才事記

和魂洋才の系譜

平川祐弘

河出書房新社 1971・1989

 この本を読まなかったら考えなかっただろうことが、いくつもある。そういう本にタイミングよく出会えるかどうか、読書人生にはそういう分岐点がたくさん潜んでいる。
 本書もそういう一冊で、体裁は主として森鴎外における日本と西洋の文化感覚の「あいだ」を検証するという恰好をとっているのだが、そして、それはそれで精査な鴎外研究でもあるのだが、通しては、和魂洋才をめぐる歴史的変遷や近代に突入した日本人の戸惑いと超克とそれらの思想編集の仕方をめぐっていて、とりどり考えさせられた。
 ぼくが明治日本のことなどほとんど考えようとはしていなかったころのことである。

 本書には刊行当時は反発もあったらしい。とくに中野重治からのクレームが議論になったようだが、これはのちに読んでみて勝負にならないものだった。また、その後に、本書をめぐるいくつかの感想を見たことがあるが、それもたいして収穫がなかった。本書を踏み台にした論文や著書も少なくないのだろうけれど、ぼくが知るかぎりはそれほどじゃない。
 ということで、本書の案内をするなら著者の記述の脈絡に従ったほうがいいということになる。ただし、話がいささかジグザグしていること、時代が入れ子になっていることなど、紹介しにくいことが多いので、ここでは“おはしょり”をしてぼくなりの見方を加えて書いておく。そのため著者が最も力を入れた鴎外研究としての成果は省かせてもらった。
 なお著者は鴎外だけではなく、ダンテやラフカディオ・ハーンやマテオ・リッチの研究者としても名高く、そちらはまた別にたのしませてもらっている。

 さて、日本には「中国を混入させた和魂漢才」から「西洋を折衷した和魂洋才」まで、長きにわたる混血児を宿命づけられたような歴史があった。その後の最近におよぶ流れを仮に「和魂米才」とでもよぶとすれば、この歴史はいまなお続いている。
 この宿命のような和魂漢才・和魂洋才・和魂米才の流れにずっと乗ってきた日本人は、ところが、漢才・洋才・米才から何を選択吸収するかはあまり問題にせず(聖徳太子・菅原道真・信長秀吉の時期など、いくつかの例外を除いて)、もっぱら「和魂をないがしろにして漢才・洋才・米才に走るな」という議論ばかりを突出させてきた傾向がある。和魂洋才論というと、いつもそのことばかりに血がのぼった。しかも実際には、漢・洋・米からの「才」は輸入してしばらくすると、むしろ「和才」になったのであって、いつも問われるのは「和魂」や「和心」だったのである。
 そのくせその和魂・和心を、本居宣長のように、「漢意」(からごころ)や「漢才」(からざえ)に抗して「古意」(いにしえごころ)として問いつづけるなどということに熱中するかといえば、その力も低落しているだけではなく、そのようなことをするのはみっともないない、グローバルな視野がないという非難で包んできた。その傾向は今日に近づくにつれ、ひどくなっている。

 これは中国における「中体西用論」とくらべてみると、よりはっきりする。
 中国でも近代化を前に張之洞らの「体」を中学に「用」を西学にという立場が芽生えたのだが、これは形而上を中国思想において、形而下にヨーロッパを利用するというふうになっていて、「中体」をないがしろにすることはあまりない。それは今日の中国にもまだ続いている中華思想である。
 それがどうも日本の和魂洋才論はたえずナショナリスティックな特殊な議論だとうけとめられてきて、結局は正面きって論じられてこなかった。
 ずうっと論じられてこなかったわけではない。江戸期に日本に中華思想を芽生えさせるという試みが、儒者の側にも国学の側にもいくつもあった。それにもかかわらず、それはおおむね「黒船」以前のことで、日本は中国からの離脱をやっとなしとげたとおもった矢先に、「世界」を相手にせざるをえなくなり、それまでは漢才を相手にしてればよかったところを、一挙に洋才を相手にしての和魂のありかたをどうするかという問題に直面し、混乱してしまったのである。
 若き福沢諭吉が弟子筋の馬場辰猪に送ったイギリスからの手紙には、その混乱がよく綴られている。福沢は「方今、日本にて兵乱既に治りたれどもマインドの騒乱は今尚止まず」と綴ったのだ。まさに「マインドの騒動」、すなわち和魂の雲散霧消がおこりかねない事態だったのである。

