フィリップ・レクリヴァン
イエズス会
創元社「知の再発見」双書53 1996
ISBN:4422211137
Philippe Lecrivain
Les Missions Jesuites 1991
[訳]垂水洋子

 イエズス会はぼくがずっと気になってきたソサエティのひとつである。歴史上のソサエティであって、「世界観」を広げたソサエティであり、いまなお存続するソサエティだ。そのわりに深い理解がされていない。
 ルネサンスの宗教改革によってプロテスタントが登場して勢いをもち、それに危機感をもったカトリック側が巻き返しをはかろうとしてイエズス会が生まれたという説明には、あまりにも解読の鍵がない。イエズス会はその程度の結社ではない。事績も興味深いし、それらに言及した書籍も見逃せない。ところどころぐんと深くなる。
 たとえばエチオピアにおけるペドロ・パエスである。この宣教師はなんとエチオピア皇帝を改宗させた。たとえばロラン・バルトの『サド、フーリエ、ロヨラ』(みすず書房)である。そこでバルトはロヨラを記号文化で解読した。たとえば「インカルチュレーション」という造語である。これは日本に一九四〇年から二八年間滞在し、一九六五年から十八年間にわたりイエズス会総長をつとめたペドロ・アルペ神父がさかんにつかっていた言葉で、「インカーネーション」ではなくて、文化の受肉を意味していた。こういうような三つの事項をやすやすと結んで説明するものがイエズス会なのである。

 いろいろ考えさせられるところが多い。
 ひとつ、なぜイエズス会士はヨーロッパの伝統である神父や修道士の古い修行生活様式を捨て、苛酷な世界への派遣士となったのか。ひとつ、なぜイエズス会士は異国での想像を絶する苦難や自己犠牲を惧れないのか。また、その土地の王や皇帝や首長に向かえるのか。日本に来た宣教師たちも、すぐに大名や信長に会ったのだ。ひとつ、なぜイエズス会には完璧なドキュメントが残るのか。よほどに文書力があったのである。ひとつ、なぜイエズス会士は外国語にあれほど短期間に堪能になるのか……。 
 イエズス会の会員はフランシスコ・ザビエルの頃も現在も、そのあいだもずうっと二万人から三万人なのである。これはどうしてなのか。なぜ、ふえないのだろうか。臨界数でもあるのだろうか。それとも期せずしてそうなっているのだろうか。いずれにも関心がある。いずれの謎もぼくには解けないけれど、とてもチャーミングな謎なのだ。そんなこともあって、正直なことをいうと、ぼくは何度かイエズス会に潜伏したくなったほどなのだ。

 この本は「知の再発見双書」というシリーズに入っている。原著がガリマール書店で誕生して半年後、ぼくのところにパリの知人から数冊ずつの単位で原書の新刊本が送られてきた。この知人は海外の稀覯本を探しだす本のジゴロでもあって、ダンテの『神曲』の〝骨董品〟が出まわるたびに知らせてくれた。それとともに新たなエンサイクロペディアものが刊行されると、その見本を届けてくれた。
 案にたがわず、このシリーズも出来のいい編集だった。一種のミニ・エンサイクロペディアで、『文字の歴史』『マヤ文明』『化石の博物誌』『フロイト』『十字軍』『日本の開国』『ケルト人』『魔女狩り』など、おそらく一〇〇巻以上にわたっている。
 こういうものは日本にも紹介されるといいなと思っていたところ、創元社から日本語版が刊行され始めた。この手を任せれば異能的なデザインを施す戸田ツトム君による造本設計もいい。そんなには売れることがないのだろうけれど、応援したい。
 本書はそのシリーズのなかの一冊で、他のものと同様ふんだんに図版が掲載され、濃縮した解説に満ちている。後半に歴史上の識者や文書から引いた〝証言〟があるのも、本書の視線を構造的なものにしている。

