才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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論理哲学論考

ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン

法政大学出版局 1968

Ludwig Wittgenstein
Tractatus Logico-Philosophicus 1922
[訳]藤本隆志・坂井秀寿

 急にケリをつけたくなるときがあります。青春にケリをつけ、仕事にケリをつけ、腐れ縁にケリをつけ、自分の悪い癖にケリをつけたくなる。
 ケリって何でしょうか? 蹴りを入れること? それともケリという大工道具か何かのこと? このケリはね、和歌や俳句で「昔はものを思はざりけり」とか「明治は遠くなりにけり」とかというときの、あのケリのことで、文法的には「き・あり」から転じた助動詞です。和歌や俳句では「けり」で終わることが多いので、「ケリを付ける」といえば、物事や事態のひとつの結末がつくことを意味しました。
 ケリの字義はそういうことなのですが、しかしどうすればケリがつけられるかというと、これが案外にむずかしい。ケリをつけたつもりが、かえって事態が悪化したり、焼けぼっくいに火がついて困ることがあるのは、みんな経験していることでしょう。けれどもともかくも、われわれは何事であれ、ときどきケリをつけたくなる。
 それでは、思想にケリをつけたり哲学にケリをつけたりするということも可能なのでしょうか。もちろん、できます。それでケリがついたかどうかはべつにして、論理や哲学や数学にケリをつけたくなったって、かまわない。これから話そうと思っているヴィトゲンシュタインは、それまで自分が学んできた論理や哲学の煩い言い分や言い方に、ケリをつけたくなったのです(本書表記にしたがってヴィトゲンシュタインと濁点を打つが、最近はウィトゲンシュタインと濁らず綴るようになっている)。
 たとえば、こんな感じです。誰かが「世界はわれわれの知覚や解釈によってどのようにも見える」とか「論理は知識の中の骨格を取り出した文法のことである」などと訳知り顔で言っていることについて、ヴィトゲンシュタインは「いいかげんにしなさい。そうじゃなくて、世界は自分で世界をつくっている・けり」とか、「論理は自分で自分の世話をするしかない・けり」とか「言葉は言葉でケリをつけている・けり」とかと、ケリを付けたくなったのです。ただし、ケリをどこでどのように付けるかというその付け方に、ケリなりの順序と構造を考えた。
 ひょっとしたら「ケリだけの論理」というものがあるのではないか、とさえ考えました。それが『論理哲学論考』という大変な一冊なのです。
 
 どうですか。ケリを付けるってたいそうなものでしょう。ヴィトゲンシュタインはケリの論理学をつくりたかったのです。ところが、です。のちのちになって、ヴィトゲンシュタイン自身が「あれはちょっとまちがいだった」と言いだしたのですね。それがなんとも十五年も三十年もたってのちのことだった。若いころの自分にもついついケリを入れたのです。
 何がまちがったと言っているのかはあとで説明しますが、ともかくそう言って新たに書き上げたのが『哲学探究』(全集8・大修館書店)という本でした。これは意外なことですね。ふつうの学者は自分のまちがいなどたいていごまかして、なんとなく意見を補填しながら何食わぬ顔で身スギ世スギをするのが相場なのですが、ヴィトゲンシュタインは何食わぬ顔がいちばん嫌いなので、そこに大胆にも自己介入します。
 そこで、研究者たちのほうも『論理哲学論考』に代表される前期のヴィトゲンシュタインと、『哲学探究』に代表される後期のヴィトゲンシュタインを分けて考えるようになった。これはヴィトゲンシュタイン研究書や解説書にやかましいほどよく出てくる区分なので、とりあえず前提にしておきます。
 それにしても、いったいなぜヴィトゲンシュタインは〝転換〟したのでしょうか。あるいは〝転向〟したのでしょうか。いや、その前に『論理哲学論考』はどんな仕事にどんなケリを付けようとしたのか。そこを考えることがヴィトゲンシュタインを学ぶにあたってとくに厄介なところなので、今夜はまずそこを明解にしておきます。
 
