悲しき熱帯

レヴィ=ストロース

中央公論社 1977・2001

Claude L vi-Strauss
Tristes Tropiques 1955
[訳]川田順造

 冒頭に「私は旅や探検家が嫌いだ」「それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている」と書いてある。一方、長い長い記述の最後には「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という人類学者らしくないとも人類学者らしいともいえる言葉が出てくる。そのうえで、「ともあれ、私は存在する」。
 実に奇っ怪な書物である。本書が文化人類学の古典的な名著だということくらいのヒントで読んだ者には、頭がクラクラする。「ともあれ、私は存在する」と書く一ページ前には、平然と「私は人類全体の矛盾である」とも書いている。不合理や不条理が旅行カバンの中に入っているのだ。とくに「私は旅や探検家が嫌いだ」がいい。自慢じゃないが、ぼくは旅も探検も嫌いなのである。
 こんな人類学者はいなかった。人類学的な調査旅行を学術的ではなく旅行記のように書いた研究者ならごまんといるし、その旅行記に自在に学術的な思索をはめこんだものも、たくさんあった。むろんたんなる学術的報告ならキリがない。けれども、その調査研究記録の随所に、人類と人間に関する本質的な思索と自身の根源的な省察を同時に、かつ暗喩に富んで表現できた学者など、まったくいなかった。
 
 レヴィ゠ストロースは一九三〇年代のブラジルを旅行し、滞在した記録を本書にまとめた。それはそうなのだが、読み出せばすぐにわかるように、本書はレヴィ゠ストロースが最初にどんな調査目的をもってパリを発ち、どのような旅程のすえにブラジルに着き、それからどのように「悲しき熱帯」を調査したか、そのつど何を感じたかというふうには、書いてはいない。
 まるで車窓に走る風景を見ながらついつい物思いにふけるように、回顧談や回想や反省がのべつまくなしに入ってくる。たとえば、ユダヤ人として自分が第二次世界大戦をのがれてアメリカに行ったときの思い出が入る。コルネイユの『シンナ』を借りて急に自画像のスケッチを試みる。インド旅行のときの話ではバングラデシュの現在に対する感想がのべられる。それにまじってブラジル奥地のインディオの生きかたの報告が続くこともある。これらが時間をこえ、空間をこえ、しかも軽妙で沈着な思索のなかでジグザグと進行する。加えて、隠喩と換喩がおびただしい。
 けれども言葉が生きている。すこぶる連想に富んでいる。目眩くというのでなく、精緻な視点で野生のワールドモデルが自在に問われつづけているという印象なのだ。ブラジルのカデュヴェオ族やボロロ族の日々を見ているのは、少年に戻ったレヴィ゠ストロースだったり、ドビュッシーを聞いているレヴィ゠ストロースだったり、若いころにアメリカに脱出したときの苦渋のレヴィ゠ストロースだったりするわけなのである。それでいて、どこか悲しいものがある。
 こんな学問があるというのだろうか。あったのだ。そのような方法をレヴィ゠ストロースがつくったのである。構造人類学の原型は、すべてこの『悲しき熱帯』の文章に発酵していたといってよい。
 
 本書を最初に読んだのは、ぼくが早稲田のフランス文学科にいたときの担当教官の室淳介さんが訳した講談社版の、その名も『悲しき南回帰線』という一冊だった。
 全訳ではなかったが、そのときの紐の長いブランコに乗ったような読後感、未知の揺動ともいうべき読中感というものがある。それを伝えたい。けれども、それができそうもない。ぼく自身がその読中感をすぐに再生してみせる方法を、ここで思いつけないからだ。
 学術が文学なのである。きっとそういうことだろうと思う。その逆に、文学が学術でありえた稀有の例だということでもあろう。しかしながらそう書くと、たとえばヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』(中公文庫)やヨハン・ホイジンガの『中世の秋』(中公文庫)とどうちがうのか、そこをあれこれ言わなくてはならなくなる。あるいは柳田國男が佐々木喜善から聞いたことを『遠野物語』(角川文庫・河出文庫)にし、それを理解できたのが泉鏡花くらいのものだったというようなこととの比較を、うだうだ書かなければならなくなる。
 そんなことを説明していたらレヴィ゠ストロースではなくなってくる。そういうものではない。『悲しき熱帯』はどんな学業によっても、どんな報告記録によっても、けっして代行がきかない一冊なのだ。変な言い方になるけれど、構造主義の全体と『悲しき熱帯』のどちらを取るかといわれれば、ぼくは後者を選びたい。そのくらいかけがえのない一冊なのである。
 室淳介さんの訳ののち、中公の「世界の名著」にマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』とともに『悲しき熱帯』が入ることになった。抄訳だ。次に川田順造の訳で、泉靖一が解説を書いた。ただしこれもまた抄訳である。その後やっと、一九七七年になって同じ川田さんによる全訳が登場した。久々にあらためて読んでみた。ぴったり同じ読中感だった。

