夜の街は社会ダーウィン説の狂った実験に似ている。退屈しきった研究者が計画し、片手の親指で早送りボタンを押しっぱなしにしているようなものだ。――ウィリアム・ギブソン
ダウン・アンド・インという言葉がある。「前衛だけれど、でも周縁じゃない」といった意味だ。ロナルド・スーキニックにそういうタイトルのアンダーグラウンド文化論があった。ダウン・アンド・インは「アンダーグラウンドはアッパーに出る」といった意味でもあって、さしずめアンディ・ウォーホルとベルベット・アンダーグラウンドのよこしまに見えながら、実はとってもピュア(純)でヒップ(高感度)な関係のようなことをいう。
まったく主流と前衛を分けたり、中心と周縁を分けるというのはうんざりだ。いったいキャシー・アッカーの『アイデンティティ追悼』はローリー・アンダーソンの「ファウンド・ランゲージ」そっくりなのだし、マーク・レイナーの『エスター・ウィリアムズの香り』は「マックス・ヘッドルーム」やデビッド・リンチの「ツイン・ピークス」となんら変わりのないものなのだ。
そう言ってわからないのなら、石川淳の『狂風記』は筒井康隆の『虚航船団』の腹違いの従兄弟なんだといえばいいだろう。何の話をしているかって? 「小説を読むための小説」「小説という方法を書く文学」というのがハバをきかせているという話だ。それがかつてのパンクロックがやってみせたことととても似ているということだ。
ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』を読みおわって、もう一度1ページ目をゆっくり開いた瞬間に、すべてがわかった。そのエピグラフにはベルベット・アンダーグラウンドの『日曜の朝』の「見ろよ、世界はおまえの背後にある」が引用されているはずだったのだ。そのうちそれがサイバーパンクの開幕であって、同時にアヴァン・ポップの凱歌のマニフェストであったことも了解されてきた。
マキャフリイに『アヴァン・ポップ』という書名の著作はない。巽孝之がマキャフリイと相談ずくでこのような本を編んだ。
手にとってすぐ、本場よりも進んでいる感じがした。コズフィッシュの木庭貴信によるロゴポップな造本もいいし、構成もいい。それにルビがついているのが日本アヴァン・ポップになっている。これはアメリカにない。高山宏の神技ほどではないが、それでも「再搾取」に「リミックス」と、ロバート・クーヴァーの『女中の臀』に「メイドのおいど」とルビが振られていると、それだけでアヴァン・ポップなのである。
アヴァン・ポップというコンセプトはマキャフリイが1991年あたりに提案したものだった。しかしそれも日本の牽引によっていた。だからほんとうは巽孝之の著作、たとえば『メタフィクションの謀略』やそれを勘案した『メタフィクションの思想』のほうを紹介したいくらいなのだが、一応、本場に敬意を表した。
パンクの登場とともに、そのふざけ半分の引用や関連性のないカットアップ手法や皮肉なポーズとともに、従来のサブカルチャーの閉鎖性は完全にくつがえされた。パンクスは戦後のサブカルチャーを手当たりしだいにあさり、リサイクル=再生させるべくファッションとサインを盗んだのだ。――イアン・チェンバース
20世紀末のアメリカ文学に何がおこっていたかを瞥見しておく。ひとつには北米マジック・リアリズムのようなものが志向されていた。ひとつにはブルース・スターリングが名付けた「伴流文学」(スリップストリーム)が文脈をもった。そしてひとつにはマキャフリィが命名したアヴァン・ポップの潮流が溢れてきた。
これらはそれぞれが似たような境界侵犯領域をさしている。しばしば「トマス・ピンチョン以降のポストモダン」とも「ニューマキシマリズム」ともよばれていた。マキシマリズムはむろん70年代のミニマリズムに対抗したものだ。ようするに、後期資本主義の前衛芸術と大衆芸術の境界を脱構築する「小説という方法を書く文学」という文芸的ムーブメントのことである。
それを総じて巽孝之はメタフィクションとまとめた。「尽きる文学」だ。いや、メタフィクションと言わなくてもいい。レイモンド・フェダーマンは「サーフィクション」(超虚構小説)と、ロバート・スコールズは「ファビュレーション」と、マシュード・ザヴァーザダーは「トランスフィクション」と、数学者でもあるルーディ・ラッカーは「トランスリアリズムの文学」と、ジェローム・クリンコウィッツは「ポストコンテポラリー・フィクション」とよんでいた。
まあ、呼称はいろいろだが、これらがMTVやハイパーテキストやウェブ社会の登場と軌を一にしていることは注意したほうがいい。つまりこれらは情報文学であって、方法文学であって、エディトリアリティの文学なのである。
意味、構造、そして映像ディスプレイの諸要素が本質的に不安定であるという点で、電子テクストは従来のテクストとは一線を画している。――J・D・ボルダー
アヴァン・ポップなメタフィクションは中心などもってはいない。むろん周縁にもいない。どこもかしこも脱中心であって、どこからでも自己他者モデルが顔を出す。すべてが仕掛け(ギミック)であって、すべてが入れ子構造(チャイニーズ・ボックス)なのだ。
それをマイクル・ボイドは「自己言及小説」と言って、読むことを消費する"小説批評小説"だと説明した。それならポール・ド・マンが言語の効果は自然を読みちがえることなんだと言ったことが当たっていたわけである。
