才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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宇宙創造とダークマター

マイケル・リオーダン&ディヴィッド・シュラム

吉岡書店 1994

Michael Riordan & David Schramm
The Shadows of Creation 1991
[訳]青木薫

 小さいころ、教会の日曜学校ではクリスマスになるとキラキラ光る星のついたカードをくれた。また「星の界」という讃美歌っぽい歌を、東華幼稚園の才女ヨコシマタカコちゃんに袖をつつかれ、促され、なんともはずかしげに唄った。
 ぼくはクリスマスはなぜか嫌いだったのだが(いまでも嫌いである)、オルガンの音とそれを弾くシスターの笑顔と「星の界」だけは好きだった。「月なき御空に、煌めく光」という歌詞と「輝く夜空の星の光よ、瞬くあまたの遠い世界よ」という歌詞が二つあったと憶う。その、まるで冬の夜空で凍えているような歌の言葉の響きがこの世のものともおもえず、子供なりに「悠久」というものを感じたものだった。
 以来、星座を追いかける少年をへて、宇宙の構造に関心をもつ青年になり(ぼくが最初に書いたエッセイは「17歳のための幾何学」という非ユークリッド幾何学に関するものだ)、さらには『全宇宙誌』(工作舎)という全ページが漆黒で行間におびただしい星々が瞬く書物をつくるようにもなって、ぼくの「星の界」は変化していった。そしてしばらくは空間と時間をつなぐ天文学の最前線を理解することをひそかな課題にしているような日々が続いてきたのだが、あるときその持続がぷっつり切れたのである。

 どこかでふと目をそらしてしまったせいなのだろう。それから、突如として宇宙の正体に関する議論が様相を一変させたことに気が付いた。1980年代半ばのことだ。そのうち、宇宙の正体よりも宇宙の方法に関心が移っていった。
 宇宙の方法というのは変な言い草だが、これは宇宙についての理論をつくりあげる考え方を示すことのほうがおもしろいということで、すべての宇宙論は「方法宇宙というモデル」なのではあるまいかという見方を意味している。
 方法的な見方がどうしても必要だと感じさせたのは、いわゆる「インフレーション理論」と「ダークマター仮説」の登場のせいだった。ぼくはおおいに考えさせられた。この仮説がもたらす全貌はまだまだぼくを満足させていないし、そのすべてが説得力をもっているとも感じてはいない。すでにホーキングによって批判もされている。けれどもこれらの理論のなかのいくつかの推理法がどんな分野のセオリー・ビルディングの仕方よりも刺激的なのである。スリリングなのだ。
 そこで、これから試みる拙い黒板講義は、最新の宇宙論仮説が運んできたクリスマスの贈り物‥‥ではなくて、その贈り物を包んでいた包み紙にくっついてきた「星の界」のお話ということになる。ではしばし、冬の夜空に耳を澄まして、星たちの呟きをぶつぶつツブツブぶつぶつ‥‥。
 
 さあ、みなさん、この冬の星座に似た黒板を見てください。ここには天体に関するむずかしい数字がいっぱい並んでいます。カムパネルラ君、いいですね。でもよく注意してください。このような数字による理論の仮説には、しばしば「望まれないもの」が入っているんです。そういうことってよくありますね。
 詳しい説明はしませんが、重い粒子の「磁気単極子」(モノポール)もそのひとつでした。なぜなら理論上では一応は定義されたこの粒子は、いくら試みてもいっこうに観測にかかってはこないのです。どうやっても存在が確認できないのです。そこで物理学者や天文学者たちは、この「望まれない粒子」を理論的に消すことにしたのでした。
 1979年のことでした。MITのアラン・グースや日本の佐藤勝彦という天体物理学者が考えたこともだいたいそのようなことで、宇宙は誕生してすぐに途方もなく膨らんでいってインフレーション(物質が光の量にくらべて過剰になってきたことです)の状態になり、そこに、仮にも重い粒子があったとして、きっと彼方に吹き飛んでいったのではないかと考えたのです。いわば辻褄合わせでした。
 ところが、この辻褄合わせのアイディアがたちまち新たな仮説を引き出していったのです。それがこれからちょっとだけ紹介するダークマター仮説です。ダークマターだなんて暗黒物質という意味ですから、とても変ですね。怖そうですね。
 
