父の先見
スペ-ドの女王 ベールキン物語
岩波文庫 1967
Aleksander Sergejevich Pushikin
The Qeen of Spades 1834
[訳]神西清
それまで、こんなに怖い話を読んだことはなかった。怪談やミステリーにはこういう恐怖はなかった。それまでというのは高校生のころまでということだ。最後の一行を読んで身が凍った。異質の恐怖だった。読みながら、ぞっとするドンデン返しがおこるような気がしていた。
だいたいペテルブルクの夜にトランプをする話なんて怪しかったのだ。そのトランプはファラオンという賭博性に富んだもので、客は好きなカードを一枚選んで伏せておく。親は二枚のカードを配り、左のカードが客のカードの数と一致すれば客の勝ち、右のカードと一致すれば親が勝つ。そういうものだが、そのトランプに勝つために多くの者が身を焦がしている。命を落としてもいる。
そこへファラオンで伝説的大勝負に勝ったという老婆が出てきて、その老婆を殺してしまう青年が登場するのだから、物語の最後に何がおこってもおかしくはない。やはりのこと、最後の最後になって復讐がおこる。それがスペードの女王によるものだなんて、いま思い出しても、怖い。
ゲルマンはファラオンに関心をもった若い工兵士官である。ある八十歳の伯爵夫人がかつてヴェルサイユ宮殿でオルレアン公とファラオンをやり、三回たてつづけに勝ったという話を聞いた。
伯爵夫人はその秘策を、魔術や錬金術に耽るサン・ジェルマン伯爵に授けられたらしい。その話を聞いてからというもの、ゲルマンは寝ても醒めても老婆がどのようにファラオンに勝ったのかということで頭がいっぱいになる。
ゲルマンは伯爵夫人に養女がいることを知り、養女に近づく。あれこれ付け文をして、いよいよ伯爵夫人の家の養女の部屋で逢い引きをすることになった。夜に屋敷に忍びこみ、伯爵夫人の寝室をめざす。ゲルマンは夫人の寝室に入りこむや、「どうかびっくりなさらないで。あなたは三枚のカードをたてつづけに当てることができるとうかがっております」と言い、その秘策を教えてほしいと迫る。
老婆は突然の闖入者に驚愕するばかりで、「そんなことは噂話です」と言ったきり、何も答えない。業を煮やしたゲルマンは、「このくそばばあ、いやでも白状させてやる」と、ピストルを取り出した。老婆はピストルから逃れるように両手をあげ身を反り返し、そのまま動かなくなった。
ゲルマンは死んだ老婆の祟りをおそれてこっそり葬儀に出た。たくさんの参列者をかきわけ柩の前に出ると、遺骸はレースの頭巾をかぶり白繻子の衣を纏っている。おそるおそるその顔を覗きこんだ瞬間、老いた死人がふと目を細めて嘲りの一瞥をくれたように見えた。
ほうほうのていで逃げ帰り、体をぶるぶる震わせ、しこたま酒を飲んで布団をかぶって寝てしまった。やっと目をさましたときには夜が更けていて、月の光が部屋に射しこんでいる。そのとき扉が開いて白装束の老婆が入ってきた。
腰を抜かしているゲルマンに、老婆は「3、7、1、この順に張れば勝てます。ただし一晩に張るのは一枚だけ。勝ったうえは生涯二度とカードを手にしてはいけません」「そして、もうひとつ、養女のリザヴェータを嫁にもらってくれるなら、私を殺した罪は許します」と言って、去っていく。このあたりロシア・ゴシックの父プーシキンの独壇場である。
ゲルマンはそれからというもの、心の中で「3、7、1」の数字をくりかえす。そこへ金持ち相手にファラオンで儲けている胴元の男がモスクワからやってきた。さっそくゲルマンは出掛けて、最初の夜に「3」を張って大金を手にした。次の晩、また賭場に出掛けてもっと大きな賭金をおいて、「7」を手札に選んだ。親が配ったカードは「ジャック」が右に、「7」が左に出た。ゲルマンはしこたま儲けた。いよいよ三晩目、ついにすべての札束をそこに置き、最後の決戦に挑んだ。勝てるはずだった。
親がカードを配った。右に「クイーン」、左に「1」である。ゲルマンは勝ちほこって「1の勝ちだ」と叫んだ。親がゆっくり笑って静かに言った、「いいえ、あなたの負けです」。ゲルマンは驚いて自分の手札を見ると、そこには「スペードの女王」があった。張ったカードはたしかに「1」であるはずなのに、信じがたいことがおこったのだ。その瞬間、ゲルマンの手の中のスペードの女王が目を細めてニヤリと笑ったような気がした。恐怖に戦いてその女王を見ると、あの老婆に生き写しであった!
