才事記

市場の書

ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

同文舘出版 1988

Gerd Hardach & Jürgen Schilling
Das Buch vom Markt 1980
[訳]石井和彦

 久保田早紀の歌に「異邦人」がある。
 2番がいい。「市場へ行く人の波に からだをあずけ 石だたみの街角をゆらゆらとさまよう」と始まり、「祈りの声 ひづめの音 歌うようなざわめき 私を置きざりに過ぎてゆく 白い朝」と展開し、ここで転調、「時間旅行が心の傷を なぜかしら埋めていく不思議な道」というふうに、市場から時間旅行がするりと抜け出す。
 最後は1番が「ちょっと ふりむいてみただけの 異邦人」、2番が「あとは 哀しみをもてあます 異邦人」となって、印象的なコーダがファンファーレふうにチャンチャンチャン、チャンチャカチャンと入って、それが繰り返されてぶつっと終わる。
 さっき調べてみたら昭和54年の曲、1979年のヒット曲だった。ぼくはカラオケで唄ったことはないが、だれかがこれを選ぶとつい同調して口を動かしてしまう。そういう歌ってあるもんですね。

 それはともかく、この歌の異邦人はカミュの異邦人でも金子光晴の異邦人でもない。路上の異邦人であって、旅先の市場にさしかかった無名の異邦人だ。どこの市場付近かはまったくわからないけれど、石畳み、白い朝、ひづめの音、時間旅行といった断片がなんとなく市場らしさを伝えている。キャラバン・サライのようにも、ビザンティンのバザールのようにも想像できる。
 この歌はそんな市場に紛れこんだのだ。ぼくはこの歌を聞くたび、無名の異邦人になるということって、ひょっとすると市場の本質なのではないかとおもうのだ。

アーヘンの市場広場

アーヘンの市場広場
(父ヘンドリック・ステーンウェイク作)

 市場の歴史というもの、すべての歴史の根幹であろう。いまではアナール派の研究がゆきとどいていて、市場がどの時代にどんな様相であったかは、かなり詳細にわかってきた。が、その一方で、そのいちいちの市場に深く入りこむのではなく、久保田早紀の歌ではないが、その市場をさあっと時間旅行したくなるときもある。古代日本なら歌垣とともに市場が開かれていた、そのあたりへ。
 本書はドイツの研究者による市場史で、こういう気分になったときの一冊にふさわしい。翻訳に当たった石井がニュルンベルクで出会った一冊らしく、「あとがき」には「市場と文明の旅に行き暮れた異国の旅人の前に姿をあらわした一冊」だったと書いている。今夜、この本を選んだのは、ひとつにはそんな気分で歌が紛れこむ市場を時間旅行したかったからで、もうひとつには先日、修善寺温泉でこれを替え歌にした三菱商事の中村一剛君がいたからだった。それを聞きながら、本書の「あとがき」を思い出したのだ。

 うんと古い話からすると、最初に農業革命があったのである。メソポタミアとイラン高原とレバノンを結ぶ肥沃な三日月地帯だ。農業は紀元前6000年にはレヴァント地方に、紀元前5000年にはエジプト、バルカン、南ロシアに広がり、さらに1000年をかけずにイタリア、イベリア半島、フランス、スイスに達した。次の500年くらいのちにはインド、極東、アメリカ、イギリス諸島、バルト海沿岸にまで届いた。この時期の500年はあっというまの時間旅行だといってよい。
 農業の伝播は各地にその風土にふさわしい村落共同体をつくりあげた。それとともに農業がもたらした小麦粉や穀物は、それが手に入らない地域とのあいだに独特の交換をもたらした。火打石・貝殻製装身具・琥珀・黒曜石などが好んで小麦などと交換された。物々交換である。その交換の場が初期の市場になる。
 意外にも、市場は最初からけっこう厳密なルールのもとに発生していった。厳密でなければ、価値や身分を混乱させることになるからだ。だからごく初期の市場は「儀礼市場」であり「身分市場」であった。かれらにはそれも異国情緒だったのである。つまり、そこは異国のものを見るための「制度が開催された場」であった。自由な交換ではない。それは管理された交換だったのだ。