 話をわかりやすくするために、ここで「カタルトシメス」というめずらしい言葉を紹介します。カタルトシメス。聞いたことはないでしょう。ギリシア語かラテン語か日本の国学用語のように見えるかもしれませんが、そうではありません。これは「語る」と「示す」をつなげて、ぼくが特別に一つの続き言葉にしたものです。だからカタル・と・シメス、カタル・ト・シメス。
 こんな言い方はヴィトゲンシュタインにもないし世の中にもない。これからの話の説明のために、今夜特別に用意した言葉です。しかしこのプレゼントは強力です。なぜなら『論理哲学論考』が言っていることは、このカタルトシメスだからです。

 では、始めましょう。ヴィトゲンシュタインは、最初にこう書きます。「成立している事態の全体が世界である」「対象の配列が事態を構成する」。
 わかりますか。ちょっと面倒かもしれないが、こういう意味です。ヴィトゲンシュタインは「世界」については、その世界を構成しているモノ(コト)以外のモノ(コト)で世界を語れるわけはない、と考えたのです。ここで「モノ・コト」と言っているのは、言い換えが可能です。ひとつは「言葉」と言い換えられる。世界は世界を構成するモノやコトを指し示す言葉によってしか語れない、そう言っているわけです。「成立している事態の全体が世界である」とは、そういう意味です。
 もうひとつは「目盛り」とも言い換えてよい。世界を語るとは、それを構成するモノ・コトに接している目盛りで語ることなのだ、そう考えるべきだというのです。たとえば科学がそれをやっている。科学というのはモノ・コト・セカイの目盛りを探す学問です。その目盛りで世界を解説します。「対象の配列が事態を構成する」というのは、そういう意味です。理系や技術系の諸君なら、わかるでしょう。
 ちなみに編集工学では、このように「世界」についての語り方を問題にする仕方をあらかじめポンと投げかけておく方法を、「存在論的なアプローチ」というふうに言います。世界の在り方を措定しておいて、その世界に属する問題に言及するという方法です。自分というものは必ず世界に属しているわけだから、もしこの方法でうまく論理を進めていければ、あわよくば世界と自分が接しあっている最もナイーブな〝内接の関係〟が示せるかもしれないというメリットがあるわけです。
 ここまでは大前提ですが、これで、世界と存在するものの関係や、世界と言語の関係などが透明に向き合っているという見方を提示することができています。ついでにいうと、こういう世界と存在の関係から入るアプローチは、ニーチェやハイデガー、またホワイトヘッドやガダマーも採用しています。
 
