才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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存在と時間

マルティン・ハイデガー

中央公論新社 2003

Martin Heidegger
Sein Und Zeit 1927
[訳]原佑・渡邊二郎

 ごくわかりやすい話を二、三案内して、『存在と時間』という、とてつもなく難解な哲学書をちょっとは柔らかくしておきたいと思う。まずは意外かもしれないが、女の話をしておく。
 ハイデガーの存在学(ontology)は荒っぽくいえば、「存在が存在するとは何か」ということであり、こんなことをどうして考える必要があるかと問うたわけである。
 およそ世界に存在しないものなんてないはずだ。宇宙も杉も、ライオンも病原菌も、人間も書物もテーブルも、存在しているのは当たり前である。そんなことをわざわざ考えに考えて哲学にするには、世の中の存在というものをいったん否定するか、それとは逆に、まるごと許容する以外はなく、存在の発現が存在の終焉に触れあいながら存在しているのだということを、ひたすら自分という存在を賭けて感じる必要がある。これがハイデガー存在学である。
 このことを実感できる身近な例は、むろん虫や星や音楽に夢中になってもいいけれど、時期によっては男と女がどのように感じあえるかということが最もセンシティブである。とくに若いあいだはこのことに勝る存在の感じ方はない。それで女の話なのだ。いや、男の話だと言ってもかまわない。
 
 ハイデガーがその女学生を虜にしたいと切に感じたとき、女学生は十七歳だった。写真を見ればわかるが、絶世の美少女だ。ハンナ・アレントである。
 ハイデガーは一九二三年にフライブルク大学からマールブルク大学に移って哲学の助教授になったばかり、三四歳になっていた。翌年、その教室にアレントが来た。アレントはすぐにハイデガーという男が「思考の王国を統べる隠れた王」であると見抜いた。男に「隠れた王」の素質があるかどうかを見抜くのは、ある種の女性特有の能力だ。また、「中世騎士道物語から抜け出したような意志」があるとも見た。「騎士」かどうかを嗅ぎ分けるのも女性特有のカンだが、これはしばしば見誤る。
 それはともかく、ハイデガーもこの美少女にときめいた。ハイデガーは自制心の強い男ではあったけれど、若いアレントの魅力は飛び抜けすぎていた。ハイデガーはアレントを、アレントはハイデガーを求めあう。不倫である。
 不倫というのは、ハイデガーはエルフリーデという、これもたいへん美しい女性と結婚していたからだ。それでもハイデガーはアレントにぞっこんになった。アレントはこのときのことを、のちに「ただ一人の人への一途な献身」を募らせたと回顧している。その数年後に『存在と時間』の前半部が刊行された。時期からいえば、アレントを貪りながら草稿を書いていたといったほうがいい。

 ハンナ・アレントについては、すでに第三四一夜に『人間の条件』(ちくま学芸文庫)をとりあげておいたので読んでもらいたい。
 そのとき書かなかったことで、ここで最低限に付け加えておくべきは、アレントがユダヤ系であること、ハイデガーと出会う前の十四歳のときに、池田晶子の『14歳からの哲学』(トランスビュー)ではないけれど、はやくもカントやヤスパースを耽読していたこと、十六歳になるとギリシア語で古典作品を読んでいたこと、それから流行の服を着るのが好きなやけに目立った学生だったこと、とくに緑色を好んだので学生のあいだで「みどり」とニックネームされていたことなどである。
 さらに詳しいことを知りたいなら、エリザベス・ヤング゠ブルーエルの大著『ハンナ・アーレント伝』(晶文社)を読まれると、いい。
 もうひとつ付け加えておくと、エルフリーデとハイデガーが結婚するきっかけはドイツ青年運動に共感したせいだった。ドイツ青年運動がどういうものかも第七四九夜に書いておいた。ハイデガーはこのように、自分が苛烈になるときには、そこにつねに異性の存在があったのである。不埒な哲学者にはよくあることだ(哲学者はたいてい不埒である)。
 
