父の先見
日本の星
中央公論社 1977
新村出の『南蛮更紗』の一冊がすべてを暗示していた。『南蛮更紗』は「雪のサンタマリヤ」「吉利支丹文学断片」といった洒落た南蛮趣味の随筆をまとめたもので、一世を風靡した随想集である。そこには「日本人の眼に映じたる星」「星に関する二三の伝説」「二十八宿の和名」「星月夜」「昴星讃仰」「星夜讃美の女性歌人」という6篇の星に関する言及が収められていた。
日本の天文談義の歴史では、最初の「日本人の眼に映じたる星」がとくに有名で、当時の日本言語学を牛耳っていたチェンバレンの「日本文学には星辰の美を詠じたものがない」という説に、新村出が華麗に反旗をひるがえした。アマツミカホシから北辰北斗をへてヨバイボシ(夜這い星)までがずらり並べられたのだ。
この一冊に若き天体民俗学の野尻抱影がすこぶる感応したのである。大正末年のことだった。それもそのはずで、「星夜讃美の女性歌人」では建礼門院右京大夫の歌集を「日本文学絶無の文学」といった調子で格調高く綴ってあるのだから、天体において「和」を打ち出してみたい青年には武者ぶるいのする挑戦だったにちがいない。さすが、新村出である。
すでに抱影少年は、神奈川一中時代に獅子座流星群の接近に遭遇して以来の天体少年だ。中学四年の修学旅行では急病になり、残念な数日をおくるのだが、そのとき病室で見たオリオン座が忘れられなくなっていた。
その後、早稲田大学の英文科で彼の地の文芸の修養をつみ、ラフカディオ・ハーンに習って日本の心を教えられ、東西の意志を結ぶには「きっと天体をもってこそ答えたい」という使命に燃えていく。それには「日本の星にも歴史がある」ということをなんとしてでも証明しなければならなかった。
24歳のときに見たハレー彗星も目に焼きついた。そのころ抱影青年は山岳に憧れ、南アルプスに夢中になっていたのだが、そこから星は手にとれるようだった。ただ、それらの星々を日本の名前で指さしてみたかった。こうして星の和名の収集が始まったのが大正末年である。
実際の天体も自分で観測することにした。望遠鏡を手に入れた。「ロング・トム」と名付けた。かのスティーヴンソン『宝島』に出てくる海賊愛用の大砲名である。天に打ちこむ気概をもった野尻抱影とロング・トムの名はすぐに日本中の天文ファンに知れわたっていく。
さっそく各地からは「スバルは一升星という、ヒヤデス星団は釣鐘星という」といった報告がよせられてきた。そのことが次々に新村出ふうというか、ラフカディオ・ハーンふうというか、抱影独得の文体で雑誌に発表され、ラジオで紹介されていった。その成果が昭和11年、『天文随筆・日本の星』として研究社から刊行された。本書の前身にあたっている。
野尻抱影の「抱影」の名は、学生時代に島村抱月と演劇研究をしたときに名付けた星名である。抱月はスペイン風邪で急逝し、先妻もスペイン風邪で亡くすのだが、抱影自身は小さな鶴のように長寿を全うし、まさに星に届くほどに星影を抱きつづけた。
英文学から演劇へ、そこから山岳をへて、星辰へ。そういうコースだったけれど、なんであれ、気にいればどんなことにも打ちこんだ。だから研究社の「英語青年」の初代編集長も、「中学生」誌上の「肉眼星の会」の主宰もつとめたし、そのかたわらで透徹した好奇心をもって自然や天体を眺め、漢籍や和綴本を渉猟しまくった。
そのひとつに昭和9年からの、牧野富太郎が植物を、自分は天体を担当して小中学生のための旅行合宿をしつづけた「自然科学列車」という企画もあった。元祖環境体験学習である。ちょっとした物語(たとえば『土星を笑ふ男』)を文学誌に載せて、評判をとったりもした。志賀直哉とは志賀の一家が野尻邸を訪れて北斗七星のミザールを見てからの昵懇の仲で、終生の心の友となっている。抱影と直哉の一対は、意外な連星の一対だ。その抱影の実弟が、これまたぼくが大好きな『鞍馬天狗』の大佛次郎なのである。
本書は春夏秋冬の順に、星の和名だけで天体をほとんど覆っていった一冊だ。まことに爽快、胸がすく。
胸がすくだけではなく、和の星の光条に射られるかのように、眼も眩む。次から次へと繰り出される日本の無数の星言葉には、日本各地の民俗習慣風俗が縦横無尽に織りこまれ、これらを双六の賽の目を読むようになんとなく読んでいるだけで、ふと気がつくと和風の天体模様に自分の全身が染まっているのを感じる。そんなエキゾチックな風情が味わえる。
