才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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帝国的ナショナリズム

大澤真幸

青土社 2004

 このところ大澤真幸の発言や著述の調子がいいようだ。上り調子は、書名でいえば『資本主義のパラドックス』のときはまだしもだったのが、『性愛と資本主義』あたりから感じていたことで、論旨が切り立っているのは以前のことからだが、そのハコビがよくなってきた。
 能はカマエとハコビでできている。そのハコビに緩急が出てきた。そうすると読者も「移り舞」に酔える。また、能の面の動きはテル・クモル・シオル・キルに絞られているのだが、十分にゆっくりとした照りと曇りが見せられれば、突如の切り(面を左右に動かす)が格段の速度に見える。そうすると観客の心は激しく揺すられる。
 学問といえども、その70パーセントくらいは読者や観客に何を感じさせたかなのである。カマエもハコビも大事だし、テル・クモル・シオル・キルも習熟したほうがいい。ついでながら学問の残りの20パーセントは学派をどのようにつくって、それがどのように社会に応用されたかどうかということ、残りの10パーセントが独創性や前人未踏性や孤独感にかかわっている。学問はそんなものなのだから、どこで才能を発揮してもいい。

 もともと大澤真幸はかなり早口で喋っていても、その語りをもう一人の自分でトレースできる才能をもっている。
 いま自分がどんな言葉をどの文脈で使おうとしているか、その言葉によって話がどういう文脈になりつつあるのか、それを聞いている者にはひょっとするとこんな印象をもったかもしれないが、それをいま訂正しながら進めるけれど、それにはいまから導入するこの用語や概念を説明なしに使うが、それはもうすこし話が進んだら説明するから待ってほしい、それで話を戻すけど‥‥というふうに、自分で言説していることをほぼ完璧にカバーできる能力に富んでいた。アタマのなかの"注意のカーソル"の動きが見えている。
 ぼくはどうもうっとりできないんですよ、「考える自分」と「感じる自分」とが同時に動いていて、その両方を観察してしまうんですよ、と大澤自身がどこかで言っていた。まさにそうなのだろう。それがいいところなのだ。
 ただし、これが文章になり論考になると、ひとつは途中挿入の知識と情報がふえて、ふたつにはその文章を読むであろうギョーカイの学者たちの顔がちらついて、さらには「てにをは」にとらわれて、せっかくの着想(感じる自分)と構想(考える自分)がわかりにくくなっていくことがあった。それが本書や『現実の向こう』では目立ってふっ切れている。

 大澤はすぐれて現在感覚に富んでいる社会学者である。湾岸戦争やオウム真理教事件をつねに正面きって取り上げてきた。自分の専門でしか発言しない社会学者が多いなか、自分たちにふりかかってきた問題に対して見て見ないふりをほとんどしない。しかも、そうした難解な状況を把握して問題をたてるときの手続きが冴えている。
 最近の大澤の状況把握と問題の立件の仕方は、たとえば次のようになっている。2004年の春から秋にかけて大澤がおこなった連続講演を例にする(この講演をもとに『現実の向こう』の一冊がまとめられた)。

 2004年5月に、イラクで日本人ジャーナリスト二人が殺害された。6月にイラク暫定政府に主権が移譲された。しかしテロはあいかわらず過激にふえているし、なんらの対策も打たれているとは見えない。日本の自衛隊もただ継続駐留をしつづけている。
 大澤はこのような現実の事態を考えるにあたって、まず100年後にとぶ。100年後にとんでイラク戦争における日本の態度をどう見るだろうかということを考える。各国の世論調査ではイラク戦争の支持率が一番高かったのはアメリカがトップだが、次には日本が高かった。なぜイラクに鬼気迫る不安や危機感を抱いていそうもない日本人がイラク戦争を支持したのか。そもそも国連安保理すら戦争支持の決議を出せなかったのである。それなのに日本は出兵させた。後世、この日本の判断に疑問が噴出するにちがいない。きっと、あのシベリア出兵のときのように。そう、大澤は感じる。
 
