父の先見
義理と人情
中公新書 1999
「ギーリィとニンジョーを秤りにかけりゃ、ギーリが重たい男の世界」。高倉健だ。御存知『唐獅子牡丹』の歌い出しである。ぼくは高倉健にはどんなばあいも無条件に脱帽で、村田英雄や北島三郎にも義理人情は出てくるといったところで、健さんとは較べてほしくない。
健さんの任侠ものは『昭和残侠伝』をはじめ、十数本の映画をそれぞれ何度見たかわからないくらいだが、話の筋は実はほとんど似ている。まさにギリとニンジョーがみしみし絡んで、最後はギリのために自分を捨てるという筋書きなのだ。が、これがなんともたまらない。
港湾労働などに携わっている小さな組の親分が、別の新興の組の乱暴に耐えている。乱暴はますますエスカレートし、それでもガマンをしているのだが、やがて殺される。そこへ組の客分のような健さんがふらりと帰ってくる。
健さんは親分のお嬢さん(たいていは藤純子)に慕われるが、何かにこらえるようであまり応じない。組の若い衆は報復に駆られて短慮の行動に出るものの(たいていは長門裕之)、必ず無残に返り討ちにあう。これが何度もおこる。
客分の健さんは何度か若い衆の血気を制するが、そこへ昔なじみの任侠(たいていは鶴田浩二)がやってきて、健さんがガマンをしているぶん、自分で使命を引き受け始める。それでも健さんはお嬢さんの制止にもあって、行動を控えつづける。が、事態はますます悪化する。ついに観客がこれ以上はガマンができないという映画の終盤、主題曲の前奏が流れはじめると、健さんが棚の奥に仕舞いこんでいたドスを取り出し、黙って準備を始める。それをお嬢さんが気がついて「行かないで」と言う。すがる。が、健さんは歯を食いしばったまま、何も言わない。そして、白い布にくるんだドスを片手に着流しで夜の町に出ていく。
主題曲がトランペットをまじえた前奏をおえて、いよいよ「ギーリィとニンジョーを」というところへさしかかると、町角に例の任侠男が立っている(鶴田浩二である)。二人は目と目をあわせて何も言わないが、静かに並んで歩きだす。映画によってはここで雪がちらついてくる。最高潮である。そして、たった二人の殴り込み。
健さんがもろ肌ぬぐと、背中に唐獅子牡丹の刺青が波打つ。場末の映画館であればここで観客に拍手がおこり、壮絶な斬り合いが10分つづく。やがて本望を遂げ表へ出てくると、警察が待っている。脇でお嬢さんが走り出ようとする。健さんは黙ってかれらに引率され、カメラが高く上がって、夜の町をしょっぴかれていく健さんを見送る。終わり。
健さんがギリとニンジョーを秤りにかけたのはあきらかである。お嬢さんとのニンジョーはもちろん、組の連中に対するニンジョーもすべてギリによって封印される。
そのギリが重たいものかどうかというと、たいていはたいして重くない。かつて組の親分に一度か二度の恩義をこうむった程度なのである。それでもギリがしだいに燻し銀のように光りはじめ、健さんはそれに従って殴りこむ。
いったい、この義理とは何か。その義理と比較される人情とは何か。義理人情というふうに四字熟語になることもあるが、この義理と人情がわからなければ高倉健に憧れてしまうわれらの心情もわからない。
ところが、これらを適確に言いあてるのはかなり難しい。仮に日本人の根底に流れている心情だろうといってみても、その根底がいつごろからかたちづくられたのか、はっきりしない。まさか縄文弥生ではあるまいし、王朝期でもないだろう。では、鎌倉武士の一族郎党に義理と人情が秤りにかけられていたかというと、鎌倉武士たちの御恩奉公・一所懸命のしくみにそんなものが芽生えたとはおもえない。
足利時代や信長・秀吉では、あまりにも家族や家来の裏切りが多すぎて、これはこれで義理人情を浮き出させるのは困難だ。