お察しのとおり、プーシキンの『スペードの女王』を読んでから、ぼくは二つの方向に引き裂かれて本を選びはじめた。
ひとつは、恐いもの見たさにミステリアスな恐怖小説をさがしては読むようになったことである。さいわいこの手のものはふんだんに用意されていた。まだディーン・クーンツやスティーヴン・キングのモダンホラーは登場していなかったので、ゴシックロマンから恐怖ロマンをへて、最後は怪奇小説のほうへ進んでいった。江戸川乱歩や紀田順一郎がこうした流れのすばらしい水先案内人であることも、このとき知った。そのあとはレ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』『緑茶』(創元推理文庫)やル゠グウィンの『闇の左手』(ハヤカワ文庫)あたりから、SFの新奇性のほうへなだれこんでいった。こちらは山野浩一や山田和子のお世話になった。
もうひとつは、プーシキンその人に多大な敬意を感じてロシア文学を読むようになったことである。すでにゴーゴリ『外套』のところで少し書いたことでもある(千夜千冊一一三夜)。さらに詳しいことはいずれドストエフスキーか、レオーノフのところで申し上げることにする。いまは、スペードの女王がまたニヤリと笑うのではないかと念うと、そのことが怖くてこの話から離れたいばかりだ。
怖い話はこれくらいにして、少々プーシキンその人にふれておく。
アレクサンドル・プーシキンはロシアのシェイクスピアであって、ゲーテである。モスクワのブレイクであって、ペテルブルクのバイロンである。詩人であって、物語作家であり、かつロシア近代語の確立者でもあった。
それだけでなく、アフリカの血とフランスの近代性とを二つながらもっていた。プーシキンの母がピョートル大帝に寵愛されたエチオピア人ガンニバル将軍の孫娘であったし、フランスの古典に親しんで、八歳でフランス語の芝居を試作した。おおよそ見当もつこうが、ヴォルテールに傾倒した。
一七九九年に生まれたその生い立ちはほぼナポレオン時代にあたっている。ということはナポレオンを敗走させたロシアに、新しい風が、さしずめ“西欧自由民権運動”とでも名づけたい風が吹きはじめていた時代ということで、学生時代のプーシキンはその新風を体いっぱいに吸いこんだ。吸いこんだ風はそれだけではない。革命への期待を詩で表明しすぎて南ロシアに追放されたことがあったのだが、そこでカフカスの山、黒海の波、古代ギリシアの記憶と出会った。
これらが渾然となって交じりあい、昇華して、韻文小説『エウゲニー・オネーギン』(河出書房新社 プーシキン全集2/岩波文庫)になり、シェイクスピアのロシア的再来ともいうべき韻文史劇『ボリス・ゴドゥノフ』(岩波文庫)になった。この二作が嫌いなロシア人はいないという。
ちなみに『エウゲニー・オネーギン』はバイロンのチャイルド・ハロルドを気取る青年オネーギンを、タチヤーナとオリガの姉妹とのあたかも熱力学的なともいいたいような恋を通して語り尽くしたもので、その人物像が「余計者」の原型となったものなのではあるが、作品全体が百科事典ともロシア近代語辞典ともなっていて、驚くべき言語情報学的な完成度を示した。チャイコフスキーの作曲によるオペラやバレエがある。
一方の『ボリス・ゴドゥノフ』はロシア史そのものの再生実験である。のちにタルコフスキーが創造の拠点にした。こちらはムソルグスキーがオペラにした。
