才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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田中清玄自伝

田中清玄・大須賀瑞夫

文芸春秋 1993

 これから書く信じがたいようなことは、すべて田中清玄が本書で語っていることだけである。ぼくは何も手を加えない。インタビュアーは毎日新聞社の大須賀瑞夫で、金大中事件などを追いかけた筋金入りのジャーナリスト。すばらしい編集構成だが、おそらく田中清玄の言葉にはほとんど手を入れていないだろう。「あとがき」によると、田中清玄自身は丹念に加筆訂正したようだ。
 内容を紹介する前に世間で流布していた情報を書いておく。いったい田中清玄とは何者かということだ。本書が刊行されるまでは、こんなふうに憶測されていた。

 戦前は武装時代の日本共産党の書記長で、その後に熱烈な天皇主義者に転向した。その昭和天皇に敗戦直後に出会って退位されないよう奏上し、天皇と親しく1時間近く話している。60年安保のときに全学連に巨額の資金を提供したらしい。石油危機のときにはアメリカの意向にさからって中東の石油を日本に持ちこんだ。禅僧の山本玄峰やフリードリッヒ・ハイエクや今西錦司の信任が篤かった。とくに欧州統合の父といわれたオットー大公に信頼されていたらしい。
 ともかく政界の黒幕で、歴代の首相や要人とつねに太いパイプをもっていたようだ。石油利権屋でフィクサーで、怪物とか右翼の大物などと呼ばれてきた。山口組の田岡一雄が一目おいていて、児玉誉士夫には恨まれて狙撃された。そういう人物らしいのに、80年代になっても鄧小平と会っている。いや、天皇の訪中は田中清玄が言い出した‥‥等々云々。こんな謎のような情報に包まれていた。
 真偽はともかく、もしこのうちのいくつかが本当だとしてもとんでもない人物だということになるが、本書を読むかぎり、ほとんどすべてが事実であるようだ。いや右翼の大物は当たっていないかもしれない。だいたいはやくから政治家たちの靖国参拝は大反対していたし、児玉誉士夫や赤尾敏をイカサマと断じ、自殺した野村秋介は小者だと吐き捨てていた。
 しかし、これだけでは何者かはわかるまい。ぼくも本書を読むまではその活動の大半を知らなかった。意外きわまりない昭和史も見えてくるだろうから、いささか長くなるかもしれないが、こういう男がいた、こういう歴史もあったということを知っておいてほしいので、以下は本書の内容のコンデンセーションのための労をとることにする。

 田中清玄の祖先は会津藩の松平侯の家老である。田中土佐玄清(はるきよ)といった。幕末史では田中土佐として知られる。
 田中土佐は松平容保が藩主として京都に赴いたときに従って、京都警備のための市中見廻り組をつくった。これが新選組の母体となった。そこへ長州と公家による蛤御門(禁門)の変がおこり、会津と長州の対立が始まったのだが、藩主はそのとき孝明天皇から宸筆と御歌をもらった。会津の者にはこのことが長らく名誉となった。
 孝明天皇のあとの16歳の明治天皇をとりまいたのは、薩摩と長州と公家ばかりである。生まれたての新政権は江戸を攻めようとしたが、会津藩の田中土佐や西郷頼母は挑発に乗らずに控えていたにもかかわらず、戊辰戦争の追撃は結局は会津にまで及んで、官軍の前に次々に自決していった。むろん残った者もいた。函館五稜郭の戦いののちに北海道開拓使長官となった黒田清隆が、そうした合図の残党を不憫におもって函館に取り立てた。〔私がいま自分の一生を振り返って思うのは、自分が会津藩の筆頭家老の家柄に生まれたという自覚があったことで、いいかげんな連中と妥協をしなくてすんだということなんです〕。