 市場の発生と発達は、生産の余剰と不足が見えはじめてからおこる。生産物や収穫物が豊饒になっていって、市場が必要になった。豊饒でなければ余分なものを交換できないからだ。そこに貨幣の発達と生産手段の私的所有という経済事情の変化が加わった。
 貨幣は交易の媒介を担う能力をもったこと(記録性をもった)、価値尺度として公認されていったこと(代価力をもった)、その価値の貯蔵に役立ったこと(時間性をもった)、この3つの機能がしだいに重なって飛躍的に波及した。アッカド帝国の金属、古代エジプトの環状貨幣、クレタ島の棒形貨幣はそれらの原形をあらわしている。
 初期古代社会はそもそもは共同所有社会である。その共同所有社会のことをギリシアでは「オイコス」といった。オイコスはのちの「エコノミー」の語源になった。そのオイコスがしだいに分解し、ついで分配社会になった。「全体としてのオイコス」が「家々のオイコス」に分離されたのである。こうした生産手段の私的所有の起源は実際には紀元前2500年くらいのオリエント社会にすでに認められるもので、まずは奴隷に関する売買契約の記録として歴史に姿をあらわしている。けれどもオイコスが分離分配されるには、ちょっと時間がかかった。

 このような歴史を見ていてすぐにわかることは、市場というものはオイコス、すなわち家政の代用だったということだ。市場は商業の場ではなく、家政の集合場だったのだ。
 それがしばらくするとフェニキア人の交易に見られるように、各地の市場をまたぐ商人たちが登場してきて、市場の汎用性のようなものを集(たか)らしめていった。地中海のテュロス、シドン、ビブロス、カルタゴ、イビサ、カディスは互いにつながり、市場としての統一性を発揮するようになった。フェルナン・ブローデルの大著『地中海』に詳しいことだ。『旧約聖書』にもそのことは明示されている。フェニキア人はダビデやソロモンの時代に、イスラエルの地には穀物と交換にレバノン杉をもたらしたのである。
 こうなると、何が価値があるのかという意識が市場を通してその地の住民に芽生えてくる。ホメーロスの『イーリアス』には、シドンの銀の水差しが最も高い競争価値をもっていたと語られているし、ヘロドトスの『歴史』には北アフリカ沿岸の沈黙交易によって、ある種の形をした壷が人気商品になったことが記されている。

 古代経済の理想は、大家族が必要とするものをすべて自給生産するという閉鎖的なオイコスにある。それが現実には実現不可能であることをプラトンアリストテレスもよく理解していながら、自給自足経済をまっとうすることは倫理の代名詞となったほどだった。
 いや、ヨーロッパの精神史にしばしば自給自足のイデアが出入りするのは哲学上の問題であるとともに、もとはといえば経済学上の問題でもあったのであろうと、ぼくはおもっている。のちにアナルコサンジカリズムやアナキズムやマルクス主義がヨーロッパに登場したときも、それが経済思想と倫理思想の両輪をもっていたことは、そのことをあらわしている。
 しかし経済というもの、そこにひそむ理念はどうあれ、結局は水が低きに流れるように現実の変化と交じっていく。アテネだって、アテネ全体が不足していた物品を購入するためには、何千という奴隷が働いたラウレイオン鉱山から採れる銀を用意しなければならなかった。理念は美しいものではあるけれど、歴史を見ていると、たいていは支払い能力によってその姿を変貌させてしまうのだ。
 この支払い能力との闘いを最も劇的に示したのが古代ローマである。帝国は租税・貢物・小作料・贈物によって潤うはずであったのだが、しだいに輸入超過に泣かされることになる。第二次ポエニ戦争のあとでオスティアがローマの外港となり、市内のテヴェレ川沿いにも船着場・倉庫・市場が並び、それが未曾有の活況を呈したのではあるが、あまりにローマ人の飽食と欲望が勝りすぎた。なにしろこの船着場には、大理石がトスカーナやヌミディアから、錫はブルターニュ諸島から、琥珀はバルト海沿岸から、ガラスはフェニキアやシリアから、絹はシルクロードを通って極東から、塩漬けの肉はイベリア半島から運びこまれていたのだ。ほとんど今日の東京人の欲望と変わらない。
 しかしこれらがバランスよく輸入され交易されていればいいけれど、そこになんらかの片肺飛行が始まると、事態はたちまち悪化した。古代帝政ローマのばあいは穀物輸入超過が経済を破綻させた。