 次にヴィトゲンシュタインは、「語りうることは明瞭に語られうるが、言いえないことについては沈黙せねばならない」、また「示すことができるものは、語るわけにはいかない」と書きました。
 なんだ、当たり前のことを書いているじゃないかと感じるかもしれませんが、ここからが大事な言い分になってきます。カタル(語る)とシメス(示す)が出てきた。しかし「示すことができるものは、語るわけにはいかない」とは、どういうことでしょう。シメスはカタルを押しのけているのか。
 カタルは言葉で語ることをいいます。だから「語りうることは明瞭に語られうる」というのは、ちょっとでもそのモノ・コト・セカイについてカタルができるのなら、とことんカタル言葉をふやせるという意味です。どんなカタルの断片にもそこには必ず同義性やシソーラスのような要素がいっぱい潜んでいて、いったんカタルを始めると、その潜在的な同義性が次々にあらわれてきて、カタルだけの関係を出尽くさせることができるだろうというのです。
 このカタル型の同義的関係をちゃんと要訣整理したものが、そう、アリストテレス以来の「論理」というものです。論理というのは、何を何によって語りうるかという例をいろいろ集めて、その関係を徹底的に短く整理していったものです。ということは、本当の論理をつきつめて作ろうとすると、それは広い意味でのトートロジー(同義領域的表現)になってしまうのです。
 トートロジー(tautology)は日本ではよく同義反復って訳されているけれど、もっと重大な言語作用をあらわしています。「AはAである」は、「AはあくまでAなんだから、他のものじゃないんだ」という強い主張にもなるし、「AはしょせんAですから、それ以上でもそれ以下でもないんです」という意味にもなるんです。それゆえヴィトゲンシュタインはときどき、論理学はトートロジーの正体をあきらかにするための学問だと言っていた。御明察です。
 一方、「言いえないことについては沈黙せねばならない」というのは、いま述べたことをべつの視点でさらに強調したもので、カタルによって構成されていないモノ・コト・セカイを、あたかも語りうるかのようにカタルのはやめなさいと言っている、と思えばよいでしょう。カタルに不純物を交ぜるなと言っているんです。ヴィトゲンシュタインはなぜわざわざそんな当然のようなことを書くのでしょうか。
 あとで説明しますが、ヴィトゲンシュタインは論理学を学んできた人です。先輩にはフレーゲとかラッセルのような人がいた。才能溢れる論理学者たちなのですが、かれらの書いていることや言っていることに、ヴィトゲンシュタインはなかなか満足できなかった。しかしそれはかれらの問題というより、そもそも論理を支えている何かの方法に問題があったと気がついた。それがカタルトシメスの問題、つまりカタルとシメスの相違にまつわっていたわけなんです。
 
 ちょっとややこしくなってきたかもしれませんが、まとめると、ヴィトゲンシュタインは「カタル方法」という方法を確立するには、カタルとシメスがごっちゃになっているところを切断しなければならないと考えたわけです。
 それには、シメスにも「論理」や「言葉」ではあらわせないそれなりの独得の「シメス方法」とでもいうべきものがあるのだろうと考えた。このシメスをヴィトゲンシュタインは「像」とか「映像」とかとよんだ。つまり、イメージです。こうして、「示すことができるものは、語るわけにはいかない」というフレーズが出てきたのですね。
 これでだいたい見当がつくでしょうが、ヴィトゲンシュタインは人間の考え方や見方や感じ方には、カタル方法とシメス方法の二つがあることに気がついて、それらが論理学という厳密だと思われてきた学問のなかでごっちゃになっていることに、なんとかケリをつけたかったんです。
 でも、話はこれでは終わらない。それなら、カタル方法をつきつめるとどうなるか。たとえば新しい論理学がそこから出てくる可能性だってあるかもしれないという問題があります。また、シメス方法っていったい何だという問題がある。われわれはイメージをどのように動かしているのかという問題です。
 こういう問題があるのですが、ところがここからヴィトゲンシュタインは、たいへん変わったやりかたで以上の問題に一挙にケリをつけようとした。どうしたかというと、カタル方法とシメス方法を分けないで、まとめて「カタルトシメス」という新方法があるのではないかと言い出したのです。「カタルとシメス」ではなく、「カタルトシメス」です。ぼくはそう見るといいのではないかと思っています。
 つまり、実はもともとカタルとシメスは一緒のもので、それが何らかの理由か何かの原因で分断されて、カタルとシメスに分かれていったのではないか。そうだとすると、カタルトシメスという当初の一連の方法が自分で自分の何かの限界を知りその限界に応じて、あるいは時代の必要などに応じて、カタルとシメスとが別々のものになったということなのではあるまいか。そう、考えたのです(いや、そう考えたにちがいないと松岡正剛は見抜いたんですね)。これはどういうことに気がついたのかというと、「限界」ということからモノ・コト・セカイに切りこむという方法があるということなのです。
 