 家老田中土佐の下に城代家老の田中玄純(はるずみ)がいた。その子に田中玄直(はるなお)がいて、会津で生き残った。田中清玄の曾祖父にあたる。やはり取り立てられて函館に行った。近郊に七飯(ななえ)村があって、そこで開拓使の畑や実験農場をつくっていた。
 明治39年(1906)に田中清玄がそこで生まれた。先祖同様に清玄は「きよはる」と読むのが正しいらしいが、周囲のすべてが「セーゲン」と呼んだ。〔かつて文芸春秋の池島信平君がロンドンで司馬遼太郎を紹介してくれたとき、司馬君は「田中さん、私はあなたの先祖の田中土佐よりも、田中清玄その人に興味をもつ」と、こう言うんだよな。私に言わせれば彼は薩長代表のようなもんだからね〕。
 田中清玄は会津の血をひいていることをつねに誇りとして生きてきたようだ。清玄は小さいときから剣道や合気道をやっていて、体は大きくはないが武道派だった。家は裕福なほうだったようである。

 函館中学で亀井勝一郎と今日出海と同級になった。ハリストス教会の下に亀井の家があった。上級生には『丹下左膳』を書いた牧逸馬こと長谷川海太郎、その弟のロシア文学者の濬(しゅん)や作家の長谷川四郎が、また海太郎の従兄弟の久生十蘭がいた。久生十蘭とはトランプで遊んだらしいが、断然うまかったという。
 ついで弘前高校に進んだ。スキーや野球や三段跳びに夢中になっていたが、スキーで怪我をして北大病院に送りこまれた。この病院で『共産党宣言』を読んだ。高校の下級生に作家の石上玄一郎、太宰治、のちに毎日新聞の社長になった平岡敏男がいた。〔太宰は東京の作家だけがもてはやすだけで、作家としては石上の方がはるかに上だ。太宰はセンチメンタリズムだけで性格破綻者みたいなものじゃないか〕。
 大正14年に小樽高商軍教事件がおこった。小樽高商の軍事教練を廃止するかしないかという騒動で、田中は弘前でも廃止せよというビラをまいた。これが最初の左翼っぽい活動だった。このあと東北学連ができて、仙台の東北帝大の島木健作・玉城肇・鈴木安蔵を中心に、そこに水戸高の宇都宮徳馬・水田三喜男、二高から島野武・高野信、山形高から亀井勝一郎・小林多喜二らが駆けつけた。
 田中清玄は島野と仲良くなり、無党派ながら活動に励みはじめた。そのころの縁で、宇都宮徳馬にはいろいろ世話になっている。宇都宮はのちにミノファーゲン製薬をおこして衆議院議員10期、参議院議員2期をつとめた。〔宇都宮は事業的にも思想的にも天才で、ずいぶん厄介になったねえ。親父は宇都宮太郎という陸軍大将で、親父の副官がしょっちゅう来ているから情報が入るんだ。日中友好協会なんかは彼のお陰ですよ〕。
 その後、津軽の車力村という農村で車力農民組合を淡谷悠蔵や大沢久明らと一緒につくった。淡谷は淡谷のり子の叔父さんだった。

 当時の共産党は福本イズム一色になりつつあった。大正15年(1926)12月の山形県五色温泉でひらかれた日本共産党再建大会で、福本和夫は中央政治部長になり、それまでの山川均の山川イズムを一掃していた。しかし福本イズムは観念論だった。〔あれがどれだけ日本の労働運動や無産運動を悪くしてしまったか〕。
 翌年、ソ連のコミンテルンから27年テーゼが発表されて、これが共産党の再建方針になった。福本イズムをどう洗い流していくかということである。この前後に田中は亀井勝一郎とともに東大の美学に入った。同時に東大新人会に入った。新人会は吉野作造の指導のもとに麻生久・宮崎龍介らがつくった思想運動体で、そこに大宅壮一がいた。大宅は桁外れにスケールの大きな男だった。平凡社の下中弥三郎から前金をもらって『アラビアン・ナイト』の翻訳を引き受けていた。清玄は大宅にも世話になったので、のちに大宅文庫設立のときに拠出金を出した。
 東大に入ってまもなく田中清玄は共産党に入党していた。昭和2年である。コードネーム、すなわちパルタイナーメ(党員名)は山岡鉄夫。山岡鉄舟に肖(あやか)った。一方では空手部に入って、突きと蹴りで武闘を鍛えた。実力はわからないが、その後、名誉8段をもらっている。

