チャールズ・ディケンズ
デイヴィッド・コパフィールド
新潮文庫 1967
ISBN:4102030107
Charles Dickens
David Copperfield 1850
[訳]中野好夫

 誰の心にだって少年や少女はこんなふうにあってほしいという、お好みのキャラクターが棲んでいる。それはエミールだったり、はにかみ少女だったり、地下鉄のザジだったり笛吹童子だったり、アリスだったり杉作だったりピーターパンだったりする。みんな、いっぱしの「稚なきもの」たちなのである。
 ディケンズにもそういうお気にいりの子供(a favorite child)がいた。ディケンズの近代小説はお気にいりの子供を好きに綴ることによって誕生した。それがデイヴィッド・コパフィールドで、オリヴァー・ツイストだ。
 最初っからそのことに気がついたわけではない。ディケンズには、その前に仕込んでおくことがあった。「情報の時代」の先鞭をつけるのだ。イギリスの都会生活の貧しくも活気のある隅々に「情報」を嗅ぎ分けることだ。

 ディケンズは十五歳で法律事務所の小僧をし、十六歳のときには裁判記録の書記係になっている。次に通信社の記者になって、議会討論を速記し記事にした。速記術は当時の定番ガイドブック『ガーニーの速記術』でマスターした。
 裁判所の書記と議会の速記が下積みだったのだ。当時としてはまさに「情報」を嗅ぎとる尖兵にふさわしい仕事についていたわけで、ディケンズはそれをけっこう誇りにしていた。
 ジャーナリストの体験がディケンズの作家としての能力を育てた、などと早合点してはいけない。こんなところで引き合いに出すのもなんだが、記者あがりの黒岩涙香だって司馬遼太郎だってそんなに容易に作家になったわけではなかった。朝日新聞の広告部にいた松本清張が小説を書きはじめたのは四十歳半ばのことである。
 ディケンズはそういう仕事を通じて、事件や事態のすべてをくまなく観察することに飽食し、どうしたらそれらの事件や事態をセミ・フィクショナルな視点におきかえられるかという作為をもったのだ。そしてその作為を読者が感じないほどに、筋書きや文体や人物描写に昇華させることに夢中になったのだ。
 作為を読者の体験に転じていくこと、そしてそこにお気にいりの子供を入れればいいんだということ、この二つのことがディケンズの作家への意思をつくらせた。
 
 ディケンズは一八一二年に生まれて一八七〇年に死んだ。この時期は、ナポレオン戦争後のヨーロッパが最も劇的に、かなり細部にわたって変貌した時代である。各国がネーション・ステートとしての「近代」をめざしただけでなく、旧社会を解体できたわけではなかったので、溝が深まり、裂傷が目立ってきた。そのぶん「人間」のとらえかたが変わった。
 思想、科学、文学も大きな変化を見せた。マルクスの『共産党宣言』とダーウィンの『種の起源』の登場、ドストエフスキーとメルヴィルの大作出現が最も象徴的だ。
 それよりディケンズにふさわしい出来事だったのは「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」やAP通信とロイター通信ができたこと、「ニューヨーク・タイムズ」がスタートを切ったこと、ロンドン博とパリ博が開催されたことである。ほぼ踵を接してボン・マルシェとウェルトハイムとメーシーの百貨店が世界の街の真ん中に登場した。
 ヨーロッパは、そしてアメリカは、こうして都市の渦中に世界の情報を集めだしたのだ。これらは貧乏きわまりない少年時代を送ったディケンズに何かを発見させた。夢中でとりくんだ下積みの仕事の片隅で新たな「情報の時代」が胎動しつつあることを察知できたのである。しかもある時期からはディケンズ自身が情報装置やメディア装置の萌芽そのものとなり、時代がそのあとを追いかけた。