そこで考える。いったい日本の判断にはどんなロジックがあったのか。大澤はロバート・ケーガンの『ネオコンの論理』(光文社)を例に出す。アメリカのネオ・コンサーバティブが採用しているロジックである。ケーガンはそのなかで、もはやアメリカとヨーロッパは異なると言い、それは軍事力の格段の差にあらわれていて、いまや軍事力と世界観はセットになっていて切り離せないのだから、アメリカの世界観に海外は従うしかないと結論づけている。日本はケーガンのこの程度の結論にふりまわされてイラク戦争に自衛隊を出動させたのか。

 ケーガンは同じ本のなかでヨーロッパはカントにすぎないとも言っている。カントが『永遠の平和のために』でヨーロッパを楽園に見立てようとしたことをさしたのだが、それに対してアメリカは、どの時代のどの地域にも野蛮な戦争がおこることを前提にしているのだという。カントに比していえばアメリカはホッブスの立場に立つ。これがケーガンのアメリカ的ネオコンのロジックである。
 ホッブスの『リヴァイアサン』は人間の集団は「狼と狼の対立」であって、「万人が万人に対立する世界」だという認識に立つわけだが、アメリカはそれだというのだ。またケーガンは、もしヨーロッパの世界観がポストモダンであるというのなら、アメリカはモダンにとどまって世界を見ているとも主張した。
 大澤は、このようなケーガンの見方がヨーロッパの本質をまったく理解していないことを指摘する。ヨーロッパにはEUに象徴されるように、共通の歴史認識というものがある。すでに血で血を洗い、資本主義を発進させ、技術革新にとりくみ、通貨乱高下を招き、ナチスを生み出し、ドイツを分断させてきた。ホッブスに立つのではなく、そこから出発してやっとEUに辿りついたのだ。
 つまりヨーロッパは「話せばわかる」はずで、どこかで合意を形成できるというふうになっている。いわば「必然がありうる世界」なのである。それにくらべてアメリカは「偶然がうごかす世界」だと見ている。これではアメリカとヨーロッパは手をつなげない。のみならずケーガンの言うようにただ軍事力だけがモノを言うだけになる。

 ここで大澤は、このような二進も三進もならない状況には、「第三者の審級」という考え方がありうるということを導入する。「第三者の審級」は大澤の本を読んできた者にはおなじみのもので、大澤のおハコの論理である。それを説明する。
 社会的な善悪の判断や賛成や反対の議論が錯綜したり対立したりしているとき、その社会がつくっている世界観が参照できる第三の超越者のようなものを想定すること、それが第三者の審級である。かつては、この第三者はたいてい神だった。『ヨブ記』においてヨブと友人たちが議論の均衡に達しているとき神の声が聞こえてくるのは、まさに劇的な審級をあらわしていた。
 
しかし、神でなくとも第三者の審級はいろいろありうる。ときに浄土が、ときにエルサレム進軍が、ときにジャンヌ・ダルクが、ときにナポレオンが、ときにヒトラーが、ときに国連が、ときにキング牧師が、ときに天皇が、ときにオリンピック精神が、ときにジョン・レノンがその審級を引き受けた。SFではあるが、アーサー・クラークの『地球幼年期の終わり』では、UFOに乗ってきたオーバー・マインドが世界の審級者になっていた。ぼくなどは西田幾多郎の「無の場所」やドゥルーズ=ガタリが持ち出した「アントナン・アルトーの加速する思索」なども、第三の審級のひとつに見える。
 それはともかく、この視点をとって世界を眺めなおすと、アメリカとヨーロッパは互いに通約も通分もできない審級圏に分解されたままになっているということになる。第三者が見えない。アメリカが勝手に絶対第三者のフリをしているだけである。そこに問題がある。
 しかし大澤はこの考え方をまだ押し付けない。いったん現実の社会に引き戻して考える。そして、9・11同時多発テロの1年後に発表されたブッシュ・ドクトリンに「先制攻撃的防衛」が言明されていたことに注目する。

