才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

秀吉の野望と誤算

笠谷和比古・黒田慶一

文英堂 2000

 関ヶ原の合戦の布陣は奇妙である。東軍で家康の勢力といえるのは家康周囲の旗本部隊と、井伊直政・松平忠吉の2部隊、および軍目付(いくさめつけ)の本多忠勝くらいなもの、それ以外は、福島正則・藤堂高虎・蜂須賀至鎮・黒田長政・池田輝政・浅野幸長・山内一豊ら、いずれも豊臣恩顧の大名たちばかりだった。
 東軍・西軍と徳川方・豊臣方はまことに複雑な組み合わせになっている。ここには甚だしい「ねじれの構造」ともいうべきがある。ということは、関ヶ原の合戦は豊臣と徳川の戦いではなかったということだ。あれは、豊臣政権システムがかかえていた政治社会の矛盾そのものを反映した「決算」だったのである。
 だいたい「豊臣」とは何か。なぜこんな名のりができたのか。秀吉は同時に「従一位」にも「太政大臣」にも「関白」にもなったのだが、これは何か。いずれも朝廷からもらった官位と昇叙なのである。信長にできなかったことをやってのけたといえばそれまでだが、下級武士であった秀吉が、公儀を主宰するこれらの公家最高位の官職にまでなれたのには、それなりの「試算」があった。異常な試算である。
 しかし、この「試算」による国家経営システムは朝鮮出兵とともにあっけなく瓦解する。だから実は、これらすべてのことが異常だったのである。それゆえ家康にとっての関ヶ原はその異常をとっぱらうための「決算」の場だったのだ。

 秀吉がのし上がっていったのは、むろん本能寺に信長が倒れ、明智光秀を討ってからだった。その直後の清洲会議では秀信が後継者となり、叔父である信雄・信孝兄弟が後見となったのだが、信雄と信孝のあいだに確執がおこった。秀吉はこの機を柴田勝家との覇権争いにして賤ヶ岳に勝家を討った。このことが、秀吉を織田領国での事実上の継承者にした。
 残るは東の家康である。が、これは小牧・長久手の合戦でまんまとしてやられた。これで秀吉はシナリオを変えた。内戦でライバルを倒すことをあきらめる。朝廷官位と天皇権威による支配によって全国統一をめざすことにした。
 このシナリオ変更への着手は迅速だった。小牧の戦いの直後の天正12年(1584)に従五位に叙爵すると、その月のうちに従四位下参議の口宣案をとりそろえ、翌年3月には正二位内大臣になっている。つづいて元関白の近衛前久の猶子(名義上の子)となって、7月に正一位に昇叙すると、ここで関白の称号をもらう。
 まさに経歴詐欺といってもいいほどのシナリオであるが、その総仕上げというべき画竜点睛が天正14年に太政大臣となって「豊臣」姓を拝受したことだったのである。
 このとき秀吉は抜け目なく家康を上洛させて、自分の位置に臣従させている。よほど小牧・長久手に敗れたことがくやしかったのだろう。秀吉は「関白」という官職の名において家康を服従させたのだ。それはまた「豊臣」という新たな「家」への服従を示していた。

 こうして秀吉は「惣無事」(そうぶじ)を宣言する。全国各地での領土紛争をめぐる私戦の禁止と、それに反した者を関白太政大臣が軍事制裁する権利を宣言した。「日本六十余州ーの儀、改め進止すべきの旨、仰せ出さるるの条、残らず申付け候」とある。
 「進止」(しんし)とは、天皇の意向である「叡慮」によって日本六十余州の全国統治権が委任されていることをいう。天正15年の薩摩島津征伐、18年の小田原北条征伐がこの「進止」によって謀られた。
 このあたりでシナリオは頂点に達していたはずである。少なくとも国内での栄達はすべて掌中にした。ところが、秀吉の野望は日本にとどまらなかったのである。

