才事記

生物から見た世界

ヤーコプ・フォン・ユクスキュル

思索社 1973

Jakob von Uexküll & Georg Kriszat
Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen 1934
[訳]日高敏隆・野田保之

 フォン・ユクスキュルとダーシー・トムソン。この2人の名。若き日のぼくが聞き耳を立てたアーティストたち、たとえば杉浦康平、磯崎新、河原温、ナム・ジュン・パイク、奈良原一高、川田喜久治、武満徹、大辻清司、北代省三……たちが、この2人の名をしばしば口にしていた。「やっぱりユクスキュルの環境世界という見方が必要なんだよ。ダーシー・トムソンの生物から見たデザインだよね」。
 1970年前後の話だが、そのころアーティストやデザイナーや写真家や作曲家は自分が世界を切り取っているのか、世界が自分を切り取っているのか、そんな問題を口角泡をとばすように交わしあっていた。人間は自然にフィルターをかけて歪曲して再生しているのか、それとも自分の心象を世界だととりちがえているのか、そんなことをよくよく考えていた。そのころ27歳か28歳だったぼくは、そうか、そこまで考えているものなのかと感心した。さっそく読んでみた。とくにユクスキュルだ。なるほど、断然にすばらしい。以来このかた35年ほどがたったけれど、この本はいまなおぼくの大事な大事なアンチョコになっている。
 
 ユクスキュルが提起した問題は明快だ。一言でいえば、われわれは自然界の本来の情報を変形して知覚しているのであって、加工した自然像しか見ていないのだということにある。では、何によってどのように自然界を加工しているのか、ということだ。
 われわれは視覚では周波数の限定をうけ、聴覚でもまたヘルツ周波数の限定をうけ、空中高度や海中深度では気圧や水圧の限定をうけている。そのようなわれわれが「ありのままの自然」なんて知覚しているはずはない。つねに知覚メガネをもって自然と接している。この知覚メガネはメガネだけをはずせない。内属しているメカニズムとしての知覚なので、はずすには知覚器官と内臓ごと抉られる。
 したがって、このような「知覚によって対象化された世界」はズブの自然ではない。ナマ自然じゃない。われわれの目や耳や触覚が入りこんでいる。われわれだけではなく、そこには微生物から動物までもが組み込まれている。そのような変形された自然世界を何とよべばいいのか。俄かには答えが出ないだろうが、ユクスキュルはそれこそをUmweltすなわち「環世界」と名付けたのである。
 Umweltは知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同でつくりあげている半自然=半人工の世界像のことである。
 作用というのは、犬の嗅覚やトンボの目やメガネや望遠鏡や写真機などの知覚的な道具と、サメの尾鰭やタカの爪や旋盤や炉や窯や工場全体のような作業的な道具とによって知覚器官にもたらされた相互作用のことをいう。この限定された知覚作用と特化された道具作用の組み合わせかたによって、さまざまな動物のUmweltの像はそうとうに異なってくる。
 モグラにとっての環境世界はモグラが突き進む作用能力そのものと一致し、ハエの環境世界は明度空間と匂いの分布を重ねたようなUmweltをもっている。1本のカシワの大樹は、われわれには空に聳える1本の大樹に見えているものの、キツネにとっては刳り貫かれた穴の世界であり、フクロウにとっては危険から遠ざかるための保護世界であり、カミキリムシにとっては巨大な食物市場そのものである。
 自然はひとつではありえず、自然像もひとつではありえない。すべての動物それぞれが異なる知覚と作用のメカニズムによって、それぞれ個別の自然観を具体的に携えて生きているものなのだ。そのようなUmweltを、総じて自然とか世界と一まとめによぶのはまったくおかしなことなのだ。

 ユクスキュルがUmweltという見方を最初に発表したのは、1892年から1905年にかけておこなった調査をまとめた『動物の環境と内的世界』(Umwelt und Innenwelt der Tiere)だった。その後も探求と推理はやむことなくつづき、研究生活の後半では「トーン」(Ton)という概念を駆使するにいたっている。これがいい。
 トーンというのは、動物たちがその世界像をもつための特定フィルターのようなものだ。たとえばミミズを捕食するカエルにとってのトーンは数センチの棒状のものとの出会いがつくっているトーンである。だからカエルはミミズとゴム屑をまちがえる。ムクドリにとってはハエの飛びぐあいのトーンがムクドリの世界像をつくるフィルターになっている。だからムクドリはハチとハエをまちがえる。カラスは十数センチのトーンをもっている。そこで小枝とハンガーを同一視する。
 われわれもこのようなトーンをつかって外界を見ている。デパートやブティックで特定の洋服をさがしているときは、このトーンをフィルターにつかっている。お目当ての洋服をさがすとき、アタマのなかでそのお目当てにあたる適当な“像フィルター”を用意しているはずである(これがユクスキュルの言う「作用」だ)。デパートの売場責任者にとっては洋服売場のすべての商品はみかけも実質もディスプレイ通りではあるが、そこから特定のお目当てを見いだしたい客にとっては、その見いだしたいトーンによってしかその売場は見えてはいない。
 
