ほんほん

年の瀬は『電子社会』とヤマザキマリ

ほんほん47

◆年の瀬だというのに、やっと千夜千冊エディションの『電子社会』の入稿原稿の赤入れがおわったばかりだ。仕事が混んだ時期の作業だったので、かなりフーフーした。気も焦って急いだけれど、発売はだいぶんあとの4月中旬なのである。年末年始の入稿は版元から先取りを迫られるのだ。
◆千夜エディションの仕事は外科医が手術プランに向かうような気分で、そこそこ大胆な構成作業から始まる。当初のプランは3倍くらいの過剰ボリュームを相手に組み立てるのだが、これを1冊の文庫に収まるように断捨離するうちに、だんだん1冊の狙いが確定してくる。そこで、選んだ千夜を構成順に出力して次々に手を入れる。これはまさに手術をするように心掛ける。章立てをし、1本ずつに仮のヘッドラインをつけ、目鼻立ちを仕上げると、これを太田香保が入念に整理し、造本デザイナーの町口覚スタジオの浅田農君が設計フォーマットに変換して、松岡事務所に戻してくれる。この段階ではまだページがオーバーしていることが多いのだが、これをぼくが本気で悪戦苦闘して推敲しまくって確定原稿にする。このあたりで初期の千夜千冊はそうとう様変わりする。
◆確定原稿が角川編集部に送られると、次は規定通りに初校・再校というふうに進むのだが、途中に徹底したプロの校正が入り(なかなか優秀だ)、さらに原著の引用チェックを大音美弥子が担当し、全体の文章の流れを太田がくまなくおさらいする。これがようやく初校ゲラになり、ぼくはこの見違えるような1冊を虚心坦懐に読み、またまた赤を入れまくる。他方で町口君や編集部(伊集院元郁・廣瀬暁春の二人)と松岡事務所で字紋、カバーデザイン、口絵を検討する。たいてい町口側から何案ものデザイン案が出る。ここに和泉佳奈子も加わる。
◆ざっとこんなふうに1冊のエディションが仕上がっていくのだが、これを数十冊のシリーズにしていく初期の準備は和泉が角川の伊達百合さん、町口君とともに練った。けっこうなブックウェア仕事だった。
◆ついでながら、最近ぼくがどんな本を依頼されているのかという話をしておこう。某社から自伝を頼まれている。とうとう来たかという注文だが、さあどうするかと考えた。もし引き受けるとしても、幼児から最近までの出来事を順に通した編年的な自伝を書く気はほぼないので、きっと工夫をすることになる。また。米アートマガジン日本版の創刊時からの長期連載も頼まれた。これは担当編集者と話してみて引き受けようと決めたのだが、やはりスタイルをおもしろくしたい。おそらくアーティストたちと一緒に組み立てることになるだろう。
◆『試験によく出る松岡正剛』(仮称)という本の準備も進んでいる。入学試験や模擬試験にぼくの文章が使われるたびに、後日その問題が送られてくるということが40年近く続いた。試験問題のすべて見ているわけではないけれど、ときどき自分で解いてみて手こずったり、まちがったりするのが愉快だった、そこでこういう企画が立ち上がったのだが、すでにイシス編集学校の師範の諸君の力を借りて、太田が構成案をつくっているので、1年後くらいにはお目にかけられるのではないかと思う。
