父の先見
丹下左膳
同光社 1943
ながらく読めなかった。手に入らなかったからだ。そのあいだずっと、遠い日々の白黒映像に動きまわっている大河内伝次郎を水戸光子が待っていた。
大河内伝次郎は墨襟の白紋付に髑髏(どくろ)を染め抜いている。水戸光子は藍の万筋模様に小柳の半襟、媚茶(こびちゃ)の博多を鯨仕立てできりりと締めている。その鯨仕立てが左膳を待ちきれない。けれどもなかなか原作にお目にかかれなかった。結局、痺れをきらして古本屋で入手した。
本書は「時代小説名作全集」全二四巻(同光社)のうちの三冊ぶんで、この全集には他に岡本綺堂『修禅寺物語』、長谷川伸『関の弥太ッペ』、大佛次郎『夕焼け富士』、野村胡堂『隠密縁起』、佐々木味津三『旗本退屈男』、三上於菟吉(おときち)『雪之丞変化』に加えて、直木三十五・山手樹一郎・川口松太郎といった大衆時代小説の横綱級の名作がずらりと顔を揃えていた。
いまこういうものに熱中する読者がどのくらいいるのか知らないが、もしこのあたりの一冊も読んでいないのだとしたら、そのくせ時代小説は山岡荘八・村上元三・司馬遼太郎その他あれこれ好きだというのなら、その不幸にこそ同情したい。岡本綺堂・長谷川伸・大佛次郎・野村胡堂・直木三十五・三上於菟吉、そして林不忘こそ、何を犠牲にしようと読まなくてはいけません。
丹下左膳は、わが少年時代の絶対無比のヒーローだった。もう一人いた。アラカンこと嵐寛寿郎が扮する鞍馬天狗だ。こちらは幕末を舞台にした黒の覆面頭巾で、馬に乗っている。大佛次郎原作である。一方、丹下左膳は大岡越前守の世に徘徊した隻眼片腕の化けものだ。鞍馬天狗か丹下左膳かと言われると困るのに、それでものべつ「セイゴオちゃん、どっちが好きやねん」と、そんなことを聞く野暮な大人がいた。
丹下左膳は右腕がない。だからぼくも左手で棒をもつ。丹下左膳は右目もない。だから右目をつぶって絆創膏を貼ったり、手拭いで右目を覆ったりする。それで腰に紐を巻き、棒っきれを差し、左手でこれをズバッと抜く練習をする。これがなかなかむつかしい。何度も練習してやおら表の通りに出陣し、向こうからやってくる近所の大人の前で「姓は丹下、名は左膳。ぶっふっふ」と言ってパッと抜いてみせる。「なんや、へたくそな丹下左膳やな」。たいていは失敗だ。それでもまた棒っきれを腰に収め、ふたたび抜いて、そこで大河内伝次郎の真似をする。「あわわわ、そいつが苔猿(こけざる)の壼なのか、あわわわ」。母親は笑いころげてくれた。笑われようと何されようと、どこかに相手がいれば、すわチャンバラだ。新聞紙を丸め、呉服の反物の筒をもち、右目をつぶって左手で闘った。
剣怪という言葉がある。おそらくは林不忘の造語だろう。まさに丹下左膳はめっぽう妖しくて、異様に不死身な剣怪だった。
長じて『丹下左膳』をオトナ用の文字でちゃんと読んでみたいと思ったのは、中里介山の『大菩薩峠』や国枝史郎の『神州纐纈(こうけつ)城』を読んでからである。ながらく読めなかったすえに、やっと林不忘を読んでみると、物語の急テンポな運びや人物の出入りの映画的なところもさることながら、その小気味よく省略のきいた文章にあっというまに巻きこまれていた。ともかく何にもとらわれていない。うまいのではない。勝手気儘なのに破綻していない。「操り文才」とでも名付けたい。おそらくは書き流しているのだろうが、それにしては破墨・潑墨の調子をどこかで心得ている。お主、もてなし上手の使い手じゃな。
舞台は徳川八代将軍吉宗の城内城下。そこに案配された人物も道具立ても器用にあしらってある。寒燈孤燭の城下町、達意の宗匠、人を狂わす金魚籤(くじ)、これがいかにもという高麗屋敷、ルソン古渡の茶器、とんがり長屋の嬌声罵声、板張り剣道指南の道場格子、大川端の邪険な風情、長襦袢から零(こぼ)れる下闇の奥……。
通俗時代小説にはおなじみの仕立てだが、そこへ「植物性の笑いがおこった」とか「人事相談にはなりません」とか「こんなこと昨今のアメリカでもおこらない」といったチャチャが割りこんでくる。苔猿の壼が三阿弥(能阿弥・芸阿弥・相阿弥)の名物帳の筆頭に記