 田中清玄は27年テーゼ直後の共産党の立て直しに、真剣にとりくんだ。第三地区担当のオルグで、東京委員会のメンバーだった。のべつ京浜工業地帯に出向いて、オルグ活動をしていた。
 そこへ3・15事件、4・16事件が連打されて党員やシンパが大量検挙された。党は壊滅的になり、佐野博と田中清玄が再建ビューローをつくり、これを全国規模にするための画策に乗り出した。
 昭和5年、和歌山の二里ケ浜で日本共産党再建大会がひらかれた。これをきかけに、コミンテルンの国際連絡機関のオムスのルートをつかって、人員・資金・情報収集を始めた。オムスはそのころの共産党の秘密活動の謎をとくにはキーになっていたルートである。田中自身も上海に入り、コミンテルン極東部長のカール・ヤンソンの協力を仰いだりした。野坂参三をモスクワに送り、事態を改善させようともした。が、野坂はウラジオストックで検挙されてしまった。
 ところがこのとき野坂は自分の保身のために、野坂の嫌疑を晴らすべくモスクワからウラジオストックに飛んできた山本懸蔵をスターリン一派に売ったようだった。〔問題はそれなんだよ。野坂はそういう人間だ。共産党ってそんなもんだ。共産主義者になったから人格が向上するなんて、そんなことはありえない。もっと悪くなりやがる〕。

 こうした紆余曲折に奔走しているとき、とんでもないことがおこる。昭和5年(1930)2月に和歌浦で共産党中央部と官憲が激しく撃ち合った和歌浦事件が勃発したのだが、その直後、清玄の母親が自決をしてしまったのである。
 すでに母親は「おまえが家門を傷つけたら、おまえを改心させるために私は腹を切る」とちゃんと申しわたしてあったらしい。
 まさかとタカをくくっていたのだが、母親は本気で腹を切って死んだ。偉丈夫な母だった。遺書に「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して自分はは責任がある。また早く死んだおまえの父親に対しても責任がある。自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」。わが子のための諌死であった。

 その年の7月14日、書記長になっていた田中清玄は治安維持法で逮捕された。小管刑務所の獄中にいると、母親の諌死が重くのしかかってきた。そこへ党委員長の佐野学と鍋山貞親が転向声明を出した。田中清玄が生涯で一番ぐらついたときである。
 いったい自分は何をしてきたかと煩悶した。何かが割り切れないのに、ここまで突っ走ったのだ。その割り切れなさをとことん追求していくと、モスクワから指令されてくる共産主義が体に受けつけられないのだと気がついた。とくにスターリンの方針が肯んぜられない。煩悶が続くなか、昭和7年、コミンテルンから32年テーゼが追い打ちをかけてきた。
 スターリンは日本の極左冒険主義を批判し、むしろ天皇制を廃止させることで日本権力の力を弱める方針を出してきた。
 ここにおいて田中清玄はついに転向を決意する。獄中転向であり、しかも天皇主義者への転向という劇的な改心だった。〔私自身が考えたのは、結局のところ、マルクス主義が西洋合理主義の申し子であり、その西洋合理主義は一神論のキリスト教ギリシア文明を母体にした混合造形であるということでした〕。

 田中清玄の天皇主義は、おそらくこのときはまだ漠然としたものだったろう。ただ、このときすでに次のように感じていたという。本人の言葉のままにさらに解説してもらうことにする。
 こういうふうに言っている。〔幕末に朱子学と水戸学派によって著しくねじ曲げられた天皇だけが神であるというような狭隘な神道もまた、満足できるものでなかったことは言うまでもありません。いわんやナチズムなどは論外でした。ずっと後になってからのことですが、毛沢東を絶対視した中国の文化大革命などは、私にとってはまったく気違いのたわごとにすぎませんでした。八百万の神といいますね、この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入りこんでいて、引きはがすことができないと。そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした〕。
 また、こうも言っている。〔私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出したということです〕。

