才事記

アジアのなかの日本

飯塚浩二

中央公論社 1960

 いつも書棚に見えているのになかなか手にとらない本がある。しかもその本は、かつて読んだのにその感想が剥落してしまっているので、あらためてちょっとだけでもいいからパラパラめくりたいと思っている本であることが少なくない。
 本書もそういう一冊で、赤坂稲荷坂に仕事場を移したときに、書斎の書棚のなかの比較的よく見えるところに備忘録のように入れておいたのだった。それなのに今日にいたるまで、一度もめくってみなかった。函入りだったせいだろうか。
 その前に少し説明しておかなければならないのだが、赤坂の仕事場というのは、松岡正剛事務所と編集工学研究所とが20人ほど入ったごく小さな4階建てのことで、各部屋に蔵書のだいたい4、5万冊くらいを仕分けした。ぼくはそのうちの3階の一角の部屋、8畳くらいのところに書机を入れ、そこを日本の近現史の書棚にあてたのだ。書斎というのは、そのことだ。自宅のものではない。
本書は、この書斎の東洋学やアジア・ナショナリズムの一部に置き放されていたわけである。

 もうひとつエピソード。本書は、高校時代の友人の湯川洋が、防衛大学校に入ったころにやってきて、「おっ、いい本読んでるじゃないか」と言った、その本でもある。その後、30年以上確かめたことがないままだが、してみると、湯川も読んでいたのだろう。
 で、さきほど1時間ほど費やして、ついにパラパラやってみて、なるほど、これは当時としてはよくできた本だったということを思い出した。
 「今となっては福澤諭吉の脱亜論が不吉な予言の意味をもつ」という感想から説きおこし、今の日本(1950年代後半あたりの日本)がアジアの共感からすっかりはみ出してしまっているという観測のもと、その理由のあれこれを、白人優越思想の横流しで裏返した日本にさぐったり、「武力を超越して民族の自主性を考えうるような精神状況におかれたおぼえがなかったらしい」という日本人の感覚にさぐって、こういうものは戦前から受け継いだ非文化遺産なのだから、そろそろ転倒しなければいけないというふうに、しだいに深い問題に入っていく書きっぷりなのである。
 それにしてもすっかり内容を忘れていたというより、これは当時のぼくにはその突っ込んだ主旨がほとんど理解されていなかったのだろうと思わざるをえない。
 迂闊(うかつ)なのではなく胡乱(うろん)だったのだ。

 なんとも語り口が玄人である。吉川幸次郎、青木正児、宮崎市定さんをはじめ、かつてはこういう人がごろごろいた。
 かつ、飯塚さんは歴史語りをしているのではなく、世界をアジアから見つめなおすための現在語りをしながら、そこに自在に歴史語りを入れこんでいる。それが滋味溢れるものになっている。たとえば「ジャワにはジャワの徳川がいた」「どの言葉を憚るかが歴史観というもので、だからといって帝国主義的な搾取というところをコロニアリズムと言ったところで、歴史そのものは万に一つも変わらない」「村落こそは中国の背骨だとはいえ、同じ思い出をもって日本と中国を比較するのは無理がある。だいたい日本人はそういう思い出をなくしてきた民族なのだし、しかも五里俗を同じうせず、十里規矩を異にす、というその規矩をバラバラに壊してしまった。それで民主主義もないのである」といったふうなのだ。
 こういう本をすぐに博覧強記とか視野が広いと評したがるが、そういうのはいけない。問題意識が深いわけなのだ。

 本書が何を説いたかというと、アジアにおける複合社会とは何かということになる。
 が、その複合性がアジアの国々によってもちがうし、地方によってもちがう。しかもそこをヨーロッパが見るか、ロシアが見るか、アメリカが見るかでもちがってくる。著者はそこで、そのような外圧的な見方をいちいち排除したりいちゃもんをつけたりしながら、アジア的複雑性を解明し、返す刀でそのようにアジアを見られない
 日本という国の現代性におおいに疑問を投げかける。いったい、どうしたら安直に「アジアの一員」と言いつつアメリカの傘の中の安寧を貪る体質を打破できるのか、問題をそのへんに絞っていく。つまり、ヨーロッパ、アジアと振り払ってきて、日本を問題にする。そういう方法なのである。
 では日本を考えるにあたっては、何を「規矩」としているかというと、しばしば明治の日本人たちの考え方の長所と短所に立ち戻っている。しかもこのとき、福澤諭吉は短所の例として、渋沢栄一は長所の例として出てくるので、そこの意外性が読む者を考えさせるのである。

 著者の飯塚浩二さんは、いまではそのように言ってもすぐには専門性が見えなくなりつつある人文地理学者である。それとともに歴史学者だった。
 ぼくが注目したのは、ひとつには昭和13年に早々と『北緯七十九度』という著書を発表していること、もうひとつには、飯塚さんが戦時中最後の東洋文化研究所所長だったことで、このころにどれだけ深くアジアと日本を考えたかということだった。昭和7年からパリ大学の地理学教室にいたことが、のちの飯塚史学というと大袈裟で、むしろ飯塚歴史随想史観とでもいうべきなのだろうが、そういうものを築きえた基礎は、やはり世界戦争というものをヨーロッパから、北緯七十九度から、アジアから、そして敗戦日本から見つづけていたことが大きかったのだろうとおもう。
 日本研究も熱心で『日本の精神的風土』の著書もある。ルシアン・フェーブルを最初に試みた研究者でもあった。
 ところで、人文地理学という領域は、これからこそ脚光を浴びるべきである。いやいや、その基盤を思い返してから、次に脚光を浴びるのがいい。ぼくは正直なことをいうと、中学高校はずっと歴史より人文地理のほうが好きだった。
 それが大学でマルクス主義に出会って、歴史がバカでかくなってしまった。歴史というより「唯物史観」という特別製の化物のようなもので、そのころはこれが新鮮で夢中になったのだが、いまからおもうと、歴史学というものではなかった。けれどもそこでヘーゲルの歴史哲学からマルクス、バクーニン、レーニントロツキールフェーブルの実践理論を通過したことが、のちのちのぼくには根付け・根回しの準備のようなものだったらしく、その後のアナール派の歴史やポストモダンな歴史観にも正面きっていけるようになったものだった。
 しかし、いまはどうももう一度、人文地理に戻ってみたい気がしている。さて、どうしようかな。