父の先見
闇の奥
岩波文庫 1958
Joseph Conrad
Heart of Darkness 1899
[訳]中野好夫
ときに読書は歌人の上田三四二の言うバラストである。バラストは船の底荷のことをいう。ヨットや船の重心を下げ、船体が傾いたときの復元力を増すようにする。三四二は短歌を詠むにはバラストが必要だと説いた。
短歌にバラストが大事になっている以上に、読書でもバラストを読む必要がある。これに対応しているのはマストだ。風を孕んで進む。だからマストの読書もある。目印がはっきりしている読書だ。マストの読書もバラストの読書も、どちらも欠かせない。
バラストとしての読書はぐらっとさせる。ちょっと危険な感じがやってくる。けれども、自分の傾きかけた精神や心情や勇気のイナーシャ(慣性力)を、思い切って他方の極に振ってくれる。そうしたバラストを効かした作家は何人もいる。英語文学ではたとえばE・M・フォースター、T・E・ロレンス(アラビアのロレンス)、フォークナー、ヘミングウェイらが得意だった。今夜のコンラッドもその一人である。
ぼくは自分の甲羅に似せて土を掘る蟹ではありたくないので、好んでかれらを種痘のように接種する。読書の種痘はふつうの種痘よりかなり痛みをともなう。抗体になるのに時間もかかる。それは仕方がない。バラストが肉体や意識の底で動くからだ。
ジョゼフ・コンラッドは筆名である。本名はユゼフ・テオドル・コンラト・ナウェンチュ・コジェニョフスキという。なんとなく見当がつくかもしれないように、この名はポーランド人の名だ。船乗りだった。航海をしているうちに二十歳のころにイギリス船に乗りこみ、英語をおぼえ、イギリス船員として十六年を海上ですごして、陸上に戻ったときはイギリス人になっていた。
コンラッドがポーランド人で、一八五七年にいまはウクライナの田園地方に生まれたということは、コンラッドを読むには無視できない暗号である。ポーランドはたえず分割の宿命を歴史的に背負わされた国で、コンラッドが生まれた地方(ベルディチェフ)では母国語すらまっとうにつかえなかった。ポーランドを分割したのはロシア、プロイセン、オーストリアだった。
コンラッドの宿命はポーランドを背負ったにとどまらない。没落したシュラフタ(貴族)だった父親のアポロ・コジェニョフスキはポーランド独立運動の急進派で、一八六一年に政治秘密結社の摘発をうけて、一家全員が北ロシアの極寒の地ヴォログダに流刑にされた。母親は結核を患って三二歳で死に、父親もその四年後にやはり結核で死んだ。少年コンラッドはロシア、プロイセン、オーストリアを憎み、いつまでも祖国ポーランドに属せない日々をおくった。この幼い日々に刻まれた民族的感情は『密偵』『西欧人の眼に』(ともに岩波文庫)などとして、のちに浮上する。
十二歳で孤児となったコンラッドは母方の伯父に引き取られ、クラクフで大学進学までを用意されるのだが、そんなお定まりの方針には従えない。十六歳でドイツ・スイス・イタリアを旅行して、ヴェネツィアで初めて海を見てたまげた。十七歳でマルセイユに行ってフランス船の船乗りになり、二十歳で恋愛が決闘につながるのを知って、さきほども言ったように二十歳でイギリス船に移った。
コンラッドには大地がなかったのだ。前方に進むマストと揺れるバラストだけが青春だった。だから大地に憧れた。未知の大地アフリカに。
コンラッドを海洋作家とみるのはまったく当たっていない。そんなふうに見ていると、メルヴィルやヘミングウェイや香山滋を読みちがえるのと同様の禍根をのこす。たしかに海の描写はすばらしく、その表現は豪宕ですらある。しかしコンラッドは「負のポーランド」を通して、つねに侵蝕された大地を描こうとしていたといったほうがいい。その極致が『闇の奥』なのだ。
この作品はアフリカの奥地を描いた。そこに死んでいった男を描いた。そんな文学はかつてなかった。舞台はリヴィングストンやスタンリーのアフリカ探検記が世界の本棚に載った一八九〇年代。主人公は青年船長で、そこからもわかるように多分に自伝的である。数年前、ぼくは木宮直仁さんが訳した『コンラッド自伝』(鳥影社)を読んで、よくよくそのことを了解した。
コンラッドは三三歳のときに会社に雇われて「コンゴ上流開拓会社」の船長になり、暗黒大陸アフリカに入ることを決意する。目的は象牙採集の実態を見ることにあった。象牙は当時のヨーロッパ人が新しく発見した「財」だった。そこには黒人奴隷貿易が絡んでいた。
奥地に入っていくと代理人のクラインという男がいた。どうも実態がわからない。これが『闇の奥』の魔王のようなクルツ(Kurtz)であるが、コンラッドはコンゴの奥地を探検するにつれ、異様な興奮をおぼえていく。