 田中清玄の刑期は無期懲役だったのだが、皇太子生誕と紀元二六〇〇年の2回の恩赦によって、11年10カ月の獄中生活ののち、釈放された。獄中で小宮山ひでと結婚した。共産党の活動家だった。ひでもまた宮津の刑務所に入っていたときだから、二人は互いに遠きに離れたまま結婚したことになる。
 出所は昭和16年4月だった。身元引受け人は富田健治。内務省警保局長で、のちに長野県知事から内閣書記官長となり、戦後は公職追放後に、兵庫で衆議院議員になった。田中は明治神宮と皇居を拝したのち、5月1日に山本玄峰老師を訪ねた。
 山本玄峰は昭和6年に5・15事件の法廷で井上日召の特別弁護人を引き受けたことでも知られる破格の禅僧である。刑務所で法話をしたことがあって、それが清玄の心にのこっていたようだ。田中が出所後、真っ先に訪れていたのがこの老師だったのである。紹介者は血盟団事件に連座した四元義隆。のちに右翼の大物となった
 6月、田中清玄は決心のうえ三島の龍沢寺に赴き、玄峰老師に修行させていただきたいと頼みこんだ。〔自分の本当のルーツを発見して、マルクス主義や惟神(かんながら)の道などという狭隘で一神教的な道ではない、自分の本当に進むべき道を発見したいと頼んだんです〕。
 典座(飯炊き)からの修行がこうして始まった。老師から学んだことはそうとうにあったようだが、清玄はしだいに活殺自在を覚悟するようになっている

 時代は太平洋戦争の只中である。しだいに情勢が厳しくなっていた。和平工作も始まった。誰が軍部を押さえるかが話題になっていた。
 龍沢寺には玄峰老師を慕って多くの人士が出入りした。鈴木貫太郎、米内光政、吉田茂、安倍能成、伊沢多喜男、岡田啓介、迫水久常、岩波茂雄たちで、その多くが軍部の強引に反対の立場をとっていた。老師は「わしの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんも乞食も大臣も共産党もやってくる」と言っていた。
 老師は谷中の全生庵でも座禅を組んだり法話をしていた。全生庵は山岡鉄舟の寓居跡である。そこにも政治家や軍人や企業家がやってきていた。三井の池田成彬や侍従の入江相政らはそこを訪れていた。迫水久常は東条英機が老師に会いたがっていると言ってきたが、老師はその必要はないと断った。
 田中清玄はしだいに老師の秘書役のようなことを仰せつかることになり、要人との接触のお供を務めていく。用心棒を兼ねていた。代理を頼まれるときもある。妙心寺の玄瑞鳳洲管長への用事を頼まれたときは、「ときに田中さん、いま一番肝心なことは、われわれ一統あげて自分の心の中にある米英を撃つことですよ」と管長が言ったので、あ、このくそ坊主と思った。用事を告げずに退散した。〔こっちは心の中に日本があったり米英があったりするような、そんな理屈禅があってたまるかという気持ちでしたね〕。
 昭和20年1月15日、老師は臘八接心で「今日の公案は日本をどうするかじゃ」と意表をついた。清玄が「はい、戦争をとめるしかありません」と言うと、だめだ、練り直してこい。三日たっても公案に答えられないで絶体絶命の気分になっていると、最後に「無条件で戦争に負けることじゃ」と怒鳴られた。本土決戦や聖戦完遂が我執にとらわれていることだというのである。
 これで清玄は国を救うために粉骨砕身する決意がかたまった。神中組という結社をつくった。