◆それと少し似ているかもしれない企画として、松岡さん流の「書く力」を伝授してほしいという依頼も来ている。いつか「書く」とはどういうことかというぼくなりの考え方やスキルをまとめようかなと思っていたので、とりあえず引き受けたのだが、どういう構成にするか悩むところが多く、まだラフ案もできていない。いわゆる「文章読本」にはしたくない。このほか津田一郎さんとの数学をめぐる対談本も進行中で、これはいったんゲラになったのだが、ぼくの怠慢で渋滞中なのである。
◆本を出すという行為は誰にだって可能だ。編集者や版元が動いてくれれば、どんなものも本になる。そうではあるのだが、そうやってつくった本が書店にいつも並ぶかというと、すぐにお蔵入りすることがほとんどだと思ったほうがいい。現在の書店状況では、発売から2~3カ月で売行きが少なければ、刊行された本の約80パーセントが書店からさっさと姿を消す。本は自転車操業の中の泡沫商品なのである。
◆どう読まれるのか、どのくらい売れるのかということも、事前にはまったくわからない。出版業界は告知を除いてプロモーションや宣伝はめったにしないので、その本が世の中に出ていることすらなかなか伝わらない。空しいといえばなんとも空しい事情だけれど、それが本というものの昔からの実情であり、宿命だ。そのことにめげていては、本には着手できない。
◆ぼくはこれまで100冊以上の本を世に出してきたが、たいへん幸運だったと思っている。この幸運はすべて編集者との縁によっている。ぼくに関心のある編集者がいてくれなければ、本は出せなかった。雑誌の依頼を別にすると、単行本の最初の声をかけてきてくれたのは春秋社の佐藤清靖さん(→『空海の夢』)だった。
◆ぼくは、自分がもともと雑誌編集の仕事をしていたので、本は「編集作業の延長」として出来(しゃったい)するものだと確信していた。椎名誠君、いとうせいこう君、安藤礼二君なども同じ出自だ。つまりぼくは最初から「著者」であろうとはしてこなかったのだ。さしずめ「エディターソングライター」なのだ。それがよかったかどうかはわからないが、最近はこの手がとみにふえてきたように見受ける。
◆この「ほんほん」を読んでくれている諸君に一言申し上げたい。本を出してみたいのなら、以上のゴタクはいっさい気にしないでひたすら構成や内容や文章に邁進することをお勧めする。どんな著者も実はそうしているのだ。売行きや読者のことを心配したり考慮するのは「編集ナースのお仕事」なのである。
◆ところで、千夜千冊について画期的な読み筋「おっかけ!千夜千冊ファンクラブ」なる企画が密かに始まっていて、大いに愉しませる。これはイシス編集学校の「遊刊エディスト」というメディアのラジオ番組になったもので(→https://edist.isis.ne.jp/just/otsusen15/)、千夜坊主の吉村堅樹と千冊小僧の穂積晴明とが妖しくも親しい対話をしながら進める。千夜千冊がアップされるたびにリリースされている。すでに15回目だ。これが実にいい。千夜千冊を書いている本人がそう言うのだから信用してもらっていい。ぜひ年末年始に聞かれるといい。
◆大晦日に、本物のラジオに出る。「ヤマザキマリラジオ~2021忘年会~」というNHKのラジオ番組で、ぼくは先だって本楼にマリちゃんが来て収録したのだが、暴言悪口を二人で交わしてたいへんエキサイティングだった。紅白直前番組です。よかったら盗聴してください。では、よいお年を。