 このような問題に直截にとりくみ、真剣に論じようとしたのが幕末維新の青年や知識人や商人たちだった。というよりも、ここから和魂洋才論は噴煙をあげた。
 すでに橋本左内は「器機芸術は彼に採り、仁義忠孝は我に存す」と言っていたし、佐久間象山は「東洋道徳西洋芸術」とみなしていた。左内の言葉はさしずめ「儒魂洋才」というものであろうし、象山のは東西を道徳と芸術とに分けているものだが、どちらも和魂洋才の原型になる。
 ところがいざ維新政府を設けて、一方では古代天皇制に近い王政復古をして太政官・神祇官を配し、他方では洋才の導入をして富国強兵とお雇い外国人の受け入れに転じてみると、これがうまくバランスできなかったのである。圧倒的に片肺飛行ともいうべき欧化主義が驀進していった。
 これをそのまま発展させれば西洋一辺倒、東洋をも考慮から外す「脱亜入欧」にまで進む。こうして西学東漸を恐れないという立場は吹きまくって、そこからは森有礼のローマ字国語論までが主張された。中村正直は欧風を採用するならキリスト教の宗教精神がもっと日本で奨励されてよいと見て、それでも十分に日本人はやっていけるという“日本人不変説”を提起した。
 この傾向は井上哲次郎などによってさらに哲学化されるに至って、明治初期の“敵情視察”としての西洋研究の趣向は失われ、もっぱらオートマティズムのように西洋哲学を日本に植林するような空気に向かっていった。
 しかししばらくすると、鉄道や官営工場や電話や写真といった洋才を受け入れたからといって、だからといって、哲学の拠点に東洋や日本精神がなくってよいのかどうか、しだいに不安が高まった。「マインドの騒動」が“井ノ哲”(井上哲次郎のこと)の植林のごときで収まるものかということである。

 そこで、それではならじと登場してきたのが二つの結社を組んだ思想運動者たちだった。民友社における徳富蘇峰、政教社における三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南らである。
 このような思想は幕末にもあった。会沢正志斎の『新論』が打ち出した「国体」の概念の設定など、そのひとつである。いわゆる水戸国学がそのようなイデオロギーにはいちはやく着手した。けれども、そこには尊王攘夷はあっても「万機公論に徹すべし」はなかったし、洋才も洋魂も排除されていた。維新後の日本にはこれは通用しなかった。
 こういう場面に民友社と政教社があらわれたのである。

 一言でいえば、蘇峰は「平民主義」という言葉をつかって『国民之友』を創刊、武備社会から生産社会に日本が向かうべきことを訴えて、明治初期のあまりに過度でエリート的な欧風主義に待ったをかけた。
 欧風化そのものがダメなのではなく、性急で専断的な維新の欧風主義がおかしいと見たのである。のちに蘇峰は変化するのだが、当初の25歳の蘇峰の意図はそういうものだった。ようするにスペンサー風の進化進歩思想と平民和魂を結びつけたのだ。
 蘇峰が東西の文化の混成を意図していたのに対して、29歳の三宅雪嶺と26歳の志賀重昂らは雑誌『日本人』を創刊して、さらに純度の高い「国粋保存」を主張した。「日本国粋ナル胃官」を「日本ナル身体」に固定強化しようというもので、至理至義だけではなく至利至益を標榜した。和魂に資本主義を接ぎ木したわけである。

 政論家の陸羯南は新聞『日本』で「国民主義」という名の日本主義を訴え、日本人が「国民」になるべきだと説いた。日本における国民思想の登場はこのへんにある。
 二つの動きはやがて合流して『日本及日本人』になる。

 これらは、今日予想されるような国粋主義やウルトラ・ナショナリズムとはそうとうに異なるもので、どちらかといえば日本は「西洋の開化」をめざすのではなく「日本の開化」をめざすべきだというものだった。
 すなわち「外部の必要」ではなく「内部の必要」が説かれた。加藤弘之さえ「内養」と言った。けれども、日清日露の戦勝ムードのなかでは、このような受け取り方はなかなかされないままになる。
 のみならず高山樗牛や木村鷹太郎のように国家膨張と天皇賛美を一緒くたにする極端な思想も躍り出て、姉崎正治は洋行無用論さえ唱えた。姉崎はドイツに留学して、そのドイツから雑誌「太陽」にあえて留学の無用を説いたのだから、これは洋学派にも影響を与えた。
 こうした傾向は日本人優秀説を巻き起こし、日本人の民族性や国民性そのものの賛美として広まっていく。鈴木券太郎の「人種体質論」、法曹家桜井熊太郎の「ハイカラー亡国論」、そして芳賀矢一の「国民性十論」などである。これらはとうてい「和魂」を分析しているものとはいいがたく、ただ日本人の“血”を称揚するのみだったのだが、それに対する反論が、今度は綱島梁川・浮田和民・千葉江東・島田三郎らの“日本限界説・日本人ダメ説”になって、たとえば次のような自虐的な指摘に終始した。
 曰く、仏教の「寂滅」こそが日本人を陰湿な悲観主義をつくっている、まったく独立心がない、日本人は海外排撃思想をもつ民族である、主我のない没我的国民である、はては本来は義侠心がないのが日本人だ‥。