 イエズス会(ジェスイット会)はイグナティウス・デ・ロヨラが一五二二年から翌年にかけてマンレサの洞窟で悶々と黙想していたときのヴィジョンに胚胎した。それはヴィジョンであって、まだソサエティではなかった。
 それから十一年後の一五三四年八月十五日、ロヨラを中心に最初の同志六人がモンマルトルの丘で有名な誓願をし、さらにその六年後に教皇パウロ三世による正式認可をまってソサエティとして発足した。「イエズス会」(Societas Jesu)と名付けられた。準備に十八年かかっている。
 創立当時の同志には、ディエゴ・ライネス、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーヴル、ニコラス・ボバディリャ、シモン・ロドリゲス、アルフォンソ・サルメロン、パシャーズ・ブロエ、ジャン・コデュールらがいた。このときイエズス会がたてた誓願がその後のイエズス会の行動を決めた。
 第一の誓願は貞潔、第二は清貧、そして第三の誓願が、会員たちは勉学を終えればすぐにエルサレムの巡礼に出発するか、教皇の命ずるままに世界のどんな僻地にも旅立たなければならないというものだった。これがミッションである。それとともに従来の修道服の規定や歌唱祈祷などの古い生活様式を廃棄し、軍務に等しい新たな規律と怯まぬ伝道精神と、そして福音伝道のための学校設立の意志を確立した。
 イエズス会の寡黙ではあるが徹底的な大計画は、当時の時代要請にぴったりあっていた。そのころヨーロッパ世界はポルトガル王とスペイン王によって支配されていたのだが、この二人の王がイエズス会士によるインドやアフリカへの宣教を期待したからだ。これには理由がある。
 そのころキリスト教世界は教会保護権による境界線によって分割されていた。この境界線を決めたのは教皇アレクサンデル六世の勅書だった。その勅書が、ポルトガル・スペイン両国は新たに発見した土地に対しては福音を伝えなければならないということを義務づけていた。かくてイエズス会士は一人の教皇と二人の国王の期待を背景に、それぞれのミッションを心に秘めて世界に旅立った。
 
 イエズス会が立ち上がる十七年ほど前、マルティン・ルターがヴィッテンベルクの教会の扉に九五ヵ条の教会批判の論題を打ち付けた(最近の研究では打ち付けたのは別人で、後日のことだったらしい)。引き金は教皇レオ十世が贖宥状を発売したことにあったが、ルターの抗議をきっかけにその後のカトリック教会批判の連打となって、ここに抗議者(プロテスタント)による宗教改革(Protestant Reformation)の嵐が始まった。
 ローマ・カトリック側は放置しておくわけにはいかない。対抗宗教改革にとりくむため、トリエント公会議を何度も開き、内部刷新に手をつけたものの、ついついプロテスタントに対する批判や破門が強調されて、うまくは運ばない。そこに立ち上がったのがカプチン会、ウルスラ会、テアティノ会と、イエズス会だった。いずれも教皇の認可を受けて動きだした。なかでロヨラは教皇を絶対視するほどで、ピウス五世のようにイエズス会を大いに支援した教皇もいた。
 これらのカトリック側の改革は、かつては反宗教改革とか対抗宗教改革と呼ばれていたが、いまはもっと広く「カトリック改革」と名付けられている。たしかに反宗教改革や対抗宗教改革と言うよりはいいけれど、これではカトリック教義やカトリック組織の改革にとどまっているようで、全貌を眺めるには狭い視野になる。たとえばシクストゥス五世の時代の改革スピリットが、十七世紀マニエリスムやバロックに与えた影響なども大きいものだったはずなのだが、イエズス会の果たしたことも社会・文化・教育・文物の全般に及んでいたのである。

 われわれは学校でそう教えられたからだけれど、イエズス会というと、あまりにもフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスを思い浮かべすぎるようだ。むろんザビエルの冒険とフロイスの『日本史』こそは日本の近世を一変させる地雷のようなものだったのだから、このことをいくら重視しても重視しすぎることはないのだが、しかし、こうした人物は何人にも何十人にも何百人にもおよんでいた。
 ザビエルが日本に到着する前に、すでにコンゴ宣教、モロッコ宣教、ブラジル宣教が勇躍始まっていたのだし、ザビエルが客死し(一五五二)、ロヨラが死んだ(一五五六)前後にも、エチオピア宣教、モザンビーク宣教、エジプト宣教、フロリダ宣教、ペルー宣教、メキシコ宣教、フィリピン宣教、ベンガル宣教が連打されて、日本が信長だ秀吉だ家康だといっていたその同時代に、イエズス会士はまさに複数のザビエルとなって世界を変革していたのだった。
 複数のザビエルたちは、その土地ごとにまったく新たな宣教文化の浸透と定着を工夫した。パラグアイにおける原住民教化集落のアイディアなど、キリスト教の全歴史にとってもきわめて特異なものだった。尋常な方法ではない。どんな困難も乗り越えるし、そのわりに迅速だし、おまけに土地の住民に新たな生きる意志を生むためのロールとツールとルールを提供している。
 迅速ということからいえば、たとえばブラジルがカブラルによって「発見」され、ジョアン三世がスーザに代表政府をおいたときすでに、五人のイエズス会士が派遣されているのだが、かれらはまず沿岸地方を丹念に宣教し、そののちに内地に入っていったのである。その間、わずか三年だ。さらにノブレガがリオ付近とサンパウロに宣教団を設置したのが一五五四年である。エリザベス女王が即位したのはそのあと、日本では川中島に謙信と信玄が対峙していたころだった。
 その後、信長が天下統一をとげたときには四〇人に近いイエズス会士がプロテスタントでカルヴァン派の海賊ジャック・スーリに殺害されるという宗教悲劇に見舞われるのだが、なんという不死身な連中なのだろうか、日本で関ヶ原の戦いがおこるころにはふたたび勢いを盛り返してブラジルに三つの学校を設立し、これらを拠点に先住民の宣教に乗り出していたのである。
 