 クロード・レヴィ゠ストロースは一九〇八年のブリュッセル生まれだから(育ちはパリ十六区)、いまは九三歳だ(二〇〇一年現在)。最近会ったフランスの友人の話では、ますます矍鑠としているという。
 曾祖父が作曲家で、父親が画家だったこともあって、少年期からさまざまな芸術に親しみ、セルバンテス、印象派、ピカソ、ワーグナー、ストラヴィンスキー、ドビュッシーに惹かれたり、浮世絵をはじめとするジャポニスムに目を見張ったりした。一方、高校時代やソルボンヌ大学ではかなりマルクス主義や社会主義に傾倒して、学生組織の書記長になったり、社会党代議士のジョルジュ・モネの仕事に携わって法案作成をしたりした。
 専攻したのは法学と哲学である。ただ、ちっともおもしろがっていない。哲学のアグレガシオン(教授資格試験)のあと、とりあえず高校で哲学を教えるのだがあきたらず、社会主義派の政治活動の支援などをしているうちに、ソルボンヌ大学の社会学者セレスタン・ブーグレから新設のサンパウロ大学への赴任を打診されると、一も二もなくブラジルに渡っていった。
 ここで「非西洋」に出会ったレヴィ゠ストロースがどうなったかといえば、原始文化バンザイ、インディオ絶賛、インカ破壊激怒、だったのではない。西洋文明が文明エントロピーによって重圧に堪えられなくなるだろうという感想をもち、自身がひどくペシミスティックになったという感情に打ちひしがれた。それが本書やのちの『野生の思考』につながるのだが、他方で(ブラジルやアメリカから帰ってきてからだが)、ではこんな文明をつくりだした「人類」というものは、いったいどうしてこういう社会に甘んじるようになったのかという問題意識に向かっていった。
 これが「構造人類学」や「構造主義」の提案になっていったのである。それにしても、そういう問題意識がなぜにまた「構造」主義なのか。

 レヴィ゠ストロースの言う「構造」は堅くない。じっともしていない。要素と要素の「関係」がもたらすものが構造であって、それはつねに変形(あるいは変換)を通じて特性を保持するものだ。
 この、たえず変形し変換しながらも基本形を保持する構造という見方を、レヴィ゠ストロースはダーシー・トムソンの『成長と形態』(邦題『生物のかたち』東京大学出版会)から借りた。また、自分の人類学を「構造」という特徴を与えるネーミングにしたのは、ロマン・ヤコブソンらのプラハ学派が「構造言語学」を提示していたことと、アンドレ・ヴェイユ(シモーヌ・ヴェイユの兄)らのブルバキ(フランスの若手数学者集団)が提案していた「数学の構造主義」とに共感したからだった。
 そのころ、「構造主義」という言葉を思想の主旨に用いるのは新語流行に近いものでもあった。アンドレ・ラランドの『哲学用語辞典』には、一九〇〇年から一九二六年くらいに流行した新造語だと説明されている。たしかにヘーゲルもマルクスもダーウィンも、構造に意味をもたせていなかったのである。やっとデュルケムが使いはじめた程度だったのだ。
 それよりも、ヤコブソンだ。レヴィ゠ストロースはブラジルからの帰りにアメリカに入って七年間にわたる亡命の日々をおくるのだが、ここでニューヨークのロマン・ヤコブソンと出会い、その柔らかい言語観や音韻論に感動し、この構造主義の考え方を継承発展したい、人類学にしてみたいと思った。これが大きかった。
 フランスに戻ったレヴィ゠ストロースは『親族の基本構造』(青弓社)をもって、構造主義(structuralisme)の研究にとりかかる。
 構造人類学は、なぜ人類は近親相姦を避けてきたのか、インセスト・タブー(近親相姦の禁止)をもってきたのかという解明に向かった。交叉イトコと平行イトコをまたぐ親族間の婚姻関係の研究である。そのベースとなった『親族の基本構造』は全四巻の大著であるが、結論はまことに明快だった。インセスト・タブーとは「自集団の女性を他集団に贈与する」という交換によって成立してきたものだったのである。少しわかりやすくいえば、自集団にあえて「女性の欠如」をつくりだして、自集団の繁栄には他集団からの「女性の贈与」に依存せざるをえなくしたルールが定着したということだ。
 レヴィ゠ストロースはマルセル・モースの『贈与論』に倣って、これを「互酬的交換」と捉えた。女性を譲渡して女性を獲得するという「同種の交換」で、まさに「交換のための交換」、「関係をつくるためだけの交換」だと捉えたのだ。そういう見方は「親族体系はひとつの言語である」という表明に結実している。

