才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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文明の衝突

サミュエル・ハンチントン

集英社 1998

Samuel P.Huntington
The Order 1996
[訳]鈴木主税

 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(三笠書房)はつまらなかった。ソ連解体後の1992年に書籍になったものだが、これ以降、つまり21世紀は民主主義と自由経済の体制がずっと続くだろうから、歴史は終わったというのだ。ヘーゲルの「認知を求める闘争」にこだわりすぎた判定だった。
 そういうイデオロギーで政治体制を見る歴史家の考察とくらべるのも何だが、本書は戦略家がどういう粗雑な見方をするのかという意味では、読ませた。大袈裟なパラダイム幻想だという者もいれば、9・11事件はまさにハンチントンの予告したとおりの兆候の始まりなのではないかという者もいた。ハンチントンの予告とは、「西洋文明」と「イスラム・儒教コネクション」がやがて必ず衝突するだろうというものだ。

 ハンチントンは冷戦時代の戦略理論家で、ハーバード大学ジョン・オリン戦略研究所の所長である。フクヤマもいっとき門下にいた。そのハンチントンの「文明の衝突?」という論文が「フォーリン・アフェアーズ」に掲載されたのは、1993年の夏だった。すぐに論争が噴き出て、日本でもさっそく「中央公論」が特集を組んでいた。蓮實重彦と山内昌之は東大でいちはやく『文明の衝突か、共存か』というシンポジウムを開いた。これはUP選書として本にもなった。
 賛否両論のなか、ハンチントンが論文を膨らませた。それが本書である。膨らませてはあるが、とくに深まってはいない。その後、9・11同時多発テロがおこったので、ハンチントンの予想が的中したという見方も広まった。一方、はたして21世紀において文明が衝突するのか、国家ではなく2つ以上の文明が衝突するのか、まして儒教とイスラムが連合する文明体を装うのかという議論もいろいろ続いている。
 
 ハンチントンが“衝突”という用語をつかうから言うのだが、それをいうなら文明が衝突しなかったためしはない。そもそもホメーロスの『オデュッセイアー』が文明の衝突を扱っていたのだし、ヘロドトスの『歴史』もペルシア戦争を通した東方イラン文明とギリシア文明の衝突を主題にしていた。大航海時代がおわったあとの、東インド会社以降の歴史はつねに文明の衝突の連打だった。
 もっとも多くのばあいは文明は衝突したのではなく、一方の文明が他方の文明を支配下におきたかったというだけだったとも見られる。アヘン戦争やコソボ紛争は衝突ではなく侵略であり、勝手な介入だった。戦争の多くがそういうものである。
 侵略や介入を国家の横暴とか失敗とかとは呼ばないで、あえて「文明の衝突」と見ようというのは、よほどの21世紀戦争、すなわち第三次世界大戦のようなものか文明戦争を想定するからであろうけれど、その予想にばかり焦点をもっていくと、文明観そのものが歪む。さまざまなエスニック・ステートとナショナル・ステートの摩擦や重合が看過されるし、軍事力や破壊力に目が奪われて、経済力や言語力や宗教力が看過される。なんといっても文化を軽視することになる。

