才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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大菩薩峠

中里介山

筑摩書房 1976

 机龍之助のモデルは北一輝(942夜)だという説がある。机龍之助の剣をラスコーリニコフの斧に、その性格をスタヴローギンに譬えた例もある。
 中里介山に、北一輝が二・二六事件の首領として代々木原で処刑された直後に詠んだ「北一輝の判決を聞く」という詩があった。浅からぬ同情を寄せていたらしいことが伝わってくる。2人にはそれなりの交流があったとも仄聞される。そんなことから「机龍之助=北一輝説」が出てきたのだろうが、これについては介山と一輝の両方についての著書のある松本健一(1092夜)が、それはちょっと無理な推理だと否定している。

 机龍之助をラスコーリニコフの斧に譬えたのは中谷博だった。昭和9年の『大衆文学本質論』(のちに桃源社で再刊)にある。龍之助の無明の剣は社会の通念としての道徳を破壊する力を象徴しているという主旨だ。しかしぼくが見るところ、机龍之助には近代的な自我の意識というものがまるでない。確たる目的もない。すべてが前世の「業」のようなものの淡々たる継承であって、大半が「行きずり」だ。ラスコーリニコフとはくらべようがない。
 机龍之助が『悪霊』のスタヴローギンに匹敵するとは、たしか仏教学者の橋本峰雄の言い出したことだと思うが、ロシア正教と大乗仏教の舞台のちがいなどを含めて、この比較もしにくい。だいたい『大菩薩峠』は机龍之助のニヒルな性格やアウトローな役割を比喩的に説明したくらいでは、ほとんど何も説明したことにならないほど、膨大無辺、複雑異常、常軌を逸した物語なのである。机龍之助がダークヒーローであることは、この作品のごくごく一部の特徴にすぎない。
 ともかくとんでもない大河小説だ。これを文学用語の大河小説といっていいかすら判定しがたい。少なくとも介山の創作意欲の持続が生んだ作品だなんてものではないことはたしかである。作家の執念とか根性などではほとんど説明がつかない。
 だからといって無謀、大胆、自在な展開といった言葉で片付けるわけにもいかない。文章はひどくヘタだし(全編「です・ます調」)、中だるみもあるのに、比較するものがすぐに見当たらないような曰くいいがたい感動と展望が寄せてくる。しかし表向きは、ただただ呆れるばかりの終焉のない物語なのである。
 
 第1巻「甲源一刀流」が「都新聞」に連載開始されたのが大正2年(1913)9月だった。机龍之助の無情なニヒリズムが大正デモクラシーの風潮に切りこんで、たちまち大人気を博した。
 冒頭からして、目を覆う。机龍之助が大菩薩峠で旅の老巡礼を理由なく斬り殺すところから始まり、奉納試合で相手となる宇津木文之丞に勝ちを譲ってくれと頼んできた内縁のお浜を犯し、おまけに試合では文之丞の頭蓋骨を打ち砕いて殺してしまうというのだから、端っから話が破壊的である。
 なぜ龍之助がそのようなことをするのかという説明はない。龍之助も何も語らない。そのため読者はつい引き寄せられる。そこへ次から次へと登場人物がふえていく。
 時代は勤王佐幕が入り乱れる幕末。龍之助はふとしたことから芹沢鴨と知り合い、兄の文之丞の仇を探す兵馬も新選組に入る。兵馬は龍之助を見いだし果たし状を送るのだが、龍之助は自分の子をもうけたお浜すら無情に斬り殺し、おまけに芹沢鴨から頼まれた近藤勇暗殺の仕事のほうは、気分が冥界をさまよう一夜のせいで機会を逸してすっぽかす。気まぐれで、アナーキーなのである。
 第4巻「三輪の神杉」と第5巻「龍神」では、今度は龍之助が天誅組(公卿の中山忠光を主謀とした尊王攘夷の武装集団)に巻きこまれ、10人の浪士たちと十津川山中に追われる。そこで仮の宿とした山小屋で火薬が爆発して龍之助は失明寸前におよび、ますます無明と幽冥のはざまの境地に入って、一人寂然として龍神の湯につかるのである。
 こんな主人公はいなかった。こんなにニヒルな剣士はいなかった。その後も、林不忘(734夜)の丹下左膳から柴田錬三郎の眠狂四郎をへてさいとう・たかをの無用ノ介まで、時代小説や劇画にはそれなりのニヒリストが誕生したけれど、これらはいずれも龍之助の後塵を拝したもので、しかも龍之助の徹した非情や無情には及ばない。それぞれどこか人間味が隠されていた。龍之助にはその人間そのものがいない。
 ところが、介山はここでいったん筆を擱く。おそらく龍之助をこれ以上に発展させることができないと見たのであろう。そこで2年余をへたのちの大正6年、第6巻「間の山」以降の続篇を再開したときは、ガラリと様相を変えてきた。あとで少しだけ感想を書くけれど、この間の山のお君がすばらしく、読む者の心を奪う。
 お君は黒い大きな犬を連れ、三味線を片手に放浪をする遊行の女で、物語に新しい風を送りこんでいく。ここに米友や道庵先生などの天性陽気な庶民たちが絡まってきて、俄然、別種の様相を呈していった。
 