 ここで踏みとどまって議論を中央に据えたのが、森鴎外だったのである(というのが本書の見方)。

 鴎外は「混血児に似た一種の精神上の不安定」がこれらの右往左往におこっていると見て、『洋学の盛衰を論ず』そのほかで、複眼的な見方が急務であることをのべ、さらに日本が「二本足」で立つことを冷静に主張した。西と東の両足にしっかり立脚した思想の披瀝である。
 軍医であって海外事情にも詳しく、さらに海外文学を香り豊かな日本語におきなおす作業にも手を抜かなかった鴎外ならではの論調で、本書がしきりに指摘しているように、まことに論点のバランスがいい。たしかにこういう議論を展開できる知識人はこれまでいなかった。
 漱石も懸念を表明し、「単に西洋の批評家が言った事をそのままに解釈しなければならぬ、さう解釈したくはないが西洋人が言つたことであるからなどといふのは、西洋に心酔したもので随分馬鹿気た話である」(戦後文界の趨勢)と警告を発した。ただ漱石は鴎外のように論点をしぼらず、一方では、日本に容易に普遍主義も個人主義も育ちそうもないこと、あまりに一極から他極に左右しすぎる国民性を憂いていた。

 このほか本書にはふれられていないが、内村鑑三や幸徳秋水などのキリスト者や社会主義者による和魂洋才論もどっと出回った。それらの議論のほうがときに日本精神についても西欧精神についても、深く、熱烈なときがある。
 こうして議論の多くはなお核心を見いだせないまま、また両極に大きくぶれながら、明治を駆け抜ける。すでに中江兆民が日本人の「恐外病」は一転すれば「侮外病」になると喝破していた通りの推移となったのである。
 しかし、この「核心を欠いた議論」だったということが、のちに日本軍部をしてウルトラ・ナショナリズムに走らせることになる。

 いったい和魂洋才が“思想”であるかどうか、あらためて眺めてみると、どうもはっきりしない。
 時代的にみても、そもそも古代中世で和魂漢才の感覚が正確に捉えられてかどうか。『和漢朗詠集』は和魂漢才であったのか。紀貫之や菅原道真は和魂漢才の思想をもっていたのか。こういうことがわかりにくいのだ。そのため和魂洋才が近代以前の和魂漢才の横すべりかどうかさえ判定しがたいのである。
 代表的な和魂洋才論者というものもいない。山鹿素行から本居宣長までは洋才論がないし、山片蟠桃から本多利明までは和魂論がない。大正期になってのことであるが、津田左右吉は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』で、武士道や愛国心というものは本来の国民性ではなく、時代環境と社会条件がつくったものだと書いたものだった。
 では、鎖国が破られ、海外に門戸を開き、不平等な条約を改正して、軍事と重商を準備してなんとか近代国家を築いた「魂才」とはいったい何であったのか。
 それがいまひとつ明示できないままに、そこに突如として降って湧いたように撒き散らされたのが、前代未聞の「黄禍論」(イエロー・ペリル)だったのである。これですべてがぐちゃぐちゃになっていく。

 黄禍論は黄色人種蔑視のあからさまなキャンペーンである。
 カイザルことドイツ皇帝ウィルヘルム2世によって提唱されたこの前代未聞の暴論は、そもそもが日清戦争に凱歌をあげた予期せぬ脚光を浴びた日本に対して、三国干渉側のロシア・ドイツ・フランスがこの干渉を正当化するために浴びせた人種差別政策であった。
 本書はこの黄禍論にたっぷり3章を費やして、実は和魂洋才論がこの渦中で歪まざるをえなかった事情をつまびらかにしようとしている。

 黄禍論は、ウィルヘルム2世がロシア皇帝ニコライ2世に宛てた手紙に明白な発端をもっている。「アジアを開発し、黄色人種の侵入からヨーロッパを守ることが、ロシアの使命であって将来の保証となるでしょう」という主旨の手紙である。
 ロシアだけではなく、列強はこの甘言に相乗りをする。相乗りするべき強烈な理由があった。それは日露戦争に日本が勝利をとげたということである。なにしろ長きにわたった「白人不敗の神話」が破られたのだ。西洋社会の歴史にとって、こんなものすごい屈辱はなかったのだ。アメリカを例とすれば、これに匹敵するのは僅かにパールハーバーと2001年のイスラム過激派によるアメリカ同時テロくらいのものではないだろうか。
 こうして黄禍論はたちまち列強間の合言葉になっていく。その底辺には悪名高きゴビノーの『人種不平等論』がある。しかし先にものべたように、日本人もまた日本人優越論や日本人不変説を国内的にはさかんに喧伝しようとしてきたのである。ロシア人を露助(ろすけ)と呼んだり、「征露丸」の薬名を宣伝したりもした。つまりは黄禍論に対抗するには、当時の日本はあまりにも同じ陥穽にはまりかねないものをもっていた。
 それほど黄禍論とは厄介なものだった。悪意に満ちた妖怪のように拡張していった。