 文明(civilization)という言葉は、ラテン語の“civitas”や“civilzatio”に由来する。もともとは都市や国家を意味していた。都市化や国家化がおこることがシヴィリゼーションなのである。
 何が都市化や国家化を促すかというと、平均的には人口の集中、食糧の充当、階級と職能の分化、交易力の拡大、公共建造物の定着、言語的記録力の発達、支配的な表現様式の出現などが並ぶのだが、これらは定番の文明セットになるわけではない。ミケーネ文明やマヤ文明や日本文明は国際的交易力が低かったし、中央アジア文明やアステカ文明では文字が未発達で言語記録力は乏しい。
 文明を文明として議論するようになったのも、おそらくカント以降のことではないかとおもう。カントは「教養を育くむ」(caltiver)や「文明化する」(civiliser)や「道徳化する」(moraliser)といった動詞をあまり区別しないでつかった。やがてフランソワ・ギゾーやヘンリー・バックルが「ヨーロッパ文明」とか「イギリス文明」というカテゴリーで歴史記述をするようになり、世界史の最も太い流れを「文明の盛衰」の束として描くようになった。
 ただそうした文明観はヨーロッパ中心のものだった。しかし、その誇り高きヨーロッパ文明が第一次世界大戦で世界中を戦争に巻き込んだことを、シュペングラーが『西洋の没落』(五月書房)として書き上げると、トインビーは『歴史の研究』(刊行会)を通して諸文明の自律性や並進性に注目し、これをOSにして文明の多様性や生態性を論じていった。ヨーロッパ以外の諸文明が同時比較されるようになったのだ。そのころの梅棹忠夫やレイモン・アロンの見方にも、けっこう斬新な文明観が逬っていた。
 ハンチントンはシュペングラーにもトインビーにも影響をうけていたはずなのだが、いつしか「勝ちのこり文明間の衝突」にばかり関心を移したようだ。そのとき文明観はさることながら、文化観が欠けてしまったらしい。

 もう一度いうと、文明とはその文明圏で技術による物的な所産や生産手段が発達して都市化が平均的に進むことをいう。いまではそこに情報ネットワークがゆきわたることを加えておいたほうがいいだろう。
 一方、文化はこのような文明の特性を一部にしかもっていない。そのかわり、どんな文化もすこぶる多様であり、その共同体は複雑な心情をともない、習慣と生活を営む顔や体をもっている。文化には嬉しい文化もあるし、気にいらない文化もある。そういう文化の半径をすぼめていけば、川の流域や鎮守の森の周辺や一家族の家系にまで文化を認めることができる。そこにはジョゼフ・ニーダムが言うような「文明の液滴」もしぶく。だからこそ文化は一様には語れない。一国の文化のなかでも文化は多様になっている。たとえば連歌と茶の湯の文化距離は近いが、雅楽と歌舞伎の文化は距離があいているというふうに。
 文明というカテゴリーは、そういう文化を一様に覆いつくす不細工な傘なのである。バスクやカタロニアがどんな文化で濃淡をつけようとも、それが政治経済的な損得勘定にのらないかぎり、文明はバスクとカタロニアの差異など無視してかかる。それゆえ、文明は一個の中心をもった半径と質量が強大になっていくと、他の文明とたいてい“衝突”せざるをえないのだが、文化は最初から小さな多様性をもって芽生えていったのだから、そもそもが小さな蕾を前提にしてできあがっていく。文化は発生を歓び、文明は結果を恐れるものなのだ。

 ハンチントンは文明と文化の関係を見なかった。文化を軽視した。しかし2つは切り離せない。ブローデルは「文明は文化の領域性である」とみなしたし、ウォーラーステインは「文明は世界観・生活習慣・組織・文化の特定の連鎖である」とみなした。
 文明と文化を分けたがらないフクヤマはそういう歴史の見方はおかしいと言って、人間には理性と欲望のほかに「他者に認められたい願望」があって、それが次々に高じて「認知をもとめる闘争や戦争」になると見た。これは文明や文化を心理的に見すぎていた。そこでノルベルト・エリアスなどは『文明化の過程』(法政大学出版局)で、そうした生得的な衝動を克服するのが文明なんだと、まったく逆のことを書いた。
 もし文明と文化の説明をしろというふうに各民族各国各地域のその手の才能の持ち主に問うてみれば、かなり各種各様の答えがかえってくるはずである。あるドイツ人なら「文明は量だが、文化は質である」と答えるかもしれないし、あるアフリカ人なら「元からあるものが文化、外からやってきたものが文明」と答えるかもしれない。文明も文化も言葉の文明であって言葉の文化でもあるからだ。イヌイットの長老はいくつものトナカイ語に詳しいので、「トナカイしか知らない問題だ」と笑うだろう。
 どちらにせよ、しょせん文明の将来を議論したがるのは、古代文明に比する文明をその後に累々とつくって、近現代までそれを強大に発展させてきたと自負する者たちなのである。これは負け組の遠吠えではなく、勝ち組の遠吠えだ。次のような例でそういう学者たちをわからせるのは無理だろうが、仮に柳田國男や折口信夫に同じ質問をしてみれば、二人ともが「関心があるのは文化だけです」と答え、「なぜ文明が気になるんですか」と逆に問うたろう。エドワード・サイードやノーム・チョムスキーも同じような反応をしたにちがいない。
 
