才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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国家

プラトン

岩波文庫 1979

Platon
Respublica 紀元前375前後
[訳]藤沢令夫

 いま、朝の4時過ぎだ。6月の小雨がやまない。プラトンを書くことにした。いつかは書かなければならないと思っていたけれど、千夜千冊800冊目を前にして、すこし迷って『国家』を開いた。岩波文庫、藤沢令夫の訳だ。この著名な対話篇の最後に掲げられた「エルの物語」を田中美知太郎や山本光雄の訳文で読んでから、どのくらいの時がたったのだろうか。
 30年ほどが花散るように走っていった。その途中、「エルの物語」をポオやボルヘスのように読んだと、そのころ『遊学』(大和書房→中公文庫)に書いたものだった。それからこっち、ぼくのプラトンをめぐる理解が深まったとは思わない。その後に『パルメニデス』に入って、そこで立ち往生させられていたからだ。あのパルメニデスの「一と多の問題」は、三浦梅園の「一即一一」とぼくの相似律理論とともに、いつか素手で掬いなおさなければならない。
 そうなのである。プラトンを素手で読むことはなかなかできそうでできない。それがぼくの前に立ちはだかっている「西の障害」なのだ。ホワイトヘッドが「全西洋の哲学はプラトンの脚注にすぎない」と言ったのを読んでからというもの、誠実にプラトンを読むというよりも、幾多のプラトン論をとりまぜて読んできたのも、この西の理性がもたらす壁のせいだった。
 そんなことだから、今日もプラトンに分け入るということにはならないのではないかと惧れる。しかし、多くの著作のなかで『国家』を選んだというところに、今朝のぼくなりの思索彷徨の断面が出てくれよう。
 
 イデア(idea)とプシュケー(psyche)だ。縮めれば、プラトンの哲学はこの2つのコンセプトに集約される。それを「知」と「魂」とか、「理念」と「精神」とかと言ってもかまわないけれど、そう見たところで何も説明したことにはならない。
 イデアというのは理念ではあるが、プラトンにとっては数そのもの、図そのもの、形そのものでもある。「大」とか「小」というときの「大」ということ、それ自体がイデアなのである。イデアは抽象そのものであって、また同時に具体そのものなのだ。
 一方、プシュケーには3段階があるだろうとプラトンは言った。理知な魂、気概な魂、欲望な魂の三タマだ。だからプラトンにとっては、プシュケーも純粋無雑なものなのではなくて、三タマすべてが抽象であって具体そのものなのだ。
 なぜイデアやプシュケーのような、後世の哲学史のほうがかえってピュアーに受け取ろうとした概念を、プラトンは図形や段階という具体的な足枷をつけて論じようとしたのだろうか。「ドクサ」(思惑)というものを知っていたからだ。ドクサ(doxa)にいる者は、自分が首尾一貫しているとか、ピュアーであると思いたがる。あるいは、つねに自身を迷わせている悪癖のようなものがあると思いたがる。いずれの思いこみも役立たない。そのドクサのふるまいに文句をつけながら、すかさずドクサなきドクサを完了するには、どういうことを自分に課せばよいのか。
 これはそうとうな難問ではあるが、プラトンは、こういうことを思想史上初めて一貫して説明できた哲人だった。もっとわかりやすくいえば、この「思惑なき思索」を発端させることが、西洋が初めて体験することになる「哲学」(philosophia)というものだった。西洋理性はここに発したのだ。
 プラトンがこうした自分の哲学のありかたを説明するまでには、ぼくが想像していたよりずっと困難な出発があった。ぼくはプラトンは、ごくごくすっきりとイデアから出発していたと勝手に想像していた。ソクラテス以前のソフィストたちの議論を聞いて、師のソクラテスとともにそこからさっさと脱出して、イデアの彼方から颯爽と降りてきた哲学バットマンのような男、それがてっきりプラトンの正体だとおもっていた。ところが、そうではなかったのだ。
 プラトンは「失望」から出発していた。政治に失望し、ポリスに失望し、ソクラテスを理解しきれない自分に失望した。プラトンの出発は「負」からの出発だったのだ。
 
