父の先見
日本史の誕生
弓立社 1994
このところ、ぼくは日本を語ることが多くなっている。明治を問題にすることも徳川時代の儒学的日本像に切りこむこともあれば、歌枕や世阿弥の工夫や茶の湯を通して「日本という方法」にアプローチするときもある。3週間ほど前は石川啄木と権藤成卿と石原莞爾とパル判事を通して日本を語ってみた。
それはいろいろなのだが、さて、「日本」をいつの時代から語っていくかということになると、そのイメージとマネージの関係があまりに変遷してきたことを一貫して語りきることがむつかしく、ときに縄文を、ときに稲作を、ときに天孫降臨神話を、ときに「まつろわぬ神々」を、ときに倭の五王をというふうに、日本自立の契機となったスキーマを分けながら問題を取り出して、これを突起した正の情報と穿たれた負の情報に腑分けしつつもなんとか串刺しにするという、そんな語りかたを何度も試みるというふうになってきた。
それらをそろそろ風変わりな書物にまとめてみたいと思うけれど、いまはその時間をもてないでいる。
むろん日本の誕生をめぐっては、すでに多くの研究と仮説がもたらされてきた。そのうちのどの見解のどの仮説を採るかは識者の数だけ分かれるといってよい。あいかわらず百家争鳴なのだ。それに日本誕生といっても、どの時点の出来事を基軸にするかによって、論旨も論法も史料も変わる。考古学の対象も人類学の対象も変わる。
たとえば、最新の講談社版「日本の歴史」第00巻の網野善彦『「日本」とは何か』は、網野史学のラディカルな良心を結集して敗戦直後に問われるべきだった「日本とは何か」という課題を、苦汁をもって良薬に変じようとした乾坤一擲の慟哭を感じさせる一冊となっているのだが、そして、その凄まじい歴史家としての気概には脱帽せざるをえなかったのだが、日本誕生の時期については国号としての「日本」の使用のみを徹底して問題したわけだったから、この議論からは聖徳太子時代から天武朝までがフューチャーされるだけなのである。
また、吉田孝の『日本の誕生』(岩波新書)は、倭人と交易と大王の複雑な絡みを一筋の糸で縫い合わせた近ごろにない好著であったけれど、やはりそこで「日本」というレジストレーションをもっているのは7世紀以降の時代なのである。(この時期設定はいまのところの正式見解に近い。)では、それ以前に日本がなかったのかといえば、むろんそんなことはないはずなのに、このことさえ意見がいろいろ分かれる。
大別すれば二つの意見だ。ひとつは「倭」はあったが、「日本」はなかったと言明する。このばあいの日本はカッコ付きである。最近の学者に多い。そうでないばあいは日本列島史とか日本社会史というふうにする。もうひとつは、そうはいっても縄文も稲作導入期も卑弥呼も同じ日本列島での出来事だったのだから、ここはやはりすべてを日本の歴史として通観する。だいだいカッコ付きなんて、会話にすらならない。この二つの立場になる。
いまは、この二つの立場をどうインテグレートするかの季節であろう。ただし、厄介なのが記紀神話のなかの何をもって歴史記述とみなすかということだ。
日本神話のなかに日本誕生の"種子"や"胞子"を見いだす試みは、数からいけばいちばん多かった。そうではあるのだが、これとてイワレヒコ(神武)を見るか、もう一人のハツクニシラススメラミコトと尊称されたミマキイリヒコ(崇神)を見るか、それともオオササギ(仁徳)かオオハツセワカタケル(雄略)かオオド(継体)を見るかで、まったくその背景の意味が変わっていく。
また、大王(天皇)ではなく、葛城襲津彦や大伴や物部や蘇我や藤原などの実権者たちの動向で「日本の形成」を語るのもありうることで、ぼくなどもこの手の成果にずいぶん目を通したけれど、これまた一貫した語り口にお目にかかれたことがない。それを朝鮮半島との軍事・経済・人材・文物の交流と去来に注目して議論しようというのは、なかで最もダイナミックな見方になるが、それにはそもそも渡来系部族の大王家に対する歴史的関与のしかたが問われなければ、たとえばアメノヒボコ渡来集団の一挙的活動といっても、それを記紀の記述要素だけで仮説に組み立てるには、その他の出来事の関連に説得力がない。
そもそも今日にのこる正史というべき『日本書紀』の成立が近江・大宝・養老令などの律令制定にふみきった700年前後に特定できることだから、それ以前のすべての物語は、『書紀』がどのように編集されたのかということを軸にしないかぎり、なんら実証力をもちえないのだ。まして『古事記』はその後の編集だろうから、そこから歴史的な「日本」の遷移を確定する素材を集めようというのは、度が過ぎてくる。神話的記述から見いだせるのは、宣長が最初にそれを試み、折口がまたそれを胸中に照らして語ったわけだが、日本人の言葉にひそむ魂のありかたばかりなのである。これは世界史的日本像のためではなく、日本的世界像の彫琢である。
それならでは、アマテラスやヤマトタケルは日本建国と関係がないのか。また、1世紀の「漢委奴国王」という王や2世紀の「倭国王師升」という王や3世紀の「卑弥呼」は日本誕生のシンボルやリーダーではないのか。
残念ながらこれらを日本史の起点にするだけの論証は、多くの仮説はあるものの、まだなされていないというのが現状である。けれども、だからといって放ってはおけまい。
呼称を「日本」にするか、「倭」や「倭国」や「大和」にするかという峻別は歴史学上では重要で、それを曖昧にしたため近現代の日本が「孤立する日本」に向かっていったのだけれど、そこをちゃんと見極めたうえでいうのなら、問題はもはや呼称ではなく、そこに流れる「母型」の追求であるべきなのである。母型でわかりにくいなら、母国でもよろしい。祖国でもよろしい。その母国や祖国をふくむ歴史的な母型の醸成にあたって、いったいどのくらい他国や他民族の関与や影響があったのかということ、そこを新たな問題にするしかないはずなのだ。