『闇の奥』ではそれをマーロウ(これがコンラッド)がクルツを救済するという出来事に変えている。しかし救済は容易ではない。悪夢のような出来事が次々におこる。文明の斃猫たちに犯されたマーロウには、この悪夢とみえる出来事こそがアフリカの闇の奥にひそむアクチュアリティであることがわからない。
クルツという人物は『闇の奥』を異色に飾る登場人物だというだけでなく、二十世紀を迎えようとするヨーロッパの暗部を象徴する存在だった。有名な話だが、T・S・エリオットが『荒地』(岩波文庫)の「うつろな人々」に「クルツが死んだ!」の一行を入れたことは、二十世紀文学が「内なる闇」をどう抱えるかという方向を暗示した。
コンラッドはクルツを描くことによって“二十世紀のフローベール”の幕をあけたのである。けれども、作品にはクルツの実在の姿は描かれない。クルツを語る暗黒アフリカに蠢くものたちの言葉や感情や畏怖が描かれるだけなのだ。それが読む者に何かを切々と訴える。都会文明に所属する者の想像力をいっさい否定する存在学がここにはありうるのだという衝撃を、一挙に立ち上がらせる。
コンラッドは「文明の衝突」を描いたのだ。その衝突が人間の悪ではなく良心を露呈させることを描きたかったのだ。自然の猛威や文明の狂乱のなかで既存の価値観と経験が危機にさらされるときに、ついに精神が腐食する寸前に立ち上がるバラストとしての倫理のきらめきを描きたかったのである。
ぼくが『闇の奥』を読んだのは、岩波文庫にカバーがついていないころで(あのカバーは岩波最大の失敗だ)、読むうちに未知の魔力に引きずりこまれるような戦慄的な魅惑が、ぼくをこのまま透体脱落させてしまうのではないかと感じさせた。
話はチャーリー・マーロウという交易会社の社員が若い日に体験した見聞だけを書いたもので、ほぼ最初から最後まで一人語りになっている。
十九世紀のおわりのある日、船乗りのマーロウは各地の港を回ったあとにロンドンに戻り、しばらくぶらぶらしたのち、フランスの貿易会社に入社した。ちょうどアフリカ行の交易船に欠員ができたので、乗りこむことになった。一ヵ月以上かかってコンゴ近くとおぼしいアフリカ出張所に着いた。そこは黒人たちが大量の象牙を持ち込み、木綿屑やガラス玉と交換している隠れセンターだった。
そこで十日ほど待機しているうちに、奥地はクルツという男が仕切っていて、象牙を確保しているだけでなく、闇のような力をもっているという噂を聞いた。
隊商たちが到着すると、中央出張所までの三〇〇キロを隊商とともに徒歩で進んだ。これまで見たことのないような密林や草原や岩山のあいだを抜け、十五日ほどして中継地に着いた。中央出張所の支配人は「クルツが病気にかかっているようだ」と言った。船のトラブルのため出航を見合わせているうちに、またもクルツの噂を聞くことになった。けれども、詳しいことは誰も知らない。マーロウはそのクルツという男がたった一人でヨーロッパ文明の全部と対峙して、とんでもなく巨きな何かを背負っているような気がした。
ようやく蒸気船が息を吹きかえし、支配人、マーロウ、四人の使用人、現地人らとともにコンゴ川を上っていくことになった。文明が体験したことのないような密林を遡行していくと、突如として多くの矢がぶすぶすと飛んできた。すぐさまマルティニ銃で応戦するのだが、舵手が殺られた。この先にクルツの君臨する王所があるらしい。
このあたりからマーロウの話しぶりに熱がこもってくる。それとともに、まだ見ぬクルツの巨大な虚像のようなものが片言隻句の飛礫のごとくに読み手を襲ってくる。曰く、衝動、動機、能力、弱点が何ひとつわからない男。曰く、迷信、嫌悪、忍耐、恐怖がどのように付きまとっているのか見えてこない一団、曰く、饒舌、愚劣、狂暴、猥雑、残念がほとばしっているはずなのに静寂に守られている聖地……。
こうして船はついにその場所に着くのだが、マーロウにはその全貌がさっぱりわからない。クルツの崇拝者であろう二五歳の美しいロシア青年から、しきりに「クルツは神のような男なのだ」と聞かされた。クルツは象牙を略奪するため、湖畔に戦士の修養をさせていた。
やがて、「クルツが死んだ!」という声が聞こえてきた。マーロウはその直前か、臨死の場面にクルツに出会えたようなのだが、その描写はマーロウの語りからはしかとは読みとれない。コンラッドがそのように書いていく。このため、いよいよ真相をあらわすべき最終場面になって、この物語はまさに『闇の奥』に巻き取られていくのである。
このラストの数十ページは恐ろしい。ぼくは一字一句も逃さないつもりで、眼というよりも心を見はって没頭していったのだが、コンラッドはマーロウの語りをしてどんな安易な解釈もさせないままなのだ。