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帝国的ナショナリズム

大澤真幸

青土社 2004

 このところ大澤真幸の発言や著述の調子がいいようだ。上り調子は、書名でいえば『資本主義のパラドックス』のときはまだしもだったのが、『性愛と資本主義』あたりから感じていたことで、論旨が切り立っているのは以前のことからだが、そのハコビがよくなってきた。
 能はカマエとハコビでできている。そのハコビに緩急が出てきた。そうすると読者も「移り舞」に酔える。また、能の面の動きはテル・クモル・シオル・キルに絞られているのだが、十分にゆっくりとした照りと曇りが見せられれば、突如の切り(面を左右に動かす)が格段の速度に見える。そうすると観客の心は激しく揺すられる。
 学問といえども、その70パーセントくらいは読者や観客に何を感じさせたかなのである。カマエもハコビも大事だし、テル・クモル・シオル・キルも習熟したほうがいい。ついでながら学問の残りの20パーセントは学派をどのようにつくって、それがどのように社会に応用されたかどうかということ、残りの10パーセントが独創性や前人未踏性や孤独感にかかわっている。学問はそんなものなのだから、どこで才能を発揮してもいい。

 もともと大澤真幸はかなり早口で喋っていても、その語りをもう一人の自分でトレースできる才能をもっている。
 いま自分がどんな言葉をどの文脈で使おうとしているか、その言葉によって話がどういう文脈になりつつあるのか、それを聞いている者にはひょっとするとこんな印象をもったかもしれないが、それをいま訂正しながら進めるけれど、それにはいまから導入するこの用語や概念を説明なしに使うが、それはもうすこし話が進んだら説明するから待ってほしい、それで話を戻すけど‥‥というふうに、自分で言説していることをほぼ完璧にカバーできる能力に富んでいた。アタマのなかの"注意のカーソル"の動きが見えている。
 ぼくはどうもうっとりできないんですよ、「考える自分」と「感じる自分」とが同時に動いていて、その両方を観察してしまうんですよ、と大澤自身がどこかで言っていた。まさにそうなのだろう。それがいいところなのだ。
 ただし、これが文章になり論考になると、ひとつは途中挿入の知識と情報がふえて、ふたつにはその文章を読むであろうギョーカイの学者たちの顔がちらついて、さらには「てにをは」にとらわれて、せっかくの着想(感じる自分)と構想(考える自分)がわかりにくくなっていくことがあった。それが本書や『現実の向こう』では目立ってふっ切れている。

 大澤はすぐれて現在感覚に富んでいる社会学者である。湾岸戦争やオウム真理教事件をつねに正面きって取り上げてきた。自分の専門でしか発言しない社会学者が多いなか、自分たちにふりかかってきた問題に対して見て見ないふりをほとんどしない。しかも、そうした難解な状況を把握して問題をたてるときの手続きが冴えている。
 最近の大澤の状況把握と問題の立件の仕方は、たとえば次のようになっている。2004年の春から秋にかけて大澤がおこなった連続講演を例にする(この講演をもとに『現実の向こう』の一冊がまとめられた)。

 2004年5月に、イラクで日本人ジャーナリスト二人が殺害された。6月にイラク暫定政府に主権が移譲された。しかしテロはあいかわらず過激にふえているし、なんらの対策も打たれているとは見えない。日本の自衛隊もただ継続駐留をしつづけている。
 大澤はこのような現実の事態を考えるにあたって、まず100年後にとぶ。100年後にとんでイラク戦争における日本の態度をどう見るだろうかということを考える。各国の世論調査ではイラク戦争の支持率が一番高かったのはアメリカがトップだが、次には日本が高かった。なぜイラクに鬼気迫る不安や危機感を抱いていそうもない日本人がイラク戦争を支持したのか。そもそも国連安保理すら戦争支持の決議を出せなかったのである。それなのに日本は出兵させた。後世、この日本の判断に疑問が噴出するにちがいない。きっと、あのシベリア出兵のときのように。そう、大澤は感じる。
 
そこで考える。いったい日本の判断にはどんなロジックがあったのか。大澤はロバート・ケーガンの『ネオコンの論理』(光文社)を例に出す。アメリカのネオ・コンサーバティブが採用しているロジックである。ケーガンはそのなかで、もはやアメリカとヨーロッパは異なると言い、それは軍事力の格段の差にあらわれていて、いまや軍事力と世界観はセットになっていて切り離せないのだから、アメリカの世界観に海外は従うしかないと結論づけている。日本はケーガンのこの程度の結論にふりまわされてイラク戦争に自衛隊を出動させたのか。