 ふつうわれわれは、最初っから限界など気がつかないもので、いろいろ試したりあらわしたりしていくうちにモノ・コト・セカイの表示には限界があることがわかってくるものです。それで自分の努力をさておいて、いやーもう限界ですなどと言う。
 けれども、これはおかしい。限界というのは、最初から対象としてのモノ・コト・セカイに潜伏しているのではないか。そして、いったん限界がわかると、その限界を認識したというプロセスを方法にするということが可能になってくるのではないか。そう見たほうがいいのです。
 限界というのは、方法の母体そのものの中にあるのではないかということなんです。ということは、いささか高級な表現になるけれど、「母体カタルトシメス」は、自らその限界を外側に持ち出した〝方法の母〟ということになる。そう、なりますね。これって、凄い説明です。
 
 どうしてヴィトゲンシュタインはこんなことに気がついたのでしょうか。言語の性質というものに深い関心をもっていたからです。これは当時の論理学者としては特異な才能です。そしてさらに、こんなことに気がついた。「わたくしの言語の限界が、わたくしの世界の限界を意味する」ということに――。
 これはいい。とてもすばらしい。ぼくがヴィトゲンシュタインを最初に読んだとき、ここにさしかかってガーンと脳天に鶴嘴を打ちこまれ、クラクラッとしたものです。そうなのだ、言語の限界が思考の限界なのである。そうだ、そうだ、なぜそんなことに気づけなかったのだろうか。そう、感じました。
 では、言語の限界が思考の限界だということは、言語は自分の限界を自分で知るような場面をもっているということなのでしょうか。言語の中にそういう特異点でもあるとか、言語がある程度に同義的に消費されていくと、そこで思考が追いつかなくなるか、あるいは思考のほうに限界ストップ装置のようなものがあって、それが光りだしたり、アラームを出したりするとでもいうのでしょうか。
 うん? これは困ったことです。言語と思考の両方の臨界値を同時にさがしださなくては、この限界はどうもあきらかにはなってはきません。どう考えればいいのでしょうか。ヴィトゲンシュタインも、ここで躓きます。それで蛮勇をふるって当時はどうケリをつけたかというと、「世界は私のところでぼけている」、あるいは「世界はそもそもぼけたヘリをもっている」と考えた。
 ぼくなら、ここで妥協したっていいんじゃないか、このケリはかっこいいと感じてしまうところなのですが、ヴィトゲンシュタインはそうではなかった。ずっとあとになって、新しいケリの付けかたを発想したのです。そしてここからが、後ヴィこと、いわゆる後期ヴィトゲンシュタインになっていくのです。
 
 ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』のあらかたの草稿を仕上げたのは一九一八年の二九歳のときでした。天才・鬼才と聞いていたのに案外遅いんだと感じるかもしれませんが、これには事情があります。そこでこのへんで、いったんヴィトゲンシュタインの生き方や考え方を見ておきたい。びっくりすることだらけです。
 ヴィトゲンシュタインは一八八九年にウィーンで生まれ、ウィーンで育ちます。世紀末のウィーンがどれほどすばらしいところかは、いくらほめてもほめたりない。詳細は省きますがヴィトゲンシュタインがこの世紀末ウィーンにいたということが、まずもって象徴的なのです。建築家アドルフ・ロースなどにも参っている。この時期、とくにショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』に感極まったようです。
 十三歳のとき、兄のハンスが自殺した。それもキューバに行って自殺した。十五歳になると、今度はもう一人の兄ルドルフがベルリンで自殺した。これは大変です。自分の兄弟姉妹が一人自殺したってショックは大きいのに、思春期になんと二人の兄が自殺したのです。ヴィトゲンシュタインはこのことについてほとんど触れてはいないものの、このあとのことを見れば何を感じていたかは、すぐわかります。
 十七歳、ベルリンの工科大学に入って機械工学を学んでいます。凧揚げや飛行機が好きだったようです。十九歳でイギリスに渡って上層気象観測所にもぐりこんで、またまた凧揚げと航空工学の実験にかなり夢中になっています。「空」が好きだったのか、あるいは「重力の軛」から脱したかったんですかね。この熱中はそうとうのものだったようで、秋にはマンチェスター大学に入って航空機エンジンの開発やプロペラ設計に本格的にとりくみます。当然、数学にも関心が出てきたところへ、ここにとんでもない才能の持ち主が次々に出現したのです。

