父の先見
幕末の天皇
講談社選書メチエ 1994
Q:松岡さんはこの本を以前から評価していましたね。かつてテレビでもとりあげられていた。
A:大著ではないけれど、なかなか充実した記述ですね。視点もぶれていない。藤田さんのものは『松平定信』や『遠山金四郎の時代』といった本もおもしろかったけれど、この本の前提になった『幕藩制国家の政治史的研究』や『近世政治史と天皇』がもともと充実していたんです。でも、この本はいろいろな意味でよくできている。日本人の必読書です。
Q:端的にいうと、どんな内容ですか。
A:みんなが噛みしめて読むのがいいので、一言でいうのはもったいないけれど(笑)、江戸時代の天皇は家康・秀忠・家光以来ずっと為政者に抑えられていたわけですが、だから後水尾のように拗ねた風流天皇も出てきたわけですが、幕末近くになって光格天皇が登場してきて、ついに天皇の力を誇示した。古代以来の王権を発揮しようとしたわけですね。その孫の孝明天皇もこれをうけて、黒船による外圧に抵抗して、頑固なまでに通商条約に反対した。尊王攘夷のイデオロギーはこの二人の天皇がいたから一挙に波及したのではないかというのが、大筋の話です。
Q:そうすると、幕末維新の王政復古は天皇が用意したということですか?
A:そういう復古的な天皇の力を「掌中の玉」としたグループが、幕府解体と王政復古を抱き合わせたシナリオを巧みに組み合わせて、有利に実現していったということです。
Q:幕末維新というと、いままでは天皇のことはほとんど話題になっていませんね。
A:日本人は信長・秀吉・家康の話をしていれば日本を語っているつもりになっているようなところがあるけれど、その3人に匹敵するのが、藤田さんが指摘した幕末の光格天皇・孝明天皇・明治天皇なんです。よく「織田がこね、豊臣がつきし天下餅、食うは徳川」と戯れに言いますが、それに準(なぞら)えれば、光格が王権の復活を宣言し、孫の孝明がそれを王政復古のお餅にしたところを、すべて明治がパクッと食べたということになる。
Q:光格天皇ってそんなにすごかったんですか。
A:安土桃山でも最初の信長にすべての権力の形の実験が試みられていたように、幕末においても光格が「天皇は日本国の君主である」という神武以来の皇統を強く意識して、それまでまったく鳴かず飛ばずだった天皇の地位を引き上げたんですね。そんな天皇は江戸時代を通して初めてです。
そこへ黒船が来て、次の孝明天皇が頑固なまでに日米通商条約に反対し、鎖国攘夷を主張しつづけた。この二人の天皇が尊王攘夷の民族意識のエネルギーを吸収していったんだとおもいます、天皇が僅かな期間だけれど国王型のカリスマになっていったから、薩長土肥も水戸も「王政」ということを現実化できると考えたんじゃないかとおもいます。
Q:天皇には王政復古の意志はなかったんですか。
A:ぼくはなかったとおもいます。
Q:では、順番に伺いますが、まず、なぜ天皇の力は江戸250年のあいだに低迷したのかということです。
A:低迷したというより、雁字がらめに抑えつけられていた。
Q:そのあいだ、大半の日本人は天皇を思慕しなかったんですか。東照大権現の家康ばかりをずっと神君と仰いだんですか。
A:そのようにさせられた。実際にはけっこう天皇家は思慕されています。なにしろ「都」の象徴ですからね。答えになるかどうかはわからないけれど、江戸時代を通じて日本がどう呼ばれていたかという点で見ますと、「日本国」という呼称もあったんですが多くは「本朝」や「皇朝」で、幕末が近くになると「皇国」がふえるんです。いずれも天皇と朝廷を前提とした自国意識になっているということです。でも徳川250年の神君は徳川家康で、トップは将軍ですから、まあ、天皇は"おてんとさん"としての別格扱いですね。またそのように天皇をしておくことが徳川幕府のとった二重政策で、国内ダブルスタンダードだったんです。
Q:どういうことですか。
A:幕藩体制というのは、中央の将軍・幕府が地方の大名・藩を支配しつつ人民の活動をコントロールするというシテスムです。将軍を頂点とした封建的土地所有を編成して、それによって全部の国土と全部の国民を支配する。これでは荘園領主のトップに立っていた天皇・朝廷はどこにも入りこむ隙間はありません。
しかし、家康はそういう全国支配をするのにあたって、天皇から征夷大将軍に補任(ぶにん)してもらうということを、最初にやった。これは信長も秀吉もできなかったことです。天皇は全国の官位官職体制の頂点に立っています。官位というのは、正三位とか従五位という階級の位のこと、官職というのは陸奥守・薩摩守とか、中納言・少将とか、雅楽頭(うたのかみ)とか大膳大夫といったもので、律令にもとづいた「公」(おおやけ)の職名です。
Q:何をするんですか。
A:それが何もしない(笑)。虚位虚職です。陸奥守といっても陸奥の国司になって国務を担当するんじゃない。そういう肩書をもつことによって朝廷の官吏制のもとで「公的な立場」をもったということです。のちに明治になると徴兵制ができて、大将・中将・少佐といった軍人の肩書ができますね。あれはべつだん実際の任務とは関係がない。階位です。しかし軍事組織の人的オーダーとしてはキャリアの目印になったり、叙勲の対象になったり、人脈の上下関係ができたりした。それと同じで、天皇を頂点とする任官となって「公的な立場」をもつことは、それなりのステータスだったわけです。
