天皇誕生

遠山美都男

中公新書 2001

 日本語はどんな国語なのだろうか。いつから国語になったのだろうか。その国語は世界の言語とどこが異なっているのか。国語を、いま日本人はどのようにしようとしているのか。日本語と日本文化の特色はどのくらい重なっているのか。
 国語とは何かという問題には、容易に答えが得られないほど大きくて深い難問がいくつも控えている。そのため言語学者たちの多くを悩ませてきた。たとえば今日を代表する二人の言語学者のうち、田中克彦は日本には「母語ペシミズムの伝統」があると困惑し、鈴木孝夫は「日本人は深層意識の中で日本語を呪っている」と書いた。日本人は日本語という国語に困っている、悩んでいるという感想なのだ。
 ほんとうにそうなのだろうか。言語学者が悩んでいるだけではなくて、日本人が国語に悩んでいるといえるのだろうか。もしそうだとしたら、なぜそうなったのか。それは最近のことなのか。もっと以前からのことなのか。ついつい畳みかけて訊きたくなるが、言語学者たちも納得する答えを見いだせないでいる。わかっているのは近代に国語が成立してからのことだということくらいだ。それなら話は、ひとまず明治初頭にまでさかのぼらなければならない。
 
 明治維新は多方面にわたって日本に改変を断行させた。王政復古も徴兵制も、両から円への転換もチョンマゲ廃止も、それぞれ断行してみせた。なかには理解しがたいものもずいぶん混ざっていた。廃仏毀釈もそのひとつ、漢字廃止論もそのひとつだ。そこには日本が千年以上にわたって律してきた文化や習慣にも大鉈をふるいたいという者も続出していた。それが日本語の〝改正〟の動きになった。
 近代日本で最初に漢字の廃止を訴えたのは、意外におもうかもしれないが、郵便の父として名高い前島密である。前島は中国文明からの離脱と西洋文明への参画意思の表明として、漢字を廃止して仮名文字を国字にするべきだと考えた。ついで西周が「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」を書いて、ローマ字表記を奨めた。どちらもたいした弁論をふるったわけではない。
 一方、アメリカ代理公使であった森有礼はもっと本格的な日本語改革に乗り出そうとして、実用的な英語の導入を計画した。森は薩摩藩士で、慶応元年には五代友厚らとイギリスに密航留学をしたり、アメリカに渡って新興宗教に惹かれたり、アメリカの教科書を集めたりするようなところがあった。このあと森は初代の文部大臣となって、殺された。それをもって「明治維新が終焉した」という歴史学者もいる。ただし、このあたりの事情については誤解されたまま伝わっていることも少なくない。
 森がイェール大学の言語学者ホイットニーに「日本を英語の国にしたい」と言って、「一国の文化は一国の国語によって培われるべきです」と叱られたというのは、正確ではない。森は明治五年にホイットニー宛ての手紙に、「商業民族であるべき日本」が「急速に拡大しつつある全世界との交流」をすすめるためには「英語を採用することが不可欠」だと書いた。日本語を廃止したいとは書いてはいなかった。
 そのかわり森は、「日本の言語のローマ字化」を提案し、かつ「日本国民の使用のために英語からすべての不規則性を取り除くこと」を主張して、簡易英語の普及を訴えたのである。
 森がこのような大胆無謀な提案をした理由は、森の『日本の教育』序文に書いてある。日本語は不完全な言語であって、これを是正するには純粋な音声表記の原則にもとづいて、話し言葉を書き言葉に転ずる必要があるとした。森がそのように考えたのは、日本語があまりに中国語と漢字漢文の影響をうけてきたからだった。
 森は次のように英文で書いている。「日本の書き言葉の文体は中国語同然である。われわれの言語は中国語の助けなくしては教えられてこなかったし、コミュニケーションのためにも用いられなかった。これこそわれわれの言語の貧しさのあかしである」。
 