仮にその母型を福士孝次郎のごとく「原日本」というとすると、その原日本はそれに先立ついくつもの勢力や人材や生産力や交易力が複合したものにちがいなく、そうだとすると、どの時点で原日本が準備され、どの時点でそれが東アジア社会の承認をうけ、それがいつごろから列島の倭人や日本人の共通認識になったかということなのだ。また、そうなるにあたってどんな失敗をし、どんな「負」を引き受けたかということなのだ。
ぼくはそう思って、去年はNHKの人間講座で『おもかげの国・うつろいの国』という話をしてみた。この試みは母型をダイレクトには追わないで、それが「面影」として母国漂泊するほうから見ていこうとしたものだった。いわば「方法としての母型」にとびとびの光をあててみた。それなりの語りはできたつもりだった。
けれどもそういう試みをすると、一方では、もっと直截な歴史的母型の追求に徹底したくもなってくるものなのである。とくに日本において母型がなかなか成り立ちにくくなった事情をはっきりと知りたくなってくる。
今夜とりあげた一冊は、かつてぼくがそうした喉の渇きをもっていたころ、同じ著者の『倭国』(中公新書・1977)を読んだときの納得感にもとづいている。それを今夜は『倭国』ではなく、あえて『日本史の誕生』にしたのは、このほうが多くの読者には読みやすいからだろうという、その一点だけの理由によっている。
最初に印象をいっておくが、本書はいささか粗雑な記述ではあるものの、そのぶん快速である。表題がセンセーショナルだったことも手伝っていろいろ影響力を発揮した話題の一冊だった。
著者は満州史・モンゴル史が専門の東洋史学者である。中国、とりわけ天孫一族のルーツといわれてきたツングース系の歴史や地誌や社会経済に詳しい。その後、『倭国』で古代日本史に新たな視野をもちこみ、西アジアから全世界史の展開を大きなスケールで説いた『世界史の誕生』(筑摩書房)では胸のすく仮説史観を披露した。
『倭国』や『世界史の誕生』や本書『日本史の誕生』が発表されたあとのさまざまな日本社会論や日本文化論を読んでいると、その影響が少なからぬものだったことが伝わってくる。湯浅赳男の力作『日本を開く歴史学的想像力』(新評論)や鷲田小彌太の挑発的な『日本はどういう国か』(五月書房)などはそのひとつだったろう。
では、以上をまえおきとして、本書が描写したところの骨太のストリームを紹介しておきたい。
著者が貫徹した視点は、中国の歴史の一部として日本を見るということである。
この見方は、日本という母型の成立に注目しようとする者にとっては最も反対の極にある見方にあたるようでいて、実は母型を見定めるにはかなり有効な座標を提供してくれる。対抗軸や対称軸が鮮明になる。ジャック・ラカンではないが、東アジアの鏡像過程としての日本が見えてくる。
東洋史というのはもともとそういう視野をもつ学問だから、このような視点をもった試みは内藤湖南や白鳥庫吉このかた、なかったわけではない。中国神話や朝鮮神話、さらには東アジア神話と日本神話を比較して古代日本の王権確立構造に光をあてようとした試みも、古くは三品彰英から70年代の大林太良まで、少なくはなかった。なかでも鳥越憲三郎や吉田光男による東アジアを睨んだ倭人研究、あるいは福永光司の道教研究による天皇像のルーツの追跡、萩原秀三郎の稲と鳥に視点をしぼった比較などは興味深かった。数々の話題をさらった古田武彦の大胆な古代史仮説もずいぶん読ませてもらった。
しかし、歴史学として中国史やアジア史のなかに古代日本史がちゃんと確立されたことはなかったのである。宮崎市定さんもそこは確立しないままに研究を終えられた。いっときは江上波夫の騎馬民族説も話題になったが、さきごろ亡くなった佐原真さんの決定的な批判をはじめ、これはいまでは認められていない。
ところが、著者はこうした試みにもまったく満足していないのだ。そこに考古学や民族学や宗教学がいたずらに交じってきて、混乱してきたと見る。言語学を借りたり出土品だけで議論をするのも気にくわない。文献に頼るべきだという。ぼくは考古学資料に頼ってもいっこうにかまわないとおもうが、先だっての藤村新一石器捏造事件のこともある。出土品のすべては歴史の証拠品だと見過ぎるのも、たしかに危険なのである。
一方、文献だってどのように読むかで立場はいくらでも変わる。著者によると、アジア文献の解釈が日本学者のなかでとんでもなく混乱しているという。著者は中国史料の批判に厳密で、歴史記述というものの本来の意図を汲まないかぎりは、解釈がいくらでもまちがっていくと警告する。
たとえば『魏志』倭人伝をめぐる邪馬台国論争がその大きな愚の骨頂だったと断罪する。中国は文字の国である。その文字による歴史記録をどう解釈するかが徹底されなければならない。ざっとこうした理由で、著者は、秦の始皇帝が中国を文字統一したところからあらためて日本を見ようというのだった。
紀元前221年が秦の統一である。まさに弥生後期の日本(倭)が新たな動きをはじめようとしていた時期にあたる。日本列島はこのあと急激に稲作技術が入ってきて、鉄器が普及し、さらには文字を知らない弥生人にとっては呪力ともおぼしい漢字やハイテクノロジーが届くようになって、大きく変貌した。このときいったい何がどのようにおこったのかということだ。いや、中国や朝鮮に何がおこり、そのことが日本に何をもたらしたのか。
だいたいは次のような位置づけ、意味づけになる。本書より稠密で濃厚な『倭国』の記述をまじえて、以下、やや話が長くなるが、ざっと整理してみる。なお著者は「韓半島」という用語をつかっているのだが、ここでは朝鮮半島にしておく。必要なところはぼくの補充もまじえておいた。
中国と朝鮮と日本の関係において、いちばん重要な地域は遼東である。そこから中国は皇帝の意思を東方社会に波及させようとし、朝鮮はそこから自分たちの国を築こうとし、日本はそこへ至ることが最終的な拡張だと考えた。日清・日露の喧噪の発端、満州事変の企図などをおもえばいい。