 最初に男と女のことを持ち出したけれど、むろんハイデガーが世間体をほったらかしてまで男女の恋愛に入っていったのには、いくつかの背景や言い分がある。
 ハイデガーは病弱だった。ときどき心臓発作がおこる。その発作が二五歳くらいまで何度か間歇的に続いた。生きようとすると、死にかける。ずっと病気なのではなく、間歇的であることが気になる。このことがハイデガーの思索に微妙に影響を与えた。そしてどちらかといえば、「彼岸的な生の価値」のほうに思想的関心が動いていった。
 このことはハイデガーの生い立ちとも少なからぬ関係がある。ハイデガーは南ドイツの田園地帯(バーデン州)のカトリック教会の堂守の子である。かなり質素な生活だったようだが、信仰の日々が支えた。
 生まれた時代はパリ博でエッフェル塔が建った一八八九年で、これまで千夜千冊にとりあげてきた人物でいえば、ハッブル、トインビー、ヴィトゲンシュタイン、コクトーとまったくの同い歳になる。これはいわゆるベルエポック世代にあたる。この世代は、ひとしなみに第一次世界大戦で青年期の蹉跌を受けた。兵士だけで九〇〇万人以上が死んだ。ベルエポックはヘルエポックになったのだ。
 ハイデガーのばあいはそこに心臓疾患が加わった。これで、聖職の道が断たれた。二十歳でイエズス会の修道院に入るのだが、疾患のせいでそこを出る。ドイツは連合国軍との戦争の渦中にある。ハイデガーはしだいに「死を通じて生へ」(per mortem ad vitam)という思考に傾いていく。彼岸から此岸への、此岸から彼岸への相互転戦だ。ハイデガーは修道院からフライブルク大学に転じた。神学は哲学に変わった。

 死をつきつめて考えるということは、存在の究極に思考のカーソルを致すということである。しかしながら、生きたまま存在の究極としての死を考えるというのはいささか妙なことで(生と死を天秤にかけている)、この思考には何か新しい回路が必要だった。
 それをハイデガーは、当初は「擬死化の技法」が必要なのかという見方で考えてみたのだが、どうもそれだけではすみそうもない。この時期、すでにニーチェによって「神の死」が宣告されていた。ドイツの知識人はみんなそのことが気になっていた。けれども神の存在に代わるものなんて、あるのだろうか。「超人」などありうるのだろうか。どうみても人間しか残らない。
 そこでハイデガーは「人間という存在」を考える。ただしそれまでのような大局的な目だけでは、人間は掴めない。むしろ、いまだやってこない「事実ではない死」よりも、きっといまある「生の事実」という〝裸〟の現実のほうが重要なのではないか。
 もっとも、その「生の事実」だってふだんはぼうっとしたままになっているか(生の朦朧性)、あるいはそこに埋没した耽落(Verfallen)のままにある。だからそういう耽落の中で「生の存在」を感じるには、死や否定や放下や負といった回路をいったん媒介にしたほうが感じやすいにちがいない。
 このように見つめなおした「人間という存在」こそ、新たにハイデガーがとりくむべき存在問題だった。この回路をへて残った存在というものが、有名な「現存在」(Dasein)という新概念である。
 
 ハイデガーは「存在と死」から、「存在と生」という方向へ進んだ。その時期にハンナ・アレントがかかわったのだ。
 ぼくは、ハイデガーがアレントと恋愛関係になったことと『存在と時間』が関係ありそうな書きっぷりをしたかもしれないが、まさにそのとおりなのだ。おそらく深い関係がある。互いに濡れながら、互いに哲学したといってよい。そのことを証明する気はさらさらないが、そんなことはすぐに見当がつくことだ。最近やっと刊行された二人の書簡集(ウルズラ・ルッツ編集)がそれを証している。
 アレントが気にくわないことも、あった。ハイデガーはのちにナチズムを称揚する態度を示して、たとえば一九三三年のフライブルク大学の総長演説では、国家社会主義的な国家の行方と教育の方針を重ねたりした。ハイデガーが「わが生涯最大の過誤」と苦痛に満ちて反省したことだ。一九四一年からアメリカに亡命していたアレントは、そういう師を非難した。アレントだけではなく、ハイデガーはマールブルク大学の次に母校のフライブルク大学の哲学教授になるのだが、そこで最初の助手を務めたハーバート・マルクーゼも師のナチズム参画を非難した。マルクーゼについては第三〇二夜に『エロス的文明』(紀伊國屋書店)を紹介しておいた。
 ハイデガーがいっときナチズムに共感を示したことについては、このところずいぶん問題になり、それに関する研究もだいぶん出揃ってきた。ヴィクトル・ファリアスの『ハイデガーとナチズム』(名古屋大学出版会)はそういう一冊だ。帯に「逸脱か、本質か」とある。ただし、このような出来事は、むろん『存在と時間』を書いたのちのことになる。『存在と時間』の前半部を書きおえてから、ドイツは大戦敗北の屈辱と悲劇を乗り越えて、ヒトラーによる異胎に向かっていったのだ。
 