 古代ローマ時代はローマそのものの経済を破綻させたかわりに、周辺地域に市場経済を拡張させるエンジンとなった。ローマ帝国の属州と自治都市であるキウィタスは、都市とも市場とも自治区ともつかない様態を発達させ、領主による8日ごとのヌンディナエという定期市が周辺地域の活性をもたらした。
 こうして、かつての古代ギリシアのアゴラが変質して公共広場「フォーラム」(フォルム)となったのだ。フォーラムは「フェア」(市)の語源になっていくもので、結論からいえば、かつてのアゴラーの政治的性質はフォーラムによって削り取られていったのである。いつの時代も交易と商業と欲望が政治を置き去りにさせるのだ。そうなってから政治があわててやることといえば、昔も今もその取引や売買に売上税や消費税をかけることでしかなかった。
 広場としてのフォーラムは賑わいや売り買いだけではなく、さまざまな部分品を生んだ。そのひとつが「ストア」である。ストアとはもともと"歩廊"をあらわすギリシア語なのだが、ヘレニズム以降はそこに何かが展示され、触発を促すものと理解されるようになり、ついには店舗を意味するようになった。
 フォーラムがこのように生きもののごとく活動していくと、皇帝や領主や城主もこの活況を放ってはおけない。というよりも、自分の威厳のためのフォーラムにしたくなる。すでに古代ローマではカエサルによるカエサリス・フォルムや皇帝トラヤヌスによるフォルム・トライアニなどが出現していたのだが、これらは中央に軍神マルスの神殿やイオニア様式の列柱を配した巨大な結構をもっていた。 
 こうした威厳を伴ったフォーラム型の市場構造こそ、そこに複合施設をもたらし、たとえば1階ストアには「タベルナ」(店舗)を、2階には「ロッジア」(吹き流しの列柱廊)と「アーケード」を配するというような、つまりは古代スーパーマーケットやその後の中世モールの母型をつくりだしたのだ。

古代ローマのトラヤヌス広場

古代ローマのトラヤヌス広場

 市場の歴史においては古代と中世の区分は明確ではない。明確ではないのだが、組合の誕生やギルドの組織化が古代と中世を分けている。とくにコンスタンティノープルとバグダードにはあきらかに古代と異なる中世市場独特の繁栄が突出した。
 コンスタンティノープルがヨーロッパとオリエントの交差点にあったこと、ギリシア正教の主座でありながら、のちのイスラム商業圏を迎えられたこと、それでいてもともとは古代ローマの経済文化を踏襲していたことは、この都市を世界一の商業都市にも交易都市にも市場都市にもする格別な理由となった。
 そこにはフォーラムはむろん、異国のバザール様式やキャラバン・サライ様式もが投入され、野菜市場も食肉市場も奴隷市場も娼婦市場もが踵を接して並びあい、加えてキリスト教徒とゾロアスター教徒イスラム教徒とありとあらゆる異教徒たちによる宗教交易市場の様相さえ呈したのである。
 おそらく久保田早紀の「異邦人」の感覚はコンスタンティノープルの片隅にこそふさわしい。

 同じことがバグダードにもあてはまる。ここは代々のカリフの都市であるが、アレクサンドリアのムセイオンに匹敵する図書館とアーカイブを備えた「知恵の館」を中心にもった「知の都市」であって、また東は長安から西はコルドバにおよぶユーラシア全域の産物交易物を集散させる「商の都市」であって、かつ、ありとあらゆる人種が行き交う「人の都市」だった。
 ぼくは長らく古代ギリシアや古代ローマの哲学・科学・芸術がいったんヨーロッパを離れてビザンティン圏やイスラム圏に移り(たとえばアリストテレスの哲学やユークリッドの幾何学)、それがずいぶんあとになってルネサンスに逆輸入されたことに関心をもってきたのだが、その謎の一端は、ひとつには地中海ユダヤ人の活躍が、ひとつにはコンスタンティノープル型やバグダード型の市場の形態が解いていた。そこには「哀しみをもてあます異邦人」もいっぱいいたことだろう。

コンスタンティノープルのバザール(19世紀のある版画から)

コンスタンティノープルのバザール(19世紀のある版画から)
キャラバン・サライ

キャラバン・サライは商品の積み換え地、集散地として機能したが、同時に商人や駄獣の休息の機会をも提供した

 コンスタンティノープルやバグダードが世界一の取引富裕を誇っていた時期(実は長安もそういう都市だったが)、ヨーロッパはネットワーク状に散らばるフォーラム市場と定期市フェアをもって、この富裕に対抗するしかなかったのだが、しばらくすると修道院や教会に付属する定期市が、少しずつその意義を発揮しはじめていた。
 それが「メッセ」である。メッセはその名から由来が想像されるように「ミサ」とともに開かれた市が発展したものだった。とくにサンドニ修道院はその規模で最もよく知られた。しかしメッセはやがて修道院から流出して、パリやトリーアやケルンやレーゲンスブルクといった司教座都市に移出する。そこはかつてのキウィタスがあったところでもあったし、また年市や週市の定期市場の名残りでもあって、キリスト教の拡張と充実にしたがって、ビザンティンやイスラムにはまだまだ劣るものの、それなりの市場モデルを組み立てはじめていった。
 こうして十字軍の時代になると、このようなメッセがヨーロッパとエルサレムを結ぶ各点に急造されるようになる。そこにはたいてい遠征軍の兵士や騎士を宿泊させ、食事を提供する施設が生まれた。これが「ホスピタル」の起源であって、そのホスピタルで兵士や騎士をもてなすことが「ホスピタリティ」というものだった。ヴォルテールが説明してみせたことだ。

