才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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吉田松陰遺文集

吉田松陰

撰書堂 1942

 裏千家の伊住政和氏から「松岡さんには吉田松陰の役割をしてほしいんです」と言われたことがある。鳩山由紀夫氏は、知人にぼくを紹介するときに「どういう人か説明しにくいんだけど、いわば吉田松陰のような人ね」と2、3度言った。
 松下村塾のようなものをおこして、幕末維新の志士にあたる者を育ててほしいという意味なのか、挙に出て留置され、それでも夭折を辞さないで行動してほしいというのか、それとも、これはかなりまちがっているとおもうのだが、新たな国体の思想をつくってほしいというのか、あるいは平成維新のクーデターのシナリオを書いてほしいというのか、そのへんはよくわからないが、このような”見立て”は実はけっこうよく受ける。
 さらに学者、企業家、デザイナー、音楽家などの何人もから、まとめていえば「吉田松陰か、岡倉天心か、小林秀雄。このうちどれかの役割が松岡さんの使命なんだ」というようなことを、よく言われてきた。
 しかし、これらの”見立て”はすべて見当ちがいである。理由は以下のことを読んでもらえれば十分だろう。

 たしかに吉田松陰は子供のころから気になっていた。
 小学生のときに偉人伝のようなもので、「吉田松陰は死ぬまで兄と一度も喧嘩をしませんでした」「松陰は日本の将来を心配してたくさんの書物を読みました」「松陰はみずから松下村塾を指導するとともに、自身も多くのことを学ぶため、たくさんの門に入門しました」といったようなことを読んで、ふーん、そうかと妙に感心したことがあった。
 それが松陰に関する最初の情報だった。それから高校時代になって、松陰が30歳で斬首されて死んだこと、兄というのが杉梅太郎であること、松陰は吉田家の養子になったことで山鹿流の兵法者になる宿命を負ったこと、玉木文之進をはじめ、昌平坂学問所の安積艮斎、洋学者の古賀謹一郎、兵法者の山鹿素水、そして佐久間象山に師事して、多くの門に入門していたことなどを知った。
 なかでも高校で湯野正憲師のもとに剣道をやっていたぼくにとって、兵法者という言葉はたとえようもない響きをもっていた。これでまた、ふーん、そうかと感心した。湯野先生は、その後、日本剣道大会などの審判委員長を務めた。

 松陰の生涯をつぶさに知るようになったのは、大学時代に山陰・九州・四国をまわったとき、萩で数日を送って、このとき松陰についての本を入手し(たしか奈良本辰也のものだったとおもう)、これを旅のつれづれに読んでからのことである。
 しかしこのときに得た松陰像は雑駁なもので、とうていその後の松陰を考える基礎とはならなかった。ただ、松陰が異常なほどに遊学旅行をして多くの人物と接していたこと、そのつど克明な感想日記を記していること(『西遊日記』『東遊日記』『東北遊日記』、および『回顧録』)、そして夥しい書物を寸暇を惜しんで読んでいることなどは、その後の松陰像にとって大きな前提になった。
 が、まだ松陰像の焦点は結んでいなかったし、まして松陰に憧れるということは、まったくなかった。たとえば、松陰が幾多の人物に出会った末に、これこそが師であり大人物であると選んだのが佐久間象山であったことは、むしろぼくに松陰よりも象山に対する関心を募らせた。
 また、松陰が江戸に出るとたいてい身を寄せていた鳥山新三郎のような、懐の大きい人物にかえって関心をもった。鳥山の邸宅は長州・肥前・肥後の藩士たちがつねに屯していたところで、桂小五郎などもよく顔を出していた。

 やがて幕末維新の詳細と裏と表の関係を知るようになり、本書に収録されているものをはじめとする松陰の数々の文章を読むようになって、さすがにいろいろのことを考えた。
 大半は瞠目させられた。なるほど松陰はすごいとおもった。とくに人脈のネットワーキングが圧倒的に多様で、高速である。松陰は
21歳で平戸長崎に行くため最初の旅行をするのだが、このときすでに横井小楠をはじめとする後の幕末の志士となるような連中を丹念に訪れているし(西遊日記)、23歳で江戸に遊学してさらに東北に進んだときは、会沢正志斎から佐久間象山まで、水戸の時習館の森田哲之進から来原良蔵まで、目ぼしい人物には片っ端から会っている(東遊日記・東北遊日記)。
また実にたくさんの読書をしている。それも四書五経や陽明学なんてものばかりではない。兵学書はもとより、『日本書紀』も頼山陽も室鳩巣も蒲生君平も佐藤一斎も、高野長英・会沢正志斎・葉山左内・大塩平八郎・三宅観瀾も、つまりは国家や世界の歴史、人倫や道徳に関するもの、および国防や技術に関するものはほぼすべて読んでいる。
 のちに萩に蟄居を命じられ獄舎に入った11カ月では、和綴の小冊子が多かっただろうとはいえ、なんと1500冊をも読破する。
 これらのことは松陰の11歳のときにアヘン戦争があって、このことにいちはやく憂慮して鋭い思索と大胆な行動が始まったとおもえばわかりやすいことではあるものの、松陰は30歳で斬首されるのだから、その思索と行動はすべて青年期のものだったわけで、それにしてはあまりも視野が充実していて、かつ判断裁定が加速的なのである。また、どんな人物と出会っても動じていない。