 冷戦時代、アメリカの戦略家たちは「相互確証破壊」ということを問題にした。MAD(Mutually Assured Destruction)と略される。互いの「確証」(アシュアード)を前提にして、核戦争時代に勝つための戦略を組み立てるというものだ。
 MADは互いに互いの判断を確証できない「不確実性」をはらんでいるという矛盾の上に成り立った戦略で、しばしばゲーム理論的に組み立てられた。そこにさまざまな問題があったことは、ぼくも第1077夜の『ゲーム理論を読みとく』であげておいた。大澤はバーナード・ブロディを参考に、はたして先制攻撃が不確実性を除去できるのかどうかを検討し、ブッシュ・ドクトリンが先制攻撃が最大の防衛になるという、対テロ対策を含んだ攻撃理論型の戦争の正当性を発表したことの問題点を指摘する。しかし、日本はこれに乗ったのである。しかもその乗った理由がはっきりしていない。アメリカに「金だけではなくて、旗を見せなさい」と言われただけだった。
 
しかし乗る以上はアメリカの戦略の意味を理解しなければならないし、乗らないなら新たな方針をたてて説明しなくてはいけない。どうも、どっちつかずなのである。
 アメリカの戦略を理解するには、不確実性があるからといって先制すればいいというロジックのどこがおかしいかを指摘できなければならない。そのうえでアメリカの言うことを聞くか、断るかを決めなければならない。
 
大澤はここで、アメリカが問題にする不確実性というものが「他者」に被せられていることを発見するといいと勧める。アメリカは、不確実性を他者の本性だというふうに見ている。これはおかしいのではないかというふうに読者に促す。

 本来、不確実性とは他者にのみあるのではなく、事態や社会の圏内全体にあるはずのものである。そこに偶発性や偶有性が含まれているから、明日や明後日が不確実になる。
 それはその事態を観察しているアメリカだけが観察したものではなくて、社会が抱えた本質なのである。そうだとすると‥‥というわけで、ここでふたたび大澤はさきほどの第三者の審級の可能性をさぐるという話にもっていく。
 このあと大澤はいくつかの話を挟んだうえで、日本の憲法と安全保障条約の関係に話をすすめ、二つのことを提案する。詳細は省略するが、提案のひとつは憲法を変えないで、安保条約のほうを変えること、もうひとつは日本は安保理になどに入ろうとしないで、安保理のしくみを新たに提案する側にまわるということだ。こうすることによって、アメリカの言うことを聞かざるをえない状況から脱却できるのではないか。
 
両方ともきわめて現実に即した提案である。とくに安保理のしくみに第三者の審級をとりいれることを勧める。当事者ではなく、当事者を代行する複数が議論する期間が当事者の案件が属する社会の第三者として審級していくというものだ。
 この提案は、大澤が「他者の社会学」というものを長らく考察してきたことに裏打ちされている。『意味と他者性』はその成果のひとつであった。そのことを、今度は本書に即して紹介して、大澤真幸への応援に代えてみたい。

 本書の第4章は、現代における「帝国」と「ナショナリズム」という二つの大きな問題を一緒に考えようとした試みである。
 ここで「帝国」とは、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが定義づけたものに近く、グローバル・コミュニケーションの動向を調整し管理している主権のことをいう。レーニンが規定した帝国主義のことではない。端的には、冷戦が終わってからの世界に新たに出現してきた力のことをいう。そのような帝国は国民(ネーション)の主権を大幅に制限して、大半の多文化主義を呑みこんでいる。
 ネグリとハートはこうした「帝国」の特色を、かのポリュビオスによる古代ローマ帝国の政体3分類を援用して分析した。君主政・貴族政・民主政の3つである。それを今日の例でわかりやすくいえば、君主政(皇帝)を国際的な金融の動きを管理しようとするG7やパリ・クラブやIMFなどに、貴族政(元老院)を多国籍企業や有力な国民国家(ヨーロッパ諸国や日本)などに、民主政(民衆的民会)を従属的な国民国家やマスメディアや宗教組織やNGOなどにあてはめてもいいだろう。
 では、アメリカはこのような「帝国」そのものかというと、かぎりなく帝国に近い存在になりつつあるといってよい。すでに軍事面や警察面では帝国の将軍になっている。これに対して各地に勃興している新たなナショナリズムは、このような帝国という「地」を前提にして、それを否定する「図」として登場しつつある。ここまでがネグリたちの分析だ。
 問題は、アメリカにおいてはこの「帝国」性と「ナショナリズム」性が一体になってきつつあるように見えるということなのである。これは化物じみている。大澤はそこを問題にする。アメリカが軍事面はむろん、情報ネットワークを含めて「帝国」の原理を世界化しようとしていることははっきりしている。その一方、アメリカは巨きすぎるほどのナショナリズムにも徹しているようにも見える。これはロジックのうえでは矛盾しているし、破綻もしている。それなのにアメリカはそのことに気づかないまま、この「帝国的ナショナリズム」を推進しているようなのだ。

