ、家財いっさいを売り払ってしまうのだ。そして大袈裟にも、こう綴った。「嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、逐に長く留まること能はず、悲しむべきことなり」。
 大袈裟である。邪推でもあろう。大袈裟で邪推ではあるが、それが荷風だった。とくに肉親や親しい者への感情は、ふだんはまったく抑制されているかのようなのに、突如として炎のように燃え、憎しみ、また跡形もなく消えていく。

 このような『日乗』の中の荷風をどうよぶか、なかなか楽しい悩みだが、ひとまずは遊民坐食、狷介孤高、老成書生、散策居士などがおもいつく。
 とくに狷介孤高は荷風っぽい。単に孤高なのではなく、狷介である。ときには卑怯ですらあった。これは徳川夢声がさんざん拡声したので有名になってしまったが、かなりの吝嗇でもあった。浅草のストリップ小屋に入り浸ったときでさえとんでもない吝嗇で、物売りが楽屋にくると気にいった踊り子と10円菓子を二つ買って、絶対にほかの踊り子たちの機嫌などとらなかった。親しい者への香典もとことん渋りきった。
 けれどもこれを狷介孤高といえるかどうかというと、どうもあやしい。好き嫌いがはっきりしている、無駄なことを思いつかない、いつも被害妄想状態にいる、そういう自分が情けないのではなくて一筋に見える、弁解や説明は面倒である、どんなことも五十歩百歩であろう…。むしろこういう感覚だったと言ったほうがいいのかもしれない。荷風は荷風の綾取りしかしない人なのだ。

 そういう荷風を祭り上げたい連中は、たいてい四字熟語のような呼称をおもいつく。が、こんなことをしてもあまり荷風に近づいた気にはならない。
 丸眼鏡とよれよれの洋服に下駄履き、買物カゴを下げて野菜を買い出しに行く姿は、けっして四字熟語からはやってこない。露伴の葬儀に黒服に下駄のままで向かい、途中で引き返してしまった荷風はたしかに狷介孤高ではあるものの、その一方に中途半端な人情というものもあって、その中途半端をそこだけ切り取って他人に見せるのが嫌だったともいえるのだ。成瀬正勝がそれを「やつし」と形容したことがあったが、この言葉が一番あたっている。
 では、荷風自身がつかっている言葉から『日乗』の荷風にふさわしい言葉を見つけたらどうかということにもなるが、これも容易ではない。ぼくはとりあえず『日乗』から拾って「悵然」という言葉ではないかと見当をつけた。
 「悵然」なのである。いかにも荷風的な立心偏だ。ちなみにぼくはどうかといえば、「絆然」だ。

 荷風の日記の定番は銀座や浅草である。けれども、今度あらためて読んでいて、銀座が頻繁に出てくるのがやっと昭和6年から9年あたりからだったことに意外な思いがした。何につけても勝手な想像で決めつけているものだ。
 実際にも荷風は「銀座通の景気盛なりしは昭和六年より翌七年」と書いている。このころ銀座の柳が復活した。
 市兵衛町から銀座に行かなかったのではない。それまでもたしかに銀座に行っては、三浦屋のショコラ、尾張町のヴゥイナ・カフェでクロワッサンを買っている。が、どちらかといえば築地のメトロポール・ホテルや『腕くらべ』の舞台になった新橋をおもしろがっていた。銀座にひっきりなしに出掛けるのは、やはり昭和6年あたりからで、これは犬養景気で「大東京」が誕生した時期にあたっている。”陸の竜宮”といわれた日本劇場、東京宝塚劇場、日比谷映画劇場が次々にオープンしていた。

 荷風が連日連夜のように銀座に行ったのは「店」のせいである。のんべんだらりとした町など、荷風は好まなかった。トンカツも品物も女も食べられる店が好きなのだ。そういうふうに町を限定するのが好きなのだ。
 だから荷風の銀座は店の名前でも追いかけられる。松喜食堂、銀座食堂、カフェ・タイガー、佃茂の金兵衛、平岡権八郎の花月、銀座風月堂、コロンバン、きゅべる、米人がいたオリムピック、荷風は藻波と綴ったモナミ、神代箒葉に教えられて気にいった萬茶亭、フジアイスなどである。
 銀座にカフェが出現して女給文化とともに人気を攫ったのは、実はもっと古くて明治44年のカフェー・プランタンやカフェー・パウリスタが嚆矢であって、その後もエスキモ喫茶店など名物店はけっこうあったのだが、なぜか荷風が銀座のカフェを利用しはじめるのは遅い。西条八十の『東京行進曲』に「シネマ見ましょか、お茶のみましょか」と歌われたのが昭和4年だから、それ以降ということになる。