 もともとプラトンはレスラーだった。ローティーンのころ、イストミア祭の格闘技大会で2度の優勝を飾っている。勇躍、オリンピアの祭典にも出場したが、ここでは負けつづけた。だから「幅広い」というギリシア語の意味と響きをもつ「プラトーン」という名も、おそらくはリングネームだったにちがいない。きっと体格もがっしりしていて、肩幅か胸幅かが広かったのだろう。
 こんなこと、どうでもよいようなことだが、そんなことはない。ひとつには当時のアテナイの青少年たちがことごとく燃えていた「体育の愛」について、ふたつにはプラトンの名に由来する「プラトニック・ラブ」すなわち「普遍的少年愛」についてちょっとでも考えたいなら、この体質は見落とせない。
 レスラーとして挫折したプラトンは、ついで悲劇などを書いて名を上げようとするのだが、これにも失敗した。各種のコンテストで芳しい成績をあげられない。
 だいたいプラトンはのちに詩を批判する。『国家』では詩人の役割にかなりの疑問を呈するところまで書いている。詩がわからないプラトンなど何の魅力もなさそうではあるが、またそんなプラトンには見切りをつけたいと言い出した後世の詩人や思想家もたくさんいたのだが(ニーチェやハイデガーがそうだった)、それならほんとうにプラトンに詩や詩魂の基本がないかといえば、そうでもない。ぼくはプラトンの哲学に詩を感じる。

 体育でも詩劇でも身を立てられないプラトンは、やむなく漠然と政治や政治家に気持ちを向けた。そのころ政治とは人間が抱く最高の理想のことをさす。青年はその理想に近づきたい。それで、どうなったのか。理想の男に出会うのだ。
 ソクラテスである。詳しい出会いの顛末はわからないが、どこかで講演か雑談でも聞いたのだろう。ソクラテス63歳、プラトンはまだ20歳。おそらく紀元前407年くらいのことである。青年はたちまちソクラテスの気概と人格と哲学に魅了された。ソクラテスの哲学はまさにフィロソフィア(知の愛)というもので、青年は一気に「愛知」に没入していった。それは愛知に入ることであって、同時に、全身でソクラテスその人に入るということでもあった。
 プラトンはソクラテスの私塾に入る。私塾とはいえソクラテスがひたすら目の前にいる者に喋りつづけているだけで、それが聞きたくなければ去ればよかったのである。しかしプラトンはそのまま8年間か9年間を、ソクラテスの傍らでその快活な談論に耳を傾け、いつだって単立な話に終わらない議論に感動する。
 品性の教育、真理の畏敬、祖国の熱愛。そのころプラトンがソクラテスから摂取したものは、まとめていえば、これだった。もうひとつ付け加えるなら、さきほど書いておいた「思惑」からどのように離れられるかということ、それがソクラテスが語る哲学だった。けれどもプラトンが、なるほど師はそのことを、そのことだけを言うためにそのように言っているのだと確信するには、師が宿命的に抱えた苛烈な闘いをどこかで引き継ぐ覚悟が必要だった。それがプラトンにおいて、プラトンによって発見された「負」からの出発だったのである。
 