 音楽用語にもなっているトーンとは、知覚と世界の「あいだ」を占めている調子フィルターのようなものである。いまならトーンといわずに、「志向姿勢」とか「統合的クオリア」とかいってもいいだろう。ユクスキュルはこのトーンとしての調子フィルターを「意味」ともよんでいる(この指摘もすばらしい)。
 犬に向かって男が石を投げたとすると、それ以降、犬は石をぶつけられることに抵抗するようになる。しかし、その抵抗は犬の意志によって抵抗しているわけではなく、石的なるもののトーンを見分け、そういうものが自分に投げつけられるときの相手の動作のトーンを観察して反応するだけなのだ。人間にとっても、石のトーンはさまざまな複合性をもって成立する。たとえば道で石につまずいて恥ずかしくなるほど転んだ者は、その後は石のトーンのみならず道のトーンや坂道のトーンを注意深く知覚するようになる。ということは、その人間にとっては、道は新たなフィルターを通した道像あるいは像道になったということなのだ。
 われわれは羹に懲りてナマスを吹く動物であるが、それを自嘲するべきではなかった。すべての動物は羹をフィルターにして自然界のナマスを知覚できるようにしただけなのだ。これはギブソンが提唱した「アフォーダンス」にも似ているところがあるが、ユクスキュルにおいてはその見方がより生命生活的であり、知覚生物学的だった。
 
 かくしてユクスキュルは、知覚の世界の只中にその「意味を利用するもの」というキャリアー(担い手)あるいはインターフェースの視点をもちこんだ最初の生物学者となったのである。「知覚標識の担い手」(Merkmatrager)という概念や「補体」(Komplement)という概念も早々とつくった。そういう概念想定にはつねに勇気をもってあたった生物学者だった。
 たとえば花の色は少女にとっては乙女チックな視覚標識だが、アリにとっては筋のついた葉の裏だけが触覚標識であり、ミツバチにとっては花弁の温度が補体なのである。これらのことを前提にし、ユクスキュルは次のような興味深い仮定問題を提供もした。
 われわれはたくさんの鏡とともに暮らしている。そしてその鏡に見えている「私」をそのつど確認している。だが、もしその鏡に映った自分の姿の大きさ(すなわち自分と鏡との距離)が、その鏡を見るたびに鏡から発する音によって告知されるようになっていたとしたら、われわれはその音の違いをこそ自己像としていただろうというのである。
 ドイツ語では、小さな鏡をたくさん並べて合わせ鏡とする子供の遊びのことをグロッケンシュピールというので(音楽ではカリヨンやオーケストラベルなどをグロッケンシュピールという)、ユクスキュルはこのような見方で世界との関係を眺めることを「グロッケンシュピールの問題」というふうに名付けた。たいへんにおもしろい。
 
 さらにユクスキュルが天才的に提示してみせたことがある。動物や人間は、自分が自分の周囲と適合するために少しずつ世界を広げて生きているように見える。そして、自然(都市でも家でもいいが)を征服するか、自然と共生するか、もしくは自然の一部をとりこんで、自然世界を自分たちのものにしているとおもいこんでいる。
 けれども事実はその逆であって、動物の知覚も人間の知覚も、自然世界が押し付けて型抜きしたものなのではないか。そう見るべきではないかと言い出したのである。われわれの知覚が世界を認識したのではなくて、環境世界が「知覚標識の担い手」をわれわれに送りこんで、動物や人間の知覚フィルターをつくったのではないか。それによって型抜きがおこったのではないか。そのようにユクスキュルは見方を逆転させたのだ。この見方は画期的だった。
 そうだとすると、いろいろ大胆な仮定が次々に提出できる。たとえば、仮に「動物的自分」だとか「本能的自分」だとか「無意識的自分」などというものがあるとしても、それは環境世界によって「負の型」として形成されたものだということになるわけなのである。「私」というトーンはUmweltがつくっているということなのである。ユクスキュルはこの「負の型」のことを「抜き型」(Hohlform)とよんでいる。これまたなかなかうまい言いかただ。
 ようするにUmweltはすべての動物たちの仕立て屋さんなのである。その仕立て屋によって「抜き型」されたものが、われわれ生物の知覚装置なのである。それだけではない。動物たちがつくりだすデザイン世界にも、その「抜き型」は及んでいる。
 クモにとってはハエは最大の食料である。そのためクモが何をしているかというと、クモの巣にハエの抜き型をつくっている。ハエはたいへん雑な目の持ち主なので、クモの巣のうちのどこかに仕込まれたごく細い抜き型が目に入らない。そこでハエはそこをめざして飛んできて、ハイ、一巻の終わりということになる。ひるがえって、生物たちの形態そのもの、文様そのものが、大きな意味での「抜き型」であり「負の型」だったのである。

 ユクスキュルは、世界や現象を語るにあたっては「巨大な装置を持ち出すな」と言いつづけた生物学者だった。人工環境がつくれるなどと思うな、そういう恥ずかしいことを考えるなとも言ってきた。
 世界や現象に因果関係があるとすれば、それは「ある部分に原因と結果が同時的におこっていること」で説明できるはずなのである。それがドングリの形やヒマワリの運動が示しているものであり、ハイエナの鼻の作用や人間の赤ん坊の作用が示していることなのだ。だったら自然と人間を融和させるという題目で、巨大な装置を作ろうなどと言い出さないほうがいい、そう言ったのだ。
 残念ながら、世の中はユクスキュルが亡くなると(1944年に亡くなった)すぐに、巨大装置ばかりを作るようになった。原発装置がその象徴だ。しかし、原発は自然界とも人間界とも抜き合わせができないものだった。われわれはいまこそ「環世界」のための技術を考えなければならなくなっている。