 ダークマターは、観測にかからない物質で、光を出すことも反射することもしない物質です。これだけでも奇妙ですが、これまで人間がつきとめてきたどんな物質とも似ても似つかない物質という意味では、もっと変です。しかもその大半はなんと行方不明なのです。どこにいるのかがわからない。
 そういう不気味なダークマターがおそらくは宇宙の90パーセントほどを占めているというのだから、とんでもないことです。まったくもってたいへん変てこりんな話なのですが、いまこの仮説を全面的に疑う天文学者はごく少数しかいません。みんな、そういう変な物質が宇宙中にあるんだろうなと思っています。それにもかかわらずダークマターの正体はほとんどわかっていないんですね。
 さてこの本は、とても評判がいい本です。25年ほど前にワインバーグという人が書いた『宇宙創成はじめの三分間』(ダイヤモンド社→ちくま学芸文庫)がたいへんなベストセラーになったのですが、それ以来の最もすぐれた宇宙解説の名著だといわれています。べつだんベストセラーだから名著だというのではありません。それからこの本には車椅子の天才スティーヴン・ホーキングが序文を書いているのですが、それだから名著というのでもありません。実際にとてもよく書けているのです。
 でも、そんな名著でもダークマターの正体をあきらかにはしていません。けれども、このような本を読んで知るべきことは、WHATではなくてHOWということを発想する大事さです。WHATは時代によっても立場によってもいくらでも名称と数値を変えます。けれどもHOWは何100年に1度か2度しか変わらない。だからHOWを考えましょう。この本では、HOWがどのような宇宙仮説になったのかということを知ってほしいのです。今夜は「宇宙の正体」より「方法の正体」のほうがずっと大事なんです。
 
 さて、みなさん、宇宙というものはたとえどんなに革命的な装置があっても、その全貌が観測できないようになっているのです。それが宇宙というものです。
 宇宙が最初のビッグバンでつくられたことは知っていましたね。最初は火の玉宇宙です。そのときたくさんの光が放出されたのですが、その火の玉宇宙が冷えてからだいたい130億年か150億年ほど過ぎ去ったいま、私たちがここにいます。
 ということは、その最初の光がそのあいだに飛ぶことができた距離よりもっと遠いところは、私たちには絶対に見えないわけです。これを「宇宙の地平線」とか、その半径をシュワルツシルト半径といいます。それ以上の先が見えない境界です。それから、そのように宇宙が膨張しつづけていることをハッブル膨張といいます。
 このことは地球上のどんな観測者にとってもあてはまるだけでなくて、宇宙のどこにいる観測者にとってもあてはまります。つまり宇宙はどこから見ても「ちょうどいっぱいの半径」というふうに見えるのです。これを臨界密度というふうに考えてみます。
 そんなふうに膨らみつつある宇宙には、さあ、何10億もの銀河や銀河団や超銀河団が浮かんでいます。英語でいえば、たくさんのクラスターやスーパークラスターですね。これらのクラスターはビッグバンから数えておおよそ10億年ほどたったころに、ほぼ形成されました。当初は無数の小さな「泡」のようなものだったのに、それがどんどん大きくなり、それぞれが巨泡めいたクラスターになっていったわけです。
 そのクラスターたちがそれぞれの臨界密度のなかで、ハッブル膨張をつづけます。互いに遠ざかりあっていくのです。ジョヴァンニ君、わかりますか。天体は互いに遠ざかりあっているんです。くしゃくしゃの風船に銀色の点をたくさん打っておいて、それをだんだん膨らませると、その銀色の点はだんだん離れていきますね。銀色の点もぼんやり大きくなってきますね。その銀色の点がクラスターです。宇宙はそのように、おのおののクラスターが互いに離れて遠ざかりつつあるのです。けれども、ここにちょっと疑問が生じます。
 なぜ、これらの天体クラスターはそれ自身が重力をもっているはずなのに、互いをめざして落下しないのでしょうか。だって重力は引力のことですから、互いに引き合うはずです。それにもかかわらず、クラスターは引き合わない。なぜでしょうか。
 きっと引き合うと困るんです。そう、考えてみるのが大事です。では、引き合わないようにするにはどうしたらいいですか。わかりますか。
 この銀色の点たちはきっと自分で落下しないだけの速度を発揮できているということでしょう。いいかえれば、風船を膨らます速度よりも、銀色クラスターが遠のいている速度がちょっとだけでも上回っていればいいんです。こういうとき、風船の速度と銀色クラスターの速度がちょうど釣り合っているばあい、それを単体クラスターは臨界速度をもっているというふうに考えます。でも、クラスターはどうしてそんな臨界速度をもっているのでしょうか。
 