 いまや、多くの日本人も文化よりも文明が気になるようになってしまっている。一週間ほど前、ある会合で若手のKという将来を嘱望されている自民党の政治家が、日本に必要なのは天皇制と日本語で、それを守るための施策をしなければいけないという発言をしていたのだが、これなどは文明にあらかじめ境界線を作っておいて、そこで日本という文化アイデンティティが守れるようにしたいという、ぼくなどにはとうてい考えられない発想だった。多様な文化は流れのままに放っておいても、廃れるものは廃れ、残るものは残るのだから大丈夫という楽観なのである。
 いつのまに日本人は文明論者になったのか。福澤諭吉の時代をべつにして、文明論は苦手だったはずである。山内昌之はハンチントンの『文明の衝突』を読んだ日本人が不愉快になるのは、日本が孤立を強いられていくような展望が書かれているからだと言っていた。他の文明の優位を説かれても気にしないくせに、日本文明の小ささや影響力の少なさを指摘されると気分を害するのだという。そうだろうか。そんな日本人すらいまは少なくなっているのではないかとぼくにはおもえる。
 実際にも、ハンチントンが書きたかったことは日本の孤立のことなどではなかった。日本については、日本が米中対立のなかでどっちつかずの迷いを見せて孤立するだろうとは書いてはいるが、そういうことはハンチントンが新たなシナリオを提案しようというときの新たなプロットには入ってこない。ハンチントンはどのように分析しても、このさき西洋(ヨーロッパとアメリカ)の相対的なパワーは非西洋圏のパワーに対してしだいに低下していくだろうから、西洋文明の保存対策に着手すべきだと言ったのだ。
 日本が同じパラダイムに乗っかって、このような見方に腹を立てたところで、うまい対策など打てるわけがない。このパラダイムそのものがすでに対策含みなのである。
 
 ハンチントンの対策がどういうものかというと、近々の文明の衝突にそなえて欧米諸国は政治・経済・軍事面での統合を拡大しなさい、他の文明の国家からつけこまれないようにしなさい、EUに中央の諸国を早く巻きこみなさい、ラテンアメリカの西洋化をすみやかに促していくつかの同盟関係を結んでおきなさいというものだ。
 その一方で、イスラム諸国と儒教文明圏の通常戦力と有事戦力の両方ともを抑制し、日本が中国と接近するのを極力遅らせなさいというのだ。とくにアメリカは他の文明の問題に絶対に介入してはいけない。
 これがハンチントンのパラダイムにあらかじめ含まれたアジェンダである。これはこれで、ハンチントンなりの良心的な老婆心なのだ。もっともこの進言は、1993年以降のブッシュ父子やクリントンにはまったく聞こえなかった。ハンチントンから見ても、アメリカこそが「文明の衝突」の危険にむかってまっしぐらになりかねない国のはずなのだ。しかしハンチントンの提案は、いずれ新たな大統領が採択すればいいわけで、それなら本書は根っからの“アメリカ憂国の書”だったということである。