 敗戦となれば、終戦工作と天皇の退位をどうするかという問題がのこる。この選択をまちがえれば、日本最大の危機がくる。田中清玄は枢密顧問官の伊沢多喜男を介して、誰が陛下に言葉をかけるべきかを相談する。
 数日後、迫水久常、鈴木貫太郎が老師に会いたいと言っていると伝えてきた。3月25日、赤阪で老師は鈴木貫太郎と会った。老師は鈴木に事態を収拾できるのはあなただと言った。やがて鈴木に終戦内閣の大命が下り、日本はポツダム宣言を受諾することになった。
 昭和20年10月、田中清玄は朝日新聞の高野信に頼んで、「週刊朝日」に天皇制護持についての一文を書いた。「諸民族の複合体である日本が大和民族を形成できたのは天皇制があったからだ」という主旨だった。この一文を、元静岡県知事で当時は禁衛府長官になっていた菊池盛登が陛下に見せた。菊池は田中清玄を天皇に会わせたいと思った。『入江日記』によれば、12月21日に田中清玄は生物学御研究所の接見室に招かれ、石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、入江侍従らとともに天皇に会っている。小一時間、清玄は退位なさるべきではないことを懸命に申し上げたという。
 このことを聞いた安岡正篤が田中清玄に会いたいと言ってきたらしいが、田中はこれを断っている。田中は安岡や近衛文麿が大嫌いだったのである。

 戦後、田中清玄は神中組を三幸建設に組み替えて、戦災地復興の仕事を手がけるようになった。他方、福島県の矢吹ケ原の開拓や岩手県釜石のロックフィルダムの建設にとりくみ、さらに沖縄ではドル稼ぎのために米軍の土木建設の下請けもした。
 産業の重点がセメント・肥料・農薬の“三白産業”が集中していた時期である。それに目をつけたのは日本興業銀行で課長をしていた中山素平のアドバイスだったという。三幸建設はかなり儲かった。赤阪氷川の勝海舟の屋敷跡を借りた。朝日新聞の編集局長だった進藤次郎の屋敷をつかって、日銀の法王といわれていた一万田尚登、民主党幹事長の苫米地義三、大蔵大臣の泉山三六などを招いた。
 そんなとき、三井の池田成彬からタイやインドネシアの戦後復興を手伝ってほしいと言われ、引き受けた。そのころは海外に出るにはGHQの許可が必要だったのだが、田中はこれをやすやすと取った。キャノン機関のキャノン、G2のウィロビー、GSのホイットニーやケージスはみんな田中を知っていた。そのため、のちに田中はCIAの手先だとも噂された。〔いろいろ取材が来ましたよ、俺がCIA程度の手先であってたまるかいと言って、みんな追い返してやった〕。
 逆に田中によれば、GHQのアーモンド参謀長に朝鮮戦争を予言したときは、かれらは信じなかったというくらいだったという。田中は朝鮮戦争も、三鷹事件・松川事件も、ソ連の策謀だったという推理なのである。

 日本はサンフランシスコ講和条約を結び、自衛隊をもち、高度成長をとげるようになった。世界は冷戦状態で、ソ連はあいかわらずアジア支配と極東戦略を組み立てていた。日本共産党と日本の左翼はまだソ連のイデオロギーを盲信していた。
 時代は昭和35年(1960)になっていた。60年安保闘争が盛り上がってきた。岸信介は事態が拡大すれば自衛隊を導入しようと考えていた。あるとき小島弘が田中のところへやってきた。全学連指導部で、のちに中曽根康弘の平和研究所の所員になった男で、全学連委員長の島成郎に会ってほしいという。田中は島から反スターリン主義の運動思想のこと、自衛隊導入時の対策、次期委員長に函館出身の唐牛健太郎を推したいということなどを聞いていて、この連中を応援しようと思った。反代々木・反モスクワ・反アメリカが気にいった。田中の秘書だった藤本勇が日大空手部のキャプテンだったので、武闘闘争のイロハも伝授したらしい。いったいどれくらい資金提供したのかはわからない。〔機会あるたび、財布をはたいてやっていましたよ。まあいいじゃないですか、それはそれで〕。
 こうした田中の動きが気にいらなかったのが、自民党の福田篤泰や右翼の児玉誉士夫だった。児玉は岸政権を強化するためにあらゆる手を打っていた。河野一郎もそのお先棒を担いでいた。児玉は東亜同友会を組織して、山口組の田岡一雄や林房雄をつかって田中懐柔の手を打ってきたが、田中はこれに応じない。昭和38年(1963)、田中が高谷覚蔵の出版記念パーティのため東京会館に赴いたとき、田中は玄関で撃たれた。東声会の木下陸男がピストルを発射したのだが、マスコミは山口組の東京進出を阻止する暴力団抗争だと書いた。が、あきらかに児玉の指金だった。
 銃弾は3発が田中を瀕死にしていた。救急車で運ばれて、聖路加病院の牧野永城が10時間にわたる手術で助けた。牧野はのちの院長で、ウィスコンシン大学病院で6年間にピストルで撃たれた患者を数百人手術していた。