一八二五年、ロマノフ朝第十代皇帝のアレクサンドル一世が急死すると、首都ペテルブルクではデカブリスト(十二月党員)が蜂起し、そして敗北していった。首謀者たちにはプーシキンの友人たちがまじっていた。プーシキンは助命嘆願運動をするのだが、大半は絞首刑になり、残りは流刑にされる。新皇帝ニコライ一世はプーシキンに引見し、詩の検閲を条件に謹慎を解いた。
ここからがプーシキンの苦悩と研鑽である。研鑽の結果は『ベールキン物語』や『スペードの女王』などに結晶化されるものの、社会的な仕事や外面では苦悩した。
それでもなんとか美貌のナターリヤと結婚をするのだが、うまくいかない。結局、ナターリヤを追いまわしていた若い近衛士官ダンテスと決闘し、致命傷を負い、二日後に死んだ。信じがたいことに、わずか三七歳の生涯である。ひょっとしてナターリヤがスペードの女王だったのだろうか。
ついでに言っておかなければならないことがある。プーシキンとナターリヤのあいだに最初に生まれたマリアが、のちのトルストイの『アンナ・カレーニナ』のアンナのモデルとなったということだ。
ツルゲーネフは、プーシキンの詩があらわす特徴のすべてが「わが民族の特徴と本質的に合致する」と言った。それはそうなのだろうと思う。今日のロシア語をつくったのはプーシキンなのである。今日のロシア人の生活感覚はプーシキンが用意した。『エウゲニー・オネーギン』はロシア生活の百科事典なのである。
スターリン、フルシチョフ時代に没後一〇〇年記念や生誕一五〇年記念の行事がおこなわれていたのを、当時、図書館でちょこちょこ覗いていた「今日のソ連邦」誌で見て、びっくりしたことがあった。そこまで広がったのかと思った。紙幣や切手の肖像画だけではない。煙草のプーシキン、マッチのプーシキン、石鹸のプーシキン、食器のプーシキンが溢れていた。いまではプーシキン美術館もずいぶん充実していて、ルノワール、シャガール、ピサロが展観されている。
日本でいうなら漱石がお札やグッズやトートバッグになるようなものだが、では漱石が日本人の民族的反映をまっとうしていたのかといえば、そうでもない。むしろ露伴や鴎外や鏡花、あるいは柳田国男がその代行者だったと思うのだが、プーシキンはそんなレベルではない。「全面ロシア」そのものになった。ツルゲーネフの言うように「ロシア民族のプーシキン」なのだろう。
さすがにドストエフスキーは、そのあたりを一様化しなかった。「プーシキンはきわめて特異な、プーシキン以外の誰にも見られない芸術的な才能があった」と見たうえで、こう書いた。「プーシキンの比類ない才能は、他国の天才たちに共鳴し、それを完全に同化できるという才能だった」というふうに。ぼくはこの見方のほうが当たっているような気がする。プーシキンにはインタースコアをする編集能力が長けていて、それをことごとくロシア化できたのであろう。
さらに勝手な臆見を言っておくと、プーシキンは「フェチと機智」こそ得意だったのではないかと思う。血気もあり、気概もあったから三七歳で決闘に倒れたけれど、もしそのまま好きな日々をおくっていたならば、ひとつはさらなる名作をいくつも仕上げただろうし、もうひとつはロシアの機智を世界に届けていただろうとともに、きっとロシアン・フェティッシュの数々を、都市の古本屋の片隅に置いてある標本箱のようにつくってくれただろうと思うのである。
このあたりのことは勝手な期待でもあるので、これ以上のことは、たとえば郡伸哉の『プーシキン 饗宴の宇宙』(彩流社)などで補っていただきたい。あるいはプーシキンのやりのこしたことに気がついていたゴーゴリが、それらを「瑕」や「痕」として描いたほうに託したい。