父の先見
日本語を書く部屋
岩波書店 2001
中上健次は「おまえは和文脈にこだわりすぎているよ」と詰ったようだ。リービは大和言葉による文章を偏愛してきた。しかし、なぜそうなったのか。
民族や国家や歴史にまつわる言語文化の問題に淡々ととりくんでいるところが、本書の醍醐味である。こういう本はあまりない。まず著者はガイジンである。父はユダヤ人で、母はポーランド系移民だ。プリンストン大学で東洋学を学んだ生粋のアメリカ人だ。それなのに日本語でしか小説を書かない。しかも仮名まじりの日本語を日本人以上に称賛しつくしている。
リービはその理由をいろいろ考えたすえ、それは自分のニューヨークに対する抵抗だったことに気がついた。マンハッタンには、たとえば「秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く」という万葉的なジェスチュアがまったくない。そんなことは当然だが、リービはマンハッタンの暴力的な力に馴染めなかったのである。だからそのことに無意識に抵抗しつづけていたらしい。
あるとき、そういうふうに「何かに抵抗する自分がいた」ということに気がついた。あるときとは、日本を知ってからのことだ。そして、考えた。もしニューヨークについて短歌がつくれるようになれば、自分のトラウマを解消できるかもしれない。なぜなら、ニューヨークには長編小説も短編小説も、ギャグもコントも、ひょっとしたら俳句さえ生まれていくだろうが、これまで短歌が生まれたことはなかったからである。リービにとって短歌(和歌)がそぐわない文明は嫌だったのだ。
リービ英雄はスタンフォード大学で日本文学を教えていた。朝は『日本書紀』、昼は大江健三郎。やがて40歳の誕生日の前に教授職を辞し、日本語で小説『星条旗の聞こえない部屋』(講談社文芸文庫)を書いた。
なぜ日本語で書いたのか。日本語が音に聞いて美しく、漢字仮名まじり文が目で見て美しかったからだ。西洋から日本に渡って壁を越え、日本文化の内部の潜戸としての日本語に入っていく。リービはそのような日本語を「壁でもあり潜戸でもある日本語」というふうによぶ。これは今日の日本人にこそ宿ってほしいまことに適確な感覚だ。
そのようにリービがなっていったのには、むろん背景がある。たとえば若いころに『万葉集』の英文抄訳版をリュックに入れて大和路を歩きまわっていたときである。こういう体験をした。
山部赤人の歌「明日香の 旧き京師は 山高み 河雄大し」の英訳では、山がマウンテンに、河はリバーとなっている。が、実際に歩いてみた大和の山は山ではなく丘のようなものであり、けっして雄大ではない。河もまた河でも川でもなく、小さな水の流れがあるだけだった。最初、リービはそのことにひどく失望する。そこにはあまりのズレがある。英訳からは想像もつかない大和のささやかな風景なのだ。
しかし、そこで考えた。そのズレにこそ実は古代日本人の想像力があったのではないか。万葉の言葉から実景を差し引かなければならなかったのではないか。
あたりまえのことだが、リービ英雄には、単一民族という幻想のもと、日本人が小泉八雲に擬して自己オリエンタリズムに陥るような、そんな日本像をもつということがない。そういう日本人独特の錯覚がない。このことは、ぼくのような者がリービ英雄を読むことの重要性をもたらしてくれる。
たとえば、リービは『古事記』は清潔だという。中身は凄まじいのに、スタイル(文体的なるもの)が汚れていない。なるほど、清潔か。そう思ってみると、その通りだ。日本語にしかもちえない律動や様式を感じるとも言う。リービはその理由は『古事記』のもつ日本語に豊かなイメージの他動性があるからだという。だからフレキシブルな世界像が描けているという。それもその通りだ。一語がひとつの意味しかもたないなんてことは、ない。日本の古言は一語で多意味なのである。
もっと重大な指摘もする。西洋や中近東ではピューリタニズムやファンダメンタリズムが跋扈したのに、また日本の近代にもそれにちょっと似た新宗教が出たことは出たのに、その陥穽に落ちなかったのは、そもそも『古事記』がそのような陥穽を免れているからだという指摘だ。これもハッとさせられた。リービは明治近代の国語の確立は失敗でもなく、また成功でもないと見たのだ。
こういう見方は、ふつうは一神教に対する多神教の柔らかさというものだと捉えられてきた。が、リービはそこを日本語の問題としてあかしていく。そして、そのような日本語の問題をセンシビリティとして解こうとした本居宣長に、たいそうな共感を寄せて、こんなことを言う。「やっぱり宣長に戻るんですよ」。