 田中清玄が田岡一雄と仲がよかったのは、事実のようだ。もともとは田中の身元引受け人だった富田健治が、佐藤軍次という横浜で海運業をやっていた男を紹介したことがはじまりで、その佐藤が京浜一帯の沖仲仕の総元締で大親分だった藤木幸太郎を紹介した。
 戦後の京浜地区は鶴見の埋立てをめぐって抗争が激しく、陸を仕切っていた土建業松尾組の松尾嘉右衛門と、海を仕切っていた藤木が対抗していた。日本の海運業はこのあと藤木によって、海運業者の集団を日本海運協会に、従業員の集団を日本海運共同組合にしたことが基礎になる。藤木はこの海運協会の会長に田岡をもってこようとするのだが、田岡は固辞した。このとき田岡は政治的なことは田中清玄さんのような人に任せ、自分はヤクザのほうを取り仕切ると決めたらしい。
 ここで二人のコンビが成立したようだ。このとき児玉誉士夫が東亜同友会によって全国の右翼と博打打ちを大糾合する計画が動いていて、二人はこれに立ち向かうことになる。すでに右翼の一部とヤクザは麻薬を財源にしていたので、二人はこれを標的に「麻薬追放・国土浄化連盟」をつくり、菅原通済・山岡荘八・福田恆存・市川房枝を立ててキャンペーンに入った。
 マスコミは「山口組全国制覇のための巧妙なカムフラージュ」と書き立てた。が、田中は反論している。〔これだけ麻薬がはびこったのは、警察とジャーナリズムと、そして政治家の責任だと言いたい。世の中に悪いことをやっているのはごまんとおります。暴力団にも警察官にもおる。しかし一番許せないのは政治家だ。竹下、金丸、小沢と、こういう連中に牛耳られた自民党の国会議員は、いったいどうなんだ〕。

 田中清玄は長らく右翼の大物とみなされてきたが、本書によるかぎりはそういう痕跡は少ない。田中自身は、私が本当に尊敬している右翼は橘孝三郎と三上卓だけだと言う。とくに児玉誉士夫には敵意を剥き出しにする。赤尾敏や野村秋介は相手にしていない。
 最も田中に近かったのは四元義隆で、三幸建設を譲っている。四元に譲ったほうがいいと言ったのは松永安左エ門だったようで、そこに間組がからんで三幸建設のバランスシートをクリアさせた。

 それにしても田中清玄には意外な人物が内外を問わず親しくかかわった。オットー・フォン・ハプスブルク大公やフリードリッヒ・ハイエクもその一人である。オットー公は戦前に皇位継承権を放棄して、反ファシズムを表明し、戦後は欧州統合運動の推進役となった。
 田中がオットー公と接することになったのは、クーデンホーフ・カレルギー(第632夜参照)と鹿島守之助に、池田成彬が引き合わせたのがきっかけになったようだが、本書では詳細はわからない。ハイエクにはオットー公から紹介された。田中はオットー公に勧められて「モンペルラン・ソサエティ」のメンバーになっていた。自由主義運動の思想母体のためのソサエティで、その基本思想にハイエクの『隷属への道』などがつかわれていた。
 ハイエクは社会主義とケインズ経済学の両方に呵責のない批判を加えていて、そこが田中を共感させたようである。とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。
 ハイエクがノーベル賞を受賞したとき、メインテーブルに招かれたのは日本人は田中清玄だけだった。田中は来日したハイエクを伊豆の自宅に招き、奈良に付き添って刀工の月山貞一のところを訪れている。
 そのハイエクと今西錦司が出会ったときも、田中は同席していた。今西の棲み分け理論は、田中がこれは政治や社会に適用できるのではないかと考えていた理論だったようだ。