 ここからがいよいよダークマター仮説の本番の入口です。ここでいろいろのことを頭をひねって考えます。たくさんの考え方が出てきそうですね。
 こうしたとき、考え方がいくつもありすぎるばあいは、理論物理学者や数学者がよくやるのですが、ファッジ・ファクター(補正のための因子)を少なくするということが大切です。考え方を進めるにつれて、途中でその不備を埋めるための要素をあらかじめ減らせるように考えるということです。そうすると、だいたいは次のような考え方が出てきたんです。
 まずひとつは、宇宙は天体クラスターをぶつかりあわなくさせるような時空の形状をもっているのではないかと考えることです。すでにアインシュタインは重力というものは「空間の曲がりぐあい」(曲率)であるということをあきらかにしました。そして、その「曲がりぐあい」は「物質の詰まりぐあい」(物質分布)によって決まるとしたのでした。天体力学では、このような空間の中の物質たちを相手にするときは、お互いの物質がもつ臨界密度と臨界速度の関係をΩであらわします。そして、Ωの値によって宇宙形状を決めてきました。
 Ωが1よりも大きければ、宇宙はどこかで閉じた四次元空間になっていて、それは3次元表面をもっていることになります。巨大なボールのようなものですね。また、Ωが1よりも小さければ、宇宙は双曲状に開いていて馬の上にのせる鞍の形のようになり、幾何学でいうロバチェフスキー空間に似たものになります。では、もしΩがちょうど1ならばどうなるか? 宇宙はわれわれには馴染みのある平坦なユークリッド空間になるのです。
 実はアラン・グースのインフレーション理論が正しいのなら、Ωは1にかぎりなく等しいはずなのです。ただし、無数の小さな泡をもった宇宙風船がかぎりなく膨張したために各所の泡も平らに近くなったというだけで、ぺったんこの宇宙が無限に広がっているというのではありません。

 しかしそれにしても、Ωが1の状態の宇宙がどうしてつくられたのでしょうか。なぜでこぼこしたりしないのでしょうか。ビッグバン理論では宇宙はハッブル膨張をつづけているということですから、どこにも平坦めいた空間(時空)がつくれるには、そこに何か異なる力がまんべんなく関与していて、巨大な泡が閉じないようにしているとでも考えなければならなくなるではありませんか。
 ところが、そんなものは見当たらない。少なくともそういう事実が観測されたことはないのです。では、何かがまちがっているのでしょうか。
 そこで、次のように考えてみます。ビッグバン理論が正しくて、インフレーション理論も正しいのなら、にわかには想像しにくいことではありますが、われわれの観測にかかる物質以外の何100倍何1000倍もの“見えない物質”がまんべんなく宇宙の随処各所にあって、その物質たちの影響によって天体クラスターが相互落下しないようになっているにちがいない。そう、仮説してみることです。そして、そのようになっているから、Ωが1に近い状態でいられると考えてみることです。結論を先にいえば、のちのちダークマターこそがこの“見えない物質”にあたることになったのでした。
 