Q:そんなものが何の役に立つんですか。
A:それが日本の「公」というものの本質なんですよ。世の中、その人が実務をしていなくとも、その「公」のハンコは必要でしょう。そのように「公」にかかわる機能のことを徳川の世では「公儀」というんですが、幕府も公儀のトラブルは武力で抑えないほうがいいと見ていたし、常備軍をつくっていなかった幕府は、多くの問題を「公儀」でコントロールしようともしたわけです。
Q:時代小説のいわゆる公儀隠密ですね。
A:公儀に対して、武力のほうは「武威」といって、これは将軍や幕府の力のことをあらわします。「公儀」は何の実務力も戦闘力もないソフトなものだけれど、それがちゃんとオーダーをもっていれば役に立つとわかっているから、家康はそれを利用した。
Q:ハンコの力だけですか。
A:極端にいえば、そうです。しかし幕府で役職につくときは必ず誓約書のようなものを書いた。これを「起請文」というんですが、それを書く。そこには「この誓いを破れば天神地祇の罪を蒙る」というようなことが書いてある。そこに署名して血判を捺すんですね。そうすると、この「天神地祇の罪」というものを保証している形式的な根拠がどこかに必要でしょう。それは「聖書」に手をおいて誓約するようなもので、その「聖書」が神に誓って公明正大だというのは、形式的なものであれ、どこかで保証されていなくちゃならないですね。キリスト教社会ではそれが法王までヒエラルキーができている。でも、ふだんの仕事にはそんなヒエラルキーは関係がない。それと同じで、日本ではそれが天皇を頂点とした官位官職なんです。いまでも国家公務員はそれに似た「認証」をもらって公務員になっている。
Q:江戸時代でも同じですか。
A:同じです。たとえば中納言を任ずるとすると、公家にそれまで何人中納言がいても新たに決めることはできる。ただし人事を誰それにするということは「禁中並公家諸法度」に規定があって、幕府が決める。でもその辞令書にあたる「位記」(いき)や「口宣」(くぜん)を出すのは朝廷なんです。これがないとどんな役職も正式にはならない。幕府はだから「公家諸法度」で朝廷の官位叙任権を形骸化しておくことを設定したんですね。
Q:ハンコの力だけをもっていても傀儡同様で、何の力にもなりそうもないような気がするんですがね。
A:いや、それが黒船が来て、条約を締結する段になると大きな問題になるんです。海外から見れば、将軍は首相だけれど、天皇は元首ですからね。すべての公的な決定のハンコは朝廷すなわち天皇が捺すんです。
だから、もしうまくハンコをもらおうとしたら、幕府側もそれなりの工夫が必要になる。逆に、朝廷側は圧力に屈しないようにすることもできる。ハンコに意味をもたせたい。そこが黒船以降の日米条約で大問題になったところです。幕末の問題は一途にその一点にかかっているといっていいんじゃないですか。あとはすべて付け足しでしょう。
実はそのような事態になる前に、すでに荻生徂徠は『政談』のなかで天皇・朝廷による叙任権をもっとスッキリしたほうがいいというような提言をしているんですね。そうしないといずれ、ややこしくなるだろうとね。徂徠の政談とはそのことです。
Q:幕府と朝廷のあいだにどんな「ハンコ・ルート」があったんですか。
A:藤田さんもそこを重視しているんですが、「将軍→老中→京都所司代→禁裏付(きんりつき)→武家伝奏→関白→天皇」というのが基本です。幕府からすると武家伝奏(定員2名)が朝廷交渉の窓口なので、キーマンです。のちにこれに「職事」と「議奏」というポストが加わって、「将軍→老中→京都所司代→禁裏付(きんりつき)→武家伝奏→職事→議奏→関白→天皇」というふうになった。このうち伝奏と議奏を「両役」というのですが、日本に外圧が迫るにつれて、この両役と関白をどう握って、天皇にハンコを捺させるかということが焦眉の課題になってくるんです。このことこそ、のちの「公武合体」という幕末の事態の意味を解くカギになります。
Q:なるほど、「公・武」の公と武のあいだにハンコがあった。
A:ハンコをもつ人がいたわけです。いまはこのルートの半分以上を宮内庁が管轄してしまっている。皇室側にシステムがないですね。
Q:では、そろそろ光格天皇に登場してもらいたんですが。
A:光格が登場する前に、幕府の武威にいろいろヒビが入ってきていたんですね。大きなきっかけは飢饉と外圧です。とくに天明の大飢饉が全国を麻痺させた。それにともなって江戸の町で打ちこわしが頻発して、さらに幕政が乱れて、経済危機がきた。ちょうど田沼意次が老中をしていた後半期で、そのとき意次の子の意知(若年寄)が暗殺されてしまいますよね。
Q:そこで松平定信が寛政の改革に着手した。
A:そうです。たしかに定信は帰農令や棄捐令などを出したりしたけれど、うまくいかなかった。おまけに「寛政異学の禁」で有名なように、学問所での朱子学以外の研究を禁じた。こういうことをすると、逆の目が出かねないんです。
Q:逆の目というと?