 いま、森の見解をどう見るかについて、定番の答えは出ていない。日本語が不完全であるという見方もいまだに残響している。しかし、言語学上の〝判定〟はともかく、こうした森の見解がよくもわるくもその後の国語の成立を促したということについては、今日の日本人もよく知っておいたほうがいい。
 森の見解を暴論だとみなして、最初に激烈な反論をしたのは馬場辰猪だった。中途半端な日本語是正と中途半端な英語の導入という改革二面作戦に腹をたてた。森が日本の文字の大半が中国起源であることを非難したことも気にいらない。馬場は『日本語文典』(馬場辰猪全集・岩波書店)を書いて、口語の日本語にもなんらかの規則があるのだということを説いた。
 しかしこんな程度では、漢字を排斥して仮名やローマ字を重視しようとする開明派の動きはおさまらない。外山正一らは「羅馬字会」を設立し、「漢字を廃することは国会開設よりも宗教改良より急務」だとぶちあげた。そこへ『古事記』を英訳したチェンバレンや「かなのくわい」の和学者物集高見が加わった。これは二葉亭四迷や山田美妙らの言文一致運動につながって文芸界を変えていく。二葉亭は思うように文章が書けないとき、まずロシア語で書いてからそれを口語の日本語に逆翻訳しているうちに言文一致の重要性に気がついたのだった。
 こうした論争や実感には、まだ日本語が近代の国語として妥当なのかどうかという議論は深まってはいなかった。
 そこに登場してくるのが、本書の第一の主人公ともいうべき上田万年である。明治二七年にドイツ留学から近代言語学の知識をひっさげて帰国した上田は、すぐに東京帝国大学博言学講座の教授となり、国語研究室を創設して、時の政府が準備していた国語調査委員会と文部省の国語教育政策の主導者になっていった。博言学講座とはのちの言語学科のことをいう。
 
 上田はもともとはローマ字推進派であって、のちに「日本語は日本人の精神的血液といひつべし」という主張に転換した国語学者だった。「国語」と「国家」を初めて結びつけたのも、「標準語」という概念を導入したのも上田である。しかし、上田はこのあとに意外な国語指導者となって挫折する。
 そのころローマ字派に対して、落合直文の『中等教育国文軌範』や関根正直の『近体国文教科書』や大槻文彦の『広日本文典』などが、国語の原点を中古文に求めようとして反撃の狼煙をあげつつあった。日本古来の国文や国学こそ国語の原点であるという主張だ。この主張は日清日露の大戦とともに声高となっていった日本主義の気運ともまじり、すでに「国体」と「国語」の精神上の合致を説いていた三宅雪嶺や高山樗牛らの思想とも結びついていった。
 が、上田はこれらを一蹴して、漢語漢文に依拠しようとする者も洋学に依拠して英語に走ろうとする者も指弾していったのである。そのうえで一気に「厳密なる意味にていふ国語」の確立に向かって邁進した。加藤弘之を委員長とする国語調査委員会は、上田の進言にもとづいて漢字を一二〇〇字に制限し、発音に近い「棒引き仮名づかい」を採用すると、余勢をかって仮名字体の統一に踏み切ったのだ。
 こうして、いったん上田の新国字論が凱旋したかに見えた。凱旋した上田は「国語は帝室の藩屏なり、国語は国民の慈母なり」と断じて憚らなかった。ところがそのうち、上田は日本語を「東洋全体の普通語」にすることを構想する。日本主義者の国語論もそこまでは考えていなかったのに、上田は一足とびに日本語を〝東洋の国語〟にするべきだと考えたのだ。これで上田はすっかり孤立してしまった。
 これで、日本語のローマ字化や漢字廃絶は避けられたが、ローマ字の併用や漢字の制限は進み、近代国語の表記の確立も試みられたのである。しかし上田は挫折した。計画は、保科孝一に踏襲されていく。上田の弟子には新村出も金田一京助も橋本進吉もいたのだが(小倉進平も藤岡勝二も岡倉由三郎もいた)、上田の構想を継いだのは保科になった。
 
 本書は発表とともに話題をまいた本である。韓国出身の俊英の社会言語学者イ・ヨンスクが、国語の確立を通して近代日本のもうひとつの幻像と原像を炙り出したというので評判になった。日本人は国語に対してペシミスティックになりすぎていると言うのだ。本書で初めて日本の国語問題の事情を知った読者も多いと聞く。
 日本人が国語を呪うようなペシミストかどうかはべつとして、国語問題にからっきし弱いことは事実である。ぼくも何度か呆れたが、たとえば「五十音図」がすでに中世の密教僧らによって作成されていたことなど、ほとんど知られていない。漢字仮名交じり文の由来や当用漢字の制定の事情を知っている者はもっと少ない。のみならず、英語社会が浸透するなかで、外国人に向かって日本語で喋れない者も数多い。日本人に日本語コンプレックスのようなものがあるというのも頷けなくはない。
 一方、Jポップや日本語のラップなどを聞いていると、平気で日本語を英語に交ぜている例も多く、「シャ乱Q」「米米CLUB」といったどこの言葉かわからないバンド名も次から次に乱舞した。
 芸能界ばかりではない。いっときのトヨタの「マイカー」やソニーの「ウォークマン」のように、日本製英語を世界に発信する企業も少なくない。どこかめちゃくちゃで、場当たり的なのである。こうした日本語の混乱した脈動は、しかし近代の出発の当初からかかえていたのではないかというのが本書の問題提起になっている。
 もっとも、ぼくは「シャ乱Q」も「ウォークマン」も賛成で、日本語のこうした使いかたは近代以降ではなく、古代から始まっていたと見ているが、ここではそのことは、これ以上は議論しない。
 