 インセスト・タブーの史的研究の次にとりくんだ成果は、著書『構造人類学』と『野生の思考』(ともにみすず書房)にあらわれる。とくに『野生の思考』(パンセ・ソバージュ)でサルトルの『弁証法的理性批判』を批判して、人類は主体的な意志によって歴史をつくってきたのではなく、むしろ「見えない構造」によって全容がゆっくり動いてきたのだと言明してみせたことは、当時の実存主義の隆盛に水をさすものとなり、「実存主義から構造主義へ」という思想風潮を醸しだすことになった。
 ただレヴィ゠ストロースはそうした風潮に乗ずる気はまったくなかったようで、その後は約十年をかけて大著『神話論理』(みすず書房)に没入していった。「生のものと火にかけたもの」「蜜から灰へ」「テーブルマナーの起源」「裸の人」という全四巻である。これまた大著ではあるが、どこにも大上段にふりかぶったものがなく、読んでいると実に柔らかい。柔らかいだけでなく、〝神話論理〟を抉っている「ロゴス」も見当たらない。それにもかかわらず、この「語り」はその後の人類学者やフィールドワーカーの心を掴んだのである。
 とくに個々の民族や部族の神話や昔語りを、ひとつずつに分けず、相互に関連しあう「群の構造」が成り立つように組み立てたのが新しかった。その作業によって、レヴィ゠ストロースは神話がずうっと再構成されつづけてきたものであること、そこにはたえず「ブリコラージュ」(修繕)が施されていたこと、多くの神話には他の神話の部分に置き換えられても破綻しない構造があることに、気が付いた。

 レヴィ゠ストロースが気が付いた「ブリコラージュ」(bricolage)とは、もともとは「修繕」とか「寄せ集め」とか「細工もの」といった意味をもつ。フランスではブリコラージュをする職人のことをブリコルールという。
 あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける職人のことだ。
 そのためブリコラージュにおいては、貯めていた断片だけをその場に並べ、それを動かしているうちに、相互に異様な異質性を発揮する。のみならず、しばらくして「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていきもする。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないかと、レヴィ゠ストロースは見たわけである。
 これはぼくの言葉でいえば「創発的な編集」がおこっているということになる。編集というのも、だいたいこんなことをしている。編集はブリコラージュなのである。つねに「全体」と「部分」の関係を有機的に動かしていて、どこかで決着をつけていく。その決着のときに、あとから入ってきた部分がするする育って「超部分」となり、それが「全体」の様相をがらりと変えてしまうのだ。

 レヴィ゠ストロースは神話をブリコラージュ的に観察しているうちに、もうひとつ新たな仕組みがあることを発見している。それは、雑多に集めておいた材料や道具の「断片」や「部分」たちが、一応は想定していた「全体」とのあいだであれこれ対話を交わすのではないかと見たことだ。
 その対話では、その民族や部族に特有な理性的なものと感性的なものは切り離されずに、「断片と全体が対話した内容」のすべてが検討されるというのである。その対話はレヴィ゠ストロースが好んだ言い方によれば、「サンシーブル」(可変的なもの)と「アンテリジブル」(可知的なもの)の補い合いなのである。センスとインテリジェンスが補い合うのだ。そこを『野生の思考』では、「構造体をつくるのに他の構造体を用いない」というふうに説明をした。
 まことに言いえて妙だった。神話がブリコラージュされ、可感と知感をつかってきたというだけではなく、レヴィ゠ストロースが自分の可感と知感をつかって神話を変化しつづけるエディションとして読んできたということなのだ。それは神話や昔話をつくりあげた材料と計画の対話に聞き耳をたてることであり、それらすべてのプロセスにまつわる編集的叙述を、自身のセンスとインテリジェンスを総動員してあらかた実験してみることだったのだ。これを、「問いなき答え」と「答えなき問い」を互いに出しあう相互関係の進展にこそ「構造」が生まれていく秘密がある、というふうにいってもいいかと思う。
 こうして、ブラジルのボロロ族のアララオウムとその巣の話が、ジャトバの木と首長の妻殺しの話が、基礎情報として部品化していって、レヴィ゠ストロースがその後の数十年にわたって展開した構造人類学のために用意した編集エンジンの駆動を待って、超部分化をおこすことになったのだった。