ハイエク教授とともに

来日したフリードリッヒ・ハイエク教授とともに

 本書は、田中がどのように石油買い付けの裏側で動いていたかということについても、かなり聞きこんでいる。
 70年代、日本はオイルショックと石油に含まれるサルファ(硫黄)による大気汚染で困りはてていた。オイルショックは経済問題だったが、資源としてのサルファの少ない石油をどのように確保するかが大問題だった。インドネシア産の石油が「しろもの」といってサルファが少ないことがわかった。それなら生焚きもできる。しかし日本に油田をもたせないというのが石油メジャーの方針である。
 インドネシアとは、すでに岸信介・河野一郎らがスカルノと組んで利権を得ようとしていた。田中は反スカルノ派のスハルト将軍と組もうと考えた。そこでナンバー2のアラムシャ中将やその義弟のヘルミのルートをつかって、ブルタミナ(インドネシア国営石油会社)の石油を日本に売ってくれと頼んだ。受け入れ母体として何かつくらなければならない。土光敏夫や中山素平に相談したら、トヨタ自販の神谷正太郎がいいというので、「ジャパン・インドネシア・オイル」という会社を設立した。通産大臣の田中角栄は最初は渋ったが、あんたを支えているのは両角良彦事務次官(官民強調派でオイルショックを切り抜けた通産官僚)と小長啓一秘書官(のちの『日本列島改造論』の実質執筆者の一人)くらいで、まわりはこのままだと岸一派にやられると言ったところ、よっしゃ、わかったと言ってくれた。

 ついで、アラムシャ中将がクウェートの国王の叔父にあたる副首相を紹介してくれた。が、田中はクウェートは相手にしにくいと踏んで、副首相が推薦したアブダビのシェイクザイド首長に接触した。
 シェイクザイドはアブダビだけでなく同一種族のドバイ、アジマーン、シャルジャ、ウムアルカイワン、フジャイラ、ラスアルハイマ、オマーンなどの湾岸一族を共同体として考えていて、そこが田中の血をたぎらせた(これらがオマーンをのぞいてアラブ首長国連邦となった)。このあと、日本はアブダビの海上油田開発に参加する。

 田中角栄が首相になってからは、北海油田の開発参加権利をめぐって動いた。
 日本が北海油田に参加して開発して採取した石油をアメリカに渡す代わりに、アラスカのノースポール油田とBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)とエクソンが掘っている油田に日本を参加させろというスワップ方式の提案だった。BPのアースキン卿も賛同した。これは失敗した。事前に情報が漏れたためだった。
 田中はその漏洩が日本精工社長をやっていた今里広記だと睨んでいるようである。〔彼はもともと株をやっていたですからね。この話を利用して一儲けを企んだんですよ。株をやる奴は当時も今も考えることは同じですよ〕。田中はこうも言っている、〔日本には政治家はだめだけれど、財界人はいいという考えがあるけれど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、のぼせ上がり、目先だけの権力欲。それを脱していない〕。
 田中が認めた財界人は、池田成彬、松永安左エ門、経済同友会の代表幹事をつとめて新自由主義を唱えた木川田一隆、大原総一郎、土光敏夫くらいなものだったようだ。