歴史上、遼東や朝鮮が中国の史書に最初に姿をあらわすのは紀元前334年になる。『史記』蘇秦列伝には、東周の弁士であった蘇秦が燕の文侯を説いたときのこの年の言葉に「燕は東に朝鮮・遼東があり、北に林胡・楼煩があり‥」とあって、このときすでに朝鮮半島の北部が燕国の支配下に入っていたことをあきらかにしている。その後、燕は昭王の時代に勢力をのばし、北部朝鮮から南部の真番へも睨みをきかすようになった。
燕は遼東から朝鮮半島の深部に入りこんだのだ。ただし紀元前226年に、秦の軍事力が燕の都の薊城(北京)をおさえてからは、燕は遼東に後退し、いったん滅亡する。一方、秦はその翌年には斉も滅ぼして勢力を拡張した。ここに立ったのが始皇帝である。始皇帝は天下を分けて36郡とすると、そのひとつに遼東郡をあてた。『史記』朝鮮列伝には「遼東の外徼(がいきょう)に属した」とある。
ここからドラマが始まる。
始皇帝の中国統一とは、陜西省の咸陽を中心とした群県制による商業都市ネットワークが整ったという意味をもっている。咸陽には総合商社にあたるような本部としてのガバナンスがおかれ、そこから支店網が各地にのびた。
支店というのは城郭都市で、四角四面に城壁をつくり、東西南北に四門をひらいた。これが「県」である。「県」は「懸・系・係・繋」と同様、首都に直結するという文字である。したがって県の中核部は自然発生した集落や都市ではなく、人工的に建設された軍事都市であって、交通の要衝ゆえに殷賑をきわめる市場ともなった。直結とはいえ遠方の県となると監督不行き届きになるので、途中に「郡」をおいて行政管理と軍事発動力をもたせた(重要な県を郡に仕立てた)。「郡」は「軍」でもあったのである。その群県の司令官が郡守(のちに太守)で、その下に県令が配された。
城壁のなかには戸籍をもった軍人・官吏・商人・手工業者・使役人などが住んだ。この戸籍保有者が中国でいう「民」というものにあたる。つまりは中国の皇帝にとっては戸籍保有者だけが帝国臣民としての「中国人」なのである。他方、中国人でない者は城壁の外にいるノン・チャイニーズとされて、その居住地域の方面によって「蛮・夷・戎・狄」などと蔑称でよばれた。これは人種の差ではなく城郭都市内に戸籍をもったかどうかで決まる。
こうして秦は群県制を拡張していったのだが、12年後には各地の反乱で統一が破れると、それまで衰微していた諸国がいくつか再興されてくる。燕もそのひとつである。
ドラマを続ける。
諸国台頭のなか、その一つの漢が諸国を平定すると、紀元前141年に武帝が即位し、ふたたび群県制(=郡国制)を強固に確立するようになった。西のローマ帝国に比肩して東アジア最大の版図をもつにいたった漢帝国の誕生である。
中国の皇帝というのは定期市の商人団の頭目を原型とする古代の王が巨大化したものだから、それ自身がヒエラルキーの頂点にいる商人の親分のようなものであり、同時に金貸しの親分だった。政府は農産物を徴収して「租」とし、役人や軍人の費用にあて、商品には「税」を課してこれは皇帝の収入にした。したがって中国の税関は政府ではなく皇帝が直営していたとみたほうがいい。
漢の武帝はそれこそ典型的な事業型皇帝であって(ようするに親分中の親分)、帝国の外で営まれた商取引も手中に収めることを狙い、みるみるうちに南越王国から西域諸国まで征服した。そのうち、残る事業相手は朝鮮半島方面のみということになってきた。
これに先立つ高祖の時代、漢は燕を圧迫して遼東を直轄地にしてしまっていた。このとき燕人の満(衛満)は亡命して一千余人とともに東方に走って清川江を渡り、しだいに真番の民や朝鮮の原住民を役属させつつ、王険に都した。のちの平城(ピョンヤン)である。このときは漢がまだ四方に目を配らせる余裕のなかったころで、やむなく漢の遼東太守は満と契約をむすんで同盟国とした。おかげで満のほうは漢の軍事援助と経済援助をうけて発展する。これがいわゆる「衛氏朝鮮」、すなわち最初の朝鮮王国の確立にあたっている。
朝鮮史ではこの衛氏朝鮮(衛満朝鮮)の確立以前を「古朝鮮」という。古朝鮮には檀君神話(檀君の王険によって国がおこったという建国神話)による君長社会があった。
衛氏朝鮮の成立は、漢と朝鮮の関係を初めて安定させた。周辺部も活況を呈する。満州地域には扶余がおこって、松花江流域の平野地帯に成長していった。少しのちのことになるが、高句麗も芽生えた。扶余から南下した部族が鴨緑江近辺で成長していったのである。
が、漢帝国の勢力が大々的に四方におよぶようになると、事態は変わっていく。紀元前110年、武帝は山東省の泰山に封禅の儀式を挙行して、いよいよ東方海上経営に乗り出し、ついに衛氏朝鮮を制圧してしまうのである。こうして紀元前108年のこと、武帝はここに楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡をおく。楽浪郡は西北地方、臨屯郡は半島に沿って南北に細長い地方、玄菟郡は鴎緑江から大同江までの遼東にあたる。
問題は半島南部の真番で、ここの動向が日本列島にいったん突き刺さったのである。その話はあとでするが、ともかくもこの時点で、朝鮮半島を縦断する政治ルートと貿易ルートは完全に漢が掌握することになったのだった。ここまでは一本道である。
武帝は長生きをしすぎたと著者は書いている。実権が長きにおよびすぎたのだ。紀元前87年に71歳で武帝が死んだとき、さしもの漢帝国も古代ローマ帝国同様にヒビだらけになっていた。重税と苛酷な労役、農業生産力の低下、食糧不足などが続き、人口も半減してしまう。
8歳の昭帝を輔佐した大将軍の霍光(かくこう)は、経費ばかりがかさむ辺郡からの撤退を決め、臨屯郡と真番郡を廃止する。あげく、その管轄下の15県は整理統合されて、すべて楽浪郡のもとに移管された。こうして、楽浪郡は中国人が流れこんでいくセンターとなり(燕人が多かったが、山東半島から斉人や越人も入ってきた)、一方で朝鮮半島と日本列島の"主権"を左右するセンターになっていく。