 秀吉が中国・朝鮮に野望をもったのは信長譲りのことだった。ルイス・フロイスの報告書には、信長が「日本統一ののちに大艦隊を編成して中国大陸に攻めのぼる」と高言していたとある。この信長のアジア計画を知った秀吉は、ただちに筑前守に就くことを申請する。筑前が朝鮮にいちばん近い拠点であったからである。
 信長も秀吉も、中国政策の最初の動機は明との勘合貿易を再開し、有利な通商関係を手にすることが狙いだった。それが国内統一がすすんで、とくに島津を討ったあたりから大陸拡大政策に変質していった。内戦をやるのでは、家康が手ごわかったせいもある。
 秀吉は「外」に向かったのだ。秀吉奉行衆は「唐国・南蛮国迄も仰付けらると思召候」と書いている。秀吉が明国と南蛮国を支配下に入れると言い出したというのだ。南蛮国とはルソン・マカオ・ゴアなどのポルトガル領・イスパニア領をさす。
 かくて秀吉は踏み切った。甥の関白秀次に示した25カ条の朱印状(命令書)には、日本・朝鮮・中国にまたがるとんでもない「国割り」のプランが提示されている。まさに八紘一宇であった。
 後陽成天皇を中国の北京に移そうというのだ。大唐関白には秀次を差し向ける。一方、日本の帝位は若宮(良仁親王)あるいは八条宮(智仁親王)に継いでもらい、その関白職には羽柴秀保(秀次の弟)か宇喜多秀家をあてる。朝鮮は羽柴秀勝か宇喜多秀家に統治させ、九州を小早川秀秋にまかせる。つまり、中国皇帝を日本人で占め、国内の天皇と分けるというのである。
 朝鮮には関白職を配当していない。なぜなのか。秀吉のアタマのなかでは朝鮮は”国内”だったからである。実際にも対馬の宗氏には「朝鮮国王に日本の内裏に出仕させよ」と命じていた。

 秀吉が朝鮮を”国内”とみなしていたことは、必ずしも秀吉の独創ではない。すでに天文9年に大内義隆が送った遣明使が北京に至ったとき、「いずれ日本は朝鮮を服属させるから、席次は朝鮮の上位にしてほしい」という申し入れをしている。
 大内は領国内の石見銀山を背景にしたシルバーラッシュを嵩(かさ)に、朝鮮に対してはつねに強気だった。西国の大名にしてこれなのだから、天下を統一した秀吉においては朝鮮を服属させることなど、大前提になっていた。すでにイスパニアがマヤ帝国やインカ帝国を手中に収め、ポルトガルがアフリカで奴隷貿易をしていたことも知っていた。秀吉は当時のヨーロッパ列強に伍した征服欲に駆られていたわけである。
 当時の朝鮮は李氏朝鮮(李成桂による1392年の建国)で、「軽武崇文」の風潮にあった。文民が武官の上に立っていた。貴族士族階級は両班(ヤンパン)とよばれ、文班・武班の両方を牛耳っていたのだが、議政府という御前会議のようなトップ裁定機関では、軍務大臣にあたる兵曹判書は文官が君臨していた。それゆえ軍隊もいわば自衛隊のようなもの、完全なシビリアン・コントロールのもとにおかれていた。