 ハンチントンがこのような進言をするのは、そのうち西洋と非西洋とが大分断をおこし、西洋文明とイスラム・儒教コネクション文明とが衝突するだろうと予想したからだった。
 この構図の前提には、近未来の世界は次のような八つの文明の時代を迎えるだろうという予想がある。西洋文明(欧米)、儒教文明(中華文明)、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥ文明、スラブ文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の8つである。
 この予想に関しては、これまで東アジアの片隅で扱われていた経済国日本が一個の独立した日本文明に“昇格”したことで、一部が沸いた。従来は日本は韓国などと一緒くたか、大きくは漢字文化圏としての中国文明の一隅におかれてきたからだ。しかし、予想分類が当たっているかどうかを議論してもあまり益はない。こういう分類は欧米社会が自身の未来に極端な不安をもつときにたいていあらわれるものなのだ。
 ちなみに、この手の分類がやたらに話題になるようになったのは、ヨーロッパを敵味方に分けた第一次世界大戦で衝撃をうけたシュペングラーが、歴史をさかのぼって世界史上の文明圏を、エジプト、バビロニア、インド、中国、ギリシア・ローマ、アラビア、西洋、メキシコの八つに分類し、トインビーがこれを26にふやしてそのうち16がすでに滅亡したと整理したうえで、最後にのこったのが西欧キリスト教文明、東欧・ビザンチン文明、イスラム文明、ヒンドゥ文明、日本文明の五つだろうと予測したことに始まっていた。ハンチントンはこれを踏襲しただけだともいえる。
 こういう分類はあまり有効とはおもえない。文明の構図の予想が役に立たないというのではなく、ハンチントンはまったくふれていないけれど、資本主義と自由市場を世界大にしてしまったことが、すでに文明の構図をまたいでしまったのである。あえてトインビーに懐かしい敬意を払っていうのなら、世界は「神」と「資本」と「散在体」だけが問題なのだ。それゆえそういう問題を除いて議論するのなら(あとは実践的なプレゼンスの割り振りしかのこらないのだが)、本書はきわめて現実的な提案をした一書になっていた。
 
 ところで、文明が衝突するのかどうかをべつとして、これを戦争と政治とは何かという問題におきかえれば、まだまだ議論しなければいけないことはヤマほどにある。
 そもそも戦争論と政治論がまったく成立しがたくなっているということが、なさけない体たらくなのである。クラウゼヴィッツやハンチントンのような戦略家は、最初から戦争にどのように勝つかを前提にしたから戦争を政治の継続というふうに見るだろうが、たとえばドイツのカール・シュミットは『政治的なものの概念』(未来社)で、政治は誰が敵かを決定し、戦争はその決定のもとに独自の規則を創案するだけだと考えた。またたとえばウォーラーステインは「余剰が集中する中核地域」が国家機構と政治機構をつくりあげるのだから、戦争も資本主義もそこに生ずると見た。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは『千のプラトー』(河出文庫)で、むしろ暴力装置は国家の形成を妨げることがありうるのだから、国家と戦争と資本はもともと異質なものであるはずだという見方をとった。
 これらの議論の奥では、ジョルジュ・ソレルの『暴力論』(岩波文庫)やヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』(岩波文庫)が目を光らせている。暴力の正体を問わない文明論や戦争論は21世紀には通用しないはずなのだ。加うるに、最近の戦争と政治の関係をさらに複雑で難解にさせているのは「抑止力」が戦争の裏の代名詞になったことと、「テロ」が戦争の対抗詞になったことである。
 抑止力の問題が浮上したのは米ソの冷戦以来のこと、それからは世界中が「戦争を抑止するための戦力」のための戦争ばかりするようになったのだが、このときの議論とキューバ危機やベトナム戦争のときのアメリカのトラウマが、結局のところはまだ世界を覆っているわけなのだ。
 