処女作『星条旗の聞こえない部屋』の第二部「仲間」には、ベン・アイザックという主人公が新宿に行きたくてアメリカから家出し、「キャッスル」という喫茶店でアルバイトをしてその場の日本人の仲間になろうと努力しながらも、そこにまじわれなくて新宿からも家出するという話になっている。
こうしたリービの作品を、そのあとの『天安門』(講談社)などとともに世評は「越境文学」(border-crossing literature)とか「境界文学」(borderland literature)と呼んできた。これは、ドゥルーズやガタリが注目した「ある少数民族の作家が自民族の言語でない普遍的な言葉で作品を書くことで普遍の中心性を問い、そこに非領域化(deterritorialize)をおこす」という方法の、逆照射に当たっていた。アメリカ英語というグローバルな言語を生得しているのに、あえて日本語という狭い言語によって「非領域化」を訴えたからだ。
日本人のぼくからすると、この「越境」や「非領域化」はとても新鮮である。ぼくはいっとき同時通訳者グループと一緒に仕事をしていて、そこに「完ジャパ」「半ジャパ」「ノンジャパ」「うそジャパ」といった言葉のプロが入り交じって活動していることがたいそうおもしろかったのだが、実は文学の実情はそういう「まぜまぜ」と「ちぐはぐ」によってこそ成り立ってきたものなのである。ただ、そのような「まぜまぜ」と「ちぐはぐ」が、言語表現の現場ではけっこうな〝闘争〟でもあることが、忘れられてきただけなのだ。リービ英雄はその“闘争”を呼び戻してくれた。
しかし他方、リービの「越境」や「非領域化」の試みは、日本人がグローバル中国の言語領域の中で余儀なくされた漢字から仮名を生み出していった“闘争”を呼び戻してくれるものでもあったのである。
というわけで、リービ英雄が何をどのように「越境」しようとしているかということは、最近のぼくが考えつづけていることとかなり密接な関連をもっている。
この「越境」は西から東への越境ではないし、外国人が日本を理解するための越境でもなく、日本人が日本語の中で自分自身を越境することでもない。日本人が日本語にならないと思いこんでいる世界観から、日本語を越境させることなのだ。
日本語を越境させること、そのためにアメリカ語から日本語に、漢字から仮名に入ってみること、その役目を引きうけたリービ英雄に、ぼくは言いようのない感謝のようなものを感じている。いわば共闘者への感謝だ。
生易しいことではない。日本語を越境させるにはむろん日本語に精通している必要があるし、そのうえでグローバリズムの全質量をローカリズムの一支点をもって向こうへ撥ね飛ばしてしまわなければならない。これには言葉の力学もいるが、愛情の熱力学もいる。なによりも自身の内なる異人性を使わなければならない。これを日本人はどう引きうけるか。ラフカディオ・ハーンなら、それは可能だった。アーネスト・サトウやオギュスタン・ベルクにもそれは可能だろう。しかし、日本人はどうするか。
おそらく内村鑑三のような視点をもつ必要がある。内村は自身の内なる異人性をキリスト教に感得することができた。また、柳宗悦なら可能である。柳は朝鮮の文物にそれを痛いほど感じることができた。いま、そのことを可能にする方法はどこにあるのか。日本人として、日本語を使っている者としてその方法をさがしていく必要がある。それが、最近ぼくが考えつづけていることなのである。
本書はとてもやさしい日本語で綴られている。いろいろなメディアから依頼されたエッセイと講演をまとめた1冊だ。おそらくは日本人なら誰でもすぐ読める。けれども、本書の内容をちゃんと理解するにはそうとうの力量と真剣な態度が要求されるのではないかとおもう。実際には各エッセイには似た内容のくりかえしが多く、ひょっとすると退屈するかもしれない。しかし、そのようにくりかえしてリービ英雄が何を考えようとし、何を言おうとしているのかを一緒に感じていくことは、ぼくにはすばらしく気分のよい時間になった。
それは自分の事情を守る文化から、他者が信ずるものの文化へ投企するとは何かということを、一緒に考えられるからだった。
[追記]大川景子監督の《異境の中の故郷》というドキュメンタリー映画を見た。2013年3月、リービ英雄が52年ぶりに生まれ故郷の台湾(台中)を訪れたときの一部始終を撮影編集したもので、興味深かった。リービが少年の頃、そこはモーファンシャンと呼ばれていた日本人街だった。植民地化した台湾の中に「模範郷」をつくったという日本政府の矜持が響いていた街だ。リービはその体験を『模範郷』(集英社)という小説にもしている。しかし、訪れてみた台中にはもはやその残影はない。リービは13歳に戻り、また星霜をへた初老者に戻り、どうしたら異境と故郷を言葉に換えていけるのか、そのことに耽っていく。