 もうすこし当時の李氏朝鮮の状況を言っておくと、国政上は明の皇帝から朝鮮国王であることを認知されたという「冊封」(封爵)を受けていた。つまり宗主国(明)と藩属国(朝鮮)の関係にあった。
 これは支配と被支配という関係ではない。植民地でもない。型通りの封爵と朝貢の儀式だけをやっていれば、それでよかった。中国も朝鮮の政治にまったく口を挟まない。それが宗属関係というものだった(もともと中国にはこういう性向がある。朝貢の礼を尽くしていれば、とくに問題をおこそうとはしない)。
 日本も形式的には中国とは朝貢関係をもっていた。足利義満が倭寇を禁圧して明の冊封を受けて「日本国王」を名のって以来のことである。ちなみに中国周辺の国王が中国皇帝に朝貢する関係を「事大」、そうした周辺国王間の交際を「交隣」というのだが、日本と李氏朝鮮はその交隣関係にあった。
 そういう意味では李氏朝鮮は戦乱なき平和国家だったのである。それだけに内政では党派党略の政争にあけくれていた。当時は東人党と西人党が鎬を削っていて、日本に派遣される朝鮮通信使も正使と副使で両派が交じっていた。東人・西人とは首都の漢城(ソウル)の東西をあらわすのだが、そこには儒教政治の解釈をめぐる対立が反映する。東人党の李退渓は主理説、西人党の李栗谷は主気説を主張した。
 こうした朝鮮状況を見て、九州平定(島津征伐)をおえた秀吉が大陸制覇の野望を叶えようとしたのである。内乱の鎮圧にあけくれていた信長がまったく手をつけられなかった外交に、秀吉が初めて着手したともいえる。

 秀吉が最初に打った手は、対馬の宗義調(そう・よししげ)に千利休を使者として、九州平定が終わったら朝鮮出兵をするから従軍せよと告げることだった。利休は渋々この役目を引き受けている。ついで小西行長に宗氏の監督をするように命じた。

 そのころ宗氏は倭寇禁圧の実績をあげたことで、朝鮮国王から特別の図書(ずしょ)をもらっていた。日本から朝鮮に渡る船の交易許可権である。毎年数万石におよぶ歳賜米(さんしまい)ももらっていた。朝鮮からみれば対馬は「朝鮮の藩臣」なのである。
 一方、小西行長は堺の豪商小西隆佐の子で、海外との中継貿易で富を蓄えていた。小西も宗氏も、日朝関係が末長く安定をつづけることがいちばんなのである。
 そこへ秀吉が「朝鮮国王を参内させよ」と命じてきた。秀吉は宗と小西の利権の一致を読んでいた。行長の娘のマリアを宗義調の子の義智に娶らせてもいた。いかにも秀吉らしい布石である。
 しかしこんな大役を任せられた利休には苦痛だったろう。利休だけではない。当事者となった宗と小西こそ、迷惑だった。対策を考えあぐねたすえ、二人は朝鮮と秀吉の両方をだますしかないと決めた(きっと利休もそう考えたろう)。すなわち、秀吉の天下征討を朝鮮に報告する名目で「日本国王使」を朝鮮に送り、朝鮮通信使はその答礼で来るのだが、秀吉には入朝だと説明することにした。
 そういう手筈にしておいて、博多聖福寺の轍玄蘇と宗義智を代表とし、コーディネーターに博多商人の島井宗室を加えた一行が「日本国王使」として漢城を訪れた。一行は朝鮮側との必死のネゴシエーションにとりくんでいる。
 結果、どうもあやしいと感じながらも朝鮮側も折れた。対馬にのがれた叛民を朝鮮に戻すという条件をつけ、秀吉に会いに行ってもいいと答えた。こうして天正18年に200人の通信使を送りこんできた。このときの正使が西人党の黄允吉、副使が東人党の金誠一なのである。

 しかし秀吉がそこで見せたのは傍若無人のふるまいと、晴天霹靂の「征明嚮導」(せいみんきょうどう)の指令であった。通訳の宗義智らはあわててこの言葉を「仮途入明」と訳しかえて、「明国へ朝貢する道を朝鮮に借りたい」というふうに説明した。
 けれども黄允吉は察知したようだ。漢城に戻ると、日本が攻撃をしかけようとしていると報告する。が、金誠一はそういう兆候はないと報告する。東人と西人は対日方針で割れたのだ。議政府の結論は東人党に靡いた。この判断ミスが朝鮮を戦場にしてしまう。
 天正19年8月、秀吉は朝鮮に憚ることなく「唐入り」を決断し、黒田長政・小西行長・加藤清正に肥前名護屋に築城を命じる。たった2カ月で完成した名護屋城は聚楽第に匹敵するほど豪華絢爛なものだったという。ただちに周辺に「出立の町」が賑わった。名護屋で手に入らないものは何もなかった、と宣教師やここを訪れた商人たちの記録にのこっている。