日本の星の話が、いったいどうしてエキゾチックなのかなどと問うてはいけない。すでに新村出の『南蛮更紗』がそうであったように、北原白秋の故郷柳川の詩がそうであったように、日本の山水や天体は、これをちょっと魔法にかければたちまち異国の風情がペパーミントの香りのごとくたちあらわれてくるものなのだ。異国の風情で悪ければ、天空の情緒といいかえればいいだろう。
たとえば43の星である。舵星である。剣先星である。これらはいずれも北斗七星の異名であるが、43の星は天にサイコロをぱっと振ったら43の目が出て、それが北天に開いて北斗になったというもの、なんともカッコいい。舵星は天空を疾走する船の舵のこと、剣先星は北斗の柄の先の鋭い見立てである。両方ともが、伊予水軍や村上水軍が波濤をこえて自身の船団を北へ進めるときにつかっていた用語であった。
ガニノメという星がある。ふたご座のαとβのことである。「蟹の目」が訛ったもので、愛媛地方でカニをガニというところから派生した。
ヨーロッパではこれをジャイアント・アイという。それが日本ではカニの2つの目になっている。そこで調べていくと、茨城ではカニマナク、熊本ではカニマナコになっていた。さらに調べると、壱岐あたりの漁師たちはカレーンホシという。何のことか最初はわからなかったが、やがて魚のカレイの2つの目であることが判明する。抱影さんは書く、「カニ以上に生な強い見方であろう」。では、各地がそれぞれ海中生物に見立てているのかというと、そういうこともない。播磨ではカドヤボシ、安芸ではニラミボシなのだ。角を曲がれば2つの目。「まことに俗曲のようである」。
抱影さんはこんなことを綴ったうえで、星の和名は庶民たちの天候予想にも関与していたことをあげ、最後に「月のないのに二つ星キラキラ、あすはあなたに雨投げる」という俗謡をそっと出し、これらの星がときに投げ星と愛称されてもいたことをもって、なんだか全部の星を天空に返してしまうのだ。ぼくはこの手順に「星の仁義」を感じてしまった。
ところで抱影さんは星の専門家である以外に、乞食と泥棒の専門家でもあった。天体のジャン・ジュネなのである。なぜ星の専門家が乞食と泥棒に関心をもつのかというと、これはぼくが直接に聞いたことだが、「あなたねえ、天には星でしょ、地には泥棒、人は乞食じゃなくちゃねえ」というのである。
この話になる前は、エマニエル夫人が坐るような大きな籘椅子に腰をかけたまま、ぼくの眼をじっと覗きこみ、右足をトンと踏んでみせ、「あなた、いまあたしが何をしたかわかるかな?」であった。むろんぼくはさっぱり見当もつかず目を白黒させていたのだが、そこで抱影翁が言うには「いまね、あたしの足の下で地球がくるっと回ったんですよ」なのである。
そのとき抱影翁は90歳をこえていた。ただただ茫然としているぼくのことにはおかまいなく、つづいて御託宣をくだすのだった。「あなた、一ヵ月に一度くらいは地球の上に乗って回っているんだということを思い出しなさいね」。「あっ、ついでにもうひとつ、五十歳までは人間じゃないよ。五十歳くらいでちょっと形がついて、まあ六十歳くらいから人間になっていくんですよ」。
それからぼくは、抱影翁の本づくりにとりかかり、『大泥棒紳士館』(工作舎)という一冊を出版することになる。けれどもまもなく抱影さんは亡くなった。1977年10月30日のことである。そのときの遺言がものすごいものだった。「ぼくの骨はね、オリオン座の右端に撒きなさい」。その5日前の10月25日に、稲垣足穂が亡くなった。これらはぼくがフランスとイギリスに行っているときである。
急いで日本に戻ったぼくは必死で「遊」の特別号を「野尻抱影・稲垣足穂追悼号」として構成し、「われらはいま、宇宙の散歩に出かけたところだ」という追悼の辞を表紙に散らした。デザインは羽良多平吉に頼んだ。たった1ヵ月くらいの作業だったが、工作舎のスタッフは誰も寝なかった。毎晩が星集め、ホーエイ彗星集め、タルホ土星集めの日々だった。抱影語録も徹底的に集めた。
たとえば、「真珠色の夜ともなれば、私の想像は、この満目ただ水なる河谷の空に、熱国の星々を、やがて更けてはシリウスの爛光を点じてみたくなる」……「オリオンが初冬の夜、東の地平から一糸乱れぬシステムでせり上がって来た姿は、実に清新で眼を見張らせる」……「北斗七星は金色のクランクで、北極を中心に、夜々天球をぶん廻してゐる」……というふうに。
そこへ最後になって、ご子息の堀内邦彦さんが原稿を寄せてくれた。ぼくは編集担当の田辺澄江と相談して、こんな文句をタイトルにした。「お父さん、今夜は旅立ちには絶好の、星のこぼれる夜ですよ」。