A:たとえば、山崎闇斎の垂加神道にかぶれていた徳大寺公城がおこした宝暦事件とか、山王神社の社司だった山県大弐が『柳子新論』で江戸城攻略の手口を書いてそれが露見した明和事件とか、水戸の藤田幽谷が『正名論』を書いて「幕府はもっと天皇を畏敬したほうが国内がうまくおさまる」といった議論をするとか、最初の尊王思想といわれる動向が出てきたことですね。
そういうところへ寛政4年にロシアから使節のラックスマンが根室に来て幕府に通称を求め、文化1年にはレザノフが長崎に、イギリス軍艦フェートン号がまた長崎にやってきて、日本のシーレーンがだんだん脅かされるようになったわけです。「ああ、やっぱり」というふうになってきた。
Q:寛政の三奇人がいますよね。高山彦九郎と林子平と蒲生君平。奇人というより時代の先を読んだひとなんでしょうね。林子平は海防論を唱えたし、高山彦九郎と蒲生君平は勤王家ですよね。
A:林子平の『海国兵談』は海岸で外国船を叩けというものだし、蒲生君平の『山陵志』は歴代天皇の墓所をちゃん調べて天皇家の歴史を確立すべきだと言ったわけですし、高山彦九郎は『太平記』を読んで感激した関東武士で、禁裏に入って節会を拝見して感動するんですね。あとで話しますが、閑院宮尊号事件に激怒して、憤慨のあまり自刃してしまった。
Q:いまも三条大橋で銅像となって、御所を望んで座っている。
A:そういう状況のなかで光格が即位するんです。ただし、光格はその在位期間がめちゃくちゃ長かったので、それも天皇家のチャンスになった。
Q:どれくらいですか。
A:天皇の在位が39年で、「治天の君」の院になってから23年ですから、62年間です。そのあいだに、いろいろなことがおこり、光格はカリスマ性をもっていくんですね。最初のきっかけはやっぱり天明の大飢饉です。
Q:天皇にかかわることがおこったんですか。
A:不思議なことがおこったんですね。天明7年に御所を囲む築地塀のまわりを毎日たくさんの人が取り巻いて、「御所千度参り」というのを始めた。これはぼくも本書を読むまで知らなかったんですが、それが1万人、3万人、7万人と膨れあがった。
Q:「おかげまいり」とか「ええじゃないか」に似ている。
A:その先駆です。まったく前触れなくおこったらしい。飢餓を救ってほしいという声がそのような千度参りになったんですね。これは天皇を神仏のように見ていたということで、最近の歴史学ではこれはどうも重要な動きだと見られています。そこで天皇と関白と両役が「賑給」(しんごう)はできないのかと幕府にかけあった。賑給というのは、古代の朝廷が全国の貧窮の民に米や塩を賜った儀式名のことで、それをいまは勝手にするわけにはいかないので、幕府に相談したわけです。どういうふうに相談するかというと、さっきも言ったように、両役(伝奏と議奏)が京都所司代にかけあい、それを老中が勘定奉行に評議させるというふうに案件が流れていくんですが、それをやった。その結果、朝廷幕府あわせて1500石の「救い米」を民衆にふるまうことになった。
Q:ほう、幕府が言うことを聞いた?
A:めずらしいことですね。だから、この出来事が意外な先例になって、朝廷もがんばればちょっとは幕府を動かせるという機運になったんですね。とくに光格天皇はそのころまだ20歳そこそこだったんですが、それによって「国難を救う王」という強い意識をもった。
Q:誰かが入れ知恵をしたんじゃないでしょうか。
A:もともと光格にはそういう意識が強かったようですが、議奏の中山愛親(なるちか)が似たような考え方だったようです。光格は天皇の力を強化したかっただけでなく、古来の正統性を取り戻した天皇になりたかったんですね。
Q:というと?
A:新嘗祭や大嘗祭を古式に則(のっと)った姿に復した。それまではガタガタだったんです。財政もなかった。それを光格はだんだん復活させていく。新嘗祭と大嘗祭は天皇儀礼の最大のものですからね。ある文書には「貞観・延喜の式のごとく作進した」とあるようです。そうだとすると、これは「王朝時代の復権」でしょう。それだけでなく、光格は次々にそのほかの朝廷儀式も元のかたちに戻していった。そういうことと「お千度」によって天皇を神格化したことが重なっていくんですね。
Q:光格天皇は幕府が嫌いだったんですか。
A:そういうことではなくて、日本が弱体化していることが気になったんでしょう。しかし天皇家だって弱体化していたわけだから、まず自身の周辺を強化していったんだとおもいます。これは天明の大火によって焼亡した御所の建て直しのときにも、目立った動きになってくる。
Q:派手になった?
A:豪華になったとかというんではなくて、平安朝の内裏の再現をめざしたんですね。それでもこれはお金がかかるから、造営担当になった松平定信が執拗に反対します。けれどもそれを押し切った。幕閣を押し切るだけの力が光格天皇にはあったということです。これは江戸時代では初めての天皇側の凱歌です。さあ、こうなってくると、日本はいったいどのように「大政委任」をしているのかという議論になってきます。
Q:大政委任?