 第6巻から、物語の舞台はようやく裾野を広げて、数々の宿命が幾重にも折り重なってくる。悪名高い代官を象徴するような神尾主膳が甲府勤番にまわされてヒールなキャラクターを発揮すると、そこに後半の主人公となっていく駒井甚三郎が勤番支配として着任するというので、2人のあいだに確執と権謀術数が交わされる。そこへ折からの貧窮組などの打ち壊しや「ええじゃないか」の発端が各地におこり、物語は甲府と江戸に二極化されていく。介山は龍之助とは異なる「悪」を設定したかったようだ。
 後半を飾るヒロインも登場する。お銀様という。新たな物語を引っ張る強烈なキャラクターで、他を圧する。駒井のほうは洋服を着て望遠鏡や船艦技術などのテクノロジーを操って、お銀様は御高祖頭巾をしたままダンディな男装をして龍之助を追いかける。こういう、異様な二極構図になってくる。龍之助はどうしたかといえば、主膳に雇われたまま伯耆安綱や手柄山正繁の名刀にほだされ、江戸に下っては夢遊者のごとく辻斬りをするという隔絶した迷妄に囚われている。
 話はますます興味本位におもしろいのだが、物語構造はかなりメチャクチャになってきた。さすがの介山も種が切れたのか、また休筆に入るのだが、大正14年(1925)に第21巻「無明」が「大阪毎日新聞」(東京日日新聞)に掲載されて、不死鳥のように蘇ってしまうのである。ここまでですでに10年以上にわたる執筆になっていた。
 