そこで江戸の社会があやしいということになるのだが、そうなると、そこには儒教や朱子学、武士道や町人思想、あるいはこれこそは縁が深いのだろうが、侠客や凶状持ちがからんでくる。西鶴にも『武家義理物語』の著作が見えている。「意地」や「意気地」とも関係があるかもしれない。「義理の柵(しがらみ)、情(なさけ)の綱」(春色辰巳園)などというはやり言葉からすると、川柳や歌舞伎や落語にも何かの動因があるだろう。かなり多様な背景から絞り染められた心情なのだろうという推測がつく。
そうなると、この問題を解くには江戸の社会や江戸の思想の専門家が登場する必要がある。こうして源了圓さんが登場してきた。本書は江戸思想史の専門家、源さんの49歳のときの労作である。ただし、任侠の義理人情にはまったくふれてはくれなかった。
これまで義理については、社会学者桜井庄太郎の「義理とは、当事者が平等の関係にあるばあい、すなわち当事者の地位の差なきばあいのポトラッチ的・契約的社会意識である」が有名だった。
あまりに文化人類学的でおもしろくない。これは従来の津田左右吉の「義理とは意地である」や福場保州の「義理は体面の哲学である」のような印象批評を脱したものではあるが、よくあることだが、なんだか急に学者用語が出てきただけという印象でもある。学界的に少し議論が進んだと言われたのが、有賀喜左衛門の「義理は公事(おおやけごと)、人情は私事(わたくしごと)」という分類だったが、これもそれほどのものではない。
そこで、姫岡勤は「好意に対する返礼としての義理」と「契約に対する忠実としての義理」があると考えたり、ルース・ベネディクトが「世間に対する義理」とは別に「名に対する義理」を持ち出したり、また法学者の川島武宜が「義理には継続性や包括性が欠けている」といった視点を加えた。が、それがどこからきたのかはわからない。
で、江戸社会である。順番にいうと、まず林羅山の『藤原惺窩先生行状』に義理が出てくる。「人の履むべき道」という意味でつかわれていて、朱子学が日本に義理を導入した雰囲気を伝える。
つづいて中江藤樹に「明徳のあきらかなる君子は義理を守り道を行ふ外には毛頭ねがふ事なく」(文武問答)と出てくる。儒教がしだいに浸透していくさまが見える。
これが大道寺友山では一気に「義理を知らざるものは、武士とは申しがたく候」(武道初心集)となる。これは町人文化が台頭し、「利欲にさとき町人」が跋扈してきたため、これに対して「利欲にさときものは義理にうとく候」と見て、武士の真骨頂を称揚するためのものだった。
これで義理が一般化したかというと、源了圓は実はそうでもないと言う。むしろ、このような義理に関する朱子学的な解釈が急速に薄れ、新たな義理の意味が広まっていくのが江戸社会だったというのである。そのスタートは仮名草子の『七人びくに』や西鶴『武家義理物語』であり、その展開は近松の戯曲をまって完全な日本化をはたした。
これは、かつて亀井勝一郎が「仮名の誕生によって日本文化の草化現象がおこった」と言ったひそみに倣っていえば、源は「江戸文化の草化現象」ともいうべきものだろうと言う。
朱子学や儒学が正統的な位置から滑り落ちて(いいかえれば正当儒学をあえて滑り落として解釈する連中が次々に登場して)、まったくそれとは異なった日本的な義理人情の思想の様相を呈したというのだ。つまり江戸社会独得のジャパナイゼーションである。これは当たっている。しかし、源はそのきっかけを仮名の誕生のようなはっきりしたものでは説明していない。むしろ西鶴や近松の文芸がそれを担ったというのである。
西鶴が描いた義理は「情緒道徳」だった。一方、近松は義理をストレートに描いたというよりは一心に「情けの美」を描き、そこに観客が義理と人情の葛藤を読んだ。
このちがいは当時有名だった遊女・夕霧の描き方のちがいにもあらわれる。西鶴は『好色一代男』で夕霧を「命を捨る程になれば、道理を詰めて遠ざかり、名の立ちかかるれば了簡してやめさせ、つのれば義理をつめて見ばなし」と書いた。“気丈婦”なのである。これに対して近松は『夕霧阿波鳴渡』で、夕霧を弱々しい「投げ入れの水仙清き姿」として描く。