どうやらクルツは死体のまま、一行が船に運び入れたようである。そして、クルツが最後に「地獄だ! 地獄だ!」と言ったということが、マーロウの耳にがんがん響きわたる。最後の最後、クルツに仕えていたであろう黒装束の女がマーロウのもとに揺曳するようにあらわれてクルツとの日々の断片を洩らすのだが、もはやそこからは文明はどんな解釈も組み立てられなくなっている……。
ざっと、こんな話なのだが、説明しても仕方のないようにできている。それがジョゼフ・コンラッドの魂胆だった。
間にあわないことがある、たとえ間にあったとしても、そこで試行されていたこと、誤解されていたこと、到達していたことは、安閑たる日々にいた者が一時の関心をもったところで、伝わってはこない。そういうことが、世界と人間にはいくらもあると、コンラッドは書きたかったのだ。そして『闇の奥』はまさにそういう絶佳の極北を示してみせたのだけれど、なんら説明的なことを加えなかった。ほかの作品でもその主旨を貫いていた。
コンラッドの作品にはアウトローやアナキストやテロリストがしばしば登場する。たとえば『密偵』はロンドンに巣くうロシアのアナキストの動向を扱った。主人公はヴァーロックという男で、事件らしい事件をおこす必要に迫られて爆弾テロをおもいつくのだが、手違いで妻の連れ子を爆死させてしまうという話になっている。ヴァーロックがその妻に刺し殺されるという結末は、亡命者にすら真剣なバラストが稀薄であることを突き付ける。
また『西欧人の眼に』では、主人公のロシアの大学生ラズーモフがテロリストの友人のハルディンに亡命の幇助を求められるのだが、それを裏切って警察に売りわたすという前段が描かれ、ついで後段で、その行為が誤って伝えられてスイスで亡命者たちに歓迎されるというアイロニーになっていく。
ラズーモフはハルディンの妹から兄の恩人と慕われ、愛される。ラズーモフはこの背信にしだいに耐えがたくなり、いっさいを告白するのだが、テロリストたちの制裁をうけ、電車に撥ねられて手足の骨がくだかれる。ヒロイズムにひそむ絶望を暴くその描写方法はあくまで静かで、あくまで澄んでいる。
そうしたコンラッドの才気があったとしても、『闇の奥』は一作かぎりにおいても、いまなお、われわれに重くのしかかってくるのである。とくに欧米人にのしかかる。
スコット・フィッツジェラルドやジョージ・オーウェルはまともにその重みを受けとめた口だった。けれども、そのバラストの重みは大抵じゃない。何かが捌ききれない。多くのコンラッド・ファンが手を余した。そのひとつに、『闇の奥』はながらくオーソン・ウェルズが映画化の構想をもっていたのだが、実現されなかったことがある。
そこでスタンリー・キューブリックがその実現をはかったのだが、それも叶わず、《二〇〇一年宇宙の旅》の後半部にこれを翻案してとりこむにいたった。よほどアフリカの闇を描くのが困難だったのであろう。船の底荷なのである。
さらにフランシス・コッポラがなんとか『闇の奥』に着手しようとするのだが、やはりできず、思いなおして全面的に翻案し、舞台をベトナム奥地の戦乱に移し替え、《地獄の黙示録》として映画化した。クルツはカーツ大佐に仕立てなおされていた。元グリーンベレー隊長で、アメリカ軍の命令を無視して暴走し、カンボジア付近のジャングルに独立王国をつくっているという設定だ。マーロン・ブランドが怪奇なカーツ大佐を演じた。しかしあの映画は『闇の奥』にはとうてい届いていない。カーツ大佐を殺してはいけなかったのだ。
このように『闇の奥』はオーソン・ウェルズ、スタンリー・キューブリック、フランシス・コッポラに継がれて、なお原作の映画化を頑なに拒絶しつづけているのである。こういう小説はめずらしい。ちなみに一九〇〇年の作品『ロード・ジム』(講談社文芸文庫)は一九二五年にはヴィクター・フレミングによって、一九六五年にはリチャード・ブルックスによって映画化された。
もうひとつ、ふたつ付言しておかなくてはならないことがある。ひとつにはコンラッドはヘンリー・ジェイムズをヨーロッパに紹介した作家であったということだ。またひとつには、夏目漱石がコンラッドの研究者であって愛読者であったということだ。すでに『二百十日』(新潮文庫)や『坑夫』(岩波文庫)に影響が認められるという文学史家の指摘があるし、「コンラッドの描きたる自然について」「小説に用ふる天然」などという一文もある。漱石が偏愛したのはやはり『闇の奥』だった。平成の日本人がバラスト読書としてのコンラッドを読まなくなっただけなのだ。
ついでながらエドワード・サイードもコンラッドの研究者だった。サイードは文学研究から出発してポストコロニアル社会の展望を論じたのだが、その出発点がコンラッド研究だった。現代日本文学の旗手たちにもコンラッドに影響を受けた継承者がいる。村上春樹『羊をめぐる冒険』(講談社文庫)、伊藤計劃『虐殺器官』(早川書房)、辻原登『闇の奥』(文春文庫)、恩田陸『夜の底は柔らかな幻』(文春文庫)などがそういう作品だった。