 ところが、こうした見通しのきく松陰が、ペリー来航のときに小船を駆って黒船に乗り付け、アメリカ渡航を企てたのがよくわからない。いや、当時はよくわからなかった。
 おかげで松陰は捕らえられ獄門に繋がれ、萩に送り返されて在所蟄居を命ぜられる。そればかりか松陰を擁護して勇敢な論戦を張った佐久間象山もとばっちりをうけ、信州松代に8年にわたって蟄居させられた。松陰にしてあきらかに焦ったのである。
 さすがに松陰はこのことを反省して、『省謇録』『幽囚録』『獄舎問答』をたてつづけに綴るのだが、綴っているうちに反省は吹き飛び、逆に皇国思想を堅くする。たとえばアメリカ渡航を企てたのは敵を知るための間(間諜)であり、アヘン戦争のごとき愚挙に日
本を巻き込まないためであることを強調する。
 ついで獄舎の囚人たちを相手に講義をした『講孟余話』では(松陰はどこでも、どんなときでも、その場にいる者たちに自分の思想を真摯に伝えることに勇気と熱情と敬愛をもっていた。これは頭が下がる)、孔子や孟子が自分の生国を離れて他国に仕官を求めたことを批判して、日本国は中国のように禅譲・放伐・易姓革命をしない国なのだから、中国の猿真似をするのはまちがっていると説く。むしろ日本における人臣というものは、たとえ人君が意見を受け入れないときでもそこを離れず、あえて「幽囚」「飢餓」「諌死」を辞さない決意をもっているべきだと、次々に議論を拡張させたのである。
 この「諌死」(かんし)という言葉に、松陰の思想とその後に松陰に憧れた日本人の思想がよく象徴されている。

 松陰にとって諌死とは、自分が仕えている上の者の言動を諌めたとき、その上の者がそのことを理解しなかったばあいは、さらに諌めて死んでいく覚悟をもつという意味なのである。
 そもそも江戸の封建身分社会では、諌言をする立場にあったのはおおむね家老職かそれにあたる身分についている者だった。松陰はそのことはよくよく知ってはいたのだが、それとは別の諌言をするべきことを強調する。それが独特なのである。松陰のいう諌死は、諌言することの許される者が諌めたことによって与えられる誅罰としての死ではなく、諌言を許されない者が主君の感悟を求めるために死ぬことなのである。まさに死と直結する諌言であり、それゆえ新たな諌死思想というものなのだ。
 松陰はこの諌死思想をもって各地の志士が決起すれば、必ずや日本は変革できるだろうと考えた。これが松陰の最初の方針転換であり、変貌である。
 しかし、この『講孟余話』にひそむ危険な芽を察知して、これにいちはやく批判を加えたのが長州藩の明倫館学頭の山県太華であった。太華は松陰が同志の死を恐れぬ覚醒をもって決起を促す姿勢を危ぶんだ。
 もう一人、松陰に噛みついた裂帛の真宗僧がいた。のちに勤皇僧として知られた安芸の宇都宮黙霖で、黙霖は耳も聞こえず目も見えなかった者ではあったけれど、筆談をもって松陰に論争を挑んだ。詳しいことは省略するが、この論争が松陰にはこたえた。
 このあと松陰は、将軍も毛利家も長きにわたって朝廷に対する忠義を欠いている、だから現在の幕藩体制はまちがっているという思想をもつようになるのだが、それは黙霖の苛烈なまでの天朝尊崇姿勢による影響だったとおもわれる。
 もうひとつ黙霖が強く言い寄ったことがある。天朝への憂慮こそが「本」であって、諸外国への憤激は「末」にすぎないということだった。