 さて、上田万年を受け継いだ保科孝一の国語観は、「国語教育ハ愛国心ヲ成育スルノ資料」という文部省の方針と「国語は帝室の藩屏なり、国語は国民の慈母なり」という上田の標榜を合体させていた。
 ただしここがややこしいところだが、保科は必ずしも守旧派ではなかったのだ。上田と同様に日本主義思想を批判し、国文国学至上主義に反対を唱えた。日本の国語の将来を憂えて、新しい国語文化をつくろうとした。けれどもそれが、当時の日本の韓国併合や満州政策による植民地拡張と結びつくと、日本国語による植民地の「同化」を重視するようになってしまった。ここに日本の言語的植民地主義という新たな問題が浮上するのである。
 保科は、明治三三年の『言語学大意』(国語伝習所)やその二年後の『言語学』(早稲田大学出版会)では、ヨーロッパ型の近代言語学を徹底しようとしているだけだった。また、言文一致で書かれた『国語学小史』(大日本図書)においても、国語学を、①契沖以前の歴史、②契沖から本居宣長まで、③宣長から橘守部まで、④明治十九年まで、⑤それ以降というふうに区分して、それなりにしっかりと国語の特質を把握していた。
 それが明治四三年の『国語学精義』(同文館)あたりから変わってくる。東洋における国語比較がしだいに多くなり、さらに大正三年の八〇〇ページをこえる『国語教育及教授の新潮』(弘道館)でプロイセンのポーランド地方に対する強い言語政策を紹介するにおよんでは、あきらかに明治四三年の「韓国併合」を意識した立場に転じていた。
 
 日本が植民地下の朝鮮半島でおこなった言語支配は、しばしば「朝鮮語抹殺政策」とか「民族語抹殺政策」とよばれて、歴史問題化されてきた。今日、南北朝鮮で「国語醇化運動」を絶やしていないのは、この日本の言語支配を忘れないようにしているせいだという見方もある。
 いったい「同化」とは何かといえば、アイデンティティをともにする(ともにさせる)ということである。それを民族的なアイデンティティにもおよぼそうというのが同化政策だ。植民地政策というものは「同化」を重視する。
 日本の同化政策は朝鮮半島においては徹底したものだった。朝鮮総督府を中心に神社の設置から小学校教育まで、ありとあらゆる同化政策が推進された。それが朝鮮民族にとっても幸福をもたらすはずだという確信をもって、朝鮮民俗の発掘や朝鮮芸能の調査に熱心に当たっていった研究者も少なくなかった。そういう研究者はどこかで自分こそが朝鮮におけるアーネスト・フェノロサやエドワード・モースであろうことを誇りにもした。
 しかし、植民地の文化を発掘することと、その地に新たな国語を押し付けることはまったく一致しない。そんなことがうまくいくはずもない。それなのに日本はその「同化」を言語によってもおこそうとした。
 すでに察した向きも多いこととおもうけれど、ここには、日本が自国の国語改革に乗り出した動機に、既存の日本語がダメ言語になっていて、それをやっと修正して近代的に強化しようとしたのだという自負があったことが大きい。また、〝改正〟した日本語の正当性をアジアで確かめたいという陰のシナリオも動いていた。近代の日本は新たな「すばらしい日本語」をつくりあげたのだと自信をもちすぎたのだ。そうだとすると、いわば近代日本語というものは適度に伝統をいかした人工的戦略言語だったということなのである。
 では、そのような言語を日本はそのまま国語として引きずっていったのか。それが現代の日本語なのか。実はそうなってしまったのだった。
 
