才事記

セクハラ防止完全マニュアル

金子雅臣

築地書館 2000

 1998年から帝塚山学院大学に行っている。人間文化学部教授という肩書だ。ただし、大学の名刺は使ったことがない。
 大学教授というものを自分にとって一番ふさわしくない職業だとみなしてきたぼくが、なぜそんな職についたかというと、一応の理由があるのだが、ここでは当時、新学部を創設するための準備委員長をされていた中西進さんに、再三にわたって口説かれたということだけをあげておく。
 中西さんは万葉研究の第一人者で(膨大な著作集がある)、日本文化の特質を語らせれば天下一品、おまけにリービ英雄さんの恩師にあたる。ぼくがものすごく尊敬している先生なのである。いまは帝塚山の学院長である。
 その前に東京大学の客員教授を引きうけたのが、ウンのツキだった。だったらウチの大学だっていいでしょうというわけである。実際にも、その後もかなり多くの大学からの勧誘がくる。それを帝塚山にしたのは、むろん中西先生の口説が心地よかったせいだった。

 けれども行ってみて、やはりぼくには向いていないということがすぐにわかった。
 だいたい研究者のような生活は合わないし、ぼくの話を聞きたいともおもっていない学生に話を聞かせるのが苦痛なのである。同じ話を新たに学生が入学したからといって、また繰り返すのも耐えられない。学生が女子ばっかりなのはいいのだが、うるさいし、そうとうに勝手だし、本気なものがない。あまり自分のほうからコミュニケーションをしないのがよくないのだろうが、おもしろい先生があまりにも少ない。教授会が砂を噛む以上につまらない。校舎が衛生無害で病院のようである。
 まあ、あげていけばキリがないけれど、まったくぼくには合わない環境なのである。しかし、それでもなんとかここまで続けていられるのは、中西さんと、一部の熱心な職員と、ごく少数の学生たちの"支援"に支えられているからだ。
 そして、もうひとつ、理由がある。それは大学あるいは女子大というものの生態が、日本社会の極端な縮図性をもっていて、これを観察するまでもなく容易に入手できるからだった。
 そのひとつにセクハラ対策というものがある。なにしろ1カ月にいっぺんはごたいそうなペーパーで回覧されてくるのである。「研究室のドアはできるかぎり開けておくようにしましょう」というあたりから、「エレベーターでは肩が触らないようにしましょう」のたぐいまで、読んでいると、ぼくなどはほとんど引っ掛かる。
 しかしそのペーパーを読むたびに、日本社会のベンキョーになるし、日米関係がここまで押し寄せたかという覚悟にもなる。

 大学のセクハラ対策マニュアルの紹介ではいささか抵触があるだろうから本書を選んでみたが、なんともセクハラ防止の「べからず集」とは妙なものである。
 性的な言葉をかけないこと、職場にポルノ写真などを継続的に掲示しないこと(継続的にというのが怪しいところ)、冗談が性的なものに及ばないこと、接待でお酌をさせたりしないこと、カラオケでデュエットを強要しないこと(強要せずに促すそうである)、化粧室や更衣室あるいはその近辺で胸や腰に目を注がないこと(どこだといいというのだろうか)、繰り返し電子メールを送ったりしないこと(用事があるときにどうするか)‥‥。こういうことがずらずら並ぶ。
 まあ、ここまではそれでも理解できないことではない。ところが次のような「べからず」になると、これがなかなかきわどくなってくる。たとえば、こんなふうなのだ。
 女性のみに「ちゃん」づけをしないこと(男に「ちゃん」づけをしておけばいいのか)、「女にはこんな仕事はむりだ」と言わないこと(女こそはがんばれと言えばいいのか)、「男だったら徹夜しろ」と言わないようにすること(ぼくは女性にだって同じことを言う)、自分の性体験の話をすること(どこまでが性体験? 文学作品の紹介ならどうなのか)、「女の子」という表現は使わないこと(婦人も婦女子もダメなのである)、肩にも髪にも手にも不必要に触れないこと(では不必要じゃない必要ってどういうことか)、そして「そんなにセクハラが嫌ならスボンをはいてこい」と言ってはいけません。
 と、まあ、こうなると深いというか、浅いというか。よくぞあれこれ思いついたものだと感心してしまう。

 本書によると、セクハラには二つの型があるらしい。それを「対価型」と「環境型」という。
 対価型は地位利用型ともいうもので、上司がこれを悪用するとみなされている。環境型は性的な噂を流したり仕事をしにくくさせたりするもので、わざわざ「型」というほどのものかとおもう。
 そのほかグレーゾーンとよばれるセクハラもあり、「君たちは職場の花だ」と言ったり、社員旅行や就学旅行で浴衣を着るように言ったりするのは、しばしばセクハラになるという。そこでそういう状況のケースをいろいろ分類して、これならなんとか大丈夫という線を出そうとしているのだが、まったくお笑いである。
 もっと痛快というか、深刻というか、ある意味では興味深いのは「面接セクハラ」というもので、次のことを聞いてはセクハラになる。一人住まいなの? 母子家庭ですね、お父さんはどうされましたか? そういう服装が好きなんですね? 付き合っている異性はいますか?

 このくらいにしておくが、セクシャル・ハラスメントをされた者が苦痛をもつことはよくわかるとしても、セクハラ対策にマニュアルが必要になることが滑稽であり、そのマニュアルがなんとも不出来なのがもっと滑稽なのである。
 が、その一方で、このようなマニュアルをつくっていく編集術にも実は感心してしまうのだ。前提に法律がある。そのうえで事例をあげる。その事例を分類する。そして、ひとつずつその対策を列挙する。
 一方で、端的な判定がくだせない"疑わしい領域"を拡張していく。その事例をあげる。そうすると対策の方からも分類ができていく。それをまた組み合わせ、最低の線をつくっていく。さらに他方では、例外もチェックする。
 以上を、アメリカを先行例としていくつもの判例によって解説する。さらには日本社会の特殊性を加える。まさに延喜式であり、新たな有職故実の誕生なのだ。
 ただし、そのように褒めるには、あまりにも語彙が乏しく、比喩がない。むしろぼくや編集工学研究所がこういうマニュアルをこそつくったらおもしろいのではないかと思ってしまうほどなのだ。いやいや、これは冗談だ。