 イエズス会士の宣教活動を追っていると目が眩む。目が眩むとともに、その激しい犠牲の意志と多様な職業を一人ずつが担っていく開拓の闘志に痛ましさをおぼえる。
 いったい何がこのような活動を支えているのだろうか。信仰力だろうか。その信仰力が理知と理性で裏打ちされていたからだろうか。それともそれらが鋼の身体と鉄の意志で鍛錬されているからだろうか。実はイエズス会は一七七三年にいったん解散しているのだが、それが一八一四年には、ふたたび不死鳥のように組織も活動も復活させるのである。
 何を想像してみても、そのような問題をわれわれは自分の周辺の言葉で推測することすらできなくなっている。ローランド・ジョフィの監督で映画になった『ミッション』ではないが、ただただかれらの奇蹟に感嘆するしかなくなっている。
 これは現在のわれわれの感嘆だけではなかったらしい。すでにヴォルテールがこんなことを『風俗試論』に書いていた。「パラグアイでのスペイン人イエズス会員による居留地建設の壮挙こそは人類の勝利であって、それこそが初期征服者の残酷を贖っているのである」と。
 われわれは、イエズス会による理性世界拡張の近世精神の人類史があることを忘れてきたらしい。一人の聖フランシスコ・ザビエルに瞠目するのもいいのだが(もし本当に瞠目しているのなら、日本の映画界はそろそろ『ザビエル』とか『桃山の男』といった映画を制作するべきである)、世界におけるソサエティのありかたを考える日もきているのであろう。

 ちなみにイエズス会による日本の学校設立と活動援助は、上智大学(一九一三)・六甲学院(一九三七)・栄光学園(一九四七)・エリザベト音楽大学(一九四八)・広島学院(一九五六)・泰星学園(一九三二)などにおよぶ。念のために付け加えておくと、イエズス会日本管区では一九九五年の時点で約三〇〇人の会士が〝ミッション〟をもって活動している。
 イエズス会についての資料はわんさとあるが、やっぱりイグナティウス・デ・ロヨラの『霊操』(岩波文庫・新世社)がすべてに先立っている。そのロヨラについては『聖イグナチオ・デ・ロヨラ書簡集』(平凡社)が基礎資料になっていて、それらをもとに、たとえばフランシス・トムソンの『イグナチオとイエズス会』(講談社)、垣花秀武『イグナティウス・デ・ロヨラ』(講談社)などが参照できる。ソサエティ全体の通史としてはホアン・カトレットの『イエズス会の歴史』(新世社)、ヨゼフ・ロゲンドルフの『イエズス会』(エンデルレ書店)がわかりやすい。なかで際立っているのは、やっぱりロラン・バルトの『サド・フーリエ・ロヨラ』なのである。

参考¶イエズス会の資料はわんさとあるが、まずはイグナチウス・デ・ロヨラの『霊操』(岩波文庫・新世社)がすべてに先立っていることが重要。そのロヨラについては『聖イグナチオ・デ・ロヨラ書簡集』(平凡社)が基礎資料になっていて、それらをもとに、たとえばフランシス・トムソンの『イグナチオとイエズス会』(講談社)、垣花秀武『イグナティウス・デ・ロヨラ』(講談社)などが書かれている。ソサエティ全体の通史としてはホアン・カトレットの『イエズス会の歴史』(新世社)やヨゼフ・ロゲンドルフの『イエズス会』(エンデルレ書店)がわかりやすい。ロラン・バルトの『サド・フーリエ・ロヨラ』はみすず書房。
 ちなみにイエズス会による日本の学校設立と活動援助は、上智大学(1911)・六甲学院(1937)・栄光学園(1947)・エリザベト音楽大学(1948)・広島学院(1956)・泰星学院(1982)などにおよぶ。念のために付け加えておくと、イエズス会日本管区では1995年の時点で約300人の会士が“ミッション”をもって活動している。

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