さて、ここからが今夜のテーマをゆさぶる問題になっていく。時代は紀元前から紀元後のはざまにさしかかっている。『漢書』地理志に「楽浪の海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す」と書かれたのは紀元前20年のころの状況だが、ついにここに「倭人」の名が登場するからだ。
いったい「分かれて百余国」は日本誕生なのか。それとも、何かの産声だけなのか。
問題を整理しておくと、第1に、この時点で朝鮮半島にいたのは二種類の原住民と中国人だった。二種類とは大きく区分して、平地農耕民と山地狩猟民をいう。中国人は先行したのが燕人、あとから斉人・越人が交じった。
第2に、この中国人たちは主に燕の系統の言葉をつかっていた。紀元前後の漢の揚雄の『方言』という書物には、「燕の外鄙、朝鮮冽水の間」とあって、遼東・遼西・楽浪が同じ言葉を話していたとしるされている。第3に、ここでは朝鮮系であれ中国系であれ、都邑がことごとく中国化していった。古代シノワズリーの流行だ。とくに商品流通において、いわば「都ぶり」が流行した。
第4に、これらのことが南方部のかつての真番郡の地域にまでおよびはじめた。とりわけ洛東江の渓谷地域には次々に中国的な感覚の集落やキャンプ都市ができて、そこへおそらくは燕人や越人が先頭をきって流れこんでいった。
そして第5に、この南方部に交じっていったのが倭人だった。
こうした半島状況のなか、本場中国では前漢が低落して、漢の帝室の外戚にあたる王莽(おうもう)が儒教の古文学派の革新思想をかかげて知識階級をまきこみ皇帝となり、国号を「新」と改める。もっとも在位はわずか15年、そのあと十数年をへて中国の再統一をはかったのは後漢の光武帝だった。
光武帝が帝国の版図を再統一した当初は、後漢は人口が減ったままの状態にあって、経済力も復旧していない。そこで光武帝は経費を節減するためにも、遠方各地の首長に名誉総領事のような役名を与えて、その地域の安定をまかせ、中国商人の交易の保護の責任を負わせるかわりに、その首長の機関を通さないとほかの者が交易できないようにした。
光武帝は半島南方部に恰好の名誉総領事候補を発見する。このとき光武帝がその首長候補に与えたのが、西暦57年の「漢委奴国王」の金印印綬だった。これが東アジア史上、初めての「倭王」の登場である。
もっもとこのことはたしかに倭王の起源を示しているのであるが、倭国という統一国があってその首長が倭王を名のったのかといえば、そうではない。中国側が「倭王」というポストをつくって、その地域の貿易の独占権を認めたということなのである。著者はそこを強調する。
その意味は、このあとの107年に「倭国王師升」が後漢の朝廷に朝貢して、生口160人を献じたという『後漢書』東夷伝が記述した出来事にも如実に浮き彫りされている。教科書では、このことが後漢と倭国の関係深化の始まりと説明しているが、そういうものではなかった。これは光武帝後の4代のちの和帝の皇太后が治世の苦境に立っていたとき、なんとかその権勢を誇るために見せた最後のポリティカル・ショーだった。それに「漢委奴国王」が誰であるか、「倭国王師升」がどの倭王であるか、それを確定する決め手もない。
しかし後漢の隆盛もここまでで、やがて184年に黄巾の乱がおこると(道教的な太平道や五斗米道の運動から挙兵にまでおよんだ)、中国は分裂しはじめ、そのなかの魏・蜀・呉が鼎立して『三国志』の時代になっていく。この中国の混乱が、次に倭王の特定をもたらしていったのである。
黄巾の乱は朝鮮半島にも少なからぬ影響をおよぼした。ひとつは、混乱に乗じて遼東郡の太守だった公孫度が後漢王朝から勝手に自立すると公孫氏政権をつくり、楽浪郡を支配下においたことである。息子の公孫康は楽浪郡の南方に新たな帯方郡を設置した。
もうひとつは、楽浪郡とその周辺にいた中国人が危険を恐れてさらに半島の南に避難するようになり、その一部は華僑となっていったことである。そのなかには、当然、海をこえて日本列島に渡ってくる者たちもいた。
一方、朝鮮民族のなかでも変化がおこっていた、北部ではすでに高句麗の勢力が強くなっていたのだが、西海岸から南部にかけては韓族が力を増して、いくもの小国を形成しつつあった。それが大別しては「三韓」とよばれる馬韓・辰韓・弁韓になる。馬韓だけで50余国、辰韓・弁韓でもそれぞれ12国が分立していた。
それだけではなかった。まさに同じころ、日本列島の南部でも混乱がおこっていた。いわゆる倭国大乱である。
『魏志』倭人伝に、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王となす。名は卑弥呼という」としるされた、あの大乱だ。「分かれて百余国」だった倭国がそれなりにリーダーを立ててきたのだが(このリーダーを大王=オオキミとするにはまだ早いのだが)、それがここにきて乱れ、内乱がおこり、やむなくそれまで慣例であった男王に継がせることができないので、諸国が共立して少女の卑弥呼を女王に仕立てたというのだ。2世紀後半のことである。
卑弥呼は鬼道に仕えていたというのだから、あきらかにシャーマンっぽい。男王の条件ともちがっている。しかし逼迫した事情のもとでこういうことがおきたということなのだろう。
これらの中国・朝鮮・倭で別々におこったかのような動向は、どうも連動している動向である。すべては黄巾の乱から三国鼎立の未曾有の混乱影響圏でおこったことだった。ということは、卑弥呼の共立はとうてい倭国の自立を意味してはいないということになる。だからこれをもって日本誕生とはいいがたい。北九州にあったか畿内にあったかはべつにして、卑弥呼の「邪馬台国」は分国にすぎなかったのだ。しかしそれでも、倭王に代わるシャーマニック・エージェントともいうべき卑弥呼という名は特定されてきた。