 かくして文禄元年(1592・万暦20)の4月12日、一番隊の小西行長・宗義智の軍が対馬大浦から釜山港に渡った。たった4時間で釜山は落ちた。二番隊の加藤清正軍は東路を、三番隊の黒田長政・大友義統軍は西路を攻めた。1カ月をかけずに漢城(ソウル)を占領、数日後には平壌(ピョンヤン)を、さらに開城(かつての高麗の首都)を陥落した。
 秀吉が秀次に後陽成天皇の北京移住をふくめた25カ条の計画命令を出したのはこのときである。さきほどは書かなかったが、秀吉自身は寧波に居住するつもりだったらしい。
 他方、漢城をはやばやと脱出していた朝鮮国王は鴨緑江に逃れ、ここで明国に援軍を求めた。ここから戦争は日中激突の様相を呈する。それに勢いをえて李舜臣(イ・スンシン)の率いる朝鮮水軍も奮起した。
 秀吉の軍勢は総計16万人におよぶ。小西・宗軍、黒田・大友軍、島津九州軍、福島・蜂須賀・長宗我部軍、小早川・毛利・立花軍、毛利輝元軍、宇喜多秀家軍、細川忠興・羽柴秀勝軍の九番隊に分かれ、さらに九鬼嘉隆・藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明の率いる1万の水軍と、「後詰め」として徳川家康・前田利家・伊達政宗・上杉景勝らが10万の兵を名護屋に待機させていた。ざっと40万の兵力が結集したことになる。
 このうちの遠征軍に軍目付(いくさめつけ)として就いたのが石田三成・大谷吉継らであった。遠征軍はこの三成とことごとくうまくいかなかった。のちに関ヶ原で豊臣派が東西に分かれるのはこのときの事情が遠因になっている。

文禄の役(壬辰倭乱)

文禄の役(壬辰倭乱) 『壬辰倭乱図屏風』より

 戦争は日本側では「文禄・慶長の役」と、朝鮮側では「壬辰倭乱・丁酉再乱」とよばれるように、大きく2度にわたっている。
 当初は秀吉軍の戦勝が勇ましかったが、しだいに明軍の投与にともなって事態は膠着し、明側の和平工作にも複雑な絡みがおこってくると、統一戦争の方針が失われていった。高敬明による全羅道における義兵の決起、加藤清正による朝鮮二王子の捕縛、浙江の市井無頼の徒であった沈惟敬の遊撃戦、その沈惟敬と小西行長が結んだ五十日の停戦、碧蹄館の戦闘での李如松の敗退など、戦闘の勝利と敗北は枚挙にいとまがないが、途中からは明も秀吉も休戦協定をどのように結ぶかを思案しつづけていた。
 ようするに無謀だったのである。明にとってもこの戦乱は面倒だった。あまりにも戦費がかさむ(実際にもこの費用の流出が明の崩壊を早めた)。
 しかし和平のトレードオフはいっこうに進まない。秀吉の和議の条件がとんでもないものだった。明の皇帝の娘を日本の天皇家に降嫁させるというものだ。
 こんなことを中国皇帝が受け入れるはずがない。中国側は冊封体制を甘んじるなら秀吉を日本国王に任命してもいいという、これまた高飛車の態度である。そのための金印も用意していた。
 両国の和議工作はまったくはかどらず、結局、業を煮やした秀吉が激怒して2度目の出兵攻撃を決意する。これが慶長の役である。
 これらの進行のあいだ、泥沼の戦場となった朝鮮軍と朝鮮人民はつねに必死であった。とくに李舜臣(イ・スンシン)の水軍の活躍はめざましく、いまなお韓国では最も人気のある歴史的人物になっている。祖国を救った不世出の水軍司令官だったのである。実際にも亀甲船(コプクソン)を駆った計(戦略)と略(戦術)は、まさに水際立つほど、比類のないものだった。
 李舜臣の勇猛と機略は日本側にも有名になった。日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎は列強各国でもその作戦が激賞されたけれど、その東郷も「自分はナポレオン艦隊を撃破したネルソン提督に比べられるかもしれないが、とうてい李舜臣にはおよばない」と言っている。
 ついでに付け加えておくと、現代韓国でイ・スンシンが英雄ならば、最も嫌われている日本人は誰かというと、プンシン・スギルとイドン・バンムンである。豊臣秀吉と伊藤博文をさす。