 昭和55年(1980)、田中清玄は50年ぶりに中国に行く。鄧小平と話しこんだ。日中友好協会の孫平化会長が「そもそも天皇陛下の訪中を中国側にもちかけたのは田中清玄さんだった」と1992年にあかすまで、この事実は正確なことが伝わっていなかった。 
 本書も必ずしもすべてが時間順になっていないのでわかりにくいのだが、田中清玄が鄧小平と会い1時間半にわたって話しあい、さらにアジア連盟の構想をぶちあげたことは、いまではよく知られている。田中はそれ以前にスハルト大統領にも日本・中国・インドネシアによるアジア連盟の必要性を訴えていた。

中国訪問

1980年 石油問題でインドネシア訪門
大統領の私邸にて、スハルト大統領と会見

 本書の終盤では、田中は大須賀瑞夫の誘導でさまざまな人物評定をしている。
 曰く、児玉誉士夫を最初につかったのは外務省の河相達夫だろうが、それに鳩山一郎・三木武吉・広川弘禅・大野伴睦がくっついたのはどうしようもない。曰く、岸信介がだめになったのは矢次一夫(国策研究会の中心人物で、岸の密使として李承晩と会談した)のような特務機関屋をつかったことだ。
 曰く、中曽根康弘とは首相になってから会ったが、中国の胡耀邦と親交を結ばなかったのが落ち度だ。安倍晋三、竹下登、宮沢喜一なんかを総理大臣にしようとしたところも、瀬島龍三や越後正一(伊藤忠会長)を登用したのも、日本をだめにするだけだった。宮沢にはやってやるぞという気迫がない。
 曰く、伊東正義には首相の腕を見せてほしかった。後藤田正晴にはとくに魅力を感じないが、応援演説ではアジアに関心があるかぎりは応援すると言った。曰く、テレビ多用の選挙で大衆的人気さえあれば、だれでもいいなんて時代では日本はよくならない。曰く、日本はあと50年アメリカと組んでいくなどと言っている小沢一郎のような考え方と正面から対決していくべきだ。曰く、靖国神社に政治家が大挙して参拝するのはとんでもないことだ。まして天皇陛下の参拝を要請するなんてのは愚の骨頂だ。〔俺は断固反対だ。この問題ははっきりしている。こういうことは遠慮会釈なく叩かねばいけません〕。

 最後に「田中さんは右翼だと思っていましたが」と尋ねられると、こう答えた。〔あんた、なんだと聞かれたら、本物の右翼だとはっきり言いますよ。右翼の元祖のようにいわれる頭山満と、左翼の家元のようにいわれる中江兆民が、個人的には実に深い親交を結んだことをご存じですか。一つの思想、根源を極めると、立場を越えて響き合うものが生まれるんです。中途半端で、ああだ、こうだと言っている人間に限って、人を排除したり、自分たちだけでちんまりと固まったりする〕。
 また、こう、続けた。〔政治家なら国になりきる、油屋なら油田になりきる、医者ならバクテリアになりきる。それが神の境地であり、仏の境地だ〕と。
 このとき田中清玄は88歳だった。「今は何に関心がありますか」と問われて、田中は即座に言っている、〔いま最も知りたいことはビッグバンがこの世に本当に存在したのかどうかということです。もうひとつは遺伝子工学に関することです〕と。
 最後にサル学者の河合雅雄の話を出して、どうも人間だけが生物界と異なることをしているのが気になってしょうがないと考えこんだ。

伊豆の自宅でひで夫人と一緒に

伊豆の自宅でひで夫人と一緒に

附記¶ずいぶんはしょったが、だいたいは田中清玄という人物の概要は伝わったろう。こんな男がいたのである。3年にわたったインタビューを絶妙に編集構成した大須賀瑞夫は、冒頭に書いたように「毎日新聞」の政治記者で、早稲田大学出身。「サンデー毎日」などをへて政治部編集委員をを務めた。『金大中事件全貌』(毎日新聞社)、『ブレーン政治』(講談社現代選書)、『自民党』(角川文庫)、『検証首相官邸』(朝日ソノラマ)などの著書がある。