 これで、初期のハイデガーをめぐる人物をあらかた紹介したことになるのだが、もう一人、重要な影響を与えた人物がいる。エトムント・フッサールだ。わかりやすくするため、エピソディックに紹介しておく。
 神学から哲学に移動したハイデガーは、大学に入ってまもなくフッサールの『論理学研究』(みすず書房・全四冊)や『算術の哲学』(モナス)を図書館から借り出して読み耽っている。そのフッサール当人がフライブルク大学にゲッティンゲンから転任してやってきた。フッサールはすでにゲッティンゲン時代に「現象学的還元」という方法を発見していて、これによって、われわれのふだんの意識においてなんとなく作用してしまっている世界との信憑関係を遮断して、超越論的な意識をあからさまに取り出すことができるというようなことを提案していた。これが『イデーン』Ⅰという成果である。
 着任後のフッサールはハイデガーを気にいった。当時のフッサールはかなり愛国的な人物で、夫人が反戦を主張する独立社会民主党(その左派がいわゆるスパルタクス団、のちのドイツ共産党)を支持していて、のべつ夫婦喧嘩をするようなところがあった。次男が戦死していて、その悲痛との対峙もかかわっていた。一方、ハイデガーは第一次世界大戦のため戦時勤務と国民軍観測隊に編入されたので、師弟の研究活動はいったん中断し、その後、復員してからフッサールの第一講座の助手となった。
 ここでハイデガーは現象学の方法をあらためて学び、「概念構成以前」とか「体系構成以前」という方法をおもいつく。「現在・いま・ここに・いる」という立場をもって、現象学をやろうとした。これはさきほど書いた「生の事実性」にもとづく現象学を試みるということにあたっている。のちにアメリカン・ヒッピーやニューエイジが好んだ“be, here, now”とそれほど変わりないが。
 ただハイデガーはこういう方法による現象学的思索をあえて「根源学」(Urwissenschaft)とみなして、根源的な体験をすることを「原体験」とか「環境体験」と名付けた。根源的な原体験といったって、これだけでは何のことかわかりにくいだろうが、ハイデガーが現象学の定義として使った次の説明から察すれば、多少はわかりやすい。

 ハイデガーはフッサールが教えた現象学を、「みずから示すものを、それ自身でみずからが示すとおりに、それ自身のほうから見えるようにすること」というふうに捉えた。「それ」を最低限の方法で示すことで、かえって「それ」が「それ」自身を示すようにすること、このことを重視した。実質的な叙述には頼らずに、暗示的にほのめかすといってもよい。それがかえって根源的な体験を、それを示した者に維持させるだろうと考えた。
 しかし哲学は、ほのめかしを文芸するわけではないから、ここに最低限の概念をポンと入れこむ必要があった。たとえば「現存在」とか「世界内存在」というふうに。
 こういう最小限の概念投入を、ハイデガーはあまりいい言葉ではないが、「形式的指標」(die formale Anzeige)の投入だとみた。指標が必要だと感じたのだ。こうしてポンと投入された「それ」はそれ自身として示されただけなので、あとは「それ」としての開示をそれがしていくしかない。なんだか変な方法に思われるかもしれないが、これがハイデガーの異能による発明だったのである。
 このやりかたはぼくも以前から大好きな方法で、ぼくのばあいは、たとえば「遊星的失望」とか「最も過激なフラジリティ」とか「分母の消息」とか「負の山水」といった言葉を投入してきた。こういう言葉(用語)は、それ自体としては意味が掴めないようになっていて、にもかかわらず、その言葉がひとつの文脈や何かの場面に入ったとたんに劇的に動き出すようになっている。それを取り出すには概念や用語だけではなく、文脈や場面ごと取り出すしかないようにするわけである。ハイデガーは、この投入法に気がついたのだ。
 ハイデガーにとってはこのような方法は、従来は健全だとおもわれてきた二分法による思考(昼と夜、善と悪、男と女、国家と個人など)を一挙に宙づりにしてそこから脱出して新たな思考に入ることを、つまりは根源に入ることを意味していた。
 あとでも少しふれるが、これはどこか「不在による現前」という方法の可能性を開いたものだった。世界の現象や人間の営みを考えていると、ふっと思いつくことがあるものだが、その思いついたことについての対象や概念がコトバになっていないことは、よくある。そのためいつのまにか「それ」を忘れてしまう。けれども、「それ」を「不在者」あるいは「不在概念」として浮上させることも可能なのである。「それ」が根源にあたるものだったということも、ありうる。ハイデガーの投入法はそういう「不在による現前」だった。「それ」は穿たれることによって、かえって燦然と輝いてくる可能性をもっていた。編集工学の言葉でいえば「負の方法」の自覚ということになる。