 日本の言語同化政策は中国におよんで、失敗する。日本が満州に進出し、ここに満州国を捏造して「五族協和」を訴えたとき、日本の国語による同化は大きな矛盾にぶちあたる。五族の協和による「王道楽土」とは、そこにそれぞれの出自をもつ五つの民族がいて、それらが満州あるいは大東亜で協力しあおうというプログラムのことであるが、その満州の地に一つの国語を浸透させ「同化」させようというのは、そもそものスローガンの「協和」と根本的に矛盾する。政策としても矛盾していた。
 ところが保科は、昭和八年に「国家語の問題について」という論文を発表して、ついに「国家語」という別種の言語を想定するようになってしまったのだった。国語ではない、国家語だというのだ。その国家語は、公用語・教育語・裁判語・軍隊語などでできていて、その下に民族語や地方語などによる〝小さな国語〟があるという図式なのである。それは昭和十七年の『大東亜共栄圏と国語政策』(統正社)でもっと赤裸々なものにまで達した。
 保科の国家語計画は、満州にいた学者たちから猛烈な批判をうけた。建国大学の重松信弘は満州に一つの国語を浸透させるのは不可能なことを、丸山林平は満州には複合語はありうるとしても、そんな言葉はこの世のどこにもなく、ましてそこに日本語を強要するのは無理があることを断言した。
 当然であろう。たとえ満州国がその後の長期にわたって〝継続〟されたとしても、日本語がその地域の国語になったとはおもえない。こうして保科の計画は瓦解する。けれども、これらの紆余曲折にみられる国語国字問題は、やはり日本語というものの近代における認識があまりに片寄ったもので、また強引なものであったことを窺わせた。そこには日本語コンプレックスがあったという意見を否定できないものがあった。
 日本の国語は、こうして歪んだ曲折をくりかえしているうちに敗戦をむかえ、そのまま走りきることになったのである。
 
 本書は最後に、このような上田万年と保科孝一の国語観を痛烈に批判した山田孝雄をとりあげている。
 山田はかつて馬場辰猪が森有礼に噛みついたとき、「馬場は日本の国語を救った恩人だ」と言った国語学者である。五十音図の研究にいちはやくとりくんだのも山田であった。その山田は「国語がむつかしいから簡単にせよといふやうな論」や「外国人に教へるのだから仮名遣ひは簡単にせねばならぬといふ論」に、ことごとく攻撃の矛先を向けた。同じことを矢内原忠雄も力説した。そういう学者たちもいたのである。いや、いまもいる。
 そうしたなか、日本にはもっと特異な人物もいたということをイ・ヨンスクは指摘した。それは北一輝である。イ・ヨンスクは北の『国家改造案原理大綱』の「国民教育ノ権利」に、次のような一文があることに注目する。「英語ヲ廃シテ国際語ヲ課シ第二国語トス」というものだ。この「国際語」というのが実はエスペラント語のことだったのである。北は(実は大川周明もそうだったのだが)、エスペラント語をもっていれば、いずれロシアともイギリスともアメリカとも対等に戦えると考えて、天皇が五十年後にエスペラントを話している姿を予想した。
 いま文部科学省や文化審議会は何をプログラムしようとしているのだろうか。日本語の将来については、何を考えているのだろうか。

附記¶著者の遠山美都男はぼくより10歳若い気鋭の日本古代史の研究者。『大化改新』『壬申の乱』(中公新書)、『古代王権と大化改新』(雄山閣出版)、『白村江』(講談社現代新書)、『卑弥呼の正体』(洋泉社)、『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(角川ソフィア文庫)など、興味深い視点の著作が多い。
 文中に紹介した江上波夫『騎馬民族国家』(中公新書)には、佐原真の『騎馬民族は来なかった』(NHKブックス)が最後の批判をくだしたが、水野祐『日本古代王朝史論』(小宮山書店)にはいくつもの批評・批判・同意・継承・訂正が出たにもかかわらず、いまだに影響力が絶えない。『天皇家はなぜ続いたか』は今谷明を中心に網野善彦・山折哲雄・赤坂憲雄らが所見をのべている(新人物往来社)。そのほか「天皇の起源」や古代天皇論については夥しい数の論文・著書がある。継体天皇をめぐる著作も少なくないが、水谷千秋の『謎の大王・継体天皇』(文春新書)が最新の情報と推理を誇っていよう。天皇制をめぐる憲法議論については横田耕一の『憲法と天皇制』(岩波新書)が、皇位継承の歴史と現在に関する詳細については高橋紘一・所功の『皇位継承』(文春新書)が、それぞれ最も新しい。なおアメリカ政府およびGHQが用意した戦後天皇制の青写真の内幕は中村政則『象徴天皇制への道』(岩波新書)に詳しい。