 レヴィ゠ストロースの〝異様な学問〟は、思想戦線において必ずしもずっと安泰であったわけではない。そうとうに多くの批判にさらされてきた。とくにインセスト・タブーを論じた『親族の基本構造』は穴だらけの議論だと批判され、『構造人類学』については神話内容のメッセージについての議論がなさすぎると批判された。ごくかんたんにいえば、構造主義は図式と機能ばかりを強調する機能主義なのではないかという批判であった。
 もともとレヴィ゠ストロースの名が世に轟いたのは、サルトルとの論争が派手だったせいだ。「それ以前の思考」をこそ探索したいレヴィ゠ストロースと、「それ以降の思考」をこそ確立したいサルトルが激突したのは当然だった。サルトルによって「超理性主義だ」と批判されたレヴィ゠ストロースは、サルトルこそ西洋の文明の知にはまりきった理性で人間を見すぎていると撃破していったのだが、その後もレヴィ゠ストロースの学問がはたして学問であったのかどうかという疑問がわだかまっていた。
 そこへもってきて、ジャック・デリダが『グラマトロジーについて』や『エクリチュールと差異』でレヴィ゠ストロースをとりあげて「民族中心主義」だと批判した。
 レヴィ゠ストロースは「西洋の知で世界を見るな」と訴えて、西洋知が陥った民族中心主義を社会人類学の俎上で切ったのである。ところがデリダによると、そのレヴィ゠ストロースの反「西洋知」による構造主義の見方こそが、西洋的民族中心主義だというのだった。
 この話はさかのぼれば、十九世紀の人類学者だったタイラーやモーガンが、人類の発展は原始的農耕民に始まって道具や技能を獲得して呪術から解放され、やがて商業力や工業力を強化しながら文明的西洋の頂点を迎えたとみなしたのに対して、アメリカの人類学者のフランツ・ボアズやフランスの社会学者のエミール・デュルケムが、どんな社会にも独自の文化があるのであって、人類の発展はひとつの系列ではとても説明できないと反論したことに端を発していた。議論はやがて「文化相対主義」の流れとなり、見方によってはレヴィ゠ストロースもその上に乗っているとみなされたのである。
 ぼくはこうした構造主義をめぐる論争にほとんど関心がなかったので、ろくに批判論も擁護論も読んでいないけれど、どうもこうした議論自体が不毛なのではないかと思っている。実際にもレヴィ゠ストロースは周囲からの批判には怯むことも目くじらを立てることもなく、ひたすら構造主義ふうの思索と表現に耽っていった。

 メキシコの詩人オクタビオ・パスに『クロード・レヴィ゠ストロース』(法政大学出版局)という本がある。
 パスはこのなかで「レヴィ゠ストロースを人類学の新しい流れのなかに位置づけようとは思わない」と宣言をした。そして、その文章にはベルクソンとプルーストとブルトンという異質な三人が棲んでいると言った。また、『悲しき熱帯』については、レヴィ゠ストロースが関心をもっているのは「同一性」ではなく「類縁性」なのだという重要な指摘をした。
 大賛成である。学問とは同一性や反復性を確認したがるものだ。それが対象領域と拘束条件の設定が大好きな科学や社会科学の立脚点というものだ。けれども、類縁性はそうした個別の立脚点をやすやすと越えていく。跨いでいく。それは「答えのない問い」によるオイディプスの神話そのものなのである。「なんだか似ている」ということ、「なんとなくつながっている」ということ、そのことを考えるのがレヴィ゠ストロースの学問であり、つまりは『悲しき熱帯』の文章だったのだ。
 第十六章「市場」にこんなことが書いてある。最近になってこの文章がぼくを襲ってきて、どうにも困っている。ぼくはいつまでも『悲しき熱帯』の読中感のなかにいる揺籃者であるようだ。
 
 アジアで私を怖れさせたものは、アジアが先行して示している、われわれの未来の姿であった。インディオのアメリカでは、私は、人間という種がその世界にたいしてまだ節度を保っており、自由を行使することと自由を表す標とのあいだに適切な関係が存在していた一時代の残照、インディオのアメリカにおいてすら果敢ない残照を慈しむのである。

参考¶レヴィ=ストロースの本や講演集はずいぶん訳出されている。主には『親族の基本構造』(青弓社)、『人種と歴史』『構造人類学』『今日のトーテミズム』『野生の思考』『はるかなる視線』『やきもち焼きの土器づくり』『構造・神話・労働』(以上みすず書房)、『仮面の道』『アスディワル武勲詩』(青土社)というところ。オクタビオ・パス『クロード・レヴィ=ストロース』は法政大学出版局。