 物質というものは、ある状態である性質の光を放出しているものです。電磁波の波長はそうやってできています。けれどもダークマターは光はおろか、何も発信していそうもありません。こういうのって、いったい何がおこっていると考えればいいのでしょうか。2つの考え方がありえます。
 第1には“見えない物質”ことダークマターは、光すら放出しない“引きこもりの物質”であるか、第2にはそれともなんらかの理由によって光を届けられない“忙しい事情をもつ物質”であるか、そのどちらかだということです。
 後者のほうは、みなさんがよく知っているブラックホールに似ています。ブラックホールなら光を届けられないのは当然です。なぜかといえば、ブラックホールには毛がないからです。毛がないから、みんなブラックホールの中にすべり落ちていく。これなら“見えない物質”があってもおかしくはありません(いえ、おかしいですね)。それらはブラックホールの囚人なのですからね。しかし、そうだとすれば、そういうブラックホールの数は宇宙の90パーセント近くを占めていなければならなくなってしまいます。
 これはありそうもないことです。だってそうだとすると宇宙全体がブラックホールになってしまいます。それでは私たちも存在していなかったでしょう。そこで前者の見解をとることにします。さきほどの“引きこもり物質”ですね。

 宇宙はさきほども言ったように銀河団やら銀河やらからできていて、その銀河は星でできています。その星は何でできているかというと、今日の科学では「バリオン」という基本粒子群でできていると考えます。
 バリオンというのは、定義が時代によって変化しているのでややこしいのですが、かつてはバリオンは重い粒子のことで、たとえば陽子や中性子のことをさしていました。それに対して「レプトン」は軽い粒子で、主に電子やニュートリノのことをさしていました。いまでは大半を「バリオン物質」とよび、そこに結びつく相手のことをレプトンというふうに見ることになっています。
 ところが“引きこもり物質”は、そういうバリオンとしての特性をもっていません。もっていないから、何の情報もやってこないわけです。それでは“引きこもり物質”はバリオンではない物質なのでしょうか。“見えない物質”はバリオンではできていないのでしょうか。実は、そうらしいのです。ダークマターはバリオンではない物質で、つまりは「非バリオン物質」でできているようなのです。
 しかし、そう考えてみてもまだ不都合があります。そういう非バリオン物質によるクラスターが天体の各所にあるとしても、それらがクラスターの成分なら、すでに非バリオン物質のちょっとくらいの特性が見えてきてもよさそうなのに、まったくそういうことが見えてこないからです。やっぱりのこと、ダークマターは“見えない物質”なのです。とすると、それらは何も情報を送ってこないでいられる事情の持ち主だということになりますね。
 
 さあて、こうなってくると、ここで大きな発想の転換が必要になります。どういう転換なのでしょうか。“見えない物質”というのは、きっと「見えない」ことをこそ特性としている何かの力だろうと考えてみるのです。これはピンポーン!です。抜群の発想の転換です。物質なのに見えないのではなくて、見えないという物質があるということですね。そうなると、これはいつまでも「物質」という言葉をつかってきたことがまちがっていたかもしれない、そういうことになるでしょう。
 こうして、さらに新しい考え方(方法)を駆使した発想の世界が次々に広がります。ここからは、ジョバンニ君、これまで以上に想像しにくい考え方がいくつも組み合わさっていくのです。でも、それこそがたのしい「星の界」の物語なんですから、どきどきしてくるでしょう! 
 というわけで、ここで、突如として浮上してくるのが、とくに「負の見方」と「柔らかい見方」というものです。
 