 その一人はゴットロープ・フレーゲでした。ゲッティンゲン大学とイエーナ大学の数学教授で、戦術と論理学をつなげた天才です。『概念記法』(フレーゲ著作集1・勁草書房)という画期的な書物があって、ぼくも『知の編集工学』(朝日文庫)でベタぼめしています。ぼくに述語の論理について目を開かせてくれたのが、フレーゲでした。ヴィトゲンシュタインはそのフレーゲの『算術の基本法則』(著作集3)の英訳を試みた。
 二人目はフランク・ラムゼイです。のちにケンブリッジ大学の数学教授になった。ヴィトゲンシュタインよりちょっと若くて、二人はずいぶん議論を闘わせた。ぼくはいっとき「ラムゼイ文」とよばれるリプレゼント・モードに惹かれたことがあって、それ以降しばらく「セイゴオ文」の開発にとりくんだものです(未完成です)。『ラムジー哲学論文集』(勁草書房)という本が訳されています。ラムゼイは天才肌で、経済理論や確率論にも大胆な仮説を提供しましたが、二六歳で夭折しました。
 そして三人目がバートランド・ラッセルです。すでにホワイトヘッドとともに『プリンキピア・マテマティカ』(序論・哲学書房)を書いていた。そのころから哲学界・論理学界の大立者でした。二二歳のヴィトゲンシュタインはフレーゲに勧められて、マンチェスター大に籍をおいたままケンブリッジのラッセルの研究室に出入りするようになります。ここでブルームズベリーのホモセクシャルたち、たとえば経済学者のケインズなどとの交流もあったのですが、まあここではその事情は省いておきましょう。
 さて、このフレーゲ、ラムゼイ、ラッセルの三人がヴィトゲンシュタインの鬼才に舌を巻いたのです。その雰囲気はいまではほとんどあきらかになっているのですが、ともかくも自信過剰をふりまいたようで、みんなが感心しながらも手を焼いた。とくにラッセルに自分の考え方を滔々としゃべったというケンブリッジの光景は、いまでは「論理についてのノート」として読めるようになっているのですが、そこには「哲学には演繹はない」「哲学は実在については何も言ってはいない」というようなことが自慢げに発露されています。ラッセル先生、驚きました。
 しかもこのとき、生意気な青年は父の死によって莫大な財産を相続しています。この金額はさすがに使いきれないものらしく、のちにオーストリアの芸術家たちのための基金にその一部分をあてています。その恩恵にあずかったのがリルケたちです。
 
 その後、大学を出たヴィトゲンシュタインは、あまり大学での研究に興味を示しません。ノルウェーに旅行したりして、自分の思索をまとめることだけを考える。そのときに概要がまとまったのが『論理哲学論考』(以下『論考』)です。ただし、このときはまだ草稿のようなもので、熟考はしていなかった。
 そこへ第一次世界大戦が勃発しました。二五歳のヴィトゲンシュタインは待ってましたとばかりに義勇兵になる。このあたりは男っぽい。それから大戦が終わる二九歳までのあいだ、戦役を転々としながらひたすら軍務と思索に耽ってばかりいます。たまにウィーンに戻ったときはたいていアドルフ・ロースに会って建築論を交わしていました(ロースはオットー・ワグナーと並ぶ近代建築の父祖です)。そんなことで、数年にわたった戦争が終わった時点ではイタリア軍の捕虜でした。そのころやっと『論考』が完成します。ヴィトゲンシュタインはその原稿をフレーゲとラッセルに送りました。
 ついでは『論考』を出版しようとします。ラッセルが出版推薦文を書いてくれたのですが、うまくいかない。あまりに『論考』が奇矯なスタイルだったからです。なにしろ番号付きの短文だけが並んでいるものなんて、哲学にも論理学にも数学にもなかったんです。出版社の編集者にも、何を書いているのかさっぱりわからなかった。いくつか目の出版社が「ラッセル先生の序文をつけてなら刊行できる」と言ったので、渋々ラッセルの序文を待った。ところがそれを読んだヴィトゲンシュタインはこんな序文と一緒に印刷されるのは困るといって拒絶してしまうんですね。それがいまわれわれが『論考』で読める、あの序文のことです。
 