 こうして松陰はいよいよ松下村塾を開講することになる。松陰は第2の転換をしたのである。このあと十年は太平が続くだろうと読んだこともある。焦りはなくなった。
 この松陰の転換がわからないと、松陰を勘違いして持ち上げすぎることになる。ぼくに「松岡さんは吉田松陰の役割を担うべきだ」というのも、この転換をどのようなものとみなすかにかかって、意味が変わってくるはずなのだ。
 そこで松下村塾の話だが、これも松陰のまわりに集い始めた人士がいてのことだった。最初は斎藤栄蔵と久坂玄瑞である。久坂は安政3年5月に自分で書面をもってきて教えを受け始めた。ついで松陰が「武教全書」を講じるときには、久保五郎左衛門・杉梅太郎ら7、8人が、暮までにさらに倉橋直之助・妻木弥次郎・増野徳民・松浦亀太郎ら12、3人が参加した。
 そこへ梅田雲浜が来て、長州藩が尊王攘夷の機運を高めるべきことを工作に来た(この雲浜との談義がのちに松陰の命取りの原因になる)。松陰は雲浜に「松下村塾」の額を書いてもらい、塾の準備を始め、玉木文之進・久保清太郎・富永有隣らの協力を得た。そこへやってきたのが高杉晋作・伊藤利助(博文)・品川弥次郎らの青少年たちである。安政4年には小屋の修理も終わって、小さいながらも塾舎が整い、前原一誠(佐世八十郎)や山県小輔(有朋)が加わった。
 松陰がそこで何を教えたかということは多岐にわたるので省くことにするが(古川薫『松下村塾』(新潮選書)に詳しい)、ぼくが最も重視するのは「華夷弁別」ということだ。これは『松下村塾記』を読むと、かなり激しく書いてある。中国や外国と日本とをどのように弁別して見るのか、そこを前提に指導したということである。この見方は松陰が最初ではなく、それこそ黙霖も言っていたことであるが、もともとは浅見絢斎が主唱した。

 松陰がこのような講義を塾生にしていたまさにそのとき、日本は真っ二つに割れていく。
 最初の亀裂はハリスが武力威嚇をほのめかして日米修好通商条約の締結を迫り、これで国論が二分したことである。老中首坐堀田正睦は締結やむなしと踏んで、孝明天皇の調印勅許をとりつけようとするが、天皇は通商にも開港にも反対をした。裏では徳川斉昭や梅田雲浜や梁川星巌らが動いていた。堀田は巻き返し策として関白九条尚忠の幕府支持をとりつけたのだが、この九条の独断専行には公家88人がこぞって意見書を出して反発をする。裏では岩倉具視らが糸を引いていた。
 そこに、折り重なるようにして、もうひとつの天下を二分する事態がおこる。水戸の前藩主徳川斉昭がわが子の一橋慶喜を将軍の継嗣にしようと策動して、越前の松平慶永(春獄)らと水面下で動いたことだった。今度は堀田がその松平慶永を大老にすることで事態を乗り切ろうとするのだが、これには将軍家定が旋毛を曲げて、井伊直弼の大老就任を決めた。
 これで日本がぐらぐらと揺れ始め、亀裂した。そこへもってきて無勅許のままに日米条約が締結された。のちのちまで日本を苦しめる片務的な不平等条約である。それからあとのことはよく知られているように、安政の大獄があり、井伊大老の暗殺があり、勤皇佐幕が複雑に激突していくことになる。
 結局、この亀裂はその後も四分五裂を促し、ほとんど一筋縄では説明がつかない合従連衡のまま幕末を迎える。では松陰は、このような事態にどう対処したかということである。

 安政5年、松陰はすぐに『狂犬の言』を書いた。表向きは長州藩改革の辞を装っているが、中身は日本国の存亡の危機を契機に、逆に「禍を転じて利と為し、以て大業丕績を建つべきなり」というものだった。
 そこには、日本がたとえ墨(アメリカ)の属国になるとも防長二国だけでも独立して復讐をするべきだという激越なメッセージもこめられていた。しかしその直後、松陰は『対策一道』を記して、あえて「攘夷開国」という独自の立場を打ち出した。アメリカや列強による強制的な開国は断固これを拒否するという意味では、徹底して攘夷をするのだが、通商経済のためにはみずから勝手に開国を進めるという、一見矛盾した方針である。
 しかもこのとき松陰は、討幕を考えてはいなかった。むしろ日本は藩の単位で動くべきだと考えていた。むろん中心は長州である。加えて松陰は『時義略論』にそのことを書いたのだが、朝廷と幕府がいずれ交戦状態に入るということを予想して(こういう予測はドンピシャである)、長州藩が1500人を動員して天皇を比叡山に移してこれを守るというシナリオをつくり、松下村塾生にはいつでも出撃できるように準備万端を整えるように指示をした。
 こうなると、松陰の思想はいよいよ「草莽」というべきである。のちに水戸学や国学と松陰が結びつけられて論じられるようになるのも、このへんからだった。