 銀座が遅いのだからと思ってあらためて確かめてみると、玉の井や浅草も案外遅い。荷風が初めて玉の井付近を歩いたのは昭和7年1月22日だった。
 もっともそれが昭和11年になると、多いときには1カ月に12回も玉の井通いをした。むろんお気に入りの、心根は優しいのに蓮っ葉な女たちのせいであるが、『日乗』にはまるで調査メモのように玉の井のディテールが綴られる。「二階へ水道を引きたる家もあり。又浴室を設けたる処もあり。一時間五円を出せば女は客と共に入浴すると云う。但しこれは最も高価の女にて、並は一時間三円、一寸の間は壱円より弐円までなり」と、まるで週刊誌かスポーツ紙なのである。
 『日乗』にはそんなことは書いていないが、付き合った女の数を指折り数えたら、17、8人になったという話も残っている。谷崎
舟橋、田村らと互いに”何回”を誇るかの猥談になったとき、谷崎が「俺は3回だ」と言ったところ、みんなは1週間にしてはそれは少ないと詰ったので、谷崎がちょっと顔を赭らめて「いや、俺は一晩のことだと思って」と言ったという話も残っている。

 浅草も昭和11年11月13日あたりを境に急に足繁くなる。これも意外であった。
 なぜなら、この昭和11年というのは二・二六の年である。いったい二・二六事件を文人たちがどのように受け取ったかというのは、存外に詳細がわからないのだが、半藤一利さんの本だったかに三木清は敢然と三重に旅立ち、高田保は夫人に急き立てられて熱海に逃げ、菊池寛も当夜は徳川夢声長女の媒酌人だったにもかかわらず、家にサザエが蓋を閉めるように蟄居していて、媒酌役をすっぽかしたとあった。
 そういうなか、荷風は面白がって「市中騒擾の光景を見に行きたくは思えど、降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す」と書いた当夜のあと、翌日からは野次馬見物に出掛けている。荷風にとっては国事などどうでもいいのに、ラジオ嫌いの荷風はその顛末だけは自分の目で知りたかったらしい。
 そういう年に、荷風は浅草遊びを”日課”に決めたわけである。浅草を、というのは浅草の踊り子たちということだ。これを何というのか、切り替えの妙というのか、他人が用意した価値のお膳に見向きもしないというのか。

 たしかに荷風は価値の転換をはっきり綴った人である。そこは見事というほかはない。
 たとえば大正8年9月には「この日午後トスカを演奏す。余帰朝以来十年、一度も西洋音楽を聴く機会なかりしが、今回図らずオペラを聴き得てより、再び三味線を手にする興も全く消失せたり」と書いて、一日にして三味線がオペラに打倒されたことを告白している。それまで荷風は三味線の世界にはぞっこんであり、まさに身をやつすほどだったのだ。
 こういうところが中島敦が「荷風のいやみ」というところだろうが、荷風は平気なのだ。手のひらを返したというよりも、トスカにほんとうに参ってしまったのである。だからそれを書く。
 荷風は自分だけではなく、人は誰もがその程度に変節著しいとみなしていたわけなのである。人間に対する見方も似たようなもので、ほとんど誰のことをも信用していない。調べたわけではないからなんとも言えないが、荷風が終生その評価を変えなかったのは露伴と鴎外だけではなかったかとおもう。

 こんな荷風だから、時代や世相についても無責任でいいかげんでも当然なのだが、そういうところの目は狂わない。
 たとえば昭和が始まったとたんに、昭和を「乱世」と見た。近代の否定をこそ全思想としていた荷風の面目躍如である。
 荷風は昭和16年の開戦にあたっても、ある意味では大乱世に対する見方を貫いた。12月8日の『日乗』は「日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯は消さず、省線は如何にや」とあって、うーん、そうかそうかと納得させるのだが、それが12月12日には次のような、鋭いというのか、馬耳東風というのか、まったく勝手な指摘になっていく。