 さて、こんなふうに「存在の現象学」に熱心になってきたハイデガーは、フッサールの現象学からはしだいにはずれていったのである。師と弟子は、エンサイクロペディア・ブリタニカの「現象学」の項目執筆を前に、意見の対立がしだいに目立つようになった。それでもまだ、フッサールの『内的時間意識の現象学』はハイデガーの編集によるものだった。
 かくてハイデガーはマールブルク大学の哲学教授に着任し、そこで女学生ハンナ・アレントにぞっこんになる。そういう順番だ。このあとフライブルク大学に戻るまでのあいだが、『存在と時間』を苛烈に執筆した時期になった。ということで、やっと『存在と時間』の説明に入っていくことにする。
 
 八十歳になったハイデガーが若き日々の『存在と時間』をふりかえって、ポツリと語った説明がある。「あれは、思考の場所の革命だった」というものだ。
 ヨーロッパの近代哲学は思考の場所を意識のなかにもちこむことによって成立した。デカルトのコギト(意識主体)とはそういうことだ。ハイデガーはこれを嫌って、意識が慣れすぎた場所から、ふいに「べつ」や「ほか」に移るための方法を開示した。その瞬間移動の中間に〝裸の場所〟があり、そこにポツンとおかれた存在の〝裸の姿〟がいわゆる「現存在」(存在を理解するための特異な存在者)なのである。
 この現存在はそのようにポツンとおかれることによって、自身が次の開示を遂げる可能性をもっている。そのような現存在なら、当初から「世界内存在」(In-der-Welt-sein)になりうる。こういう見方に立ったことが「思考の場所の革命」だったのだ。
 この稿のはじめに、「宇宙も杉も、ライオンも病原菌も、人間も書物もテーブルも、存在しているのは当たり前である。そんなことをわざわざ考えに考えて哲学にするには、世の中の存在というものをいったん否定するか、それとは逆に、まるごと許容する以外はなく、存在の発現が存在の終焉に触れあいながら存在しているのだということを、ひたすら自分という存在を賭けて感じる必要がある」と、書いた。この「存在を賭けて感じる」ための媒介的な拠点が、現存在というギリギリに剥いだ人間の姿である。
 ハイデガーがどんなふうに「人間という存在」に向かったのか、これで一応の見当がついたとして、これで話は終わらない。世の中の存在としてもうひとつ素材にあげなくてはならないことがある。それは、宇宙や杉や人間や病原菌やテーブルが存在するとしても、では、時間はどうなのか。思い出や音楽は存在するのか。それらは存在といえるのか。恋や食欲や関係は存在するといえるのか、そういう問題だ。
 これはなかなかの難問で、ハイデガーをおおいに悩ませた。『存在と時間』の悩ましさには、このあたりをなんとか切り抜けようとするもがきが滲み出ている。しかし、ハイデガーはここでも驚くべき執念と異能をもってこれを踏破した。
 