 大澤はこうして、「他者の欠如」あるいは「他者に対する見方の誤謬」がこのような矛盾や破綻の裏に動いているのではないかという見方をとっていく。アメリカはその「他者の欠如」や「他者に対する見方の誤謬」を、不幸なほどに大きすぎる規模で体現しつつあると見た。
 他者については、この問題を現代的に考察した二人の対照的な思想家がいた。ユルゲン・ハバーマスとジャック・デリダだ。
 ハバーマスはヨーロッパが伝統にしてきた「話せば分かる」型の合理的な討論を前提にして他者の尊重を主張する。ただし、討論するには互いが同じ土俵で議論をするルールが必要なので、ハバーマスはそのルール(あるいはメタルール)をコミュニケーションの本質に降りて考えた。大著『コミュニケーション的行為の理論』に詳しい。
 一方のデリダは、ハバーマスが辿りついたそういうルールはそもそもがヨーロッパに出自したにすぎないもので、本来の他者はそういうルールを超えて登場してくるものだと批判した。デリダはレヴィ=ストロースでさえ「野生の文化」という他者をヨーロッパ的自己同一性のの破綻を罪滅ぼしのためにつかっていると批判した。
 実際にも、昨今の国際舞台におけるイスラム社会の登場は、欧米社会にとってはまったくルールが共有できない他者であるとみなすことができる。もしかれらを同じルールの他者にしたいのなら、イスラム社会のコスモスともカオスとも切り離した"民主主義的な代表者"を選んできて、その代表者とコミュニケーションを交わすしかない。まさにアメリカはそのようなルールの押し売りのためにイラク戦争を仕掛け、その後の駐留を継続したわけだ。
 しかしアメリカはともかく、このようなヨーロッパ的でハバーマス的なルールを接ぎ木したようなコミュニケーションが、いま地球がかかえつつある「他者」を組みこめるかどうかというと、おそらく無理である。EUのなかならまだしも、それを世界大に拡張することはほとんど不可能である。
 かくて、今日の世界では帝国的ナショナリズムによる拡張という前代未聞が罷り通りつつあるということになったのである。それは「文明の衝突」よりもっと由々しい問題ではないかと、そのようには大澤は言ってみせたのだ。久々に大澤真幸のあの"注意のカーソル"の動きをナマで見てみたくなってきた。

附記¶大澤真幸君とはしょっちゅう会っていた時期がある。フォーラムやシンポジウムに来てもらうと、大澤君がいるときといないときではまったく盛り上がりがちがうので、よく招きもした。最近は本を贈ってもらってばかりで、その感想が言えないままになっているが、先だっては『美はなぜ乱調にあるのか』(青土社)で、「サッカーと資本主義」や「イチローの三振する技術」を読んで、その守備範囲の広さにあらためて驚いた。折口信夫のマレビト議論を含んだ『思想のケミストリー』(紀伊国屋書店)なども宮沢賢治埴谷雄高論をケープに纏って、なかなか華麗であった。デビュー作はスペンサー・ブラウンに依拠した『行為の代数学』(青土社)と2冊組の『身体の比較社会学』(勁草書房)である。この書名でも見当がつくように、大澤君は「感じる自分」を絶対に外さない。ほかに『性愛と資本主義』(青土社)、『資本主義のパラドックス』『電子メディア論』(新曜社)、『恋愛の不可能性について』『現実の向こう』(春秋社)、『虚構の時代の果て』『戦後の思想空間』(ちくま新書)など。さらにカマエとハコビに磨きがかかっていくにちがいない。