 生い立ちを追っておく。ハンプシャー州郊外のランドポートの生まれだが、二歳のときにロンドンに、五歳でケント州の港町チャタムに移り、六年ほどの決定的な少年期を過ごした。病気がちだった。
 家庭は最悪だ。両親は中流階級だが父も母もめちゃくちゃで、まるで金銭感覚に乏しい。学校に行けたのは二度の転校による四年間ほどだけで、十二歳のときには父親が破産したので、一人暮らしをする。体は弱かったけれどウォーレン靴墨工場へ働きに出た。この工場がひどいものだった。何かというとひどい仕打ちをした。その後の主人公の少年たちの姿の原型は、この工場で観察した。
 なんとか新聞や本だけは読んだ。小さい頃はフィールディングやダニエル・デフォーやセルバンテスの『ドン・キホーテ』が好きだった。十代半ばからは新聞がおもしろくなった。世の中の人間どもがたいてい「事件」をおこしていることに驚いた。なんだ、みんな「事件」をおこしているじゃないか。その目で父親を見るとニュースにならないほうが不思議だった。案の定、借金の不払いで監獄(債務者監獄)に入った。母親もおかしい。父親が出獄できたとき、ディケンズはウェリントン・ハウスアカデミーに行くことが認められたのだが、母親が猛然と反対したのである。
 やむなく法律事務所の事務員として雇ってもらい、そこで速記術の修得に励んで記者になり(一八三四年に「モーニングクロニクル」の記者)、編集者になった(「ベントリーズ・ミセラニー」の編集長にもなった)。ディケンズは「編集を発見した男」になったのである。最初から編集に目覚めたわけではない。何から始めたかというと自己編集から入った。

 ディケンズの編集力には並々ならぬものがある。最初はなかなかその技法をおもいつけなかった。まともな自叙伝を書こうとしすぎたからだ。自叙伝にとりかかろうとすると、少年期の苦しい思い出が強すぎて小説にならない。それで、ちょっとした自己編集をおもいつく。これで自分の過去を好きに編集できることに気がついた。
 自分の過去を事実の羅列で書くのではなく、お気にいりの子供の目で好きなように書いてみることに気がついたのだ。
 自己編集の技法が見えれば、あとは早かった。「ベントリーズ・ミセラニー」では、同誌に初めての長編『オリヴァー・ツイスト』を書いた。評判はいい。すぐさま『ニコラス・ニクルビー』『骨董屋』『クリスマス・キャロル』を手掛けた。自己編集の手法が登場人物の過去編集に適用されたのだ。そんなことはいまの小説作法からすればごくごく当たり前のことだけれど、そのことを苦心と工夫のすえに思いつき、そして大成功させたのは、ディケンズが最初だった。
 自叙伝めいて自叙伝ではない『コパフィールド』は大成功しただけでなく、そこで駆使された編集技法はその後の世界中の作家たちが真似をした。ただし、ぼくはそれをもってディケンズが「編集を発見した男」だと言っているのではない。ディケンズは次にもっと本格的な編集という仕事に挑んだのだ。「みんなのことば」(Household Words)という名の週刊誌だ。この雑誌にディケンズが懸けた集中力こそ、今日の著者と編集者の定番関係をつくった。
 執筆者に原稿を頼むこと、それには締め切りがあり原稿料があること、新人とベテランでは収入の多寡の格差が出ること、著者に書かせる原稿の趣向にもいろいろ変化がつくれること、目次や広報では編集の狙いをアピールすること、雑誌に掲載するにあたってはレイアウトが重要であること、校正には専門家を養成するべきこと、こういうことのすべてをディケンズが発案し、一人で取り仕切り、そして責任を果たしたのだ。
 今日の各国の編集部がしていることの大半は、ディケンズが雑誌の発行を通して確立したものだったのだ。
 