文禄の役、慶長の役ルート

文禄の役、慶長の役ルート

 朝鮮を陸と海を舞台にした前後7年にわたる過激で不毛な戦争は、いっこうに進捗のない戦乱と不首尾がつづいた和議工作と、そして秀吉の死とによって終結する。
 維新以前、日本がおこした大きな対外戦争には、白村江の戦いと文禄・慶長の役があるけれど(蒙古襲来は数えない)、いずれも海戦で大敗北を喫しただけでなく、中国に挑んで朝鮮に絡みつき、二度とも無残な結末を招いた。戦術に長けていたはずの秀吉の戦法も通じない。加藤清正のように女真族の領地にまで進軍した勇猛果敢な武将は少なくなかったが、これを戦略にいかせる手はほとんど打たれなかった。そもそも朝鮮半島での戦乱が膠着状態になる前に、和平工作の手が必要だったのだし、女真にまで進軍しているのなら女真に頼めることもあったはずである。石田三成の参謀本部としての管理能力もまったくだらしないものだった。

 ともかくこの戦争の本質は、わかりにくい。かつてぼくは北島万次の『豊臣秀吉の朝鮮侵略』や上垣外(かみがいと)憲一の『空虚なる出兵――文禄・慶長の役』を読んで、いったい秀吉が何を考えようとしていたのか、やっとこさっとこ全貌をつかんだものである。それまでは、この戦争の実態と意図は、いつまでたってもぼくの体の中に入ってこなかったのだ。むろん小中高を通して、何ひとつ教わらなかった。
 なかで上垣外さんの著書はこれまでの疑問をいくつも払った。東アジアにおける義満以来の日本の位置、戦国期の外交不在をへて、日本が何を考えようとしていたかをよくまとめていたし、そのうえで一人秀吉がとんでもないプランの実行に走った野望の経緯もコンパクトに集約されていた。それとともに文禄・慶長の役がもたらした文化面での”おつり”にも目を配っていた。
 その”おつり”とは、集約すれば、ひとつは陶芸技術、ひとつは朱子学である。陶芸は鍋島の有田焼・伊万里焼、毛利の萩焼、島津の薩摩焼のいずれもが捕虜となった朝鮮陶工の貢献による。朱子学については、とくに藤原惺窩と姜汎(カンハン)の交流が名高い。江戸儒学の種はここに撒かれたのである。
 今夜、その上垣外さんの著書ではなくて本書を選んだのは、秀吉の野望の破綻が関ヶ原の「ねじれた構造」とつながっていることを指摘していたことと、朝鮮半島における「倭城」の実態が詳細に書かれていたからである。
 本書を読んだのち、上垣外さんのものを読み出すとわかりやすいだろう。実は上垣外さんは帝塚山学院大学時代の同僚だった。

 秀吉が死んだのちに朝鮮からの撤兵が続いたことは、生命を賭した武将たちにおおいに不満をのこす。小西行長と加藤清正の対立、石田三成に対する不満、各武将の論功行賞の凹凸などに加え、秀吉が後を頼んだ前田利家が病没したことも、混乱を招いた。
 本書では、これらすべてのことが要因となって関ヶ原の「ねじれた構造」を出現させたという立場をとっている。では、ごくおおざっぱに「関ヶ原」の意味をまとめたい。