 テロの問題は、ハンチントンが本書を書いたときには思いもよらなかったであろう。自爆テロがこれほど横行するとは、イスラム過激派以外のだれにも予想のつかないことだった。それまでは、ハンチントンのみならず多くの歴史家や戦略家はなんであれ国家力や経済力を問題にしていればよかったのだが、それが自爆テロでは文明と文明が衝突したのではなく、文明と個人が刺し違えることになったのだ。
 しかしテロリズムなんて歴史の最初から始まっていたし、フランスの歴史ジャーナリストが書いて話題をまいたローラン・ディスポの『テロル機械』(現代思潮新社)は、フランス革命こそが近代テロの起源だというふうに見たものだ。だからテロの歴史を言い出すと話は広がりすぎるのだが、少なくとも9・11以降のイスラム過激派テロをどう見るかということにかぎっても、テロと戦争と政治の関係は欧米側ではいまのところまったく思想にも戦略にもできないでいる。
 テロは政治でも戦争でもない、わけではない。テロもゲリラも政治であって戦争なのである。それを封印するために戦争をしようというのは通らない。
 戦争にはまがりなりにもグローバル・ルールというものがある。テロにはいっさいの法がない。そこでとりあえずイスラム過激派のテロを「信仰」とみなし、そこにイスラムと欧米の対立を別途に代入して読もうというのが、いまのところハンチントン以降の苦しまぎれの読み方になっている。
 この見方が、欧米がつくったパラダイムのあいかわらずの押し売りであることは見え透いている。宮田律が『イスラム世界と欧米の衝突』(NHKブックス)で証拠を詳しくあげて書いていたけれど、中東に戦争を輸出したのはどう見てもアメリカだ。それを自爆テロが頻発してきたので、また戦争の正当性を個人の自爆のサイズにしたくないので、文明というサイズで言いくるめていると見なされても仕方がない。本当は戦争とテロのあいだのサイズ、すなわち「文化の衝突」こそが問題になるべきなのである。
 
 さて、このようなことを綴ってきて、ちょっと心が傷むままに思い呼びさまされることが出てきた。さきごろ亡くなったスーザン・ソンタグが生前に「ニューヨーカー」に寄せた9・11についてのコメントがひどい晒しものになったという一件だ。
 ソンタグのコメントは1000語たらずのものであるのだが、それが深夜テレビのコメンテーターによって強調され歪曲され、「アメリカ人は臆病だ、テロリストは体ごとビルにぶつかっていったのに、アメリカ軍は遠くからミサイルを撃つだけだ」というふうに伝わっていったのである。これで一斉攻撃された。売国奴呼ばわりされた。ソンタグは大いに呆れた。
 これは、ブッシュがテロリストを「臆病者」呼ばわりしたことをソンタグが皮肉った文章を、メディアがアメリカ人の勇敢とは何かという問題にすりかえていったという例である。経緯はともかく、いまやアメリカの戦争は「勇気」の問題になってしまったのだ。これは話にならない。これでは、フクヤマのいう「気概」も、さらには「正義」や「同盟」も、文明が営々と築き上げてきたコンセプトの大半も、いまやその意味すら崩れつつあると言われてもしょうがない。
 こうした問題が何であったかということについては、いちはやくソンタグの一件を引いた大澤真幸が『文明の内なる衝突』(NHKブックス)という象徴的なタイトルの本のなかで言及しているので読まれるといいが、ことほどさように、いまだ文明論者というもの、「冷戦」にも「テロ」にも、また国内世論についても、有効な議論ができないままにいるわけなのである。それなのに事態はますます深刻になっている。ソンタグの皮肉がわからないというのなら、われわれはまだ「文明」に見放されているというべきだ。マルク・クレポンの『文明の衝突という欺瞞』(新評論)が、この視点で恐怖と敵意による政治学からの離陸を書いている。

附記¶ハンチントンの『文明の衝突』をめぐって嵐のように巻きおこった論争については、ぼくはほとんどフォローしなかった。それこそ大澤真幸が『文明の内なる衝突』(NHKブックス)で書いていたように、ハンチントンの構図は「誰も本気になって主張していないのに、反論だけされている」という奇妙なところに立たされているともいえる。そういうなかでは、蓮實重彦と山内昌之がいちはやく世に問うた『文明の衝突か、共存か』(東京大学出版会)は時宜も論点も心得ていた。そのほか上にとりあげたものでは、ローラン・ディスポ『テロル機械』(現代思潮新社)や宮田律『イスラム世界と欧米の衝突』(NHKブックス)を勧めておく。アメリカの9・11反応についてはナンシー・フレイザーとエリ・ザレツキーの『9・11とアメリカの知識人』(御茶の水書房)などが参考になる。その後、「文明の衝突」は流行語のようになって、たとえばぼくの知人の町田宗鳳の『文明の衝突を生きる』(法蔵館)のような勇ましい本にもなったものだった。