三韓の鼎立もむろん朝鮮の統一的動向ではありえない。公孫氏政権もいつまでももたなかった。魏がこれを討った。3世紀の東アジアはこのように、すべてがすべからく小国分立状態なのである。このあたりのことを理解していないと、日本誕生のドラマが早送りされすぎることになる。
では、ここからは三国志と帯方郡と倭国のネステッドな話になっていく。その前に、著者が本書でくりかえしのべていることをかいつまんでおく。それはなぜ『魏志』倭人伝の読解がさまざまな曲解を生んで、いまなお議論がかまびすしい邪馬台国論争や卑弥呼論争をつくってしまったかということだ。
『魏志』倭人伝は、正史『三国志』のなかの『魏志』烏丸・鮮卑・東夷伝の一部である。本紀に対する列伝の、そのまた一部にあたる。列伝は中国皇帝の立場から見た関係意識をもってのみ綴られる。それ以外の関心はない。武田泰淳の『史記の世界』がとっくに喝破していたことだ。『魏志』の著者というか、編集統轄者の陳寿もそのような目で紀伝体をもって綴った。
むろん陳寿の前には原資料があったろう。原資料は発見されていないが、おそらく魏の官吏が中央政府の命令で倭国の女王と交渉したことが記録されていたとおもわれる。240年に梯雋(ていしゅん)を、247年に張政を送った。梯雋は帯方郡の大守弓遵の子分で、張政は帯方大守・王沂の子分である。この二人は命令系統が異なるため記述や描写に差異がある。著者は、こういうエクリチュール上の原因があったので、陳寿の記述による『魏志』倭人伝にはもともと統一感がないのだという。それが邪馬台国論争や卑弥呼をめぐる読解曲解議論を沸騰させたのだと見る。
ついでにいえば、倭国の記述が『魏志』に多いのは、魏がこのころに三国のなかで優位をもっていたからだった。魏は202年に曹操が死んだあとを曹丕が継ぎ、自身が皇帝となって文帝を称し、その後を明帝が司馬懿を中心に勢力を拡張していった。司馬懿というのは、『三国志』に有名な、例の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の仲達のことである。司馬懿は魏軍の総大将であって、今夜の文脈では、その別動隊が山東半島から黄海を渡って朝鮮半島に上陸し、楽浪郡・帯方郡を征服してたということが特筆される。
公孫氏政権を壊滅させたのは魏の明帝と司馬懿だったのである。その直後、明帝が死ぬ。
さて、話を戻して、倭国のほうはどのようになっていったのか。
卑弥呼はちょうど明帝が死んだ239年に難升米(なめし)と牛利らを帯方郡に派遣して、魏の天子に謁見して朝貢することを求めた。帯方郡の太守の劉夏はこれに応じて役人をつけ、難升米らを魏の都の洛陽に送りとどけた。
その直後、魏の皇帝が卑弥呼に詔書を与えた。『魏志』倭人伝には「卑弥呼を親魏倭王に制詔する」とある。金印紫綬もした。難升米や牛利には銀印青綬をして、それぞれを率善中郎将・率善校尉に任命した。一見、倭国が国として認められたというふうに思いたくなるが、この「親魏倭王」の称号は大月氏の首長がもらった「親魏大月氏」の称号に並ぶもので、魏が敵対する蜀・呉を牽制するため、その背後の大月氏と倭国とを厚遇したという意味をもつ。「遠交近攻」は中国古来の戦法なのである。その作戦司令官が司馬懿なのである。
そうだとすると「親魏倭王」をつくっておくことは、司馬懿の魏軍が扶余・沃沮・韓に進軍して帯方郡を解体しながら朝鮮半島を掌中に収めようとしていた作戦の一環だったと読めてくる。卑弥呼は外部承認された首長だったのだ。名誉総領事だったのだ
司馬懿はこのあとの249年にクーデターをおこして魏の実権を握った。さらに長男の司馬師、次男の司馬昭、その長男の司馬炎がこれを系統して継いで、256年に魏の元帝を退位させると、自身が皇帝となった。これが晋(西晋)の武帝である。
ここで、著者はふれていないのだが、卑弥呼をめぐって一言はさんでおく。
卑弥呼についてはそれこそ数々の仮説がでているが、最近は卑弥呼をヤマトトトビモモソヒメ(百襲姫)に擬定する説が流行していて、その奥で実務政治をおこなっていたのが崇神天皇ことミマキイリヒコではなかったかとも言われる。奈良の箸墓(はしはか)も卑弥呼の墓ではないかというのだ。
これはあきらかに卑弥呼畿内説になるのだが、なぜこういう説がでてくるかというと、崇神紀にこういう記述がある。当時、疫病や飢餓や犯罪が横行していたので、崇神はこれは何かが原因になっているとおもう。きっとアマテラスやオオクニタマを宮中に祭っているのが畏れおおいことだったのだろうと気づき、まずアマテラスを笠縫邑(伊勢)で祭らせた。けれどもなかなか事態は収まらない。そのうちモモソヒメに神意があって、オオモノヌシ(大物主)を祭ればいいと告げられたのでそうしたところ、今度はオオモノヌシが神意にあらわれて、オオタタネコ(大田田根子)を探しだせ言われた。それで三輪山にオオモノヌシを鎮座させてみると万事が収まった、そういうことが書かれているのである。
すぐ察しがつくように、ここには伊勢・三輪に神祇を確定した事情が描かれている。つまり、後世の正当化かもしれないものの、崇神の時代に神祇制度の原型ができあがったと読めるのである。しかもモモソヒメがシャーマンの役割をはたしていることも描かれている。途中の説明は省くが、それならモモソヒメが崇神を扶けて伊勢と三輪の均衡をはかったのではないか、それが卑弥呼だったのではないか、そこにオオタタネコも関与して箸墓も造成したのではないか、そういう仮説なのである。
ついでにいえば、台与は崇神の皇女とされるトヨスキイリヒメ(豊鋤入姫)ではないかというまことしやかな説もある。ぼくは興味津々だが、本書の著者にはあずかり知らぬことだろう。
ともかくも以上を巨視的に見ると、3世紀の東アジアは大筋では中国人の力が分散しきっていた時期で、そのぶん逆に中国社会の小モデルが各地に波及していったことが大きな特色だということになる。
著者は、これは古代ローマ帝国の末期とそっくりで、ゲルマニアやブリタニアが東アジア各地に分立してきたようなものだと見ればいいという。そうなると、焦点はただひとつ、半島最南部と分立倭国との関係である。