 朝鮮戦役後の不穏な情勢に敏感だった武将が二人いた。上杉景勝と徳川家康である。景勝は秀吉がいなくなったあとの天下は荒れるとみて、いちはやく会津領内の諸城の修築増強を早め、兵糧を蓄え、武器弾薬を大量に揃えはじめた。この動静はすぐに諸国の知るところとなった。このとき乾坤一擲の作戦に出たのが家康なのである。関ヶ原の合戦は、もとをただせば、この上杉の動きとそれに反応した家康の計画が直接の引き金なのだ。
 家康はみずから総大将となって会津討伐軍を構成した。井伊直政・本田忠勝・榊原康政らの徳川武将を揃えたのはむろんだが、ここに豊臣の武将を加えた。しかもそれを2層に組んだ。ひとつは尾張清洲の福島正則、三河岡崎の田中吉政、三河吉田の池田輝政、遠江掛川の山内一豊、信濃川中島の森忠政というふうに、会津に近い武将の軍団を集めた。これは戦国時代からの倣いで、敵に近接する領国から出陣が決まっていくというルールにもとづいている。
 もうひとつは豊前唐津の黒田長政、伊予松前の加藤嘉明、伊予板島の藤堂高虎といった遠方の武将軍団を引きこんだ。かれらは家康が大坂を離れるときは必ず何かが生じるときだと踏んで、事態勃発のときは家康に見方することを計算できた連中である。
 いずれにしてもこれらの武将は名目上は家康の軍門に下ったのではなく、豊臣秀頼を守る秀吉の遺志のもとに豊臣軍総大将の家康の指揮下に入っただけなのだ。
 このことがすでにプレ関ヶ原だったのである。家康の深謀遠慮が仕組んだ豊臣壊滅のための誘導作戦でもあった。ターゲットは「豊臣」にこだわる石田三成である。家康は仕掛けた。案の定、三成は上杉景勝と連絡をとり、家康軍を挟撃しようと画策した。大老毛利輝元を盟主にかついで、家康弾劾の「内府ちかひの条々」を全国発信もした。三成はことごとくはまっていく。

 こののちどのように関ヶ原が戦場に選ばれ、合戦が意外にあっけなく終わったかということについては、とくに書きたいことはない。よく知られていることだ。
 が、誤解されているところもある。たとえば三成はどこで作戦をまちがえたのかということだ。三成は会津征伐の総大将家康が「豊臣」の御旗をかざしている欺瞞を見破っていたのだが、その豊臣軍の御旗を活用できなかった。そのため家康討征のために軍隊を集めるしかなくなった。それが「西軍」である。
 それでも10万に及んだのだが、この時点で作戦というより戦略を狭めすぎていた。標的を家康にしぼりすぎたのだ。これは失敗だった。この時代、敵はしぼるのではなく、ふやすべきなのである。
 ついで三成は自身で軍を率いて大垣城に入った。これは家康と秀忠が会津をめざすために下野(しもつけ)に入りつつあったからで、事実、秀忠は宇都宮に、家康は小山に到着した。三成はそれなら北の上杉景勝と示しあわせて家康を挟み撃ちにできると確信する。ところがここで家康は有名な「小山の評定」をひらいて、東海道の武将軍団を東に向かわせないで逆転させ、福島正則の居城である尾張の清洲に向かわせた。
 三成にはこれが読めなかった。福島らの武将は清洲から一気に岐阜城に向け総攻撃をかけ、織田秀信をやすやすと陥落した。さらに長良川・揖斐川を渡河して中山道の赤坂に至った。
 しかし、それでもまだ三成には作戦が残っていたはずである。大坂に引いてもよかったし、景勝に背後から関東に乱入させてもよかった。家康はまだ動いていなかったのだ。だったら関西に向かった先発隊と関東に残った家康隊を分断すればよかったのだ。けれども三成は家康側の情報として「佐和山城に入るらしい」、「大坂を決戦場にするらしい」という早とちりの解釈をして、その前に東軍に機先を制しようと判断してしまった。
 これが西軍を大きく関ヶ原に動かした結果になった。これでは赤坂まで来ていた旧豊臣の忠臣武将たちと正面衝突せざるをえない。
 あとは小早川秀秋の寝返りなどがおこって、西軍はあっというまに瓦解する。つまり三成は関ヶ原の合戦を関ヶ原で決着しようとしたのだが、家康はすでに長々と関ヶ原の合戦をしていたということなのである。

