ほんほん

書物こそ梁山泊である

ほんほん52

◆ミカラデタサビ。いろんなことがミカラデタサビである。できるだけ、そう念(おも)うようになった。齢(よわい)のせいだ。侘びたくもあり、寂びたくもある。とはいえ、読みたい本も言い残していることも、かなりある。
◆コロナのせいにしてからのことか、それともオンラインでそこそこ何でもできると踏んだせいなのか、このところ仕事場に来ない連中が多い。7、8年前から、ずいぶん安易に休むようになっているなと思っていたが、たいていは体調のせいらしく、それならまあ仕方がないかと言い聞かせてきたのだけれど、そんなに休んでいるのにかえって本当に体が悪くなるようで、そのうち病院に行く。そんなことをしていてどうするのかと心配していたら、そこにコロナ・エピデミックが到来して、これらいっさいが正当化されていくように解釈されていった。いや、うちの仕事場だけでなく、仕事相手の職場にもそれを感じる。
◆そんなふうにすることが「働き方改革」やSDGsだと言うのなら、そういう明るいヴィジョンにもとづいた「本位のルール」を遵守する世の中とは、ぼくはとても付き合えない。そういう世なら好きに「世捨て人」していたい。これが高齢特有の老いの繰り言だというなら(まあ、そうだろうが)、それでかまやしない。いやいや、松岡さん、実はわれわれも困っているんです、何かヒントをくださいと言うなら、そういう諸君には21世紀の梁山泊こそがおもしろいということを伝えたい。
◆横尾忠則の『原郷の森』(文藝春秋)が途方もなくおもしろかった。横尾さんの書くもの、たとえば日記や書評もいろいろ読ませてもらったけれど、これはそれらを縦横にまたいだ抜群の集大成の、霊界シンポジウムだった。横尾さんが『神曲』の地獄篇よろしく、ピカソや三島や柴田錬三郎や、川端やデュシャンや日野原センセイや、北斎やキリコやウォーホルと忌憚なく言いたいことを言い合うのである。舞台の仕立てはありきたりなのだが、寄って集(たか)っての座談に加わる参加者たちの発言が本人の主義主張を適確に持ち出しているように横尾さんが仕組んでいるので、霊界シンポの議論のやりとりは、どこもかしこも本位を抉(えぐ)った芸術論としても危機を突く文明論としても、格別だった。なるほど、老いの繰り言はこういうふうに繰るとよかったのか。
◆ポール・デイヴィスの『生物の中の悪魔』(SBクリエイティブ)は、情報生命を解いて出色。生命史にひそむデーモンと情報との一蓮托生を、ここまで迫った試みは少ない。
◆森山未來くんと話した。東京オリンピック開会式の「2分間のソロダンス」があまりにすばらしかったので、遅ればせながらこちらから声をかけ、本楼に出向いてもらって話しこんだのだが、3時間ほどずっと喋りづめだったのに、一分の隙もなかった。いや、というよりも、その「一分の隙」にささっと詰めてくる言葉が高速で、すこぶる刺激に富んでいて、なんとも嬉しかった。この男、すでにしてそうなっているだろうが、さらにそうとうのアーティストになるだろう。
◆末木文美士(すえき・ふみひこ)の本を片っ端から読んでいる。読んでいるだけでは足りなくて、三井寺で2年にわたって末木さんに話しをしてもらうことにした。「還生(げんしょう)の会」と名付けた。日本仏教とはどういうものかを語ってもらう。三井寺の福家長吏とともにぼくが聞き手になり、石山寺の鷲尾座主以下の参加者にコメントをしてもらう。東京でも開くつもりだ。近江ARSのメンバーは、全員が『日本仏教入門』(角川選書)を事前共読をした。ぼくはいま、本気で仏教を一から学びなおしたい。
◆こちらは自分の欠陥を補うためだが、ほったらかしにしていたカール・バルトの読み、および内村鑑三とカール・シュミットの読み直しも始めた。危機神学と境界心性とアルチザン政治学を少しばかり体に突き刺しておくためだ。宗教と政治はもとより裏腹で、その裏腹がいまやかなり薄氷のように表裏一体になってきた。どちらがどちらを破っても、何かが波及していくだろう。この脆い関係は国連やSDGsではどうにもならない。あと十数年以内に、表裏一体が世界を惑わせていく。
◆山本耀司の次の秋冬メンズコレクションの招待状は、黒とアイボリーのトートバックに印刷されている。それがこともあろうに、ぼくが以前に書いた「日本はクソである」という一文なのだ。そんなことをしてショーを愉しみにくるお客さんたちはきっと困るだろうに、ヨウジはそういうことをする。どんな服をどんな男たちが着てお披露目されるのか知らないけれど(だから、こっそり見にいくが)、きっとそこは一陣の風が擦過するような梁山泊になっていることだろう。
◆千夜千冊が1800夜になった。23人のファッションデザイナーを扱ったスザンナ・フランケルの『ヴィジョナリーズ』(Pヴァイン)にした。20年前の本だけれど、世界のモードデザインはそこで止まったままなのである。リアルクローズが蔓延したというよりも、ユニクロが勝ったのだ。
◆故あって高倉健の生きざまとインタヴュー映像を追っている。しばらく健さんと向き合っていると(たとえば『ホタル』映画化についての呟き)、当方、とても深い溜息が出るので困っているが、世の中の「稀有」や「マレビト」とはどういうことかを感じるには欠かせない。
◆もうひとつ、追っていたものがある。甲本ヒロトだ。ブルーハーツからクロマニヨンズまで、年嵩(としかさ)がいってからの心境の吐露なども、あらかた見た。頷けたこと、少なくない。真島昌利が鍵、甲本が鍵穴である。
◆次の千夜千冊エディションは『読書の裏側』だ。何をもって裏側としたのかは手にとって確かめられたい。第1章が「配剤を読む」。何を配剤と見ているのかを感じられたい。口絵に町口覚さんのディレクションで、製本屋の圧搾機が登場する。書物はもとよりフェチの行方を孕んでいなければならない。書物こそ梁山泊である。