A:大政委任というのは、天下の政(まつりごと)の権限を天皇(朝廷)が将軍(幕府)に委任しているということで、この考え方の前提には日本を統治しているのは天皇だという見方があるわけです。しかし徳川社会ではこのことは表面上は伏せられていた。あくまで「公家諸法度」が前面で仕切っていた。それがしだいに大政委任論があかるみに出てきたんですね。これは本居宣長の『玉くしげ』も中井竹山の『草芽危言』(そうぼうきげん)も指摘していたことです。そういうところへ、さきほどの閑院宮尊号事件がおこるんです。
Q:高山彦九郎が激怒したという事件。閑院宮って誰ですか。
A:光格の実父です。皇室の系譜のなかではあまり上位にランクされていない宮家で、天皇にもならなかった。しかし光格は父親を尊敬していたので、閑院宮典仁親王に「太上天皇」(だいじょうてんのう)という称号を贈ろうとした。幕府はそういう私情によって尊号を贈るのはどうかと反対した。松平定信が待ったをかけたんです。ところがこれが意外にも「公卿群議」をまきおこし、朝廷の気分を束ねていったんです。けれども幕府は譲らなかった。そういう事件があったんですね。
Q:彦九郎はそれで怒ったわけですか。
A:しかし、朝廷は負けたわけです。ともかくもそういうことがいろいろあって、こうして天保11年に光格が70歳で亡くなるんですが、そこでまたまた尊号をめぐる事態の紛糾が持ち上がるんです。
Q:光格天皇が死んだあとに?
A:それを説明するには、この時期まで「天皇」という尊称がほとんどつかわれていなかったということを知る必要があります。
Q:江戸時代の日本人は天皇を天皇と呼んでいないんですか。
A:呼んでません。みんな「主上」とか「禁裏」と呼んでいた。
Q:光格天皇は?
A:ちょっと話がややこしくなりますが、実は「光格」は諡(おくりな)で、生前は「兼仁」(かねひと=けんにん)というのが正式名です。いま、われわれが「光格天皇」という呼称をつかうのは死後の諡号によっている。おまけに「天皇」という称号もめったにつかわないのですから、そのことをいまから話しますが、当時の状況を理解するには、今日の常識からは判断しにくいんですね。しかも当時の状況も光格天皇の称号については異例なことがおこったんです。
Q:うーん、ややこしいですね。どうもよくわからない。
A:まず歴史の話からしますが、そもそも日本の天皇は生前も死後もめったに「天皇」とは呼ばれていない。江戸時代の公家目録のようなものに『雲上明覧』というリストがあるんですが、そこでは第62代の「村上天皇」から第119代の「光格天皇」まで、ずっと「天皇」とは書かれていない。
Q:えっ、ではどのように称していたんですか。
A:すべて「院」と書いてある。治天の君になって院政をした上皇だから「院」なのではなくて、すべて一条院とか花園院とか後水尾院というふうになってるんです。つまり天皇は長らく「なんとか院」というふうに呼ばれていたし、そう記録されてきた。だいたい歴代天皇を「天皇」で通してあらわすようになったのは大正14年に政府が決めてからのことなんです。それまでは大半が「院」です。
ということは、光格も死後は「兼仁院」というふうになるのが予定通りだったんですが、そこで朝廷の側近たちが考えた。わが主上は践祚以来、故典旧儀を興復せられ、公事(くじ)の再興にも力を尽くされ、御在位三十有余年、古代にも稀な業績を残されたのだから、新たに諡号を贈るだけではなくて「天皇」とお呼びしよう、というふうになったんです。そこで「光格」と「天皇」という二つの新しい称号を贈って、くっつけた。そして幕府に申し出た。幕府も閑院宮のような父君のことではないし、偉大な光格天皇だったからというので、ついつい認めた。
Q:幕府が折れた?
A:うっかりね。しかし、これは880年代に在位していた第58代の「光孝天皇」以来のことで、いわば千年ぶりに復活したことだったんです。幕府はそこまで読み切っていなかったんでしょう。以来、歴史においても歴代天皇として光格を呼ぶときは兼仁ではなく光格天皇というふうに呼ぶようになっているわけですね。
Q:なるほど。そういうことですか。それにしてもそんな異例のことが、よくすんなり決まりましたね。
A:いや、容易ではなかったようで、いろいろ悶着はあったようですが、このころは公家や朝廷にも力がついてきたということでしょう。それになんといっても光格天皇のことはだれも文句がいえない。「日本という原型」に情熱を注いだわけですからね。ともかくも、こうして天皇家は、古代天皇さながらの「天皇」号の本来を光格天皇によって取り戻したということです。
Q:これは意外でしたね。そうですか、近世の天皇号はやっと光格天皇からですか。いまの日本はそれを踏襲しているわけですか。
A:いまは「元号+天皇」ですね。それが始まるのは明治からで、当時は「諡号+天皇」です。でも、まだ4代目の段階ですね。昭和天皇が第124代ですから。
Q:そういう話はだれもしてくれませんからね。学校でも教え
ない。
A:だから本書は日本人必読なんです。
Q:で、光格天皇の次が、幕末最後の孝明天皇ですね。
A:いや、光格の第6皇子の仁孝天皇が継いで、その次が光格の孫の孝明です。
Q:あ、そうですか。あいだの仁孝天皇はあまり活躍しなかったんですか。
A:やはり光格同様に古来の朝廷儀式の復活と充実に熱心なほか、かなり学問に力を注いだようですね。「学習所」を創設して、これがその後の「学習院」になった。いまでも皇室の子弟が学習院に行くのはこの伝統です。ただ、その当時の学習所は尊王論者が勉強するところで、そういう空気はそろそろ天皇の近くでおこっていったということですね。仁孝は47歳で亡くなり、そこでいよいよ孝明天皇の登場です。
Q:幕末最後の天皇。かなり突っ張った天皇だったようですね。黒船来航から幕末までの未曾有の時期ですから、そうなるしかなかったともいえますね。
A:最も大変な時期の天皇ですね。この時期の日本に何がおこったかということは、とくに説明する必要はないとおもいますが、そのことを天皇の側から見る視点がいままで欠けていました。たとえば「海防勅書」のようなものを孝明は幕府に出すのですが、こういうところはかなり強気です。強気なだけではなくて、「神州の瑕瑾」とならないように海防に力を入れてほしいという言い方をした。そこには日本という国を思うかなり強固な自負もあったはずです。
Q:それは勝手な思いこみではなくて、天皇家はそれなりの情報収集はしていたんですか。
A:本書によると、アヘン戦争のことから日本の海岸にきた外国船のことまで、すべて知っていたようです。近衛権少将の中院通富(なかのいんみちとみ)や水戸の徳川斉昭からも情報入手していたみたいですね。ペリー来航の予告があったときは幕府からの報告がなくて、斉昭から関白の鷹司政通をへて「密報書」というものが届いた。孝明はすぐに七社七寺に「御国体に拘わらぬよう」と祈らせ、伊勢神宮にも例幣使を出している。
Q:ペリーが来てからは?