 一読した印象は大長篇劇画やインド映画に近い。荒唐無稽な筋立てといい、無責任な人物のめぐりあわせといい、とうてい筋立ての見通しが立っているとはいいがたいからだ。あきらかに場面主義であって、場当たり的なのである。中里介山には作家としての才能があるのかと疑いたくもなる。
 けれども、そのデタラメともいえる進捗のなかから、しだいに幾つかの思想思念の軸が立ち上がってくるから恐ろしい。それが最初はゆらゆらと陽炎のごとく揺動していて、静かに組み合わせを変えているのにもかかわらず、時代が幕末の最終場面に向かうにつれ、その揺動がじりじりと革新的な形をあらわしてくる。ここが妙なのだ。時代設定を近代日本の「夜明け前」(196夜)にしたことが、介山に他の追随を許さない想像力を切らせなかったのだろう。
 その立ち上がってくる思想思念とは、まずは机龍之助だが、最初に書いたように、龍之助は無明と幽冥のあいだの夕闇を最初からふらついていて、「日本刀」という時代が捨てていこうとする儚い象徴の裡に漂っている。その龍之助の剣に、新選組・天誅組・赤報隊のような、“御一新”の中心から外された連中が宿命に導かれたかのごとくに絡んでいく。
 そのため、物語の時代的相貌がしだいに無常と異相を往還しはじめるのである。大乗仏教や菩薩道に立ち入った中里介山にして、ぜひとも浮上してほしかった穢土と浄土の往還の相貌があらわれはじめるのだ。
 とはいえ往還が見えてくるというだけなら、ただの仏教小説か悪人正機説だ。それでは大向こうは息詰まらない。そこで介山は、ここに時代の変革とも仏教思想ともかかわりのない、庶民や遊女や旅行者や見世物屋を立ちはたらかせた。とくに「遊民の群像」を意図的に描いた。
 これは介山がマージナルな遊行者たちに格別の思慕を寄せているせいなのだろうけれど、物語技法として巧みだったのは、遊民たちにもそれぞれの宿命があることを欠かさなかったところだ。冒頭の巡礼の惨殺をはじめ、次々に無名の者たちが殺され、死に絶えていくにもかかわらず、その生きざまについての描写を欠かさなかったのだ。邪心のない遊民にも容赦なく時代の苛酷が襲ってくることを、介山は自覚的なのか巧まずそうしていたのかはわからないが、ちゃんと描いたのだ。
 
 介山の粘りは物語が何匹もの長蛇をもつにしたがって、だんだん活きてきた。いわば菩薩道が逆のほうからゆっくり歩みを進め、しだいに龍之助を追いこんでいくというふうになった。
 そのなかで神尾主膳と駒井甚三郎の対立にみられる旧守の者と進取の者の2つの「悪」が引き立っていく。この悪は、歌舞伎の「色悪」のような暴力的な魅力を発揮する一方、時代の裂け目を互いに脱出しようとしている「悪」でもあった。神尾は享楽の限りを尽くして、そこになにやら近代消費社会の先取りを見せ、他方の洋学派の駒井は洲崎で船舶建造にとりかかると、ひたすらキリスト教に関心を示し、物語の外に向かって脱出する。この「悪を物語の外へ」という仕掛けが、長大な『大菩薩峠』に奇怪な展開をもたらしていったのだ。
 いや、脱出は悪だけではない。小さなところでも頻繁におこる。脱出など叶うはずもない庶民の生活の日々でも、たとえば女軽業のお角が興行を打つ「切支丹大奇術一座」がそうなのだが、それは駒井の科学技術とはまったく正反対のことをしているようでいて、どこかにワープしたがっている。そのいい例が、放浪の絵師の田山白雲にお角が見せたキリシタンの油絵だった。
 このへんで介山は『大菩薩峠』をいったん了えて、別の物語をいくらも書けそうでもあったのに、そして作家というものはそのようにして作品を何度も蘇生させていくはずなのに、介山はまだまだこの物語を打ち切ろうとはしない。もう、昭和3年である。関東大震災がおこり、大杉栄(736夜)が虐殺され、大正は終わっていた。

 それで、どうなったのか。第28巻「オーション」で、駒井甚三郎と田山白雲が九十九里浜で落ち合って、白雲が鹿島神宮から鹿島灘に出て広大な景観に包まれていったのである。これでさすがにこの物語も終止符を打てたかと思われた。実際にも、いったん休筆に入った。ところが介山はそこからは誌紙を自在に変えて蘇り、ふたたび昭和6年から物語が再々開してしまったのである。
 龍之助は虚無僧姿で尺八「鈴慕」を吹く身になっている。仏道に入ったようだが、あいかわらず市川雷蔵なら似合いそうなハイパージャパニーズ・ニヒリストであることは変わらない。他方、お銀様は火事に遭ったあとはあえて「悪」に徹したくなって、反抗と憎悪と呪詛を象徴する悪女塚をつくっている。こちらは凄味のあるヒロインである。駒井は科学技術を究める試験所をつくって天体研究にさえ乗り出し、コズミック・テクノクラートめいていく。神尾は染井の化け物屋敷で蕩尽をたくらみつづけ、兵馬は仇討ちどころかつねに事件に撹乱されたままである。5人は5様、なんら衰えない。無邪気なままなのだ。
 こんな状態でいったい物語がどうなるかと心配したくなるのだが、これが昭和16年までえんえん連続し、ついに第41巻「椰子林」に及んだ。
 結局、連載開始からの合計はなんとも28年間にわたった。介山が書き始めたときは松井須磨子が《復活》で「カチューシャかわいや別れのつらさ」と唄っていたのに、終わったときには日本軍が爆音とともに真珠湾に突っ込んでいた。日本は日本史上にも稀な昭和の暗闇を疾駆していったのだった。
 にもかからず、『大菩薩峠』はひたすら幕末ばかりを深く深く掘りこんで、登場人物のすべてが時代からとりのこされ、まるで物語の中にのみ芽生えたヴァーチャルな殺戮浄土と将来浄土だけが光芒を放っていったのだ。
 