載されていた天下の名器であることも、初めて知った。
久々に遊びまわれる読書となったこと、いまやすでに懐かしい。これぞ噂の大正昭和のエンタテインメントの抜き身の王者の出現だったのである。
林不忘が実は牧逸馬であって、また谷譲次であることはいつのまにか知っていた。本名は長谷川海太郎という。作家長谷川四郎の兄貴にあたる。
明治三三年に佐渡に生まれ、父親が「北海新聞」の主筆となったので函館で育った。やけに海っぽい。函館中学五年のときにストライキの首謀者として放校されると、大正七年には何かに見切りをつけてさっさとアメリカに渡り、六年間を皿洗いやらホテルボーイやらギャンブルやらカウボーイやらをして、遊んだらしい。このテキサス時代の海太郎が谷譲次である。谷譲次の『テキサス無宿』『めりけんじゃっぷ商売往来』はずっとあとで読んでみたが、とても林不忘と同一人物の作家が書いたとは思えない代物だった。「ジャップ」と揶揄(からか)われた日本人の無宿者が一九二〇年代のアメリカの無知を大いに嗤(わら)っているのだ。なんという奔放無類の文意才々か。牧逸馬のほうは翻訳者としてのペンネームでもあったが、『この太陽』『新しき天』などの、そのころ一世を風靡したという家庭小説も書いた。
それにしても三様のペンネームを適宜に駆使してそれぞれまったく別様の文体と物語に書き分けてみせるというのは、ぼくもペンネームを使い分け書き分けるのができないわけではないけれど、やはりよほどの技芸者だ。長谷川海太郎においては武芸者の遊びにこそ近い(五一七夜にぼくの昔のペンネーム一覧をリークしておいた)。
おそらくは世界出版史上でも前代未聞の『一人三人全集』というものを、新潮社が昭和八〜十年に全一六巻で刊行してみせたことがあった。新潮社、お主、やるではないか。それを縮めて、河出書房新社が昭和四十年代に六巻集に仕立てたが、これは残念ながら見ていない。
長谷川海太郎が原稿を書きはじめたのは、大阪のプラトン社の「女性」や「苦楽」だった。プラトン社は三六四夜の直木三十五のところで少々案内しておいたように、化粧品会社の中山太陽堂が小山内薫や川口松太郎を顧問に、山六郎・山名文夫・橘文二の意匠と岩田専太郎の挿絵を擁した出版社のことで、「女性」「苦楽」はそのころ巷間を唸らせた大正末期の名物女性雑誌のことである。大半の作家文人を籠絡し、幸田露伴には大枚一五円もの原稿料を払っていた。日本のモダン・エディトリアルデザインの多くはここに発芽した。ただし例の改造社の「昭和の円本」が出てきて、凋落していった。
海太郎の文才を発見したのは中央公論社の嶋中雄作だ。嶋中は「婦人公論」の投稿原稿を見て、林不忘として『新版大岡政談』を書かせ、特派員として豪勢にもヨーロッパ旅行をさせている。海太郎はこういう待遇にはすぐ応えるほうで、こうして谷譲次となってはメリケンものを、牧逸馬となっては家庭小説と実録ものを、まことに器用に書き分けた。五木寛之は牧逸馬名義のドキュメンタリズムこそおもしろいと言い、中田耕治は牧逸馬こそが自分にルクレツィア・ボルジアの耽美陰惨な生涯を教えてくれたのだと告白していた。
話を丹下左膳に戻すけれど、この妖怪剣豪はもともとは『新版大岡政談』のワキに出ていた忘れがたい剣客なのである。それがいつしかシテに躍り出て、「こけ猿の巻」「濡れ燕の巻」「日光の巻」の奇想天外の連作になった。海太郎どの、お主、ずいぶん楽しませてくれたものじゃのう。あわわ、あわわわわ。ギラッ、バシャッ、ズバッ。
そういう丹下左膳を独自の映画にしてみせたのは天才・山中貞雄である。昭和十年のメガホンとシナリオによる《丹下左膳余話 百万両の壺》で、すでに丹下左膳役で当てていた大河内伝次郎が演じた。翌年、山中は中国に出征して河南省で急逝した。二八歳だった。封切中の《人情紙風船》が遺された。戦後になって山中を偲ぶように、昭和二八年にマキノ雅弘が大河内左膳を復活させた。ぼくが少年時代に見たのはこちらの左膳だった。
山中どの、お主が昭和の時代劇を作ったのじゃのう、二八歳で客死とは惜しかったのう、おう、おう、ギラッ、ズバッ。