 ケーガンは同じ本のなかでヨーロッパはカントにすぎないとも言っている。カントが『永遠の平和のために』でヨーロッパを楽園に見立てようとしたことをさしたのだが、それに対してアメリカは、どの時代のどの地域にも野蛮な戦争がおこることを前提にしているのだという。カントに比していえばアメリカはホッブスの立場に立つ。これがケーガンのアメリカ的ネオコンのロジックである。
 ホッブスの『リヴァイアサン』は人間の集団は「狼と狼の対立」であって、「万人が万人に対立する世界」だという認識に立つわけだが、アメリカはそれだというのだ。またケーガンは、もしヨーロッパの世界観がポストモダンであるというのなら、アメリカはモダンにとどまって世界を見ているとも主張した。
 大澤は、このようなケーガンの見方がヨーロッパの本質をまったく理解していないことを指摘する。ヨーロッパにはEUに象徴されるように、共通の歴史認識というものがある。すでに血で血を洗い、資本主義を発進させ、技術革新にとりくみ、通貨乱高下を招き、ナチスを生み出し、ドイツを分断させてきた。ホッブスに立つのではなく、そこから出発してやっとEUに辿りついたのだ。
 つまりヨーロッパは「話せばわかる」はずで、どこかで合意を形成できるというふうになっている。いわば「必然がありうる世界」なのである。それにくらべてアメリカは「偶然がうごかす世界」だと見ている。これではアメリカとヨーロッパは手をつなげない。のみならずケーガンの言うようにただ軍事力だけがモノを言うだけになる。

 ここで大澤は、このような二進も三進もならない状況には、「第三者の審級」という考え方がありうるということを導入する。「第三者の審級」は大澤の本を読んできた者にはおなじみのもので、大澤のおハコの論理である。それを説明する。
 社会的な善悪の判断や賛成や反対の議論が錯綜したり対立したりしているとき、その社会がつくっている世界観が参照できる第三の超越者のようなものを想定すること、それが第三者の審級である。かつては、この第三者はたいてい神だった。『ヨブ記』においてヨブと友人たちが議論の均衡に達しているとき神の声が聞こえてくるのは、まさに劇的な審級をあらわしていた。
 
しかし、神でなくとも第三者の審級はいろいろありうる。ときに浄土が、ときにエルサレム進軍が、ときにジャンヌ・ダルクが、ときにナポレオンが、ときにヒトラーが、ときに国連が、ときにキング牧師が、ときに天皇が、ときにオリンピック精神が、ときにジョン・レノンがその審級を引き受けた。SFではあるが、アーサー・クラークの『地球幼年期の終わり』では、UFOに乗ってきたオーバー・マインドが世界の審級者になっていた。ぼくなどは西田幾多郎の「無の場所」やドゥルーズ=ガタリが持ち出した「アントナン・アルトーの加速する思索」なども、第三の審級のひとつに見える。
 それはともかく、この視点をとって世界を眺めなおすと、アメリカとヨーロッパは互いに通約も通分もできない審級圏に分解されたままになっているということになる。第三者が見えない。アメリカが勝手に絶対第三者のフリをしているだけである。そこに問題がある。
 しかし大澤はこの考え方をまだ押し付けない。いったん現実の社会に引き戻して考える。そして、9・11同時多発テロの1年後に発表されたブッシュ・ドクトリンに「先制攻撃的防衛」が言明されていたことに注目する。

 冷戦時代、アメリカの戦略家たちは「相互確証破壊」ということを問題にした。MAD(Mutually Assured Destruction)と略される。互いの「確証」(アシュアード)を前提にして、核戦争時代に勝つための戦略を組み立てるというものだ。
 MADは互いに互いの判断を確証できない「不確実性」をはらんでいるという矛盾の上に成り立った戦略で、しばしばゲーム理論的に組み立てられた。そこにさまざまな問題があったことは、ぼくも第1077夜の『ゲーム理論を読みとく』であげておいた。大澤はバーナード・ブロディを参考に、はたして先制攻撃が不確実性を除去できるのかどうかを検討し、ブッシュ・ドクトリンが先制攻撃が最大の防衛になるという、対テロ対策を含んだ攻撃理論型の戦争の正当性を発表したことの問題点を指摘する。しかし、日本はこれに乗ったのである。しかもその乗った理由がはっきりしていない。アメリカに「金だけではなくて、旗を見せなさい」と言われただけだった。
 