 ハイデガーは『存在と時間』を書く前の一時期、すなわちアレントと密(蜜?)になっていたころ、『仮面論』や『根拠とは何か』を書いて、そこで「世界というものは日常的な現存在が演じている演劇のようなものだ」と指摘していた。
 これを読めば見当がつくように、ハイデガーがいう「世界」は世界劇場なのである。その舞台はそれを知ったときにはすでになんらかの演劇が進んでいるというような、そういう舞台世界だ。われわれは自分に気がつくと、そこに自分がいることを感じる。ということは、われわれは当初から共世界的(mitweltilich)で、存在そのものが世界内存在で、ようするに、はなっから世界制作的だということになるのではないか。
 だいたいそんなふうに考えて、ハイデガーはすでに存在は世界(世界劇場のような世界)に投企(Entwurf)されているとみなした。ただし、この投企に気がつかないばあいは、これは埋没であり、耽落だ。ちなみに、このフェアファーレンというドイツ語はハイデガーがけっこう気にいっていた埋没概念である。
 ともかくも、このようにすべてを世界内存在としてみれば、ここに主体と客体というような二分法をもちこむのは、およそムダである。それならまだしも世界と人間の関係を、スケーネー(場面)とドラーマ(活動)とペルソナ(役柄)に分けて見たほうがいい。誰だって、どんな時だって、このいずれかの渦中にいるはずだ。そこで問題は、このもはや〝降りられない舞台〟で、いったんは耽落した自身がいよいよ何にめざめていくかということになる。
 
 われわれの世界劇場ふうの世界においては、われわれはたいてい「役柄の自己」をもっている(たとえば氏名をもっている、学校の生徒だ、居住の住所がある、肩書きがついている)。それゆえ、この役柄を耽落から出て捨てるにあたっては、出たあとのそこに待ち構えている「本来の自己」を覚悟しておかなくてはならない。そうでないと自己の本来性というものが、急に剥き出しに露呈してくることもある。そいつは面倒なものかもしれない。
 つまりは耽落から一歩めざめれば、そこは役柄がはがれて「裸の存在」が見え隠れする。その、あからさまな自分に向きあうことになる。このことを知っていなければならない。
 問題は、この自分の奥にある「裸の自己」がどの程度のものかということだ。インチキかもしれないし、見るに堪えられないかもしれない。ハイデガーは、この裸の自己をそれなりに覚悟しておくことを、存在学(存在論)としたわけである。存在学的に見ることだとした。そのためには最低でも、二つのことが必要になると考えた。
 ひとつには、その本来自己に先立つような思想(立場)をもつことだ。突然に「裸の自己」を見ようとしたって、うまくいくわけがない。がっかりするか、動物的な本能に負けていくか。そのどちらかだ。そこでハイデガーは「自身に先立つこと」(Sich-vorweg)を第一にあげた。あらかじめそれに先立つようにすることだ。
 これはどういう意味かというと、「それ」としての本来自己は、役柄自己からすると「外」にあるものなのである。「ほか」や「べつ」なのだ。だから、それをあらかじめ凝視していなければならない。そして、その「外」へ脱自していくことを惧れないようにしなくてはならない。
 もうひとつには、そのようにそれを想定できるのなら、その本来自己と役柄自己とのあいだで自由に「自身の取り戻し」(wiederholen)をすることを勧めた。これは、役柄に惑わされない存在を自覚できるかどうかということにあたっている。

 ざっとこんな順番でハイデガーは、世界内存在における自己の二重性ともいうべきを、すばやく往復するような存在学を提示したわけである。
 さあ、そうなると、この世界劇場での時間というものは、演技上の時間を本来の自己の時間が刻一刻という単位で、集約させているということになる。また、その逆もおこっているということになる。その入れ替わりは、まことに速い。この存在のすばやく入れ替わる二重性に関与している時間こそが、ハイデガーの時間論の中核にある「刻一刻性」(Jeweiligkeit)というもの、あるいは「刻時性」(Zeitlichkeit)というものである。
 『存在と時間』というタイトルの「時間」にはこのような特色があった。ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と消滅を同時化する時間なのである。
 ところで、このZeitlichkeit(刻時性)の“Zeitlich”というドイツ語には、そもそもが「はかない」とか「無常の」という意味をもっているということには、もうすこし注目が集まっていい。ぼくは『花鳥風月の科学』(淡交社→中公文庫)では、この“Zeitlich”を、万葉の歌から採って「まにまに」としたものだ。
 