 いまでもなお、こうした人種差別イデオロギーをどのように、その差別を向けられた民族や国民が跳ね返せるかは、すぐれた脱構築がなされてはいない。
 ぼくも橋川文三やハインツ・ゴルヴィツァーの著作をはじめ、黄禍論には関心がある。近現代の日本のナショナリズムには黄禍論を省いては考えられないことが多い。そこにはフランツ・ファノンの「黒い暴力論」を無視していっさいの黒人運動が語れないのと同様なものがある。しかも、この問題の当事者はなんといってもわれわれ日本人なのである。その黄禍論という問題に最初の最初に目を開かせてくれたのが、ぼくにとっては本書であった。
 著者は鴎外の『人種哲学梗概』や『黄禍論梗概』の記述ぶりを紹介しながら、黄禍論に対する日本人の反発の論理がどのようであったのか、その跡を追う。

 根も葉もない黄禍論に内村鑑三や新渡戸稲造のようにすぐさま反論をした者は、多く海外経験者やキリスト教に詳しい者だった。また、ドイツにいた姉崎正治やドイツ人で日本に滞在していたベルツも、煮えくり返るように腹を立てていた。
 ウィルヘルム2世の提唱が馬鹿げたものだということをすぐに指摘した海外の知識人も少なくない。日本の肩をもとうとした者もいた。アナトール・フランスやレーニンである。レーニンは日露戦争の渦中にいながら、むしろ小国日本が帝政ロシアを破ったことを評価した。
 しかし著者が注目したのは徳富蘇峰である。蘇峰はラドヤード・キプリングの『白人の重荷』をすっかり裏返して、あえて『黄人の重荷』を綴ってみせたのだ。黄禍に対して「白禍」を逆襲してみせたのだ。
 詩人キプリングが『白人の重荷』で何を書こうとしたかは言うまでもない。全面的なアングロサクソン賛歌であって、その詩がセオドア・ルーズヴェルトに贈られていたこともよく知られている。しかもこの詩の発表は1899年、明治32年のことだった。日清戦争と日露戦争のちょうどあいだのことである。
 蘇峰は7年後に『黄人の重荷』を綴って対抗した。白人が世界正義の重荷を背負っているというのなら、日本人をはじめとする黄人にだって、広大なアジアを背景にした世界を安寧にする責任があるという論旨のもので、裏返せば「白禍」だってあるじゃないかという舌鋒だった。

 むろん黄禍論と白禍論は、同じ舞台で論争できたわけではなかった。日本は日清戦争後にすでに三国干渉に屈したのだし、のちにはカリフォルニアの移民排除の対象にさせられる。
 つまり黄禍論こそが世を制したのである。逆に白禍論や「黄人の重荷」はそのままくすぶって、日本が大東亜共栄圏や八紘一宇や五族共和を主唱するときに、世界中の非難とともに蘇えってきた。
 それほどに黄禍論が撒いた種は日本人を歪ませた。この捩れは、いまなお和魂洋才の捩れとして残っているにちがいない。

 ところで黄禍論に屈せずに、白禍論をもって対抗できたのは森鴎外や徳富蘇峰だけではなかった。本書には登場していないが、岡倉天心もまた得意の英文をもって黄禍論に立ち向かっていった一人であった。
 天心の白人帝国主義批判は『日本の目覚め』の第5章に、文字通り「白禍」として綴られる。「多くの東洋民族にとって、西洋の到来はまったくの幸福とはけっして言えなかった」と述べた天心は、アジアの民族が通商の拡大を歓迎するうちに帝国主義の餌食になってしまったことを指摘し、西洋の黄禍の罪悪が東洋の白禍に対する号泣になっていることを訴えている。天心がこのなかで問題にしたことは、欧米が進歩を信じすぎているということだった。
 しかしいま、和魂洋才の流れをふりかえり、今後の和魂洋才の展望を予測しようとしてみると、日本人こそがつねに「漠然とした進歩」を信じて必死に列強と歩を同一にしようとしていたことのほうが目立っていると言わざるをえないようだ。これが正直な感想だ。
 あげくに何が和魂洋才か見えなくなっているばかりか、どこからどこまでが洋魂で、何が和才で、何が洋才なのかの区別すらわからなくなってしまったようなのだ。
 おそらくは従来の和魂洋才論では、今後も事態は打開できないにちがいない。そこは残念ながら蘇峰でも天心でも無理なのだ。
 では、どうするか。ささやかながらぼくが『日本流』や『日本数寄』などを綴ってきたのは、むしろ新たな「負」をもって「方法」を考えなおすべきではないかという仮説であった。読者の和魂と洋才に問うてみたい。