 ここまで途方もない物語がいったいどこに向かっていったのかということだけは書いておいたほうがいいだろうから、結末をバラしておくが、駒井はついに「無名丸」という近代蒸気船を仕上げ、房州洲崎から出港した。お銀様はなんと伊吹山の山中でユートピア「胆吹王国」の着手に向かった。
 これだけでも破天荒な結末が予想されるのだが、それなのに介山は近代に向かって「夜明け前」の扉をけっして開こうとはしない。あくまで前近代にとどまろうとする。そこは島崎藤村よりなお頑固だった。
 では何もおこらないかというと、駒井の無名丸が総勢50余名を乗せて太平洋を沖に出始め、やがて東経170度北緯30度付近の無人島に着く。これまた信じがたい展開だ。ここで駒井以下白雲たちが耕作をはじめ、古風な剣術を習いあう。まさに維新が始まろうとしているにもかかわらず、『大菩薩峠』の結末においては時間は逆行しつつあったのである。
 こうして終幕、お銀様は胆吹王国を出て大江山へ、さらには醍醐の三宝院へ向かう。米友は幕末維新に最後のカードを振り出そうとしている岩倉具視の岩倉村に入り、そんな社会の動向とまったく無縁な賭場に向かう。神尾主膳は上野輪王寺を訪れたあと、お絹の待つ化け物屋敷で書道に打ちこんだ。
 どんどん影が薄くなっている龍之助は、最後の最後に大原寂光院に忍んで尼僧と交わることだけを影法師のように求めている。いかにも龍之助らしい最後のゆらゆらとしたエロチックな行動だ。道庵先生はなぜか一休禅師の研究三昧に耽っている。宇津木兵馬は山科に入って光悦屋敷に向かっている……。
 すべてが古代王朝回帰というのか静寂回帰というのか、将来浄土への回帰というのか、もはやまったく何もおこらないかのようであって、かつまた大きな大きな時間がすこぶる小さな一人ずつの菩薩に向かっているかのようなのだ。なにしろ最後の最後が寂光院と一休と光悦なのである。
 かくて物語は椰子の林のかたわらで無名丸に乗りこんだ中国少年金椎がなぜかしきりにキリストに祈っているというところで、さしもの多頭の怪物のような物語も、チョーン!になる。