 十字軍の遠征に商業活動を伴わせることをおもいついたのは、ヴェネチアやジェノヴァの商人たちである。
 遠洋航海や遠隔商業をこそお手のものとするヴェネチアやジェノヴァの商人は、ここで十字軍にとっては仇敵のイスラム商人にも加担して、ちゃっかりかれらの簿記のスキルを持ち出し、これを利用するようになった。複式簿記の起源だった。
 一方、12世紀のリューベックに生まれたハンザ同盟は主としてバルト海沿岸のドイツ商人たちが結集してつくったもので、毛皮・蜂蜜・木材・ニシンなどを交易しつつ、利益結合を誓いあった。われわれは今日、いっぱしの公正取引委員会の立場にたって裏取引や談合や独占を厳しく糾弾するようになってしまったが、当時のハンザやツンフトなどの同盟とはまさにこうした行為であったとともに、そこに中世独自の「誓いの文化」を用意することになってもいたことを思い出さなければいけない。のちのフリーメーソンや「ベニスの商人」たちも、この「誓いの文化」の発展したものだったのだ。
 交易商人のためのハンザや職人のためのツンフトに対して、小売人たちも同盟を組んだ。ギルドである。ギルドの役割と機能はなかなか複雑でいちがいに説明しがたいのだが、市場においてのギルドの役割は一般人に先買い権を与えることによって、かえって自分たちの利益を確保するというような、なかなか達者なルールを発案したりもしていた。これはハンブルクの話だが、市場が午前6時にあくと、11時までは一般人が自由に買い物ができるようにしたのだ。ただし、その値段はギルドがつけた。午後からはギルド商人の買い付けや卸売りである。かれらは午前中の動きを見て品物を調整し、値動きを調整したのだ。

『謝肉祭と四旬節の喧嘩』(1559年)

『謝肉祭と四旬節の喧嘩』(1559年)
父ピーター・ブリューゲル 作

 中世から近世にかけて、市場に大きな変革期がくるのは、中央市場と積み替え市場が機能分化してからだった。これは主に取引量の増大や取引量の単位の大きさがもたらしたもので、たとえばわれわれが東京の築地中央市場で買い物をすることは許されてはいるものの、そこで実際に取引されるのはその日の値動きを伴う大量の売り買いなのである。
 それと同じことが近世にむかって市場におこったのだ。つまりは、包括的な市場制度の発生であり、それが経済史でいうところの「商業革命」のスタートなのである。商業革命とは市場制度と市場権によっておこったものなのだ。そしてこのとき、「市場の平和」(マーケット・フリーダム)という思想と制作が芽生えた。のちのアダム・スミスの「神の見えざる手」の発想は、ここに由来した。

 いったん商業革命の引き金が引かれると、市場は一挙に多様化する。市場に旧市場と新市場ができ、かつてのフォーラムに代わるメッセ会館ができ、さらに都市ごとの商館、ニシンや麻や毛織物のたのめニシン会館、麻会館、織物会館などが建つようになった。ぼくが京都から横浜に越したとき、いちばん異邦人感覚をおぼえたのは山下町にある「シルク会館」(シルク・ホテルを併設していた)だったのだが、それは京都の西陣織会館や織物会館とくらべて、ずっとずっとエキゾチックなものだった。
 このあと、市場は世界市場時代に入っていく。資本主義が大鉈をふるう時代だが、それはいってみれば異邦人を抹殺するシステムの登場になる。本書はその歴史も描いてはいるけれど、久保田早紀の歌からは遠のくので、割愛したい。
 チャーンチャンチャン、チャンチャカチャーン、あとは、哀しみを、もてあます異邦人。ちょっと、ふりむいただけの異邦人。

西アフリカの市場

西アフリカの市場

附記¶本書は図版や写真がふんだん載っていて、それをつぶさに見るのが半分以上たのしみな読書なのである。そのためやや大判の翻訳書の体裁にもなっている。ところで本書のような市場の歴史については、3つほどの類書のグループがある。Aは本書に近いもので、たとえばコルネリウス・ウォルフォードの『市の社会史』(そしえて)やモリー・ハリスンの『買い物の社会史』(法政大学出版局)のようなもの、Bはジャン・クリストフ・アグニューの『市場と劇場』(平凡社)のような資本主義文化史の起源をさぐるもの、Cはアナール派の独壇場のものである。Cにはフェルナン・ブローデルの大著中の大著『地中海』全5巻(藤原書店)をはじめねいくらでも系列書があるが、15世紀以降18世紀までの市場経済をあますところなく詳説したプローデルの『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)はやはり圧巻だ。前後半で「日常性の構造」と「交換のはたらき」に分かれているのだが、この副題だけでもぞくぞくさせる。