しかし乗る以上はアメリカの戦略の意味を理解しなければならないし、乗らないなら新たな方針をたてて説明しなくてはいけない。どうも、どっちつかずなのである。
 アメリカの戦略を理解するには、不確実性があるからといって先制すればいいというロジックのどこがおかしいかを指摘できなければならない。そのうえでアメリカの言うことを聞くか、断るかを決めなければならない。
 
大澤はここで、アメリカが問題にする不確実性というものが「他者」に被せられていることを発見するといいと勧める。アメリカは、不確実性を他者の本性だというふうに見ている。これはおかしいのではないかというふうに読者に促す。

 本来、不確実性とは他者にのみあるのではなく、事態や社会の圏内全体にあるはずのものである。そこに偶発性や偶有性が含まれているから、明日や明後日が不確実になる。
 それはその事態を観察しているアメリカだけが観察したものではなくて、社会が抱えた本質なのである。そうだとすると‥‥というわけで、ここでふたたび大澤はさきほどの第三者の審級の可能性をさぐるという話にもっていく。
 このあと大澤はいくつかの話を挟んだうえで、日本の憲法と安全保障条約の関係に話をすすめ、二つのことを提案する。詳細は省略するが、提案のひとつは憲法を変えないで、安保条約のほうを変えること、もうひとつは日本は安保理になどに入ろうとしないで、安保理のしくみを新たに提案する側にまわるということだ。こうすることによって、アメリカの言うことを聞かざるをえない状況から脱却できるのではないか。
 
両方ともきわめて現実に即した提案である。とくに安保理のしくみに第三者の審級をとりいれることを勧める。当事者ではなく、当事者を代行する複数が議論する期間が当事者の案件が属する社会の第三者として審級していくというものだ。
 この提案は、大澤が「他者の社会学」というものを長らく考察してきたことに裏打ちされている。『意味と他者性』はその成果のひとつであった。そのことを、今度は本書に即して紹介して、大澤真幸への応援に代えてみたい。

 本書の第4章は、現代における「帝国」と「ナショナリズム」という二つの大きな問題を一緒に考えようとした試みである。
 ここで「帝国」とは、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが定義づけたものに近く、グローバル・コミュニケーションの動向を調整し管理している主権のことをいう。レーニンが規定した帝国主義のことではない。端的には、冷戦が終わってからの世界に新たに出現してきた力のことをいう。そのような帝国は国民(ネーション)の主権を大幅に制限して、大半の多文化主義を呑みこんでいる。
 ネグリとハートはこうした「帝国」の特色を、かのポリュビオスによる古代ローマ帝国の政体3分類を援用して分析した。君主政・貴族政・民主政の3つである。それを今日の例でわかりやすくいえば、君主政(皇帝)を国際的な金融の動きを管理しようとするG7やパリ・クラブやIMFなどに、貴族政(元老院)を多国籍企業や有力な国民国家(ヨーロッパ諸国や日本)などに、民主政(民衆的民会)を従属的な国民国家やマスメディアや宗教組織やNGOなどにあてはめてもいいだろう。
 では、アメリカはこのような「帝国」そのものかというと、かぎりなく帝国に近い存在になりつつあるといってよい。すでに軍事面や警察面では帝国の将軍になっている。これに対して各地に勃興している新たなナショナリズムは、このような帝国という「地」を前提にして、それを否定する「図」として登場しつつある。ここまでがネグリたちの分析だ。
 問題は、アメリカにおいてはこの「帝国」性と「ナショナリズム」性が一体になってきつつあるように見えるということなのである。これは化物じみている。大澤はそこを問題にする。アメリカが軍事面はむろん、情報ネットワークを含めて「帝国」の原理を世界化しようとしていることははっきりしている。その一方、アメリカは巨きすぎるほどのナショナリズムにも徹しているようにも見える。これはロジックのうえでは矛盾しているし、破綻もしている。それなのにアメリカはそのことに気づかないまま、この「帝国的ナショナリズム」を推進しているようなのだ。