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イスラーム経済論

ムハンマド・バーキルッ=サドル

未知谷 1993

Muhammad Baqir-s-Sadr
Iqtisad-na
[訳]黒田壽郎

 ぼくはいつかイスラム文化と日本文化の交錯するところを書きたいとおもっている。
 たとえばイスラム文化というのは基本的には省略文化なのであるが、またそのイスラミック・カリグラフィが音声とも信仰ともつながっている特異な文字文化をもっているのであるが、そのことは日本における省略文化や書文化とどのように比較できるのか、いまのところはそういうことに誰も着手していそうもないからだ。いずれは、そのへんのこと、ゆっくり追ってみたい。
 しかし、イスラム文化はその根底においてムスリムたちの宗教・哲学・歴史・社会・経済に深く結びついている。イスラムにかぎっては、他のいっさいの自由資本主義国にとってあたりまえのことがあてはまらないことがある。そこがなかなか推理が及ばない。だからこそイスラムを見ることは未知の国の探検に似て、ぞくぞくするのだが。

 さて本書だが、一度読んだだけではまだ信じられないことがいっぱい書いてある。本書を、同じ著者による『イスラーム哲学』とともに読んで、哲学はともかくも、その経済システムがこんなふうに実在していることに、ぼくはまだ驚いたままなのだ。
 イスラムの社会にイスラム経済なんてものはない、経済はどんな国でも経済なんだ、という意見が資本主義にどっぷりつかっている経済学者たちから何度か提出されてきたことは、よく知っている。ぼくも多少は疑いはした。
 にもかかわらず、どうも本書に書かれたイスラム経済の特徴が、たとえどんな濃度であれ、どんな局部らであれ、実際に動いていることは事実なようなのだ。ましてかつてのイスラーム社会では、その経済システムが全面開花していたようなのだ。それが21世紀になってしだいに再生しつつあるとしたら、これは世界中の資本主義諸国にとって脅威である。
 とはいえ、だからといってサミュエル・ハンチントンがイスラム資本主義と儒教資本主義は、アングロサクソン型の資本主義やライン型の資本主義とはまったくちがっているのだから、これらはいずれ正面衝突するだろう、と『文明の衝突』で言ったようなことがおこるとは、思わない。ハンチントンがイスラム経済をちょっとでも理解しているとも思えない。