関ヶ原の合戦(1600年)

関ヶ原の合戦(1600年) 『関ヶ原合戦図屏風』より

 以上、ざっと秀吉の晩年の野望の敗退と、その禍根と矛盾とシステムの破綻とを関ヶ原で「決算」した家康のことをつなげてみた。
 こんなふうに書くと秀吉や三成が最悪の輩で家康ばかりが冴えていたということになりかねないが、これらはほとんどすべてが紙一重の出来事であって、何かがちょっと狂えば結末はまったく逆に出ていたことばかりである。なかで、ただひとつ狂気じみていたのは秀吉の「大陸の夢」だけであって、それ以外は何がどう転んでもありえたことだ。だいたい朝鮮侵略を表向きであれ、真っ先に賛成したのは家康だったのである。

 もうひとつ書いておかなければならないことがある。それは、この文禄・慶長の役がその後の歴史のなかでどう解釈されたかである。
 江戸時代では、総じて肯定的に評価されている。山鹿素行は『武家事紀』で神功皇后の三韓征伐このかた朝鮮は日本の属国だという立場をとって、秀吉の暴挙は日本の武威を異域に輝かせたとしたし、新井白石も『朝鮮聘使後議』のなかで朝鮮とは長く隣交を結ぶべきではない、そもそも朝鮮は秀吉死去のあとに軍を撤退して国交を守ってあげたのだから、「再造の恩」を忘れるべきではないと朝鮮側に苦言を呈した。
 林子平も似たようなもので、神功皇后と秀吉の快挙を並べ、神武一統以来の「武徳」だと称賛し、本田利明も『経世秘策』のなかで秀吉の拡張政策を評価して、日本は蝦夷・樺太・カムチャツカまで領有すべきだと説いた。会沢正志斎も吉田松陰もほぼ同じ立場である。松陰は秀吉の計画が頓挫したことを惜しんでいる。
 これらはいずれも明治維新の「征韓論」にむすびつく論拠となったもので、結局は明治政府が日清戦争と韓国併合になだれこんでいったことに拍車をかけた。対馬藩の雨森芳洲のように秀吉が耳塚を誇ったことを日本人の野蛮と残虐だとみなす者は、まことに少なかったのである。

附記¶秀吉について参考図書をあげる気はしない。あまりにも多すぎる。謎も数かぎりなくある。出自も謎だし、明智光秀との関係も謎である。バテレン追放令も謎、茶の湯に対する異能も、石田三成重視も謎である。しかし、なかで一番の謎は中国征服の野望を抱き、これを実行しようとしたことである。これについては早くから徳富蘇峰の『近世日本国民史』や池内宏の『文禄慶長の役』があり、ルイス・フロイスの『日本史』もその内容と判定を書いているのだが(フロイス『秀吉と文禄の役』中公新書)、どうも日本人はこの戦争を学習も理解もしてこなかった。一冊読むなら、上垣外憲一の『文禄・慶長の役』(講談社学術文庫)を読まれるといい。これはかつて福武書店で出た『空虚なる出兵――文禄・慶長の役』の文庫版で、いまもって最もよくコンパクトにこの戦争の謎を解きえている。