朝鮮半島最南部はまだ馬韓・辰韓・弁韓の三韓が並立している。馬韓はシノワズリー度が低い区域で、大きい集落の首長は臣智、小さい集落は邑借と自称するリーダーがおさえていた。ただし、ぼくはこのことには関心をもっているのだが、馬韓の諸国には別邑があってこれを「蘇塗」(そと)とよび、そこでは大木を立て鈴や太鼓を掛けて鬼神を祀っていたことである。どうもここにはその後の日本の祭事や民俗にもたらした影響がうかがえる。
辰韓・弁韓はそれぞれが12国に分かれていた。『魏志』東夷伝では「大国四、五千家、小国は七百、凡て五万戸」と書いている。また馬韓には城郭がないのだが、辰韓・弁韓には城柵や城郭があったともしるした。言葉も馬韓と辰韓・弁韓は異なっていて、著者によるとむしろ辰韓・弁韓の言葉は古い中国語に近かったのではないかという。
これについては、秦の始皇帝のところで説明した城郭ネットワークのことを思い出し、そこに中国の地誌や朝鮮の地理を重ねあわせて考えるとわかりやすい。ちょっと時計の針を戻したい。
もともと郡県制ネットワークは内陸の水路沿いに広がっていて、その起点あるいは中核交差点は、陜西省の渭河の渓谷の咸陽や、のちの前漢・唐の長安(西安)にあった。農業生産力に富み、人口が集中しても受けいれられる余地があったからである。
しかし実際の中国文明の歴代センターは河南省の洛陽にある。その意味は中国大陸の地誌を見ればわかる。
洛陽から東には黄河流域の広大なデルタ地帯が広がっている。けれども黄河はつねに大洪水をおこす暴れものでもあって、洛陽の東には容易に人は住みつけない。塩分が多いし、土砂の沈殿が動く。仮に堤防をつくっても決壊すれば、北は北京から南は徐州にかけて一面の泥水が浸透する。そんな低地に居住はむりなので、古代の集落は太行山脈の麓からはじまった。
その黄河流域のところで、中国は南北で断絶する。それでも、その流域のなかでいちばん南北に渡りやすかったのが洛陽近辺だった。ここをなんとか渡れば、南に向かうと漢江をくだって湖北省の武漢に出られ、長江(揚子江)の水利を使える。そうすれば武漢から湖南省の浙江に向かうことができるし、さらに漓江から西江を利用して広東省の広州にまで行ける。ここから先は南シナ海である。船を駆ってインドシナ半島の海岸線を南下してマレー半島へ、さらにはマラッカ海峡をまわってインド洋に航海できる。これがいわゆる中国古来のことわざ「南船北馬」にいう「南船」ルートになる。
洛陽をコンパスの中心にして、中国が北と南に分かれるということ、これが重要なのだ。
それゆえ、洛陽から黄河を渡って北に向かえば、太行山脈の山麓から黄河デルタを回遊して北京のほうに行く。北京が一応の終点で、そこからは西北に向かっていけばモンゴル高原になる。古代シルクロードの起点だった。これが「北馬」のルートである。
では他方、北京から東北に進むとどうなるかというと、山をひとつこえて大凌河があって、ここを東にくだると凌河デルタの西側に出る。ここを北に迂回して瀋陽(のちの満州国奉天)で凌河を東に渡って南へ行くと、遼陽から大同江の河畔の平壌(ピョンヤン)に入る。いまは金正日(キム・ジョンイル)の北朝鮮の牙城になっている。
その平壌には、山東半島から黄海を渡って大同江に入ることもできたし、船でも行けた。だからこそ中国政府は平壌から陸路と水路をつかって朝鮮半島に進出できたのである。実際にも歴代中国皇帝がとった戦略は、平壌に前線基地をおいて朝鮮半島や日本列島の市場を狙うということだった。
平壌から半島内部に進出するには水路がいい。大同江を下って載寧江という支流に入り南に向かい、ここが難所だが、瑞興で滅悪山脈を越える。そうすると礼成江から江華島に出られる。ここで西に進路をとると黄海になってしまうので、東へ曲がって漢江に出る。そうすると漢江の北岸がソウル(京城)、南岸あたりがのちに百済の最初の王都となった広州である。
さらに漢江を南にさかのぼり、忠州から小白山脈を鳥嶺峠で越えて洛東江をつかって南に向かっていくと、のちに「任那」あるいは「六伽耶」「駕洛」などとよばれた国がある。河口が金海という町である。いまの釜山にあたる。金海は『魏志』東夷伝では狗邪韓国ないしは弁辰狗邪国・金官駕洛国ともよばれた。金海からは晴れていれば対馬が望めた。
いささか地誌に繁雑になったけれど、辰韓・弁韓とは、この古代郡県ネットワーク体制の東南の終点の名残りなのである。それゆえここには意外にも初期の古代中国語が残っていたのだ。それだけではなく、この遺風をのこす弁辰狗邪国や金官駕洛国と倭人は重なるように活動することになったのだ。
ふたたび話を大筋に戻し、スピードをあげてこのあとの話をまとめていくと、魏の司馬懿にお役目をもらった卑弥呼は247年ころに死んだ。長命だったリーダーの死は動揺をもたらす。
そこで男王を擁立してみるのだが、「国中が服さず、誅殺しあって一千余人が殺されてしまった」。やむなく卑弥呼の宗女の台与が13歳で女王に立ったところ、なんとか平穏になった。よく知られているだろう『魏志』倭人伝の記述だ。
この時期は『三国志』でいえば、ちょうど魏が蜀を滅ぼしている時期にあたる。また、著者は書いていないが、纏向(まきむく)型の前方後円墳があらわれる時期になる。ついで台与が死んで、かつての慣習に倣ってやっと男王(名称不明)が立つのだが、これは魏が名前を変えて西晋がおこった時期になる。分立倭国はこのときも西晋の武帝に献上品をもっていっている。
このあと西晋が呉も滅ぼして、久々に中国の統一がはかられた。それが280年のこと、分立倭国ではこの時期に巨大前方後円墳の定型が確立したことがわかっている。たとえば箸墓がそれである。またこの時期に、三角縁神獣鏡の製作が本格的になっていた。
いよいよ日本誕生かと思わせるのだが、なぜこの時期にそのような機運が定着しつつあったかというと、真相はやはりのこと、中国にまたまた大波乱がおこっていて、とうてい東アジア社会の安定には手が続かなくなったからである。倭国の自立力のせいではなかった。