 新潮文庫で四冊になる『デイヴィッド・コパフィールド』を読んだのは、四国でのあっけない修学旅行から帰ってきた高校二年のときである。風呂屋のタイル貼りの文様のつながりを追うように読んだ。九段高校の新聞部の先輩から「これ、読んだか」と言って手渡されたからだった。
 話はこんなふうだ。デイヴィッドが生まれたときには、父親はもう死んでいる。大伯母は女の子が生まれると期待していたのでがっかりして家を出ていった。デイヴィッドは太った乳母に気にいられてすくすく育つのだけれど、とてもきれいだった母親はマードストーンという男に言葉たくみに言い寄られて再婚した。家の中はマードストーンとついでに乗りこんできたその姉が「疑り深いわがもの顔」で君臨し、かわいそうな母親は心身衰えて亡くなった。とたんにデイヴィッドへの仕打ちがひどくなり、学校をやめさせられ、酒屋倉庫の小僧をさせられた。
 やむなく貧乏を絵に描いたようなミコーバーのもとで暮らすのだが、ミコーバーが借金のために逮捕されたので、大伯母に援助を求めるためにカンタベリーに向かうことにした。このミコーバーのモデルがディケンズの父親だ。
 大伯母は友人の弁護士ウィックフィールドのもとへデイヴィッドを預けることにした。おかげでなんとか学校にも行けるようになった。学校ではどぎまぎするほどきれいなアグニス、子供でもこんなにも「不気味な悪を飼える」のかというユライア・ヒープなどと知り合うのだが、卒業とともに「友」は割れていった。旧友のスティアフォースに再会してもみるけれど、この「友」も幼な馴染みのエミリーと姿をくらました。ここまでで、デイヴィッドの心には何本もの傷が刻みつけられた。
 心機一転、デイヴィッドはロンドンに出てスペンロー法律事務所で雑用を始めた。すぐに娘のドーラに一目惚れをして、婚約をしたいと思っているところへ、大伯母が破産した。さらに、かのユライア・ヒープが法律事務所を乗っ取ろうと画策していることが知れた。
 そんなとき、スペンローが突然に他界した。デイヴィッドは速記を修得して報道記者になる。このあたりもディケンズの日々そのままである。記者として自立できたので、ようやくドーラと二人で暮らしはじめるのだが、彼女は伴侶として何かが欠けている。そのドーラも病気にかかり、亡くなった。
 デイヴィッドは心機一転、ヨーロッパを旅することにした。旅立ちの直前、スティアフォースが海で遭難してあえなく死んでしまったことを知った。心の傷がますます大きくなってきた。しばらくヨーロッパを彷徨するうちに、ふいに自分の書きたいことが見えてきた。自分が好きなのはアグニスだということも見えてきた。デイヴィッドはロンドンに戻ることにした……。

 デビュー作にして、巧みな自己編集が応用されたのである。高校での初読のときは、こうしたディケンズの「技あり」はまったく見えていなかったのだが、のちに『オリヴァー・ツイスト』や『クリスマル・キャロル』を読むうちに、とくに『骨董屋』を読んで、その技法が得心できた。
 ディケンズを読んで、その後のぼくが何かに染め上げられたような気がしてきた。何に染め上げられたのか、何に影響されたのか、なかなかわからなかったのだが、あるとき中野好夫が訳した『二都物語』(新潮文庫)の二冊を読むうちに、そうだったのかと膝を打った。そうなのか、ぼくは「英国」の英国流という染め色にけっこうな親近感をもつようになっていたのだった。
 英国。ぼくにはずっとラグビーの国だった。その国に、手で持ってはいけないサッカーボールをしゃにむに摑んで走りはじめた少年がいた。ウィリアム・ウェブ・エリスという少年だ。いまでもラグビー・ワールドカップの優勝記念カップには「ウェブ・エリス・カップ」の名が刻まれている。そうなのだ、ぼくにとってデイヴィッド・コパフィールドは「ボールを抱いて走りだした少年」だったのである。
 その後、この「英国」はウイリアム・ブレイクやオスカー・ワイルドやT・E・ロレンスによって、また吉田健一やジェームズ・ボンドやブリティッシュ・ロックによって、さらに香ばしいものになっていった。いつか、そんな話もしてみたい。
 しかし残念なことであるけれど、ジョン・レノンやデヴィッド・ボウイが別の国で暮らして以来と言っておくけれど、そのような「英国」はいま、あの国にはないような気がする。ブレア首相の品のない演説と下心のある笑いをテレビで見るたびに、ウィリアム王子を叩くジャーナリズムを見るたびに、ぼくはイギリスもディケンズの編集感覚に戻ったほうがいいのではないかと言いたくなる。

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