 こんなことがさんざんあって、やっと『論考』が出たのは一九二二年のこと、三三歳です。すでに論理学に情熱を失っていたヴィトゲンシュタインは、小中学校の教員の資格をとって、小学校の臨時教員になります。まったくおかしな男ですね。
 このあとも関心を示すのは子供の教育のことばかりで、三五歳には辞書を作ったりしている。それも小学生用の辞書です。けれども子供にはいつも腹をたてていて、急に殴ったりもしている。これが事件になって学校をやめた。それでもいっこうに平気なようで、今度は住宅建築の設計に没頭したり、少女像を一心不乱に彫刻したりしています。かなりおかしいです。
 こうして四十歳のヴィトゲンシュタインがしたことは、なんといまさらながらのトリニティ・カレッジの大学院への入学でした。そこで平然とラッセルの口述試験などを受けている。大金持ちなのに、奨学金ももらっている。人を食っているというか、遠大な目標にひたひたと迫っているというか。
 で、ここからが『哲学探究』の時代、『青色本』『茶色本』(全集6)、そして『数学の基礎』(全集7)執筆の時代に入っていくんです。つまり後ヴィの時代です。ただしそこでもフレイザーの『金枝篇』に夢中になったり、ロシア語を習いはじめたり、ソ連に行ったりしています。どうにも、最後まで変な人です。
 
 ということで、後期ヴィトゲンシュタインの執拗な考察は、最初に言っておいたように『論考』を脱却するところにあったわけです。いわばケリの位置を付け替えるという作業になっていく。
 この作業は一言でいうと、それまでは「論理」を問題にしていたのが「意味」を問題にするようになったと見ればいいでしょう。いわば、カタルトシメスのカタルとシメスの間にめりこんだ意味を取り出そうとしたわけです。これまでは言ってみれば「論理の原子」みたいなものを相手にしていたのですが(そのため前ヴィの成果を「論理的原子論」ともいいます)、後ヴィでは「言語の原子」ともいうべき「語」に注目するようになった。
 ところが、この「語」の単位をあれこれ動かしているうちに、またまた変わったことに気がつきました。それは、いっさいの言語活動や思考活動は「言語ゲーム」なのではないかということでした。言語そのものの成り立ちや思考の構造そのものも言語ゲームになっているのではないかという確信が出てきたのです。
 これはどういうことかというと、仮に人間のコミュニケーション体系のようなものがあるとして、それは七面倒くさいものではなくて、日々の言語ゲームのような会話活動こそがその体系の本質なのではないかと考えたわけです。この見方はヴィトゲンシュタインを大いに気に入らせたようで、これで『論考』を超えたと実感します。だから、あれ(『論考』)はちょっとまちがいだった・けりと言い出します。そして、このことを集大成したのが『哲学探究』なのです(以下、『探究』という)。
 
