才事記

蝸牛庵訪問記

小林勇

岩波書店 1956 1991

 小林勇には全集11巻がある。小林勇文集という。出版社の親分としては過ぎて立派だが、大半はロクな作文になっていない。ところが、いくつかの文章はまことに光っている。たとえば「人はさびしき」「遠いあし音」、あるいは柳瀬正夢や野呂栄太郎を送った追悼文だ。
 雅号を冬青という。絵も描く。うまくはない。最初は中谷宇吉郎と二人展をしていたが、中谷が亡くなってからは無謀にも個展をくりかえした。料理もうるさかったらしく、ことに鍋料理は自分で仕込まなければすまなかった。よせばよいのに小説も書いたし、将棋の相手も断らなかった。玩物喪志というが、まさに何でも手を出し、何も大成しなかった。
 しかし、小林勇が生きた時代こそ、日本の最後の文人が痛快な日々を送った時代となった。そこは小林ならではの功績である。おそらくこんな編集者や出版人は日本にはもう一人もいない。頑固で人情に溢れていて、手を尽くす。

 小林勇は岩波茂雄の娘をなかば強引に貰いうけて、その後は岩波書店を背負った。岩波新書をつくり、中谷宇吉郎とともに岩波映画製作所を開設し、さらに岩波写真文庫を創刊した。今日の大岩波をつくったのは小林である。岩波茂雄は戦後まもなく死んでしまったからでもある。
 けれども小林が小林らしいのは、大岩波を大成させたということよりも、日本を代表する文人たちととことん付き合い、そのすべてをまるで蹂躙するかのように守りきり、そのそれぞれの生涯の一角に強烈な光を送りこんだところにある。
 小林をそのようにさせたきっかけが蝸牛庵との出会いだった。蝸牛庵とは幸田露伴のことをいう。家をもたないカタツムリに擬した命名だ。
 その露伴の家に小林が最初に行ったのが大正15年の春(その年のうちに昭和が始まった)のことで、以来、露伴が死ぬ昭和22年までずうっと露伴と行動をともにした。岩波茂雄も露伴を格別に崇拝していて、岩波30周年の記念式典の劈頭の挨拶は露伴に頼んでいる。新築の家を建てたときも露伴がどう言うかだけを気にしていた。その露伴が寺田寅彦や安倍能成や、小宮豊隆・小泉信三・和辻哲郎斎藤茂吉をはじめとする多くの文人から愛されていたので、小林はかれらとも親交を深めていった。その間、小林は料理のことも釣りのことも、将棋のことも中国文化のことも俳画のことも、ほとんどすべての知識を露伴から受けている。
 つまり、小林がその後、いろいろの趣味に手を出した粗型の大半は、そもそもが露伴に習ったうろおぼえの趣味なのである。けれども、露伴が何を言っても、その大半のことは当時の小林にはわからなかったらしい。朴念仁だったのである。

 本書はその露伴との貴重な出会いの日々を約20年間にわたって綴ったもので、文章はヘタくそだが、なんとも読ませる。露伴のことならなんでも知りたいぼくにとっては、得がたい愛読書のひとつであった。露伴60歳から80歳の日々にあたる。
 なぜ、こんなヘタな文章が読ませるのか、その理由をちょっと考えてみると、まずはなんといっても露伴の露伴らしい隠れた一面が赤裸々に伝わってくるからだが、そのようにわれわれを露伴の日々の渦中にすうっと運べるということは、これはわざわざヘタくそに綴ってみせたという“計算”だったかもしないともおもえてきた。書きっぷりがぶっきらぼうになっているのが、かえって露伴の前ではタダの人でしかない男から見た露伴の独自性をむりやり浮かび上がらせているからで、それが幸田文さんらの名文に似てしまったのでは、実は効果が薄いのである。そういう“計算”は小林編集者にはお手のものだったのだろう。
 本にするにあたって加飾しなかったのも、よい。おそらくはその日のうちに綴ったメモにもとづいたしわくちゃの訪問メモ日記が、ほぼそのままの木訥で出版されたのだ。そこがかえって読ませるのであった。

 さて露伴の晩年の日々であるが、これはカラスミというか、タタミイワシというか、実に味がある。
 いろいろ気にいったところがあったのだが、実はだいぶん忘れていたので、新たに文芸文庫に入ったものをざっとめくってみた。まるでぼく自身が露伴先生をはたで見守っていたかのように、それらのことを次々に“思い出した”。そういう自分の思い出を繰るような気分にさせるところが小林勇なのである。
 で、こんな調子の口調が次々に出てくる。
 黄河のことを話したって何十巻という本ができるけれど誰も喜ばないだろうね、佐藤信淵の『経済要録』に法螺貝を吹くと木についている虫が落ちると出ているね、歳をとってふと気がつくと文字の話をしているんだねえ、光悦の「小狐」「霙空」はあれは気にいった、岸田吟香なんてシナの浪人のようなやつさ、ぼくは珍しい本など買おうとは思わない、普通の本を読んでも人が知らずにすごしてしまうことに気がついて本のうしろにあることを読むんだ、狩野亨吉さんほど本を読むと宗教なんか馬鹿らしいというのは当たり前なんだ、茶漬けは体にいちばんいいものだ、等々。
 たいしたものである。 吟香を一蹴しているのが小気味よいが、小林はこういうときも何も反応していない。むろんすべてを察知してのことである。
 ご時勢にもときどき文句をつけている。
 「西園寺なんていう男は自分さえよければ、あとはどうでもよい男だから駄目なんだ」。「役人の下っ端などが何か世の中のことがわかったような気でいろいろケチなことをするのが、一番世の中をあやまるもとだ」。2・26事件のときはこう言っている、「こういう事件が生じるには、それの根がある。何も偶然におきるというものじゃない」。そのうえで「高橋が殺されたのは困るだろう。ああいう人間はちょっとほかに見当たらないからな。重みのある人間ということだよ」。
 毒舌ではない。わざわざ何かの物言いをするようなものはもってはいない。ほうっておけばすむものは、ほとんどほっておく。そのかわり、話すときにはつねに含蓄で喋っている。ぼくが気にいっているのは、次のような露伴のセンスである。
 以前から『五重塔』を映画にしたいという話があったらしいのだが、それを露伴はいつも断っている。その理由が、「あれは着物に作ったのだから、襦袢にしたり法被にしたりされては迷惑なんだ」というものなのだ。『五重塔』は紬か羽二重なのである。これは鏡花にも言えないセンスというものだ。

 本書には露伴の即興俳句が何度か出てくる。これが愛らしい。たとえば「長き夜をたたる将棋の一手詰」。いかにも横好きな一句である。こんな句も小林は書きとめていた。「春かすみ邦のへだてはなかりけり」「あの先で修羅はころがれ雲の峰」。
 今度は拾い読んだ程度だが、本書を最初に読んだときは八代夫人のことに驚いた。文さんの文章からだけではわからなかったことである。露伴にしてそういう境遇だったのだ。
 が、露伴は「寺田のほうがきっと不幸だったろう」と言っていたらしい。寺田とは寺田寅彦である。露伴は自身にふりかかった出来事を決して振り払わなかったのだ。それがどういうものであるのかは、露伴が描いた数々の職人たちをおもえば推測がつく。
 諸君、いまのうちである、ぜひ露伴を読みなさい。そのうえで本書を読みなさい。