 プラトンがアテナイに生まれた前427年は、ペロポネソス戦争が始まって4年目にあたっている。この戦争はアテナイの民主制とスパルタの反民主制の闘いで、戦争は27年続き、アテナイの敗北で終わった。プラトンが師に出会えて三年後のことだ。
 植民地化されたアテナイには、反民主派の30人政権が樹立した。この政権にはプラトンの母の従兄のクリティアスや叔父のカルミデスも入っていて、すでにソクラテスのもとで政治の理想に燃えつつあった青年プラトンにもそれなりのお誘いがかかったのだが、プラトンは多少の躊躇と期待をもってこの動向を見守ることにした。
 期待はすぐに裏切られた。躊躇は当たっていた。僭主的な政権はスパルタの強力な軍事力をバックにして恐怖政治をふりまいたので、多くの者が国外に亡命しはじめた。そこへレオン事件がおこった。僭主はソクラテスら数人を呼んでサラミス島のレオンを強制連行するように命じたのだ。ソクラテスは無実のレオンの逮捕にも不正な命令にも不快感を見せ、さっさと自宅に帰ってしまった。
 この話は『ソクラテスの弁明』にも出てくる有名な場面だが、ここまではまだ師の颯爽とした行為に、青年はただただ憧れるだけだったろう。ところが、次の予想もつかない有名な事件がプラトンを混乱させたのである。
 30人政権のほうは倒れた。武装した新たな民主政権が覇権を奪取した。アテナイのデモクラシーとはいえ、武力が必要だったのは当然だ。一言でいえばアテナイ民主制とは軍事的民主制のことである。ともかくもこれで師も弟子もやっとホッとしていたところ、あろうことか3人の告発者によって、ソクラテスが意外な科で裁判にかけられる。「青年を堕落させ、国家の認める神々を認めず、新しい鬼神を信じている」という告発である。
 いつの世でもそうだけれど、一貫した思想が語れる者のところに青年青女が集まってきたときは、世間の権威者と煽情者たちというもの、嫉妬半分・誤解半分・牽制半分で、こうした告発をしたがるものなのだ。
 裁定は死刑。『パイドン』に劇的に語られているように、このときソクラテスはこの不正を甘んじて受け入れ、毒杯を仰いで死んでいく。
 プラトンはどうしたか。おおかたの西洋哲学史では、ここで政治に絶望したことになっている。そうでもあろうが、ありていにいえば師がもういなくなってしまったアテナイから、プラトンは逃げ出したのだ。社会紊乱罪のソクラテスの弟子として逮捕される危険もあった。そのへんはよく知らないが、ともかくも青年は混乱したまま、旅に出てしまったのだ。これがプラトン28歳のときである。
 ソクラテスはつねづね「諸君は金や評判や名誉ばかりに汲々として恥ずかしくないのか。では聞くが、諸君は知と真実と魂のことはどうするのか」と言い、濡れ衣を着せられれば自身を裁く法廷にあえて立ち、そして最後は「私は息のつづくかぎり哲学することをやめない」と言って、死を判決された。
 プラトンはアテナイを離れながらも、この宿命的で不可解なソクラテスの死をまるごと背負った。背負うしかなかった。正義の人とおぼしいソクラテスが国法の名において自ら死んでいったということを。
 ということは、ここが肝心なところになるのだが、プラトンを読むとは、まさにこの「プラトンの抱えた不可解な転換点」からプラトンを読むということであるはずなのである。『国家』の読み方も、そこにあるはずなのだ。そして、これこそがプラトンの用意した負のCPUの発動だったのだ。
 
 プラトンは師を失ってしばらくして、師の談論を再生することを思いつく。旅先での滞在地を含む各地で、いわゆる初期対話篇を著しはじめる。最初は師の最期に何がおこったのかを再生記録するための『ソクラテスの弁明』を綴った。続いては『プロタゴラス』や『ゴルギアス』を書いた。
 ぼくはこれらの初期対話篇では、なかでも『メノン』の次の言葉に惹かれてきた。こういうものだ。「マテーシス(学習)はアナムネーシス(想起)である」。うん? マテーシスはアナムネーシスだ? 待てよ、なになに、マテーシス(計算)はアナムネーシス(再生)だって? そうか、マテーシスはアナムネーシスなんだ!
 これは、「魂が生前にすでに感じていたことを想起することこそが、学ぶことの本性なのである」と言っているのである。この学習論はこよなく美しい。プシュケーの意味も、ここにおいてこそものすごい。魂が未生で未詳のままに体験したであろうことを学習することが、そもそも学ぶことだなんて、まさにこのアナムネーシス(想起)において、プラトンはついにプラトンになっていったのである。
 
 プラトンは「対話」(ディアレクティケー)という方法を選びつづけた哲人だった。ソクラテスの裁判記録ともいうべき『ソクラテスの弁明』を除くすべての著作を対話にしたというのは、しかもそこにプラトン自身が語り手としてはまったく登場せず、最晩年の『法律』以外のすべての著作でソクラテスが生き生きと話しつづけているというのは、プラトンの思想が「対話という方法」そのものにあったことを示している。この編集方法は、いずれは『仏典』とこそ比べたいことだ。
 プラトンの旅は約12年におよんだ。プラトンの遍歴時代とよばれる。シケリア(シシリー島)やエトナ山などにも行っている。ぼくはこの旅の最後でピタゴラス派の一団に出会えたことがプラトンの思想形成に大きなヒントを与えたと思っているのだが(かつて『遊学』に「ピタゴラスがPならばプラトンは P´である」などとも書いた)、それはそれとして、そのプラトンがやっとアテナイに戻ってきたのは前387年のことだった。
 ここでプラトンはついに感動的なことをやってのけた。決定的なことだ。「アカデメイア」(Akadēmeia)をぶち立てたのである。