 十二月十二日。開戦布告と共に街上電車その他到処に掲示せられし広告文を見るに、屠れ英米我等の敵だ、進め一億火の玉だとあり。或人戯にこれをもじり、むかし英米我等の師、困る億兆火の車とかきて、路傍の共同便処内に貼りしと云う。現代人のつくる広告文には、鉄だ力だ国力だ、何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。まことにこれ駄句駄字といふべし。哺下向嶋より玉の井を歩む。両処とも客足平日に異らずといふ。

 ここには一種のミニマ・モラリアが衝かれている。とくに「ダ」という口調で戦争に駆り立てる軍部を揶揄しているところなど、ぼくが知るかぎりはこんな痛罵はほかには見かけない。
 たしかに戦争は「ダ」であった。ジョージ・ブッシュも3カ月で100回の「ダ」を使ったのである。一部のアメリカ人を除いて、そんな口調に全世界がうんざりしたにもかかわらず、その場に居合わせた者たちのすべてと、そのニュースから流れてくるメッセージは”記録に残る広告文”になっていったわけだった。
 そういう世相の本質を抉(えぐ)るようなことを、ちょっとだけ書く荷風。それでいて、くるりと社会に背を向けておもむろに玉の井に出掛けていく荷風。おかしな老人である。
 そこにはいっさいの対決がない。そこは最初から「背いた社会の一隅」なのだ。その日々はもともとが「負の日々」なのだ。

 昭和15年の大晦日、荷風は「今年は思がけぬ事ばかり多かりし年なりき」と書いて、世相を「石が浮かんで木の葉が沈むが如し」と嘆じた。
 そして「この度の変乱にて戊辰の革命の真相も始めて洞察し得たるが如き心地せり。これを要するに世の中はつまらなきものなり」と綴り、「弥次喜多の如く人生の道を行くべし。人間年老れば誰しも品行はよくなるものなり」と結んでいる。
 そのような荷風が、ますます愛されている昨今であることに、なんだか溜息が出る。日本を早々に「穿たれた日本」にしてしまった荷風を想って、ぼくは今年を終えることにする。

 十二月三一日。晴れて寒し。昏暮浅草カフェージャポンに憩ふ。除夜の鐘をきく。女給いち子を拉し観音堂に賽す。

長らへてわれもこの世を冬の蝿

参考¶『断腸亭日乗』全巻は『荷風全集』第19巻~第24巻(岩波書店)にあたる。岩波文庫版は抜粋。そのほか荷風自身にも日乗に見合うさまざまな文章があるのだが、ここでは荷風の著作ではなく、荷風の日記に惹かれて書かれた書物を紹介しておく。なんといっても川本三郎『荷風と東京』(都市出版)がすごい。読売文学賞を受賞した金字塔ともいうべきもので、「断腸亭日乗・私註」という副題がついている。同じ川本がこれこそはガイドブックともいうべき『荷風語録』(岩波現代文庫)も出している。大野茂男『荷風日記研究』(笠間書院)、半藤一利『永井荷風の昭和』(文春文庫)、松本哉『永井荷風ひとり暮し』(朝日文庫)、近藤富枝『永井荷風文がたみ』(宝文館出版)、野口富士男『わが荷風』(集英社)、廣瀬千香『私の荷風記』(日本古書通信社)なども、この情緒につながる。一方、荷風論の定番にもいろいろあるのだが、まずは佐藤春夫『小説永井荷風傳』(全集)、中村光夫『評論永井荷風』(筑摩書房)、磯田光一『永井荷風』(講談社文芸文庫)というあたりであろうか。ほかに秋庭太郎『永井荷風伝』『荷風外伝』『新考永井荷風』(春陽堂)、飯島耕一『永井荷風論』(中央公論社)、坂上博一『永井荷風ノート』(桜楓社)、森安理文『永井荷風』(国書刊行会)など。