 およその見取り図が見えたとおもうのだが、これらをまとめていえば、ハイデガーの存在学では、現前が不在であり、隠れることが現れることなのである。存在とは、このような現出の様式をもっているということなのだ。ということは、存在には、究極の拠り所なんてものはないのだということでもある。存在の起源や存在の理由をもちだそうにも、もちだせない。それが存在である。
 人間の存在というものは、なんと変なものだろうか。しかし、これこそは「存在学の無底性」という、まことに根底的な考え方なのだ。また、無底の存在学なのである。
 存在には底がない? そうなのである。存在は底なしなのだ。無底なのだ。いいかえれば、存在が底なのである。これは『存在と時間』のひとつの結論ともいうべき提唱である。ハイデガーはこれをもって「存在の途方もない不可解」とも言っている。
 しかし、結論が「不可解」だなんて、それで哲学なのか。そういう気分にもなってくるだろう。ここはむずかしく考える必要はない。たとえばペットボトルには底がある。その底で「生茶」や「十六茶」が支えられている。けれども、そのペットボトルの底自体には、底はない。バスの終点はたしかに終点である。けれども、その終点のバスストップそのものには、終点がない。人間存在も、そのように底がない。それこそ、無底という底自体が発現した存在なのである。
 存在とはそういうものだ。そのような存在の赤裸々の事実を知ることが、役柄を捨てても平ちゃらに本来の存在に向き合える方法なのである。
 これをオントロギッシュ(存在論的)な方法という。「現存在」という人間の特異な存在性にかかわって人間存在を考えることをいう。これに対してモノを取りのけると、そのモノの行方ばかりが気になるような思考を、オンティッシュ(存在的)な考え方という。オンティッシュな見方には存在の開示という根本動機が欠けている。ハイデガーはあくまでオントロギッシュであろうとし、これを「存在関与構造」(zu-Sein)ともよんだ。

 ハイデガーの存在学は喚起哲学なのである。投げかけ、なのだ。どこで喚起するかといえば、「近さ」(Nähe)で喚起する。また「あたり」(Gegend)で喚起する。
 喚起してどうするのか。そこへ「放下」(Gelassenheit)すればいいと言う。この「近さ」「あたり」「放下」については、ここでは説明を省略するが、「ハイデッガー選集」第十五巻に『放下』(理想社)があり、また、短文ではあるが、『遊学』(中公文庫)に「無の存在学」を通したハイデガーの一端、すなわち関心の連続体としての存在にかかわる「差異の哲学」がどういうものであるかをスケッチしておいたので、それらを読まれたい。
 そこではぼくは、大事なのはAとBの関係にあるのではなく、関係ABというものこそが存在の本質だと書いた。文末にリルケの次の言葉を引いておいたのも、参考にしてほしい。「われわれは、彼女よりも彼女の持ち物のほうから存在の本意を知ることがある」というやつだ。
 
 大急ぎで『存在と時間』の近道(猫道?)のようなところを走ってみた。むろんこれだけでは、ハイデガー存在学の部分要約にもなっていない。ハイデガーがヘルダーリンの詩を偏愛していることもふれておきたかったのだが、割愛した。とくにハイデガーの後半期における思索について、何もふれはしなかった。
 そこには、世界の組み立ての構造についての想定があって、ハイデガーが世界ニヒリズムと根本対決を迫っていく日々がある。必ずしも器用でなかったハイデガーが不器用にこの対決を試みる姿は、ぼくにはどこか痛ましい。ヘルダーリンは熟知していても、清元や新内に「東洋の無」を窺い知ることができなかったハイデガーは、どこか根本的な寂寞の微笑から遠ざけられていたようにも見えるのだ。
 そういうことはあるのだが、またナチズムに触れて感染症に罹ったハイデガーもいたのだが、ぼくはハンナ・アレントと燃えつつ綴った『存在と時間』のハイデガーの投企と放下にこそ、あいかわらず関心を寄せている。また、そのようなハイデガーを、ハンス゠ゲオルク・ガダマーやエマニュエル・レヴィナスが何度も描きなおそうとしつづけたことに、いまは時間をさいて考えたくなっている。
 マルティン・ハイデガー。黒森の哲人。いまだその本懐がとげられない存在学の人。ぼくとしては、もう少々深入りしたかったところだが、この先の話は、明日の夜の意想外の一人の日本人に託すことにする(追記:これは泉鏡花のことでした)。