アカデメイア周辺想像図

アカデメイア周辺想像図

 この学園の名は、いまは世界中のアカデミーや団体の語源になっているが、そのころはまだアッチカの伝説的な英雄アカデモスに因んだ程度のものだった。とはいえ、そこには神域ともいうべきスペースがあって、社殿・祭壇・立像などを建てた。祭壇の主宰神はエロスとムゥーサ(ミューズ)、立像はプロメテウスとヘパイストス。これらを配して、そのあいだにエクセドラ(講堂)、ギュムナシオン(体育館)、ムセイオン(博物資料標本館)、そして、図書館あるいは書庫があった。プラトンはその片隅に地所をもち、残された生涯をそこで送ったという。

 アカデメイアについては、発掘は試みられているもののまだ全貌があきらかにはなっていない。施設は借りものだったという説もある。
 そのへんははっきりしないけれど、この私設アカデメイアにすべてを投与すると決断したプラトンに、ぼくはやっぱり今日に及んだプラトンのマスタープランの原図そのものを見る。詳細は廣川洋一さんの『プラトンの学園 アカデメイア』(岩波書店→講談社学術文庫)という興味深い一冊があるのでそれに譲っておくが、プラトンはここにおいていっさいのイデア(知)とプシュケー(魂)に言葉と形と精神を与えることを試みる。
 そしてというか、かくなるうえはというか、プラトンはいよいよ覚悟して『饗宴』『パイドン』そして『国家』に着手した。とりわけ『国家』第五巻に至ったとき、プラトンの滾る理想が渦巻いた。それはアカデメイアの一隅に住して初めて可能となったことである。「哲人王」と「哲人の統治」という構想だ。これは、その後にヨーロッパ人が提案するどんな構想よりも理想に走っていた。

国家論インデックス

国家論インデックス 『遊』1011号

 ここで突如として話が変わるのだが、1980年2月、ぼくは「国家論インデックス」なるものを「遊」1011号に発表した。数ヵ月、その作成だけに没頭した。いまでもその連続した夜陰の作業を思い出すことがある。
 どういうものかというと、国家というものが「生物の国家」から長時間をかけて発生し、やがて「記憶の国家」「契約の国家」「観念の国家」「浪漫の国家」「機械の国家」「階級の国家」「情報の国家」などを脱皮するかのようにへて、ついに「無名の国家」に向かっていくという、いわば全歴史上の国家のカマエとハコビを提示したものだ。
 全12部仕立て、各部を12~15章に、それをさらに12~16節に組み上げた。この「国家論インデックス」では、プラトンは第2部第1章第4節から第8節に、坐っている。そのうち少し手をくわえて小冊子にしたい。そのとき「遊」のページの僅かな空白に、「この国家論は生物史観にはじまって無名の存在学に向かっている。そこには進行の厳密がある。いま、強調しておきたいのはこのことだけだ。2001年よりも先の方から」と書いた。
 いま、ぼくはまったく別のマスタープランに取り組んでいる。これは時間を見つけてのあまりにとびとびの作業だったので、取り組んでそろそろ5年ほどがたつのだが、ようやくその表情が見えはじめたばかりのものだ。その一部を言うと、ひとつはコンピュータの中だけで自立する「図書街」に、ひとつは「目次録」ともいうべきマスタープログラムの目録に、ひとつは17段を単位として動く「月次表」に、ひとつは何かを始めて終えるまでの「次第組立」に、それぞれなりつつある。名称はいずれも仮称だ。
 なぜこのようなことをしているかということはいまは説明しない。また、こうしたものがプラトンに由来しているとは感じていない。しかしながら、ぼくが何をどのように考えようと、それが計画や構想であるかぎりは、ずっとさかのぼれば、そもそもはプラトンのマスタープランによって出自せざるをえなかったものであったということは、すでに30年前から心得ているつもりなのだ。
 話がまわりくどくなってしまったが、プラトンの『国家』とは、そのくらいに壮絶な提示であったのだ。とにもかくにも、そのころまだ、ソクラテスさえも、だれも国家のことなど考えていなかったのだから。
 