 ざっとこういうことなのだが、ここまで粗筋を書いてきて、伝えられることがあまりに少ないことに驚いた。こんなことで何かを伝えられただろうか。気をとりなおして、ぼくがどのように『大菩薩峠』を読み始めたのかという話をして呼吸を整えたい。
 そのころ、半村良(989夜)の『妖星伝』(講談社)で火がついた伝奇ロマンの読み耽りが自分のなかで下火になってきていたのだった。もっと痛快なものはないか、もっと興奮覚めやらぬものはないかと白井喬二の『新撰組』(講談社)や『富士に立つ影』(報知新聞社)や国枝史郎の『神州纐纈城』(講談社)を読んで、やはりこれは中里介山だと一念発起したのだったと思う。
 十数ページ読んで、たちまち虜になったことをよく憶えている。ただしそれからが大変で、読めば読むほど介山の妄想に付き合わされているようで、それなのに気になる出来事がいやというほどに連鎖されるので、半死半生のような気分で読んだものだった。そのうち、これは日本人の多くが読むべきだという熱いものが胸に溢れてきた。「遊」の編集者たちに急遽プロジェクト・チームをつくらせ(1970年代後半のこと)、ついには『大菩薩峠』のダイヤグラムづくりに取り組んだのである。この感慨はいまなお名状しがたいものがある。ダイヤグラム作成に乗り出したというのは、どうすれば感慨を表象してよいやらわからなかったせいで、本当はぼくもどこやらにしけこんで机龍之助のように尼僧と交わっていけばよかったのかもしれない。感慨を言葉にしにくいということでは、いまなお同じであるからだ。
 ぼくはこのように読んできたのだが、ところがこれだけの大作・問題作をめぐっての評論や批評が、ほとんど見当たらなかった。意外だった。無視されているか軽視されているか、駄作としての烙印が押されたままになっているのか、それともそのように受け取られてしまう何かを介山が犯しているのか。きっとその程度の理由なのだろうが、ガッカリしてしまった。
 そうしたなか、わずかに熱い視線を注いでいたのが、冒頭に紹介した松本健一と、そして鹿野政直の『大正デモクラシーの底流』(NHKブックス)だ。とくに鹿野の言い分がひっかかっていた。鹿野は『大菩薩峠』が慶応3年のままに終わっていて、決して維新に入りこまなかったことにふれ、かくも大胆に維新の意義を否定したのは日本の歴史学には皆無であって、ひょっとしたら中里介山はそのような歴史観をもっていたのではないかというようなことを書いていた。さあ、どうなのか。
 
 中里介山は自由民権運動にも縁深い東京郊外の多摩の地(羽村)に精米屋の次男として生まれ、電話交換手や代用教員をしながら、社会主義青年として育っている。
 やがて「都新聞」に入社して、そこで短編小説を書くようになるのだが、それらは島原の乱や高野山の義人をとりあげたもので、介山が社会主義の小さな香りに託すものがあったことを窺わせる。けれども大逆事件で幸徳秋水らが処刑されたことに驚愕してからは、容易に理想が実現できないだけではなく、それらがあっけなく叩き壊されるものだということを知った。
 介山がキリスト教に惹かれたのは内村鑑三(250夜)を読んでからで、そのうちキリスト教とも社会主義とも仏教とも交わりつつ、しだいに大乗仏教に惹かれていったのは、おそらく明治大帝と乃木将軍の死のあとである。介山は「上求菩提下化衆生」という言葉を抱いて『大菩薩峠』を書きはじめた。
 もっとも「上求菩提下化衆生」をそのまま書く構想はない。そこが韓国とちがって近代日本に高銀の『華厳経』のような大乗仏教小説がうまれなかった理由でもあるだろうが、それはそれとして、介山はなぜ日本はこのように矛盾に満ちた国になってしまったのかということを考えはじめた。まずもってその矛盾を描きたい。それなら書き始められそうなのだ。
 介山は、その矛盾を机龍之助の剣に象徴してみたいと思う。無明の動向をもつ剣である。介山はその剣で、冒頭、老いた巡礼を意味なく切り捨てる。すなわち、テロルが信仰を切る。介山の問題提起の発動だった。
 介山が国や幕藩に包摂されない人物ばかりを好んで描いたことは明白だ。それは介山が維新後半世紀をへた日本にそうとう失望していたことをあらわしていた。たんなる失望ではなく、希望すべき階層や人物を見いだしえなかったという失望だったろう。そこで介山は駒井甚三郎のように独立して自律共和国をめざしたり、お銀様のようにあえてファシズムを恐れずに独裁王国を築いたり、そうでなければ、神尾主膳のように蕩尽をほしいままにするような登場人物を次々に用意した。
 お銀様が言うように、介山にとっての人間というものは、「絶対に統制されるか、そうでなければ絶対に解放されるべき」なのである。介山は、この選択の行方を現実の満州に見てしまったようだった。
 
