父の先見
宇宙船地球号操縦マニュアル
西北社 1988
R.Buckminster Fuller
Operating Manual for Spaceship EARTH 1968
[訳]東野芳明
本書が発表されたのは1963年である。この年、フラーはもう2冊の本を著した。"No More Secondhand God"と"Education Automation"だった。
日本語に翻訳されていないが、『セコハンの神はまっぴら御免』『教育オートメーション』といったタイトルになる。いまでも通用するし、いまでもアヴァンギャルドな思想の表明といえる。まだビートルズもボブ・ディランも登場していない時期だが、フラーはそのころすでにぶっ飛んでいた。
ぶっ飛んでいたというなら、こんなことにはとどまらない。早熟でもあった。
ハーバード大学を出てすぐに建築家のジェームズ・ヒューレットの娘と結婚したのは早熟とはいわないにしても、第1次世界大戦時に海軍に入って、24歳で海に落ちた飛行機のための救助装置を発明しているし、それよりなによりも32歳で本書にも解説されている「シナジー幾何学」の着想を得た。限定400部の『4D』という冊子がそれを証明する。
その後まもなくダイマクション・カーとダイマクション・ハウスを設計し、1934年にはシカゴ博に出品した。これも早熟というより、あまりに世の中の水準から飛び出ていた。1938年には時代を30年先取りした"Nine Chains to Moon"を出版した。『月への九つの鎖』である。
さらに天下のグラフィックデザイナーたちを心底驚かせたダイマクション・マップが「ライフ」誌に掲載されたのも1943年だから、まだ若き杉浦康平がハーバート・バイヤーらのダイヤグラム・デザインを見てもいない時期である。第二次世界大戦が終わったときがちょうど50歳、2年後にジオデシック・ドームを発明した。さっそく設立50周年にあたっていたフォード社がこのドームを試作建設したものだ。
ともかくもアタマの中でアイディアが溢れて渦巻いているのであろう。それはぼくがフラーと会って話したときも感じた。
もう80歳をこえていたが、ぼくが何を言おうともそんなことはおかまいなく喋りつづける。小柄でガッチリした体躯、ちょっと相手を見上げながら、ときに部屋の中を動きまわり、手を指揮者のように動かして喋りまくる。黙っていられないらしい。無数のアイディアの羽毛たちは1秒たりとも失速せず、けっして空中から地上に落ちてはこなかった。
フラーが大学と海軍兵学校で学んだのは「予見のデザインサイエンス」というものである。本書もその自信にもとづいて宇宙船地球号という名の地球の四半世紀先を予見した。その、「予見を語りたいという」衝動が、その後のどんな瞬間にも湧いている。だから、たとえ誰が相手でもそのアイディアを喋りまくるのであろう。
そのときも言っていたが、フラーが最も嫌っているのは専門的思考というものである。専門バカが嫌いなのだ。新しい生き方はすべからく「総合的な性向」をもつはずだというのがフラーの絶対の信念なのである。
しかし、その総合的な性向をもつ思考法を発揮するためには、すべての出来事や思考法を「互いに連携しあったシステム」の中で捉える必要がある。そういうものは、まだ世の理論には登場していない。わずかに先駆者がいて、それをヒントに考えつくしかない。ぼくもそこに注目したのであるが、たとえばフォン・ベルタランフィやコンラッド・ウォディントンが見抜いた一般システム理論を援用するしかなかったのだ。ひょっとするとそのころ浮上しつつあったサイバネティクスや大型コンピュータの機能に何かがひそんでいる可能性もあったろうが、そのノロノロした発展を待っている時間は、フラーにはなかったようだ。
科学理論や技術開発は、ときに遅すぎるものだ。若きフラーははやくからそのことに気がついていたにちがいない。そしてフラーが最初からとりくんだことは、一歩すすんで、その一般システム理論を動かす正体をつきとめることだった。
その正体はやがて「シナジー」(synergy)とよばれることになり、そのシナジーによる連携したシステムは「シナジェティクス」と名付けられることになる。
本書がダイヤモンド社から翻訳されたときは『宇宙船地球号』という標題だった。それが13年後は原題通りの「操縦マニュアル」という言葉がついた。
当時、これを読んで感じたのは、実のところはあまり深いものではないという印象だった。その後の用語でいえば"ニューエイジ・サイエンスの粗雑な予言書"といった印象だったのである。けれども、ぼく自身がシナジーが気になってあれこれフラーの英文書を取り寄せ、ヘルマン・ハーケンの生物物理学上のシナジェティクスなどと比較していったこと、友人に梶川泰司というフラーのデザインサイエンスを研究し実践する者がいて、その梶川君とあれこれ議論したことなどもあって、やはり本書に予告されていることはただならないものだというふうに変わっていった。
そんなふうになって数年後、ぼくはフラーと会うことになるのだが、先に書いたように、対話というよりは「部屋を動きまわる講義にぼくが巻きこまれていた」というふうだった。ヴィトゲンシュタインがやはりそんなふうに相手を巻こんでしか話さなかったと聞くが、フラーはヴィトゲンシュタインというよりも、1メートル60センチくらいの直径の線香花火の球塊のようだった。
その後、ぼくの元麻布の玄関、つづく青葉台の仕事場の玄関にはフラーに貰った正多面体模型と梶川君がつくったジオデシック・ストリング模型が長いあいだ置かれていた。そのころぼくを訪れた人々のなかには、ご記憶のある方も少なくないことだろう。