 数学や電磁気学や理論物理学は、ずっと以前から「負」については、けっこう自信に満ちた伝統をもってきました。マイナスの符号をつくり、負の電荷を設定し、虚数のiを考えだしました。学校で習いましたね。また、量子力学者のポール・ディラックのように「マイナスの真空の海」といった、とてつもないアイディアもつくられてきました。ディラックはそれでノーベル賞をうけました。
 それから、物質には正の物質のほかに「反物質」があることも証明されてきました。たとえば電子に対する陽電子が反物質の例ですね。負の物質です。いまでは反ニュートリノも確認されていることは、カムパネルラ君も知っているでしょう。
 このように現代物理学にとっては、「負」という考え方はおなじみなんです。これに対して「反言語」とか「反俳句」って考えにくいでしょう。人文系では、この「負」が苦手です。けれども、これからはそういう考え方も必要です。
 もうひとつの考え方は、これまでの古い定義によらない空間や時間や物質の属性を柔らかなソフトウェアに見立てることです。といっても、何のことかわかりにくいでしょうが、すでに有名になっている例でいえば、素粒子よりもさらに小さなクォークというものがありますが、あのクォークには、「奇妙」、「魅力」といった、柔らかくてソフトな名前がついているんです。とても物理的な属性とは思えないでしょうが、そのような「みかけ」や「様子」を属性だとみなすことも大事です。いわば見立ての属性を想定してみるのです。
 ですから、ダークマターが「見えない」のなら、たとえば「インビジブル係数」とか「けむたい度」とか「隠れぐあい度」などを考えてみたって、いいわけです。宇宙にもこの見立てソフトを使ってみてはどうでしょう。実のところをいえば、今日の科学ではこのような負の属性やソフトな見立てだけの属性をもつものを、かっこよく「非バリオン風だ」とみなすことになってきたのです。
 しかしながらあれこれを検証してみると、どうも非バリオン物質をいくら総動員してもダークマターには届かないということがわかってきました。ほんとうに、ダークマターは厄介ですね。
 なぜ届かないのでしょうか。ここであきらめてはいけません。もし何かの理由があって届かないなら、その「届かなさ」というものを想定してみればよいわけです。それがさきほどのソフトな見方であって、「負」の考え方を持ち出してみるということにあたります。わかりますね、この発想法。そこで、そのような「届かなさ」を仮に「ボイド」(void)という性質をもつ状態だということにしてみましょう。届かないのなら、そこにボイドという隙間があるということです。
 これで、やっと突破口が見えてきました。問題はボイドをつくっている力を考えればいいのです。念のためにいいますが、ボイドの正体があるわけではないんです。ここはボイドとでもよぶしかないような「負の性質」が想定されるということなのです。いいですかジョバンニ君、そろそろ眠くなりましたか。もうちょっとです。
 
 こうしていよいよ最後に登場してくるのがダークマターと重力の関係です。ダークマター群には見えない腕のようなものがついていて、これが重力の架橋となって天体クラスターの動きに影響を与え、相互の落下を阻止しているのではないかとか、宇宙の各所のΩを調整しているのではないかという見方です。
 どうやら「ボイド」や「負の性質」とは、重力のブリッジのようなものだったんですね。重力ならもともと“見えない物質”だったわけですからね。しかもその重力はダークマターという重力物質のような姿をしているのですから、これは見つからなくても仕方がありません。
 ここから先、今日の宇宙論はもっともっと複雑な仮説を組み合わせて、もっともっと不思議な姿を描きはじめています。けれどもそれを話しはじめると話がもっともっと長くなるので、省きましょう。だって、ジョバンニ君はもう夢を見はじめているようですからね。ちなみにカムパネルラ君のために言っておくと、このもっと複雑な仮説というのは、たとえば熱いダークマターと冷たいダークマターとか、シャドーマターとか重力レンズの作用とか、さらにはスーパーストリングとか11次元のM理論とか、そういうものです。すごいですね。むずかしそうですね。
 でも、これは、方法の冒険のお話なのです。いくらだって正体はつくれるという話なんです。ですからぼくのクリスマスの贈り物の包み紙遊びもこのくらいでやめておきましょう。大事なことは、すでにのべておいたように宇宙の正体がどういうものかということではなく、宇宙が見せている方法の正体はどうなっているのかということなのですよ! 今宵は2002年のクリスマスです。では、メリー・クリスマス! メリー・ダーク・クラスター!

 今宵はクリスマスである。古代の冬至祭をキリスト教がクリスマスに変えてしまったものである。

 地上のクリスマスにはまったく関心がないけれど、年の瀬に瞬く「冬の星座」のためにちょっとだけ言っておきたいことは、そもそも古代このかた宇宙論というものは、案外人間の思考にとっつきやすい方向にむかって次々に方法宇宙のモデリングをしつづけてきているのではないかということである。
 とくに「負の存在」や「柔らかい状態」を考えることは、宇宙に包まれた人間がいつも採用したがってきた考え方なのではないかということだ。どうもぼくはそういう気がしてならない。われわれは、そして宇宙は、最初から「柔らかい負」でつくられていたはずなのである。
 なぜならわれわれの「思考の正体」が、もともと宇宙によってマイナスに穿たれて、生まれてきたものであるからだ。メリー・リバース・クリスマス! メリー・リバース・グラビィティ!