それが西晋に八王の乱がおこり、さらに匈奴が動いて撹乱が広まって、中国全土がいわゆる五胡十六国の時代に突入するというアンステーブルな事態である。
朝鮮半島もこの機をのがさない。高句麗が長期にわたって中国経営拠点であった楽浪郡を併合し、帯方郡をなくしてしまい、同時期、新羅と百済が次々に建国をはたしていった。辰韓のなかから新羅が、馬韓のなかから百済がその姿をあらわしたのだ。
こうして約400年にわたった中国郡県ネットワーク体制による手を替え品を代えた朝鮮半島経営は終焉した。
これで分立倭国はいよいよ高句麗・新羅・百済との運命を共有することになるのだが、その一方で倭のなかでも有力豪族になりつつあった大王家は、のちの初期大和朝廷のコア・コンピタンスを支えることになる三輪山祭祀をとりこみつつあったということを付け加えておきたい。さきほど卑弥呼のところで話しておいたことである。日本列島は謎の4世紀に突入している。
新羅と百済が分立倭国にどのようにかかわったかの経緯は複雑である。高句麗がからんで四つ巴になっていく。
新羅は辰韓12国のひとつの斯盧(しら)国が発展したもので、拠点は現在の慶州にあった。王家は金姓を名のる。おそらくは金官国の王家の名称をとりこんだのだろうとおもわれる。五胡十六国のひとつの前秦に朝貢していた。百済は馬韓のひとつの伯済(はくさい)国が発展したもの、やはり五胡十六国を切り抜けた東晋に対して朝貢して、冊封関係をもっていた。
ここから先の四つ巴の推移は比較的よく知られているので、詳しいことは省くことにするが、重要な事件が二つある。この二つの事件を通して、倭国はいわゆる「倭の五王」の時代になっていく。
ひとつは『日本書紀』神功皇后紀に書かれてあることで、364年に百済の使者3人が卓淳国(いまの大邱市)に来て、卓淳王に倭国への道を教えてほしいと頼んだ。卓淳王は自分も知らないから倭国から人が来たら聞いてみると約束する。そこへ366年に倭国の使者の斯摩宿禰(しまのすくね)が来たので、さっそく従者を知らせに走らしたところ百済王はよろこんで、367年に倭国に朝貢してきた。このとき新羅からの朝貢もあったのだが、百済の朝貢物が見劣りする。わけをただすと、百済の使者は新羅の者に監禁されて貢ぎ物をすり替えられたのだと告げた。そこで倭国は千熊長彦を送って新羅を攻めたというのである。
この話は続きがあって、倭国は新羅を攻めようとしたのだが、兵力に不足を感じて百済に援軍を出させた。百済は木羅斤資を派遣してともに新羅に進軍していったところ、勢いついて全羅南道の四邑が倭国百済連合軍に屈した。そのときの記念品として、百済から372年に七枝刀が送られてきたというのだ。
著者はこの話にはさまざまな加工があるという。けれども七枝刀はいまも石上神宮に現存しているので、おそらくは百済と倭国の軍事上の同盟関係が結ばれたところまでは事実だろう。
もうひとつの話は、「広開土王碑」(好太王碑)に刻まれたことや『日本書紀』応神紀に書かれたことである。
つまり、百済が南下をはたそうとする高句麗と戦闘状態になるにあたって、百済は倭と結んだ。ところが百済の辰斯王が倭王に無礼だったので、倭王が紀角宿禰(きのつぬのすくね)を遣わして責めると、百済は辰斯王を殺して詫びた。そこで紀角宿禰は辰斯王の兄の子の阿花王を立てて帰った。しかしこのあと高句麗の巻き返しが始まった。
396年、高句麗の広開土王はみずから水軍を率いて百済を攻略し、その国城に迫った。百済王はあわてて生口(奴隷)などを差し出し、今後は永久に奴客となろうと言わざるをえなくなる。倭国はこれにだちに反応して百済を自分の陣営に引き戻し、高句麗に対峙する。ついでに新羅にも先制を仕掛けた。
ここまではよかったのだが、ここで高句麗の第2次南進が盛り返してきた。倭軍は退却して任那加羅の従抜城に後退した。これで高句麗は優位に立つ。けれども南進したぶん後背の守りが薄れ、そこへ燕王の慕容盛が3万の兵で攻めこんできた。これは最初のほうにのべた燕の末裔で、このときは後燕とよばれている。高句麗は困って後燕とも闘うのだが、そこへ倭軍が前方から襲った。それでも高句麗は善戦して倭寇を討ったというのだ。
この事件で、百済が倭王に無礼だったというのは、そのとき百済が高句麗に色目をつかっていたということ、高句麗が倭寇を討ったというのは言い過ぎで、このあと広開土王の死後には高句麗は倭国と和解をしたのではないかというのが、著者の推理である。
ともかくも、この二つの事件は4つ巴の出来事が高速に進んでいることを物語る。「昨日の敵は今日の友」というようなところも激しい。案の定、この事件ののち、高句麗の長寿王高連と倭王讃が連れ立って東晋の朝廷を訪問したのである。
ともかくも、倭国はこれをもってさまざまな準備期を体験したうえでの「倭の五王」の時代に入っていったのだ。
中国史から日本史を見たばあいの、だいたいの変遷はこういうことである。
謎の4世紀はおわって、時代は5世紀になっている。ここから先はどちらかというと東アジア史的な日本史像はそれほどぶれなくなってくる。言ってみれば、東アジアのグローバリズムと日本列島のローカリズムが、政治上は重なってきたわけである。たとえば、倭王讃と倭王珍が誰であるかはまだ議論が分かれるが、倭王済が允恭、倭王興が安康、そして倭王武が雄略天皇ことオオハツセワカタケルだということまではわかっているし、稲荷山鉄剣もワカタケルを大王と称したことを証かした。
中国は五胡十六国から魏晋南北朝時代に移っていて、倭の五王はそのうちの南朝の宋に対して遣使しつづけ、それぞれ安東将軍倭国王に任じられていた時期になっている。すでに北朝では北魏が立国していた。この時期、大陸・半島・倭国の大筋の出来事はかなり連動するようになったのだ。