けれども問題はもはや「自然と言語の裏切りの関係」などではあるまい。そんなものではすまなくなっているとも言わなければならない。マーク・アメリカが1993年に書いた『カフカ年代記』の主人公がそうだったように、20世紀末のアヴァン・ポップなグレゴール・ザムザには、最初から自己言及すら失敗するように微小な「バグ」がプログラム注入されていたわけなのだ。
究極のロゴスなど存在しない。そこにあるのは新たな視点、新たな認識、新たな解釈だ。にもかかわらず、文学はむしろ連続性を保持するためのシステムであり、われわれはその文学の電子の端末にいるにすぎない。――テッド・ネルソン
本書には二つの瞠目すべきヴィジュアル・ワークが紹介され、その作者とのインタヴューが収録されている。山崎シンジ&ユミとデイヴッィド・ブレアだ。
山崎シンジ&ユミはAZZLOを拠点にボンデージ・ディシプリンを公開する活動をしている。シンジは金子國義のアシスタントをしているころからフェティッシュなスーツやツールを集めはじめていて、ユミと出会ってからはそれらを装着した調教的拘束性を写真にし、さらにSMショーふうに組み立てていくようになった。写真のほうは『BD』にまとまって、欧米のアヴァン・ポップ・シーンの度肝を抜いた。
マキャフリイは東京に滞在していた1992年に二人に会ってインタヴューすると(本書はそのときの巽孝之らとの体験から生まれた一冊なのである)、その中身をすかさず「サイボーグ・ブディズム」と名付けた。ぼくもかつての海岸通り「GOLD」や西麻布「イエロー」で二人のディシプリン・ジムのショーを見たが、あまりに参加者が多いためか、ユミだけが公共建築物とともに静謐かつ矛盾に満ちて写っている『BD』のほうがずっと刺激的だった。

『BD (BODY DISCIPLINE)』
ポルノショーに出てみて、セクシュアリティが政治性だってことがよくわかったわ。私とセント・マークスの群衆とのあいだを隔てているのは政治性なのよ。――キッシー・アッカー
デイヴッィド・ブレアのヴィジュアル・ワークは6年かがりで完成した噂の『WAX』に注入されている。「蜜蜂テレビの発見」というサブタイトルをもつこの作品は、フライト・シミュレーター工場に勤める主人公ジェイコブ・メイカーが、祖父のジェイムズ・メイカーから受け継いだメソポタミア系蜜蜂を飼育しているという設定になっている。主人公にはブレア自身が扮し、祖父には合成されたウィリアム・バロウズが扮した。
物語は陰謀と殺人がからむカインとアベルふうの複雑なスリップストリームものになっているのだが、いよいよジェイコブが飼育しすぎた蜜蜂からこめかみに鏡球を埋めこまれるにおよんで、蜜蜂テレビともいうべき超絶視覚をもたざるをえなくなり、そこに神話時空的なヴィジュアル・ナビゲーションを体験していく段になって、俄然、これを見るわれわれもまた蜜蜂の集団的無意識に犯されていくような錯覚をおぼえるようになっていく。クライマックスではジェイコブは人間爆弾となって死者の国から帰還する。
この映像作品は、あきらかにトマス・ピンチョンの『重力の虹』にカインとアベルの物語を加え、それをハイパーテキストふうに組み直していったという意図をもっている。つまりはメタフィクショナルTVなのだ。ちなみにジェイコブとはヤコブの梯子の英語名ジェイコブをあらわしている。

デイヴィット・ブレア『WAX』
ところで2000年ちょうど、日本でこれまでのアメリカ文学史って何だったのかとおもわせるほど痛快な2冊のアメリカ文学案内が、同じ講談社現代新書として刊行された。柴田元幸の『アメリカ文学のレッスン』と巽孝之の『アメリカ文学史のキーワード』だ。
楚々として変哲のないタイトルに騙されてはいけない。いやむしろ、騙されて読むといい。2冊ともとてもよくできている。柴田のものはマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』からリチャード・パワーズの『黄金中変奏曲』までを一気に駆け抜けるもので、さすがにすべての引用を柴田自身の翻訳で貫いただけあって、アメリカ文学の文体のウェブ変化が浮き出すように如実に伝わってくる。
巽の本は文学思想史として徹底していて、いま日本語で読める最も高質な分析と配慮に満ちている。アメリカ文学をコロニアリズム、ピューリタニズム、リパブカニズム、ロマンティシズム、ダーウィニズム、コスモポリタニズム、ポスト・アメリカニズムの7つの潮流に区分して、それぞれにまことに興味深い作品例をランドマークにして、それをトーテムポールの解読よろしく配分してみせた。
アヴァン・ポップな話題は第7章の終盤にしか出てこないのだが、全編をメタフィクションの構造と方法をめぐるヒントとして読めるようにもなっている。巽は「あとがき」で、エモリー・エリオットの大著『コロンビア大学版アメリカ文学史』に蟷螂の斧をふりかざしたようなものだと謙遜していたが、そんなことはない。その蟷螂の斧の切れ味が読みごたえがあった。
その巽の本の最後に、マキャフリイが「20世紀英語文学100選」のベストテンにアメリカ文学作品を7つ選んでいることにちょっとふれている。これにはぼくも意外な新鮮味を感じた。こうである、
(1)ウラジミール・ナボコフ『青白い炎』、(3)トマス・ピンチョン『重力の虹』、(4)ロバート・クーヴァー『公開火刑』、(5)ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』、(6)ガートルド・スタイン『アメリカ人の形成』、(8)ウィリアム・バロウズ『ノヴァ』三部作、(9)ナボコフ『ロリータ』。なるほど、なるほど。