A:武家伝奏の三条実万が京都所司代の脇坂安宅に会って、アメリカの国書に対する回答は「神州の一大事」なのだから、国体を辱めることのないようにという叡慮を告げていますね、叡慮というのは天皇の意向という意味です。このとき重要なことがおこっていると藤田さんは指摘する。
時の老中は阿部正弘ですが、その阿部が天皇にそういう叡慮があるのなら、できるかぎりその意向に沿いたいというようなことを、二度にわたってのべているというんです。これは初めて「幕府→天皇」ではなくて「天皇→幕府」という方向が設定された瞬間ではないかと藤田さんは指摘している。
Q:そのへんがターニング・ポイントになったんですね。
A:これはまだ予兆ですね。ターニング・ポイントはもうちょっとあとです。ペリーとの日米和親条約のあと、嘉永7年9月にロシアのプチャーチンの乗った軍艦ディアーナ号が大坂湾に入ってきて天保山沖に停泊したときと、安政3年7月にハリスが下田に来て日米通商条約を結ぶときですね。プチャーチンのときは、孝明天皇は朝廷の強い意志を太政官符として意志表明した。諸国の鐘を「皇国擁護の器」である大砲のために拠出しなさいという太政官符です。
Q:まるで太平洋戦争のときと同じじゃないですか。
A:そうですね。しかも、このように朝廷が諸国にダイレクトに太政官符を送られるというのは、きわめて異例です。実態のない太政官が実態のない諸国の"国司"に通達したわけだから、これはまるでかつての律令制国家が復活したようなものです。
ハリスのときは、幕府がようやく7割がたの条約調印賛成をとりつけているなか、水戸の斉昭が朝廷に「通商条約なんか結んだら日本は侵略されることになる。反対してほしい」という意見書を出すんですが、関白以下がこれに困惑しているなか、孝明天皇は「これ以降は公家は自由に発言しなさい」という宸翰を関白に送っています。
Q:公家の社会をフリー・フラット・フレキシブルにした。
A:まあ、そんな感じです。しかし、幕府に対しては言いたいことを言う。老中の堀田正睦が上京して説得したいと言い出したときは、ついに条約調印は断固拒絶するという決定的な意志表明をしたわけです。ここに最大のターニング・ポイントがあったわけです。
Q:しかし、堀田は調印を強行しようとしますね。
A:その前に関白九条尚忠を抱きこんで天皇を孤立させるんです。
Q:関白が幕府側についた?
A:そうです。それで幕府と関白の策動に反発する公家が出てきて、いよいよ朝廷が大きく揺れていくわけです。公家のなかには、関白と組んで幕府の言いなりになろうとしている議奏の東坊城聡長を切ろうという意見さえ出るんですね。かくて中山忠能権大納言を筆頭とする88人の公家が御所に集まって、条約調印を幕府一任にしない反対署名をして、ここについに「関白・両役」を乗りこえて集団意志表示をするところにまでいたるわけです。
Q:その公家たちの行為は自主的だったんですか。
A:半ば自主的だったはずですが、実はそこに岩倉具視がからんでいるらしいので、岩倉というのはやっぱり只者じゃないんですね。こうしておいて、のちのちの公武合体のシナリオをあらかじめ読んでいたんでしょうかね。事実はわかりませんが。
Q:孝明天皇の幕府への抵抗は、日本は鎖国のままでいいんだということですか。
A:そうなりますね。堀田正睦を御所に入れて、「墨夷の事は神州の大愚」と言ってます。墨夷というのはアメリカのことです。絶対に条約を呑むなという。これで堀田は天皇の勅許の獲得に失敗したわけです。そうなると、今度は他の幕府側や開明派の諸大名たちがこれを許せない。何をしているのかということで、日本中が大騒ぎになった。条約調印をしなければ戦争になるかもしれない。そうしたら日本はいっぺんにぺしゃんこです。こうして幕府側では最後の切り札の井伊直弼を登場させて、強引に調印してしまうんですね。天皇は無視されたわけです。
Q:天皇は条約に反対して、どうするつもりだったんですか。戦争する気でいたのか。
A:伊勢神宮、石清水八幡宮、鴨社などに調伏を頼んでいるだけですね。もし戦争になったら「神風よ吹いてくれ」とも祈っている。日米条約のあと、幕府がロシアやイギリス・フランスとも条約を締結しようとしたときは、「主上逆鱗、御扇子をもって九条殿下をしたたか御打擲」している。関白の九条尚忠を扇子で叩いて怒りまくったというんですね。
Q:ナンセンスですね。そんなことしかできないんですか。