 大澤はこうして、「他者の欠如」あるいは「他者に対する見方の誤謬」がこのような矛盾や破綻の裏に動いているのではないかという見方をとっていく。アメリカはその「他者の欠如」や「他者に対する見方の誤謬」を、不幸なほどに大きすぎる規模で体現しつつあると見た。
 他者については、この問題を現代的に考察した二人の対照的な思想家がいた。ユルゲン・ハバーマスとジャック・デリダだ。
 ハバーマスはヨーロッパが伝統にしてきた「話せば分かる」型の合理的な討論を前提にして他者の尊重を主張する。ただし、討論するには互いが同じ土俵で議論をするルールが必要なので、ハバーマスはそのルール(あるいはメタルール)をコミュニケーションの本質に降りて考えた。大著『コミュニケーション的行為の理論』に詳しい。
 一方のデリダは、ハバーマスが辿りついたそういうルールはそもそもがヨーロッパに出自したにすぎないもので、本来の他者はそういうルールを超えて登場してくるものだと批判した。デリダはレヴィ=ストロースでさえ「野生の文化」という他者をヨーロッパ的自己同一性のの破綻を罪滅ぼしのためにつかっていると批判した。
 実際にも、昨今の国際舞台におけるイスラム社会の登場は、欧米社会にとってはまったくルールが共有できない他者であるとみなすことができる。もしかれらを同じルールの他者にしたいのなら、イスラム社会のコスモスともカオスとも切り離した"民主主義的な代表者"を選んできて、その代表者とコミュニケーションを交わすしかない。まさにアメリカはそのようなルールの押し売りのためにイラク戦争を仕掛け、その後の駐留を継続したわけだ。
 しかしアメリカはともかく、このようなヨーロッパ的でハバーマス的なルールを接ぎ木したようなコミュニケーションが、いま地球がかかえつつある「他者」を組みこめるかどうかというと、おそらく無理である。EUのなかならまだしも、それを世界大に拡張することはほとんど不可能である。
 かくて、今日の世界では帝国的ナショナリズムによる拡張という前代未聞が罷り通りつつあるということになったのである。それは「文明の衝突」よりもっと由々しい問題ではないかと、そのようには大澤は言ってみせたのだ。久々に大澤真幸のあの"注意のカーソル"の動きをナマで見てみたくなってきた。

附記¶大澤真幸君とはしょっちゅう会っていた時期がある。フォーラムやシンポジウムに来てもらうと、大澤君がいるときといないときではまったく盛り上がりがちがうので、よく招きもした。最近は本を贈ってもらってばかりで、その感想が言えないままになっているが、先だっては『美はなぜ乱調にあるのか』(青土社)で、「サッカーと資本主義」や「イチローの三振する技術」を読んで、その守備範囲の広さにあらためて驚いた。折口信夫のマレビト議論を含んだ『思想のケミストリー』(紀伊国屋書店)なども宮沢賢治埴谷雄高論をケープに纏って、なかなか華麗であった。デビュー作はスペンサー・ブラウンに依拠した『行為の代数学』(青土社)と2冊組の『身体の比較社会学』(勁草書房)である。この書名でも見当がつくように、大澤君は「感じる自分」を絶対に外さない。ほかに『性愛と資本主義』(青土社)、『資本主義のパラドックス』『電子メディア論』(新曜社)、『恋愛の不可能性について』『現実の向こう』(春秋社)、『虚構の時代の果て』『戦後の思想空間』(ちくま新書)など。さらにカマエとハコビに磨きがかかっていくにちがいない。