 言語ゲーム。いったい何のことでしょうか。なんとも奇妙な言い方ですね。だいたいゲームだなんて論理学者や哲学者が使う用語じゃない。当時はモルゲンシュテルンなどによる数学的ゲーム理論はまだ提唱されていないころなので、ゲームといったら子どもの遊びや大人のトランプやスポーツのイメージです。でも、ヴィトゲンシュタインには世間の見方はどうでもいい。知ったことじゃない。世の中の知ったかぶりの欺瞞を粉砕したいだけです。
 それで、言語的な活動にはゲーム遊びに似た特定力があると見て、これを「言語ゲーム」(Sprachspiel)と名付けたのです。たとえば「塩、取って」という一言は食卓で塩の壜を近くに寄せてということで、「塩田で採塩する」という意味はもちません。これは言葉づかいというものは必ずしもその構造的あるいは辞書的な役割を果たそうとはしていないということです。目の前の「コップ」は辞書に書いてあるコップでも商品番号をもつコップでもないのです。言語はもっと気まぐれで、コミュニケーションのゲームの中でゆらぐものだというのです。そして、それが言語の本質だというのです。
 では言語ゲームが言語活動の本質だと言ったとしたら、その役割のようなものはどこにあるのでしょうか。人間のコミュニケーションの本質が言語ゲームだということは、そこにはまだ発見されていない規則や意図のしくみがあるはずだということになります。だから『探究』はその規則や意図を追いかけることをするのですが、ここでまたまたヴィトゲンシュタインはとんでもないことに気がつきます。
 それは、いろいろ考えてみたけれど、日常的な会話こそが、そのあるがままの姿において完全なのではないかという気がしてきたのです。なんということか。人々が勝手にしゃべっている会話に言語の本質もコミュニケーションの本質もみんなあらわれているというのです。論理とか論理学はそれらをもっとダメにした姿なのではないか、あんなものは茶殻とか茶滓のようなものだというんです。なぜ、こんな前言を撤回するようなことを思いついたのでしょうか。

 ヴィトゲンシュタインが日常会話に強い関心を注いだことについては、当たっているかどうかはべつとして、いくつかの理由が考えられます。
 まず、少年のころから重度の吃音症だったということがある。四歳までほとんど何も話せなかったようですし、両親も小学校に行かせていないようなのです。そこへもってきて、裕福な家の八人きょうだいの末っ子だったので、何でも希みは叶えられた。好きなことだけをやっていればよかったんですね。
 そういうことと関係があるのかどうかわかりませんが、ヴィトゲンシュタインは小さなころから一冊主義の読書家でした。リンツの高等実科学校に三年間行くのですが(ヒトラーが同じ学校です)、その三年間にしっかり読んだのは、さきほども言いましたが、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』だけです。これを何度も熟読した。かなり分厚い三巻本ですが、アタマに焼き付けられたはずです。第一次世界大戦で志願兵として従軍したときも、トルストイの書いた福音書の教説本ばかり読んだようです。
 はたして一冊主義がどんなことをその読み手にもたらすのか、多読主義のぼくには推しはかることができかねますが、おそらくは解読力と洞察力と自省力が重なっていって、リード・エディティング(読み編集)とノート・エディティング(書き編集)が多重化できていったのではないかと思います。これは「一人言語ゲーム」の発端だったでしょう。デキのよい一冊の哲学書を何度も読んでいれば(ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』はとてもデキがいい本です)、読み手は一人で何役もの解釈者になるだろうからです。