A:そうです。そんなことしかしていない。しかし、藤原不比等以降の天皇はもともとそういうことしかしてこなかったんです。後鳥羽院とか後醍醐とかを除いてね。応神や雄略の古代天皇以降、他に日本史上で天皇が何をしましたか。天智天皇が中大兄皇子のときに白村江の海戦で惨敗して以来、海外とは接触すらしていない。そもそも「公家諸法度」の第1条には、天皇は御学問だけやってくださいと書いたわけです。天皇にそういうことしかさせないようにしたのが、鎌倉幕府や室町幕府や徳川幕府です。それから信長と秀吉ですね。足利義満はそれなら自分が国王に君臨しようとさえ考えた。
けれども天皇制度を温存しておくというなら、ハンコだけを天皇に預けておくというなら、天皇が伊勢に願って戦争回避を祈っていようが、ペリーやハリスを御所に招こうが(招いてはいませんが)、幕府やそれに代わる政治の実践者こそがすべての実務をまっとうすべきなんです。国の実際を政務機関が動かすべきなんです。
それなのに、このあとの幕末最後のシナリオは尊王攘夷と公武合体をへて「王政復古」に向かっていったわけでしょう。互いが「掌中の玉」を取り合って、それを実務に変えたのではなく、実際に王政復古をして、明治天皇を迎えた。天皇に何もできないことを知っていて、そうしたわけです。ここに幕末維新の奇妙な捩れがあるんじゃないでしょうか。
Q:いや、ちょっと待ってくださいよ。光格天皇と孝明天皇のカリスマ性の発揮はあきらかに尊王攘夷の機運に火をつけたわけですね。ということは、光格や孝明には王政復古の意志があると見てもいいわけです。むろんそんなことは朝廷だけではできないことだったろうけれど、少なくともそういう方向には向いていた。
A:そうですね。
Q:そうだとしたら、幕末の王政復古は天皇が望んでいたシナリオだったわけでしょう?
A:問題はそこをどう見るかということですね。ぼくは光格も孝明も、まだ少年だった明治天皇も、王政復古など考えていなかったとおもいます。
Q:じゃあ、何を望んでいたんです?
A:公武合体ですね。
Q:それがなぜ王政復古になったか。
A:そのシナリオを進めた連中がいたからです。
Q:話がややこしいですね。それじゃ少し話を整理しますが、井伊直弼は安政6年に徳川斉昭の蟄居に始まって橋本左内・吉田松陰死罪に至った安政の大獄をやってのけますね。そして翌年に日米通商条約の批准のために咸臨丸などで使節をアメリカに送りこんだあと、桜田門外の雪の中で殺されますね。
これで幕府は動揺して強行策ではうまくいかないと見て、老中を安藤信正などに交代させて、融和政策に切り替えますね。この時点では公武合体の案はどこからも出ていなんですか。
A:孝明天皇がすでに提案しています。つまり孝明天皇は「開国」が国家存亡のクリティカル・ポイントなら日米条約の締結はやむをえないが、それならしばらく事態の趨勢を見たうえで、公武合体して、そのあとに「鎖国」に戻れないかという提案をしたんですね。そこまでのことは堀田正睦の段階で朝幕のあいだで交わされていた。それを井伊直弼は一気に突破したわけです。
Q:どういう公武合体を考えたんですか。
A:とくに具体的な構想は出ていません。天皇というのは、つねにヴィジョンだけがあるんですね。
そこで桜田門外の変のあと、幕府の側から公武合体のかたちを見せるために、皇女和宮を将軍家茂に降嫁してもらったらどうかという案が出た。家茂も和宮も数えで15歳です。和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約があるので、かなり話は難航するのですが、孝明天皇は公武合体のためならと了承する。そこへ、幕府は和宮を降嫁させたあと孝明天皇を廃帝にするつもりだという噂がとびこんでくる。ここから幕末で一番わかりにくい文久年間に突入します。藤田さんは、この文久期の天皇の宸翰を調べて、この時期に宸翰の数が激減していることに注目しています。
Q:廃帝の噂を聞いて、天皇はどうしたんですか。
A:怒って、譲位を決意するんですね。その譲位の決意を幕府側に伝えに行ったのが千種有文と、そして岩倉具視なんですね。
Q:なんだかイミシンですね。
A:イミシンです。幕府は天皇を廃帝にするなんてことはたんなる噂であって、そんな気は毛頭なかったと平身低頭するわけです。しかしそう幕府に言わせたことは、カードとして岩倉の手元に残った。それでともかくも和宮降嫁計画は進むわけですが、そのときですね、長州の長井雅楽(うた)が『航海遠略策』を引っさげて宮中に乗りこんでくる。文久1年の5月です。
Q:あれは開国論ですね。
A:皇威を諸外国に輝かすために開国すべきだというんです。藩主の毛利慶親の派遣です。長井はついで江戸に行って老中の久世広周に同じプランを示した。公武合体による開国案は幕府にはちょうどいいものなので、幕府は賛成します。
Q:孝明天皇のほうはどうですか。公武合体をしても開国するのなら反対でしょう。のちに鎖国なら賛成でしょう?