 本書があきらかにしているイスラム経済の特徴は、ぼくの読解ではほぼ次のような点にある。
 ひとつひとつ吟味してみると、あれっこれはコミュニズムじゃないのかとも見えるところがあるし、いやこれはハイパーコミュニズムあるいはハイパーファシズムとでもいうべきものだとも見える。また、そうか、これがイスラムのイスラムたるゆえんなのかとも見える。
 むろんイスラム圏内の経済がすべてこういうふうになっているというのではなく(著者もそう書いている)、あえて一部の特徴を列挙すればこういうふうに見えるということである。が、いずれにしても、やけに未来的なのだ。
 たとえば、次のような特徴がイスラム経済をかたちづくっているとしたら、これは“楽園”である。

◇さまざまな規制によって資本の集中と退蔵を禁止するための措置がある。
◇労働の市場商品性が否定されている。
◇労働成果が帰属する先がどこかに集中することを排除している。
◇土地を私的に所有することに制限をもうけていて、土地私有が集中することを避けている。
◇貨幣が自己増殖することを否定し、逆に退蔵することも否定している。
◇利子を禁止して利息つきの資本を認めない。これがイスラム経済における資本を工業商業プロジェクトにスムーズに転化させている。
◇資本の所有権は死後に親族に移転するのを容認する。
◇国家はすべての生産機関を公共セクターに役立てるための統率ができる。

 これだけでは、どうも「システムとしての経済のしくみ」が整合的に見えないが、それはぼくが勝手なピックアップをしているだけであって、著者のせいではない。それでも資本主義経済では想定がつかない特徴が際立っている。
 なぜこんな特徴が生じうるかというと、ようするに、イスラム国家とムスリム共同体とのあいだには、かなりヴィジョンに満ちた財務関係がイスラム法によって規定されているか、もしくは潜在しているということなのだ。ともかく驚くべきことである。

 イスラム経済はイスラム法によって支えられているのだから、イスラム法なきイスラム経済はない。ゴリゴリの資本主義者はそこを強調する。けれども、その特徴のいくつかが資本主義に部分的にとりこまれる可能性はあるとも言わなくてはならない。
 そんなことは、そもそもイスラム商人が発明した複式簿記のしくみがヴェネチアやジェノヴァノの商人をへてヨーロッパにもたらされた歴史からも予想のつくことなのである。

 ぼくがイスラム経済を理解することがなぜ必要であるかは、まだあまりわかっていない。
 けれども、近いうちにそうとうに深入りする必要があるようにも見えている。かつて井筒俊彦さんがお元気だったころ、そのことをうっすら実感していたのだが、なんだかんだとその実感の確認を先送りしてきた。
 が、やはり深入りする必要がある。
 それはたとえば、鎌倉の御家人制度や華僑(華人)の経済システムやユダヤ経済史を詳細に理解することが、ぼくにとってどれほど重要であるかということに近いようで、実はそれとはまったくちがう重要性をもっているような気がするからだ。
 もっとも、その理由は、本書に書いてあるようなイスラム経済の特徴のいくつかに、われわれが「資本主義なんてどこかおかしいんじゃないか」とおもっている疑問を解くようなヒントが隠されていると見えるからでは、ない。法と経済と信仰の関係をゆっくり考えたいからである。

参考¶同じ著者の『イスラーム哲学』(未知谷)が必読。また黒田美代子がスーク=アレッポを紹介した『商人たちの共和国』(藤原書店)が参考になる。