 すでに書いておいたように、ぼくの見立てによれば、プラトンの国家は負のCPUから生じた。しかしながらそれが現実のポリスの失政と、自身の政治家としての失敗を通過したために、そのマスタープランには哲学の人格化がおかれた。それが「哲人王」と「哲人の統治」というアジェンダである。
 これは「最善のものが腐敗すれば、それは最悪のものになる」というソクラテスの教えの逆襲をうけるかもしれないという恐怖と闘ったプラトンにして、初めて樹立できた理性的理想主義だ。哲人王なんてダビデ゠ソロモンの時代ならいざ知らず、すでにギリシアの日々にさえ出現しそうもないはずなのに、プラトンはそんな理想を国家の奥に据えたのだ。
 たとえば、われわれは日本国憲法がどのように出現し、どのように定着してしまったかをうすうす知っているはずである。そして、その一方で、どこかに理想の日本国憲法があるのではないか、それはどういうものかということを、中身の濃淡はともあれ、うっすら想定しているはずである。そういう想定は許される。しかし、その理想の憲法を想定している場所は、いわば負の領域なのである。実際にもそういう理想の憲法が戦時中にも戦後においても、一度たりとも現実化されたことはない。そして現行の憲法だけが唯一のウツツ(現実)であって、仮の想定された憲法(というよりも、想定という憲法)は、どこかにウツ(空)として漂っているだけなのである。ということは、その想定された憲法をもつ戦後日本そのものが、いまのところはヴァーチャルな負の領域にあるということになる。
 では、われわれは何によって国家を思索し、いったい何によって国家への改革や変更を試案しているかといえば、結局はこの「仮想された領域の仮想された出来事」との比較によって、現実のあれこれの不満に注文をつけているだけなのだ。
 こういう状況はむろん日本だけにかぎらない。どこの国でもおこっている。そして、このどこの国でもおこりうることの起源をずうっとさかのぼっていくと、そこにはたいていプラトンの理性がつくりあげた「想定された国家」があったということなのだ。
 
 さあ、そこでプラトンがなぜ『国家』第10巻の最後の最後になって「エルの物語」を提示したかということになる。
 プラトンが持ち出したもの、それはひとつの神話である。寓話である。神話や寓話であるけれど、それは魂が肉体を得る前に自身の運命を選ぶ場面を直截に示したものだった。そこには「国家が魂を救済する可能性はない」と書かれていた。
 国家は民衆の魂から苦痛や危難を取り除く機能をもっているのではない。そういう機能があるなら、師のソクラテスは死ななかった。国家は民衆に「忘却の水」を飲ませないための機構なのではなくて、つねに群れなすエルたちに「忘却の水」を飲ませておく機構なのである。「エルの物語」にはそのことが書かれていた。
 そうだとしたら、どうなるか。プラトンの国家は現実の国家になってはいけないように書かれた「負の国家」だったというべきだ。そしてもしそうだとしたら、まさにプラトンは「マテーシスはアナムネーシスだ」というその想起のほうへ、最後の最後になって国家を押しこめたのだ。
 それは凸の国家などではなかったはずなのである。プラトンの国家、それはやはり凹の国家だったのである。それなら、こういうことも言える。われわれは(われわれはというのは日本人のことだが)、わざわざさかのぼって凸の国家の起源にあたる物語を探さずともよいのではないか。いわばプラトンが『国家』の最後に提示した方法のように、国家を考える方法をもったっていいのではないか――。
 
 プラトンはどうしたかということを、急いで書いておかなければならない。プラトンはついに『パルメニデス』に向かったのだ。なぜ論理には矛盾が含まれてしまうのかという謎に向かった。
 ここから先のプラトンは、イデアの世界とイデアを模倣する世界の区別に立ち向かうプラトンになる。すでに負のCPUは起動しはじめたのだから、そこには凹んだ国家があたかも現実の鏡像のごとく茫然と見えているだけだろうから、次のプラトンの計画は理想に至る方法を峻別する道具の選定に入っていったのである。ということは? そうなのだ、プラトンの国家は誰によってもCPUの中に入ってくるはずはなかったのである。そしてだからこそ、ここからが全ヨーロッパの哲学がホワイトヘッドの言うプラトンの脚注になっていくドラマのスタートになったのだ。
 今夜は『パルメニデス』がどういうものであったかはのべないが、冒頭に「一即一一」の三浦梅園との比較を書いたように、ぼくとしてはそこからは全ヨーロッパの歴史どおりに点検するつもりはなくなった。なぜならプラトンこそが点検道具の選定を終えたくなっていたからだ。
 最後に書いておく。2つある。ひとつは、『国家』で国家を語ったのは、プラトンではなくてソクラテスだったということだ。ということは、ポリスに排斥された想起のなかにのみ、ソクラテスの国家が、すなわちプラトンの国家があったということである。
 もうひとつ。これはちょっとした追伸になるのだが、プラトンが著述以外でアカデメイアでやりつづけたこと、それは「魂の気づかい」というものだったということである。晩年のプラトンは国家よりも気配の哲学に向かったのである。