しかし、この「倭の五王」をもって、あるいはそのラストランナーとなった第21代天皇の雄略をもって日本誕生が成立したとはいいがたく、日本自立がなされたとも、まだいいがたい。雄略が「大王=オオキミ」の一人であったことは動かないけれど、また倭国が東アジア社会でおおむね認知されていることは確定的であろうが、国内でこの大王によって統一がはたされたとはなお認めがたいのだ。朝鮮半島との同盟と確執のしがらみもまだまだ続くのだし、任那四県の百済への割譲もこのあとにおこる。
それに国として自立するというには何らの律令や条例がなく、ナショナル・イデオロギーとなるべき方針もない。われわれの祖国にそうした国家形成の種子となるべきものが入ってくるのは、少なくとも513年に百済から五経博士が来たのちのこと、さらには552年に百済の聖明王のはからいで仏教がやってきてのちのことである。
だいたい新羅の法興王が律令を制定したのが520年で、われわれの祖国がこのシステムを模倣したり踏襲したりするには、まだ時期が早すぎた。そのときはまだ新羅が金官国に進出しているというので、近江毛野の一軍をその阻止の戦力として送っていたときなのだ。
日本自立というなら、このあと、倭王は1世紀にわたって中国への朝貢をしなくなるのであるが、その6世紀中の変遷のほうにこそ自立の鍵がある。それになにより「倭の五王」の4代あとの倭王は、北九州でも畿内でもない越前から出奔した第26代の継体天皇ことオオドであって、この倭王ないしは大王は大伴金村を中心に物部麁鹿火や許勢男人によって擁立されたのである。こちらの出来事のほうが、大王をとりまくブレーン政権の条件が整いつつあったことを匂わせる。
「千夜千冊」としては、だいぶん長い変遷史になってしまった。もう一度、本書が強調していることにふれてしめくくりたい。
それは河内王朝のことである。河内王朝とは、難波に成立した仁徳天皇ことオオササギに始まる王朝のことをいう。むろん王朝といえるかどうかは議論の余地があるが、いまは河内王朝という名称をつかっておく。本書では、仁徳はさきほどのべた倭と百済と新羅と高句麗が4つ巴になった広開土王との連戦期の倭王であるとされている。例の七枝刀を贈られて倭王と承認されたのが仁徳だというのだ。著者は407年に死んだと想定する。
それで河内王朝だが、『日本書紀』では河内王朝は仁徳以降、その血統のまま履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧というふうに7代続いたことになっている。「倭の五王」がここにふくまれる。しばしば倭国はじまって以来の中国的王朝だともいわれてきた。はたしてそうなのかどうかということだが、著者はこのことは『宋書』夷蛮列伝を参照すべきだという。そこに倭王武が南朝の宋の皇帝に送った手紙のことが書いてある。
「昔より祖禰(そでい)は躬(み)に甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧(やす)らかに処るに遑(いとま)あらず云々」という箇所だが、この「祖禰」の読み方はこれまで祖先以来というふうに解してきたのはまちがいで、「禰」は雄略の祖父にあたる者をさす言葉だというのである。中国では「禰」は父祖の霊を祭る廟のことらしい。だから「禰」は仁徳の称号でもあったろうというのだ。
詮索はしないことにする。ともかくも仁徳の血統は雄略で頂点に達して、清寧で切れたのだ。切れたので、このあと継体が越前から大王一族のほうへ降りてきた。それなら仁徳と雄略を結ぶ河内王朝とは、南朝の宋と結んだめずらしくも世界史的(アジア史的)な王朝だったということになる。はっきり書いてはいないけれど、著者はそう言いたかったようである。
むろんこのような見方にも反論はいくらもありうる。たとえば、雄略とワカタケルはぴったり重ならないところがあるという説もある。雄略はオオハツセノワカタケルという名なのだが、稲荷山鉄剣ではたんにワカタケルである。また、記紀神話の雄略は「有徳の天皇」の像と「大悪の天皇」の像とが対立しすぎている。これは何か異なる人物がまじっているのではないかという見方もありうる。が、このような反論をふくめて、ぼくはひとまずワカタケル雄略に今夜の話の母型の誕生を見ておきたい。
『万葉集』の巻一の冒頭の歌は、雄略天皇の「籠もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ」であった。「この岳(をか)に 菜摘ます児 家告(の)らせ 名告(の)らせ」と続く。
この歌には古代ギリシアの英雄叙事詩にひそむ歌と同様の響きがある。もはやその話はしないけれど、ワカタケルの物語そのものが記紀神話のなかで最も英雄的になっている。ワカタケルが「有徳の天皇」と「大悪の天皇」という相克するイメージをもっているのは、英雄であって人間であることをあらわす。葛城山中で一言主に出会った出来事の記述からは、大王の自己同一性や鏡像的自己言及性を問うことが許されていたとも読める部分がある。
こうしたことから類推すると、ワカタケル雄略は実像がきわめて鮮明な日本史誕生の母型をもった最初の大王だったのだろうという気がする。
日本誕生ではなく日本史誕生の変遷を駆け足で追う紹介にとどまってしまったけれど、ひとまずはこの河内王朝がワカタケルにおいて大きな頂点を迎えていたこと、そこにぼくが追求したい日本の母型のひとつが象形されていること、そのことが東アジア社会のストリームとけっして無縁ではなかったことを言い添えて、今夜の話を打ち切りたい。ああ、しんどかった。
が、なんといっても最初にとりくむべきなのは『日本書紀』である。漢文であるから、素手ではむりだ。現代語でもいいので(たとえば宇治谷孟訳の講談社学術文庫など)、どうしても読んでおきたい。なお、数年前に森博達の『日本書紀の謎を解く』(中公新書)という本がでて、雄略起の述作には続守言という中国人の音博士がかかわったということがつきとめられていた。今後の読み方を変えるヒントとなった一撃だった。