 ふつう、言葉は単語や文脈の意味や意図がわかって使われているように思えますが、実はそうでもないかもしれません。言葉は使ううちにさまざまな意味や意図を発揮するのであって、そういう言葉の使われ方を体験しているうちに、自分の思考や行動と言語行為がまじっていく。そういうふうに見たほうがいいのかもしれないのです。
 ヴィトゲンシュタインはウィーン近郊の村の小学校で教えたことがあり、とても自由な教育をしたようですが、このときの経験で、言葉はいろいろ使っている中で使い方が会得できるもので、言語のほうにちゃんとした構造のようなものがあるわけではないという確信をするんですね。この観察から言語は「言語ゲーム」であるとみなすようになったと思われます。
 かくてヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」の中に言語の本来があると結論付けるんですね。そのとおりだと、ぼくは思います。言葉を使うということは、そのこと自体がカタルトシメス作用なんですから――。つまりは子どもが言葉をおぼえながらつかっている言語は、言語ゲームとしてのすべての形式と内容を含んでいるはずなんです。少なくとも子どもはそう感じて、しゃべっている。そうだとすると、その子どもの言語ゲームをそのまま言語ゲームとして引きとれなくなった大人の言語のほうが問題なのであって、そのような原型的な言語ゲームのままにコミュニケーションをするのが本来的なのではないかということになるわけです。いわばラッセル先生とコギャルが話しているときにも、言語ゲームがほぼ完璧に確立しているということです。
 ただし、ここで注意しなければならないことがあります。このラッセル先生とコギャルのあいだの言語ゲームは、外から解釈してもしかたがない、そんなことをしてはいけないとヴィトゲンシュタインが考えていたということです。その会話自体がカタルトシメス作用であって、それをいまさらカタルとシメスに分けるもんじゃない、そう、ヴィトゲンシュタインが考えたということです。
 ぼくは三年前から(二〇〇三年現在)イシス編集学校というネット上の学校を始めて、そこで編集稽古というエディティング・トレーニングができるようにしました。いろいろなエクササイズ(稽古)をやっているのですが、そのひとつに「言いかえのススメ」がある。あるモノやコトについての言葉を、どんどん言いかえてみるというものです。
 たとえば「コップ」を言いかえる。食器とかガラス製品とか日用品とか物体とかというふうに。「ベンチ」や「時計」や「夕焼け」を言いかえる。これは子どもたちがその言葉を知ったときに、いろいろ浮かぶイメージに沿ってみるという言語ゲームなのです。大人向けならば「新聞」「利潤」「国家」などを言いかえると、おもしろい。たくさんの背景や文脈を想定することになります。
 後ヴィが持ち出した言語ゲームは、ぼくからすると編集的思考を自由にするための、とても有効なアプローチの仕方なんですね。 

 ところで、後ヴィではもうひとつ大事なことが議論されています。このような言語ゲームには、倫理が必要なんじゃないかということです。これはヴィトゲンシュタインが後期になってずっと考えていたことで、自分の考え方を推し進めていくと、ヤバイことも入ってくることに気がついていた。それは言葉が相手を突き刺し、憎悪を駆り立て、せっかくの言語ゲームが感情のゲームになってしまうということです。
 ヴィトゲンシュタインは、言語ゲームと倫理の問題を結びつけようとしたんです。つまりは、最後になってふたたび哲学に戻ってきたわけなんですね。

 以上、大急ぎでヴィトゲンシュタインの考え方の入口から数歩くらいのところをぼくなりに案内してみました。この哲学者をどう理解するかについては、多くのアプローチや解釈が試みられてきたのですが、今夜はそれを「カタルトシメス」という造語で串刺しにしてみたのです。
 これは、ぼくがヴィトゲンシュタインを気まぐれ編集思想の持ち主だと見ているからで、またそのようにみなすことがぼくにとって大きな参考になったからです。ちなみにヴィトゲンシュタインが生前に刊行した本は『論理哲学論考』と小学校で教えていたときに作成した単語帳(『小学生のための正書法辞典』)だけです。この単語帳は、生徒たちの作文から約二五〇〇項目の言葉を抜き出したもので、小学生の言語ゲームのためのツールにしたものでした。
 ウィーン学団から誘いを受けたり、ケンブリッジ大学で期待されたりしたので、学界との接触がなかったわけではないのですが、本人はそういうことに一向に関心がもてなかったようです。お姉さんの家を設計したり(アドルフ・ロースの影響です)、アイルランドの海岸の村に別荘をつくって執筆三昧をしたり、そういうことのほうが好きなヴィトゲンシュタインでした。なんとも気まぐれな天才的な哲人だったとしか、言いようがありません。