才事記

春鴬囀

岡崎清一郎

落合書店 1976

 足利は恋しい街である。中辻の伯母さんと正子さんがいた。ぼくは京都にいて、何度足利を恋しくおもったか。
 そこに岡崎清一郎がずうっと住んでいたとは知らなかった。「ああ一生にいつぺんでよろしいのです。花のひらいたやうな挨拶をかはしたい」の岡崎清一郎である。詩壇では「反俗」といえば吉田一穂と岡崎の名前があがったものだと鮎川信夫がどこかで書いていたのを読んだことがあるが、むしろ俗に入って俗の渦中をぶらぶら歩き廻れた詩人だった。
 そして世の中を見終わると、ひたすら家に籠もって太い万年筆を握ってじっとした。「反俗」「風狂」「隠逸」というイメージを誰もが浮かべるのだが、何かそういう範疇にすら入らない絶交状のようなものを発してきた詩人だった。あるいは「貧子」といえばいいだろうか。

 その岡崎清一郎に麻疹(はしか)のように没頭したことがある。足利の居宅も訪ねた。写真も撮らせてもらった。1900年生まれで、もう80歳に近かった。稲垣足穂と同い歳である。
 署名をしてもらった詩集は5冊近くになった。最初に『象徴の森』を読んで、心底びっくりした。たとえば、「天高く 清一郎は肥えました 父上 柿の樹・金風です さんまの黒焦(ころこげ)たべてます 母上と 大根おろしに泣いてます」。これは『秋日』である。もうひとつ、「涼しい葉っぱで 水玉です きりぎりすの朝飯 晃々と噛むのです」。『朝』という詩だ。
 次のような文章になった詩もある。『海村』という。読ませ、唸らせる。衝撃がある。

私は鉛筆で考へてる。こしかたの事を。ポケットは銀紙だし遠方は障子である。海岸は黒。松の木等は風があッて、貝殻草は並んで揺れる。
私は小さい。おもひは遠く。埃は街道に騰(あが)るものである。私は牛酪(バタ)を塗る。黄木を重ねる。鶸が翳る。柱のところに。荒畑で談声。一本一本煌(ひか)るのだ。縁側で婦はかたくなにおし黙ったままで。口紅はあるのだが、婦は酸獎提燈みたいだ。手が白く。街道を荷馬車の軋る音。ラッパはだんだん通る通る。過ぎ去ッてゆく。けむる梨樹(なしのき)と木の椅子と。
私は帽子で愚人(あほう)のやうなものだ。タバコと生涯と空理とで。またしても海は手をたたく。旗竿の傍の藍色の屋根よ。砂山の向ふの泡立つ海景。私はランプを絵入新聞の上に載せかへる。

 岡崎清一郎といえば『四月遊行』か『一抹の無聊』、さもなくば高村光太郎賞の『新世界交響曲』であろうが、70歳をこえてからが、むしろ蜆子和尚なのである。上の『海村』など、漢詩のおもむきさえ見えて、しかも自分の放下に食い入っている。
 どうも東洋思想も風のように動いている。それから不気味なものがある。いや、「ぶきみ」「ぶりょう」「ぶさいく」「ぶぜん」という感覚だ。
 これは放置しておけぬとおもい、そこで次々に詩集を開き、ためつすがめつ立ち寄りながら『春鴬囀』に及んだ。これでノックアウトである。参った。ちょっとだけだが引いてみる。まず『涅槃』という詩。
 「西へ西へと行くと こんもり 木のしげりセミが わんわんみな泣いていて たいへんなところだが あたりはまことに神韻縹渺としてゐる 私はもう疲れたと云ッて 石の上に大きなふしぎなものが 死んでゐた」。
 長い詩が多いのだが、ここでは引きにくいので短詩をまた選んでおくが、『光』ではこんなふうなのだ。「ある日、暗い光がのしかかッてゐた。/おれはなにかを拒んでゐた。/みみづくのよに/魂は切々として悶えてたが/おれはなにかかさばッたものをのみこんだ」。えっ、それから?というものを断っている。
 たいてい最初は観察である。そこに情景がぶっきらぼうにある。そのうちいろいろ詠みながらも、結局はそれらいっさいを紙の袋に入れてバシャンと潰してしまうところが、ぼくはなんとも好きなのだ。他方、すうっとかかわりのすべてを鬼火のように消してしまうものもある。いずれにしても鬼火のようなのだ。『時雨』はこうである。

物には処が
うすい光に露が置いてあッた。
時はついたち
客は時雨の中にきた。
漫(そぞ)ろに
水鳥は染料のやうに近づいてゐた

 あまりに耽ったので、しばらく岡崎さんのギョロリとした眼に射竦められたまま、こちらの自由が奪われたように気分がつづいた。足利からそう遠くない鹿沼にすむ『歴程』の詩人の高内壮介さんにそのことを言ったところ、「ははあ、岡崎さんのギョロ眼に入りましたか。それはすごいや。それが岡崎さんの詩なんだなあ」と笑っていた。
 しかし、あまりに射竦められたまま、何も返信ができないままにいたところ、案の定、絶交状がきた。やはりそういう人だったのである。詩集名となった『春鴬囀』が決定的に恐ろしいことを忘れたわけではなかったのに。では、読んでみてください。本物の詩人とはこういうものかとギョッとする。

鴬の声を、じッと聞いてゐる。
頭の中の組立が
こんなに気味のわるい事はない。

参考¶岡崎清一郎の詩集の多くは宇都宮の落合書店から刊行されている。入手しやすいのは思潮社の現代詩人文庫シリーズの『岡崎清一郎集』。腰を抜かさないように。しかし、一度はこういう詩で免疫を破られることも必要なのである。