A:そうなんですが、ここにきて事態が憂慮すべきところまできていたので、いったん開国したあとでふたたび鎖国すべきだという案に傾くんです。10年くらいたってから鎖国しようという内意を交わしています。だから宸翰で長井が渾身の提案をした心を褒めている。しかし、公武合体だけはしてほしい。
Q:なぜ天皇は方針を翻したんですか。
A:長州が長井雅楽の提案のあと、藩議を一変させたからでしょうね。和宮の降嫁は幕府権力を再強化しかねない。そんなことをしたら幕府は10年延命して、腐っていく。そのときは「天朝モ亦幕府ト倶ニ転覆ニ至リ玉フベシ」という見方が浮上してきたんです。これは水戸イデロギーが諸国を急速にまわったせいですね。
Q:そうか、いよいよ尊王攘夷のイデロギーが天皇を上回ってしまうんですね。
A:日本の問題って、そこにあるわけです。実体としての天皇ではなく、理想の天皇にどこかで切り替わってしまうんですね。ふつうはそんなことはないでしょう。時の大統領が出来がどうであれ、理想の大統領なんて想定しない。すぐに次の選挙で現実の大統領が出てくるわけです。しかし、天皇制度はそうじゃない。つねに紫の御簾の向こうにいて、千年以上の時を食んでいらっしゃる。そこには名状しがたい「理想の判断」というものが想定されてしまうんですね。実際にはそのような判断はすべて周りが作り、周りが動かしているのですが、それは尊王の志士からは見えない。
こうして文久2年になると、1月には大橋訥庵を中心にした水戸浪士が老中の安藤信正を坂下門外に襲い、4月には土佐の尊王攘夷派の武市瑞山が公武合体派の吉田東洋を斬殺し、薩摩では有馬新七らが京都所司代を襲うというふうになっていくんですね。尊王攘夷派の動きが過激に跳ね上がっていった。
Q:2・26と同じですか。
A:あれは軍部の中の青年将校の叛乱ですが、尊王攘夷は全国的な、しかも無差別で自発的な跳ね上がりです。ただしそのいずれの胸中にも「理想の天皇」のイメージが膨らんでいった。これは孝明天皇には辛いところです。そこで、それを察してか、薩摩の島津久光が一千余人を率いて大坂に入り、幕政の改革とともに尊王攘夷派の取り締りを徹底するべきだというデモンストレーションをするわけです。
Q:島津久光は開国論者ですよね。
A:そうなんですが、それを懐に押しこんで、朝廷と幕府のあいだを取り持とうとした。朝廷もそれではというので勅使に大原重徳(しげとみ)を選んで久光とともに江戸に随行させてますよね。
Q:効果はあったんですか。
A:勅使と薩摩藩兵の圧力のせいか、7月に徳川慶喜を将軍後見職に、越前藩主の松平慶永を政事総裁にしますね。朝廷の要請で幕府の人事のことを変えるなんて、徳川250年で初めてです。
Q:もう手遅れでしょうけどね。幕府にそこまでさせて朝廷はどうしたんですか。ただ見ているだけ?
A:政局があまりに複雑なので、国事審議機関をつくります。この緊急キャビネットは国事御用掛・国事参政・寄人の25人で構成されているんですが、そこに岩倉具視が入るんですね。
Q:どういう主旨のキャビネットですか。
A:むろん公武合体と鎖国です。スローガンは孝明天皇の宸翰によれば「皇国一和・万民一心」だったろうと藤田さんは書いている。
Q:そんなことじゃ事態突破にはならないでしょう。
A:逆に尊王攘夷派を煽ってしまいましたね。尊攘派は「四奸二嬪」を排斥するムーブメントをおこす。四奸は内大臣の久我建通と、それに岩倉具視、千種有文、富小路敬直です。二嬪は女官の今城重子と堀川紀子。
Q:あとから見ると二嬪はともかく、四奸は当たっていそうですね。
A:一部ね。朝廷もやむなくかれらを蟄居させるんですが、関白九条尚忠の家司の島田左近が暗殺されて四条河原にその首が晒されると、さすがに岩倉も岩倉村に引き籠もるんです。このあたりは本書より、大久保利謙さんの中公新書『岩倉具視』が詳しく書いている。このあたりで、京都は乱世そのものです。テロの横行です。
Q:無政府状態。そこへ将軍の上洛があるわけですね。
A:「天誅」という言葉がいろいろのことを象徴していますよね。天皇はテロ決行のお墨付きにつかわれたわけです。そこで朝廷も「天皇の親兵」といいますか、長州藩からの提案もあって京都の軍事力を高める必要が出てくるんですが、結局、これも手を打てないまま、ともかく将軍が上洛するということになっていくわけです。孝明天皇としては最低でも数年後に予定される「鎖国」ないしは「攘夷」の確認だけは取っておきたい。そのために将軍家茂に勅書を出した。その返答のために将軍が上洛するということです。これがいわゆる「奉勅攘夷」のスタートですね。
Q:将軍家茂の上洛の前に徳川慶喜と松平慶永が京都に入って事前交渉しますね。
A:ここで第3のターニングポイントがくるんですね。これは「大政委任」か「大政奉還」のチョイスをするターニングポイントです。
Q:さきほどの大政委任ですか。