このちがいを拡張すると、西鶴になくて近松にあるのは仏教的無常感だということになるが、そこに日本人の義理と人情が高倉健ふうの男のものにも、その男が女性化する道行心中ふうの女のものにもなる。そういう幅が出ているということになる。
源はそこから近松に依拠して、江戸の義理人情を次の4つのパターンに分けた。
1.法律上の近親関係ゆえに生じる道徳的義務
2.世間の義理にもとづく習俗
3.人の世の常として他人におこなうべき道(儒教の義理)
4.パーソナルな信頼・約束・契約にこたえる義理
どうもこんなふうに分類されると、近松の芝居が見えなくなってしまうようだが(健さんの行動についてはもっと見えなくなるが)、実際には源の分析は充分に細部にわたっていて、それなりによくわかる。ただし、源の説明は理屈に勝ちすぎて、芝居からうける情緒をとらえているとはいいがたい。そこは、日本文化を研究するときのよくおこる問題なのである。
本書はこのあと人情本・読本を例に、とくに馬琴における義理人情の描き方を紹介し、さらに泉鏡花の『婦系図』と尾崎士郎の『人生劇場』をとりあげる。
つまりは、義理人情は文芸的なるものがつくりだしていったということなのだ。いいかえれば、義理も人情も文芸的なるもの以外には表象されにくい。あるいは文芸的に表象された義理と人情のかたちこそがミームとして伝播していったということになる。
このことは、義理人情を学問の言葉では説明しにくいということになるはずなのだが、そこがまさしく本書の苦しいところでもあって、困りはてているのがよくわかる。が、なんとかその範疇に収めようとしている。それは、義理と人情を学問の言葉に片付けようとする著者のやむをえない態度によるものだから非難にはあたらないが、できればそんな範疇に押しこめてはほしくなかったという感想もある。
ぼくがおもうには、義理人情は思考からも行動からも「はみ出てきたもの」に関係がある。そして、いったんはふと薄くなったか、壊れかけそうになってしまったものでありながら、どうしても振り切れないものなのだ。ついに捨てられなかったものなのだ。その振り切れぬ捨てられぬものの、その余情を実感するとき、そこに義理人情が浮上する。
義理人情は最初から措定されている心情なのではない。行ったり来たり、濃淡をもって動いている。おそらくは見て見ぬふりをしたいのに、それでも絡みついてくるものなのである。いわば風情の実感なのである。
そこを、むろんのこと学者は俊成や心敬のようには感覚的には書けないし、日本人である以上はベネディクトのように外からの粗い目でも書けない。ついついパターンにあてはめては、それを微妙に調整するようになる。しかし、そろそろそんなふうな見方だけでは“日本流”の説明は不可能なところにきているとも言わなければならない。固定的にとらえない日本人の心情というものも研究されるべきなのだ。
それには、本書にはふれられていない任侠や落語や俗曲の世界を掬う必要があろう。
とくにヤクザをはずしてはいけない。高倉健を研究するべきである。また常磐津・清元・新内を放っておいてはいけない。この、最初は当道に属する者たちによる創作的な音曲世界が、やがて下級武士や町人に滲んでいった表現感覚を扱わないでは、義理人情は見えてはこない。
ということは、義理と人情とは、とりあえずはそのようによばれている「日本人にひそむ矛盾」のことなのだ。しかもそれは「肯定したい矛盾」なのである。いつか、そのことについては別の本、たとえば近松や馬琴を、あるいは万太郎や清張をとりあげて、説明してみたい。
本書は労作ではあるのだが、こうした日本文化に関する心情的な要素の分析についてはいまだしの読後感を拭いがたく、そのことを伝えるだけの紹介になったことを忸怩とするところでもある。