 介山には昭和6年の『日本の一平民として支那及支那国民に与ふる書』という文章がある。満州事変を正当化するとともに、満州をつくることは日本に与えられた天職のようなものなので、ぜひとも支那のみなさんはこの事業を見守ってほしいというような主旨のことを書いている。介山は本気だったようだが、やがて満州がそのような理想王国ではないことが見えてくると、大逆事件の結末と同様、介山はまたしても日本の近未来に打ちのめされる。
 介山は大いに迷う。一方では合気道の植芝盛平の道場に通ったり、古文書に分け入って『日本武術神妙記』(角川文庫)を綴ったかと思えば、他方、よせばいいのに昭和11年の第19回総選挙では東京7区の多摩地方から立候補した。むろん手ひどい惨敗だ。最下位だった。介山は挫折して、かつて与謝野鉄幹がそうであったように、ここでも現実と理想の乖離を味わった。介山がお銀様の胆吹王国を崩壊させようと思ったのは、おそらくはこのころであったろう。
 それだけではなかった。ここで介山はさまざまな理想の現実化のプランを捨てて、あえて農本主義に戻ろうとする。第38巻「農奴」にはその転回が描かれる。また、『大菩薩峠』の途中でありながら『百姓弥之助の話』を書いて、百姓道も提起した。
 この転回が、やがて駒井の船舶に「無名丸」という名がつき、駒井が上陸する無人島が農耕の場になっていくことにつながっていった。ついに「無名のもの」にしか希望と期待を見いだせなくなったのだった。こうなれば、『大菩薩峠』の舞台を「近代」に踏み出させるわけにはいかなかった。明治以降の近代日本は日韓併合から満州経営の失敗まで、介山にはすべてが理想失墜の日々だったのである。
 以上が、鹿野政直が『大正デモクラシーの底流』で、介山が物語のすべてを慶応3年で封印しようとした理由を問うたことに対する、ぼくなりの返答だ。
 
 では、最後に間の山のお君のことについて。お君は第6巻にまるで行きずりのように登場する。場所は伊勢神宮の内宮と外宮のあいだの「間の山」。この伊勢の古市をおもわせる場所がいい。そこにお杉とお玉という女芸人がいて、三味線片手に「間の山節」を唄ってみせる。そのお玉(芸名)がお君(本名)なのである。
 いつも黒いムク犬を連れていた。やがて神尾主膳にとらえられ、何度にもわたる運命の糸によって駒井甚三郎と結ばれた。駒井が失脚したのちは悲嘆にくれて尼寺に身をひそめてそのまま死んだ。駒井は別の地でこのことを知り、キリスト教に関心をもつ。
 このお君が唄う「間の山節」がいい。片岡千恵蔵主演だったか市川雷蔵主演だったかは忘れたが、映画でもこの節が流れていてそれが耳の奥に響いているのかもしれないが、おそらくはこの節回しこそ介山の大乗感覚のすべてをあらわしていたにちがいない。こういうものだ。
 
夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
 
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
 
 先にも書いておいたように、『大菩薩峠』は間の山のお君が黒い犬と若い米友を連れて登場したとたんに、まったく新たな様相に突入し、読者をニヒリズムの藍染めからロマンティシズムの紅染めへと誘っていく。すべての縒り糸は三味線片手の「間の山節」にあらわれていた。
 さて、ここまで書いてきてふと思ったことがある。机龍之助にはやっぱり北一輝の面影があるかもしれない、お銀様にはぼくのごく身近にいる女性の面影があるかもしれない、これからの日本文学にはそろそろ仏教が網代掛けをするといいかもしれない、ということだ。諸君、平成15年の退屈きわまりない正月にはきっと『大菩薩峠』がぴったりだ。