 一方、これでは幕府が不穏な空気を察知するのも当然だった。最初は不平等条約の釈明を看板にしていた幕府は、長野主膳の主導によって勤皇の志士の逮捕に踏み切っていく。
 梅田・梁川・飯泉喜内・日下部伊三次は追いこまれ、橋本左内も幽囚される。清水寺の月照と西郷隆盛は追っ手を逃れて薩摩に入るも追及きびしく、やむなく錦江湾に入水する。月照は絶命、西郷は蘇生してしばらく隠忍の日々をおくることになる。
 こうなると、幕末の尊王攘夷思想といったところで、何かの主導があったとは言えなくなってくる。そこはたえず複雑な様相を呈するしかなくなっていく。実際にも、事態は松陰のシナリオ通りには何一つ動かなかったのである。

 しかしながら、松陰とその塾生はあきらめない。松陰もついに討幕を決意する。これは第3の方針転換である。
 そこで久坂玄瑞らが大原重徳を動かして西下させ、これに数藩さえ呼応すれば勤皇討幕が数珠つなぎに起爆して、ついには変革可能の日がやってくるとみた。けれども大原は下向しなかった。
 それではというので、松陰は門下の赤根武人を京都に派遣して雲浜らが繋がれていた伏見奉行所の獄舎を破る計画をたてる。人質解放作戦である。だが、これも事前に計画が漏れて挫折、いよいよ他者に頼るのは無理だと知った松陰は、自身で老中の間部詮勝を暗殺すると決断をする。
 これはかなり本気になっている。前原一誠・品川弥次郎ほか”十志士”を選んで弾薬を準備させ、土屋蕭海に100両を依頼して、父や兄や玉木文之進に永訣の辞をしたため不幸の罪を謝して、つまりはいっさいを覚悟して、あとは決行を待つ身となったのである。
 まさにテロリズムに賭けたわけだった。ところがここで、藩主が突然に動き出す。江戸に行くと言い出した。
 すでに八方に手を尽くしていた松陰の暗殺計画は、やむなく決行時期を見送ることにするのだが、ここで時間の間尺がのびきって藩内に漏洩がおこり、松陰は萩で幽閉されることになる。
 しかもここにきて、松陰の決起の意志に真っ向から水をさすようなことが加わった。あの腹心の門下生であったはずの久坂玄瑞・高杉晋作らの5人が松陰に自重を促す書面をもってきた。
 何事にも驚かない松陰も、この諌言には意気消沈し、ついに孤絶無援を感じることになる。大半の門下生との謝絶絶交を余儀なくされる。かつて松陰に幕府の画策の裏を伝えていた桂小五郎(木戸孝允)さえもが自重を促した。ついに松陰は追いつめられたのだ。

 こうして松陰は江戸に召喚され、幕府が掴んだ罪状はたいしたものではなかったにもかかわらず、あえて伏見奉行所襲撃計画や間部詮勝暗殺計画を自白して、死罪を申し渡された。
 首尾一貫しているとおもわれる松陰の思想と行動は、実はこのように挫折に挫折を重ねた日々だったのである。シナリオは何ひとつとして実現しなかった。志士の「諌死」はおこらず、諌言は門下生によって師にむけられた。列強に屈しない者はことごとく捕縛され暗殺され、公武は意外にも合体の気味を見せ、ついに攘夷開国はおこらない。
 松陰はついについに、自分が東国の果ての野辺で散っていくことを知る。しまったと感じた高杉晋作は死刑の日を待つ松陰と、せめてもの文通をする。けれども、もはや間に合わなかった。松陰が首切り役人をしばし待たせ、大声で詠んだ辞世は、次の壮烈な一首であった。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、とどめおかまし大和たましひ」。
 門人はこれで愕然とする。久坂玄瑞も桂小五郎も伊藤利助も死体にとりすがる。松陰の計画はついにすべてが水泡に帰したのだ。

 しかし、すべてのことは松陰の首が刎ねられたあとにおこったのである。攘夷も開国も、条約改正も、海防も国防も。なんといっても王政復古がおこったのだ。
 いったい吉田松陰とは何者だったのだろう。わずか30歳で斬首される直前の十数年を、どのような気持ちで日本の只中を縦走し、疾走していったのか。ここではその概要だけをスケッチするにとどめたが、その無念の心境を思い量るに、なんとも名状しがたいものがある。そしてまさに、後世の人々は、その松陰の胸中のみを思量して、ひたすら「松下村塾」を日本革新のリバース・モールドと見立てたのであった。
 これで説明は十分だろう。
 ぼくが松陰の何かに当たるような何らかのシナリオを用意することなど、とうてい思いもよらないことなのである。まして国体議論をおこしたいとも、新たな諌死の思想をつくりたいとも思わない。いまや諌死の思想はイスラム急進主義過激派とアラブ過激派にこそ
移っている。
 もし、それでもぼくに何かを期待するというのなら、それはぼくの「挫折」が願望されているということになる。