A:天皇が大政委任するか、将軍が大政奉還するか。この二つにひとつというチョイスです。幕府としては、天皇が大政委任してくれれば「天下へ号令を発して外夷を掃除仕る」というんです。慶喜はこの交渉に徹夜でがんばったようですね。
Q:でも大政奉還してしまう。
A:いや、天皇は大政委任すると答えるんです。ただし、ここが大事なところですが、その委任というのは「征夷大将軍」である。外夷を討つための攘夷にかぎってその仕事をすべて委任するというものなんです。これって、どういう意味かわかりますか。
Q:以前からの孝明天皇の持論ですよね。
A:それだけじゃなくて、ここで徳川に「征夷大将軍」という役目を渡したことを問うたわけですよ。そもそも「征夷大将軍」とは「外夷を討つための将軍の仕事」という意味でしょう。
Q:ああ、なるほど。
A:これで将軍は切羽詰まるんですね。攘夷の期日を明示しなくてはいけなくなった。
Q:そうか、それで文久3年5月10日が攘夷決行日と決定されるわけですか。
A:その5月10日がアメリカ商船が下関を通過したときで、長州藩は砲撃をする。さらに薩摩藩では鹿児島湾でイギリス軍艦に砲撃するわけです。
Q:天皇はどうしたんでしょう。
A:鴨社や石清水に行幸して必死に異国調伏を願うんです。「皇国いったん黒土に成り候とも、開港交易は決して好まず候」という宸翰が残っているそうです。
Q:また、それだけですか。ちなみに孝明天皇は何歳くらいだったんですか。
A:34歳前後ですね。
Q:うーん、一番脂が乗り切っている時期ですね。でも神社詣でしかしない。
A:神武天皇陵にも春日社にも行幸してますね。しかし、この行為を遠山茂樹はかつて、天皇が攘夷戦争の指揮をとるという決意のための祈願だったと解釈したんです。
Q:えっ、天皇は軍事の指揮をとる覚悟をしていた?そうですか、そういう解釈もある。松岡さんはどうおもいますか。
A:ぼくはそこまで覚悟していないとおもいます。事態の超越を祈ったんだとおもう。もしそこまで覚悟していれば、このあとの幕府の長州征伐に勅許を与えなかったはずです。
Q:それに薩摩は薩英戦争で外国の軍事力を見せつけられて、これは攘夷は不可能だと覚るでしょう。
A:もうひとつは8月18日の政変がおこったことですね。これは尊王攘夷派を排除するために、会津藩士と薩摩藩士と京都守護職の松平容保と中川宮といった公武合体派が仕組んだクーデターです。長州が朝廷に入りこむのを阻止した。
Q:天皇も裏で認めていたクーデターでしょう。
A:認めてますね。ここにおいて天皇は自身の御旗を勝手に担ぎ出す尊王攘夷を断罪することになる。つまり完全に矛盾していくわけです。尊王も攘夷もいいけれど、それを天意として政局を混乱させたくないというギリギリのところへ追い詰められていったわけです。
Q:しかしそれは結局、長州に代わって薩摩がイニシアティブを握るだけだった。
A:そうですね。長州が出ていったから京都は危機を脱したけれど、「日本」は何も動いていない。天皇もここからは完全に浮足立っている。とうてい攘夷戦争の全軍の指揮をとるなんて状態じゃない。勅書もここからは偽書(偽勅)と交じって、どうもあやしくなります。歴史家が一番困っているところですね。そこへもってきて、長州征討の勅書に対して、大久保一蔵(利通)や西郷吉之助(隆盛)が、これは「非義の勅命」だという判断をくだすところにまでいたる。
Q:実際には薩摩が長州と組もうとしていたらでしょう?
A:その通りですが、そういう劇的な進展や展開に天皇がついていけないということでもあるわけです。それを見ていた岩倉たちも動き出す。天皇を"裸の王様"にしておいて、最後に利用しようという「掌中の玉」のシナリオですね。このシナリオと薩長同盟のシナリオが同時に動いて、幕末は劇的な幕切れになるわけです。
Q:二人帝王が相次いで死ぬわけですね。聞くところによると、天皇は毒殺されたというんでしょう?
A:慶応2年の7月に将軍家茂が死んで、12月5日に慶喜が最後の将軍になった直後、12月25日に孝明天皇が亡くなった。36歳ですね。毒殺説については、このところ石井孝さんと原口清さんのあいだで論争が続いたのですが、毒殺説は砒素が原因だという説、病死説は悪性痘瘡のせいだったというんです。
Q:この本はどちらの説ですか。
A:断定できる証拠がないと書いてますね。ただ毒殺説の首謀者に当時から岩倉具視の名前があがっていたこと、慶応3年1月5日にははやくも孝明天皇の亡霊が践祚したばかりの明治天皇の枕に立ったという噂があったということをしるしています。
Q:松岡さんは?
A:毒殺だったかどうかですか。そんなことわかりませんよ。でも明治天皇は15歳で即位ですからねえ。
Q:怪しいなあ。「ですからねえ」というんじゃ、気になるじゃないですか。
A:いいんじゃないですか。みんなが気にすれば。気にしなくなったら、日本も終わりですよ。
Q:結局、幕末の日本は何を選択したんですかねえ。
A:開国と天皇主義とを同時に選んだんです。
Q:現在は?
A:いまだにそうなんじゃないですか。